【警部補・古葉谷三郎 〜凝りすぎなコメディアン〜 解答編】
*2004年1月10日午後9時30分、原田幹二のマンション
再び島田は現場のリビングに連れてこられた。同じようにキッチンの椅子に古葉谷と向かい合って座る、舞住は少し離れたところに立ったままだ。
「えー、お忙しいところを何度もお呼び立てしてすみません。もう一度お話を伺いたくて。よろしいでしょうか?」
「よろしいも何も、警察に来いって言われりゃ来なきゃならないでしょう?」
島田は不機嫌に答えた。この刑事はどうもムシが好かない。
「本当にすみません」
「で?」
「はい?」
「だから、何が訊きたいんですか? 訊きたいから私を呼んだんでしょう?」
「えー、正確には、訊きたいのではなく、聞かせたい、です。面白いことがわかりまして。
やはりカンジさんは殺害されたと思われます」
困惑する島田。どういうことだ、自分の偽装になにかミスがあったのか? そんな島田の不安をよそに、古葉谷が楽しそうに言葉を続けた。
「そうそう、部屋のクローゼットの中から本当にソムリエが着る服がみつかりましたよ。私は冗談とばかり思ってましたが。その他、マナーブックやワインに関するものがいっぱい出てきました、お好きなんですねぇ。
所属事務所の方にお話を聞いたら、以前はコーヒーに凝ってらしたそうですね。その前はギターでしたっけ?」
「ちょっとまってください。殺人? それは確かなんですか? それに、事件とカンジが凝り性だったことと関係があるんですか」
「まあ、それほど関係ありません」
古葉谷は少し笑って言った。そして文句を言いかけた島田を黙らせてすぐに続ける。
「実は私がずっと気になっていたものがありまして、ちょっと調べてもらいました。その結果ですね、犯行以後にカンジさん以外の人物がここにいた、ということがわかりまして。
おそらく、一緒にワインを飲んだ人物がいるのです。もちろん自分のグラスには毒が入っていないワインですよ」
見てきたように言う古葉谷に島田は寒気を感じた。なぜ、こんなに自信たっぷりに言いきれるのだろうか。
「どうしてそんなことが言えるのですか? なにか確実な証拠でも……?」
「ワイングラスです」
「ワイングラス?」
「はい。キッチンに出ていたワイングラスラックに掛かっていたワイングラスのうち、ひとつはカンジさん以外の人物が洗ったことがわかりました」
「どうしてそんなことがいえるのですか!」
無意識のうちに声を荒げて島田は繰り返す。額にうっすらと汗をかいていた。
「えー、普通、ワイングラスを洗った後はラックにかけて自然乾燥させるんだそうです。そのためのグラスラックですから。
布巾で拭いたりすると傷がついたり、逆にグラスが曇ったりするのです。
その他のワイングラスがそうであったように、カンジさんはそういう知識にのっとって、グラスを布巾で拭いたりはしません。
しかし、実際にひとつのグラスが布巾で拭かれていました。カンジさん以外の誰かがワイングラスを片付けたことになります。」
「いや、あの、もしかしてカンジには、洗い物をしてくれるような女性がいたのかもしれません、そういう考えも……?」
「ワインを注ぐときにグラスを持つのも注意する人ですよねカンジさんは。そういう女性がいたとしても、注意してやり直させるなり、自分で洗い直すなりするでしょう」
島田は言葉につまり何も言えなくなった。古葉谷は満足そうに頷くと、話を続けた。
「したがって、青酸カリは即効性ですから、カンジさんが毒を飲んで亡くなった後に、何者かがもうひとつのグラスを洗ったことは間違いありません。そうですね?」
しぶしぶといった感じで島田は頷いた。古葉谷は続ける。
「その何者かが部屋を施錠して逃げた」
「ど、どうやって部屋を密室にしたって……」
「合鍵くらいあるでしょう。近しい人物なら合鍵の隠し場所を知っていてもおかしくはありませんし、こっそり作ることだってできるでしょう。
コージさん、この事件が殺人事件であることには納得していただけましたか?」
島田は流れ出る汗をハンカチで拭く。まだだ、まだ俺が犯人だとバレたわけではないはずだ、そう言い聞かせて、島田はつばを飲みこみ、大きく息を吐いた。
「わ、わかりました。殺人事件だということは納得しましょう。では、誰がこんなことを?」
不敵な笑みを浮かべたまま、古葉谷は島田をじっと見たまま目をそらさなかった。
「私? ははは・・なぜ私が相方を殺さなければならんのですか? それとも私が殺したという証拠でも?」
古葉谷はニヤリと笑った。
「実はコージさん。あなた、昼間お会いした時に自白されてるんですよ」
島田は傍目から見てもわかるほど驚いた。
「何を言っているのか・・・」
「コージさんは最初に、『カンジさんが密室の中でワインを飲んで自殺した』とおっしゃいました。しかし、私は『ワインを飲んだ』なんて一言も言ってないんです。どうして『ワイン』だと知っていたのです?」
島田は愕然とした。たしかに古葉谷は『ワイン』なんて言ってなかった。しかし……取り繕うように島田はまくし立てる。
「カンジはワインに凝ってたし、第一そのとき丁度ワインの話題をしていたんだ。勘違いをしたとしてもおかしくはないじゃないか! その……シャトーなんとかってワイン……」
「シャトー・ディケムです。」
「そう、それ! 話の中にいくつもワインの名前が出てくれば、シャトー・ディケムを飲んだと思い違いをしたとしても……」
古葉谷の視線に、島田は言葉を止めた。
「はい。舞住君も聞きましたね?
えー、私、確かにあのときワインの話題をしていましたし、ワインの銘柄をいくつも並べました。シャルルマーニュにドン・ペリニヨン、ロマネ・コンティにリンデマン・シャブリにベーレン・アウスレーゼ、それからモンラッシュですか。
しかし、シャトー、なんて一言も言ってません。もちろん犯行に使われたシャトー・ディケムは鑑識が持っていってしまってこの部屋にはありません。
コージさん、被害者がシャトー・ディケムを飲んで死んだことを知っているのは、あなたが犯人だからです。
……間違いありませんね?」
島田の汗は引いていた。しかし、青ざめた顔と震える肩は古葉谷の言葉を否定していなかった。
「行きましょう」
古葉谷が促す。
「あの時……ワイングラスを拭いたのが間違いだったのかな」
「えー……残念ですがコージさん。濡れたグラスが残っていれば同じことです」
島田は寂しく笑うと呟いた。
「最悪のオチだ、笑えない」
完
*2004年1月10日午後9時30分、原田幹二のマンション
再び島田は現場のリビングに連れてこられた。同じようにキッチンの椅子に古葉谷と向かい合って座る、舞住は少し離れたところに立ったままだ。
「えー、お忙しいところを何度もお呼び立てしてすみません。もう一度お話を伺いたくて。よろしいでしょうか?」
「よろしいも何も、警察に来いって言われりゃ来なきゃならないでしょう?」
島田は不機嫌に答えた。この刑事はどうもムシが好かない。
「本当にすみません」
「で?」
「はい?」
「だから、何が訊きたいんですか? 訊きたいから私を呼んだんでしょう?」
「えー、正確には、訊きたいのではなく、聞かせたい、です。面白いことがわかりまして。
やはりカンジさんは殺害されたと思われます」
困惑する島田。どういうことだ、自分の偽装になにかミスがあったのか? そんな島田の不安をよそに、古葉谷が楽しそうに言葉を続けた。
「そうそう、部屋のクローゼットの中から本当にソムリエが着る服がみつかりましたよ。私は冗談とばかり思ってましたが。その他、マナーブックやワインに関するものがいっぱい出てきました、お好きなんですねぇ。
所属事務所の方にお話を聞いたら、以前はコーヒーに凝ってらしたそうですね。その前はギターでしたっけ?」
「ちょっとまってください。殺人? それは確かなんですか? それに、事件とカンジが凝り性だったことと関係があるんですか」
「まあ、それほど関係ありません」
古葉谷は少し笑って言った。そして文句を言いかけた島田を黙らせてすぐに続ける。
「実は私がずっと気になっていたものがありまして、ちょっと調べてもらいました。その結果ですね、犯行以後にカンジさん以外の人物がここにいた、ということがわかりまして。
おそらく、一緒にワインを飲んだ人物がいるのです。もちろん自分のグラスには毒が入っていないワインですよ」
見てきたように言う古葉谷に島田は寒気を感じた。なぜ、こんなに自信たっぷりに言いきれるのだろうか。
「どうしてそんなことが言えるのですか? なにか確実な証拠でも……?」
「ワイングラスです」
「ワイングラス?」
「はい。キッチンに出ていたワイングラスラックに掛かっていたワイングラスのうち、ひとつはカンジさん以外の人物が洗ったことがわかりました」
「どうしてそんなことがいえるのですか!」
無意識のうちに声を荒げて島田は繰り返す。額にうっすらと汗をかいていた。
「えー、普通、ワイングラスを洗った後はラックにかけて自然乾燥させるんだそうです。そのためのグラスラックですから。
布巾で拭いたりすると傷がついたり、逆にグラスが曇ったりするのです。
その他のワイングラスがそうであったように、カンジさんはそういう知識にのっとって、グラスを布巾で拭いたりはしません。
しかし、実際にひとつのグラスが布巾で拭かれていました。カンジさん以外の誰かがワイングラスを片付けたことになります。」
「いや、あの、もしかしてカンジには、洗い物をしてくれるような女性がいたのかもしれません、そういう考えも……?」
「ワインを注ぐときにグラスを持つのも注意する人ですよねカンジさんは。そういう女性がいたとしても、注意してやり直させるなり、自分で洗い直すなりするでしょう」
島田は言葉につまり何も言えなくなった。古葉谷は満足そうに頷くと、話を続けた。
「したがって、青酸カリは即効性ですから、カンジさんが毒を飲んで亡くなった後に、何者かがもうひとつのグラスを洗ったことは間違いありません。そうですね?」
しぶしぶといった感じで島田は頷いた。古葉谷は続ける。
「その何者かが部屋を施錠して逃げた」
「ど、どうやって部屋を密室にしたって……」
「合鍵くらいあるでしょう。近しい人物なら合鍵の隠し場所を知っていてもおかしくはありませんし、こっそり作ることだってできるでしょう。
コージさん、この事件が殺人事件であることには納得していただけましたか?」
島田は流れ出る汗をハンカチで拭く。まだだ、まだ俺が犯人だとバレたわけではないはずだ、そう言い聞かせて、島田はつばを飲みこみ、大きく息を吐いた。
「わ、わかりました。殺人事件だということは納得しましょう。では、誰がこんなことを?」
不敵な笑みを浮かべたまま、古葉谷は島田をじっと見たまま目をそらさなかった。
「私? ははは・・なぜ私が相方を殺さなければならんのですか? それとも私が殺したという証拠でも?」
古葉谷はニヤリと笑った。
「実はコージさん。あなた、昼間お会いした時に自白されてるんですよ」
島田は傍目から見てもわかるほど驚いた。
「何を言っているのか・・・」
「コージさんは最初に、『カンジさんが密室の中でワインを飲んで自殺した』とおっしゃいました。しかし、私は『ワインを飲んだ』なんて一言も言ってないんです。どうして『ワイン』だと知っていたのです?」
島田は愕然とした。たしかに古葉谷は『ワイン』なんて言ってなかった。しかし……取り繕うように島田はまくし立てる。
「カンジはワインに凝ってたし、第一そのとき丁度ワインの話題をしていたんだ。勘違いをしたとしてもおかしくはないじゃないか! その……シャトーなんとかってワイン……」
「シャトー・ディケムです。」
「そう、それ! 話の中にいくつもワインの名前が出てくれば、シャトー・ディケムを飲んだと思い違いをしたとしても……」
古葉谷の視線に、島田は言葉を止めた。
「はい。舞住君も聞きましたね?
えー、私、確かにあのときワインの話題をしていましたし、ワインの銘柄をいくつも並べました。シャルルマーニュにドン・ペリニヨン、ロマネ・コンティにリンデマン・シャブリにベーレン・アウスレーゼ、それからモンラッシュですか。
しかし、シャトー、なんて一言も言ってません。もちろん犯行に使われたシャトー・ディケムは鑑識が持っていってしまってこの部屋にはありません。
コージさん、被害者がシャトー・ディケムを飲んで死んだことを知っているのは、あなたが犯人だからです。
……間違いありませんね?」
島田の汗は引いていた。しかし、青ざめた顔と震える肩は古葉谷の言葉を否定していなかった。
「行きましょう」
古葉谷が促す。
「あの時……ワイングラスを拭いたのが間違いだったのかな」
「えー……残念ですがコージさん。濡れたグラスが残っていれば同じことです」
島田は寂しく笑うと呟いた。
「最悪のオチだ、笑えない」
完
《 ☆☆☆☆☆ ☆☆☆ 星八つ作品 》
Mystery Circle Vol.19掲載
●共通出題 (バトルロイヤル・ルール)
◎起の文
『会った瞬間、叱責の幻聴が聞こえてきた。』
◎挿入文
『そして愚直なまでに、失われた時への哀惜を叫び続ける。』
◎結の文
『そいつはまさに影だった。』
『うさぎの数え方』
著者:田川ミメイ
ゆず、と、うさぎが言った。
参道の脇に置かれた段ボール箱の中の小さなうさぎが、柚子っ、と私の名を呼んだのだ。まるで子どもを叱るように。
思わず立ち止まり、その赤い眼をのぞきこむ。息を詰めるようにして尚もじっと見つめると、うさぎは後ずさりしながら箱の隅へと逃げていった。
どうかしてる。うさぎが喋るわけないじゃない。
胸の中でそう呟くと、強ばっていたからだがわずかにほどけた。北風が吹き抜けて、手にしたスーパーの袋が、かさかさと音をたてる。二つに分けて、ゆるく編んだ髪がやわやわと耳を撫で、化粧もせずに出かけてきたことを思い出した。ため息がひとつ、こぼれて落ちる。
さっきまで空は薄青く明るかったのに、いつの間にか日が傾いていた。人波に揺れる破魔矢の羽が、西日に照らされて淡い金色に輝いている。うさぎ売り――そんな呼名があるのかどうか知らないけれど――の男が、いかにも的屋といった声色で、晴れ着姿の彼女を連れた若い男を呼び止める。
ちょっとそこのお兄さん、うさぎはね、縁起がいいんだよ。ぴょんと跳ぶからね。連れて帰ってごらんよ、今年一年が飛躍の年になること間違いなし。出世すりゃ、彼女も惚れ直すってもんだ。な、どうよ 負けとくよ。
陽気な口調に誘われるようにして、参拝客が足を止め、白いうさぎを眺めていく。子どもたちは段ボールの周りにしゃがみこみ、ぴくぴくと鼻を動かすうさぎの顔を、物珍しそうに見つめている。いつまでも動こうとしないその背中を、母親が突いて声をかけ、少し離れた場所に立つ父親が、焦れたように子どもの名を呼んで言う。ほら、行くぞ。
ぼんやりと突っ立っている私の前で、何度も同じような光景が繰り返される。まるで「家族」という名の寸劇みたいに。エンドレスで再演される、決まり切った物語。
その父親役の男たちの疲れた顔に、無意識に真治の顔を重ねていることに気づいて、私はかすかにたじろいでしまう。今までそんな風に思ったことはなかったのに。
彼が、見知らぬ家族の一員で、誰かの父親であることは知っていた。けれど、そんなことはとるにたりないことだと思っていた。私の前で、彼は「男」以外の何者でもなかったし、だから私たちは、いつだってただの男と女だった。ひと組の、あるいは、一対の。
少なくとも、あの日までは。
12月25日。その日は朝からなんとなく億劫だった。珈琲をいれるのも、ベランダの鉢植えに水をやるのも。それでもなんとか急ぎの仕事――日記文学の翻訳。ちょうど旅芸人が安宿で病に伏したところだった――を仕上げてファックスで送ると、まるで見計らったようにひどい悪寒が襲ってきた。よりによって、こんな日に。
それでも私は出かけていった。風邪薬と解熱剤を飲み下し、ヒールの高いブーツを竹馬のように感じながら、どうにか待ち合わせ場所にたどり着くと、煌びやかなツリーの前で真治はまっすぐ前を向いて立っていた。駆け寄る私に気がついて、ゆったりとした笑みを浮かべる。
その笑顔に安堵したせいだろうか、ふいに踵がくねりとよじれた。そのままなだれ落ちるようにして、真治の胸に倒れ込む。咄嗟に私のからだを抱き留めた真治は、その途端、言ったのだ。柚子っ、と、驚きと叱責が入り混ざったような声で。子どもを叱る父親のように。
それからの真治の行動は速かった。こんなに熱があるのにどうして来たんだ。そう言いながらも携帯を取り出し、レストランの予約をキャンセルし、タクシーを拾って私を家まで送ってくれた。ごめんなさい、よりによってこんな日に。謝る私に、いいから、さ、早く寝なさい、寝るのが一番だと言って笑い、パジャマに着替えさせベッドに横たえ、水に濡らしたタオルを絞って額にそっとのせてくれた。されるがままになっていた私は、見慣れた部屋に帰ってきたことで、少しだけ気分が良くなったような気がして、てきぱきと動く彼の姿を眺めていた。こんなに、こまめな人だったっけ。呆けたような頭で、ぼんやりと驚いていた。
出会ってから、ちょうど1年。私が見てきた真治は、どちらかといえば生活感の薄い男だった。何事においても熱くなりすぎず、かと言って、醒めているわけでもなく。自分のことについてあまり語らない代わりに、他人を詮索することもない。人は人と割り切って、自分の人生を飄々と歩いているような、そんな男。だから私は、つい忘れてしまうのだ。彼には帰るべき家があるということを。あまりにも彼が淡々としているから。風のない海のように、平らかだから。
そんな真治が、いつになく懸命になっている。心配そうに私の目を覗きこみ、何か食べられるなら食べたほうが良いな、と、冷蔵庫を開けて何やらがさごそとやっている。熱に浮かされていたからなのか、私は妙に嬉しくなって、まぶたをとろんとさせたまま、台所に立つ彼の背中に向かって話しかけた。なんでも良いから話していたかったのだ。彼の声を聞いていたかった。
あなたが料理をするなんて知らなかった。家でもそうやって台所に立つの? もしかして子どもをお風呂に入れたりもする?
私のその問いかけが、あまりにも軽やかだったからだろう――実際、あの時の私に彼を責める気持ちなど、これっぽっちもなかった――、真治の答えも屈託がなかった。まるで今さっき見たテレビドラマの筋を教えるかのように、気軽に淀みなく話してくれた。
料理はたまにしかしないけれど、子どもたち――8歳になる息子と、5歳の娘――とは、よく一緒にお風呂に入ること。娘はいつも真治のあとをついて回って、なんでも真似をしたがるから、下手なことはできなくて困っている、ということ。
小さな一人用の土鍋に炊かれたお粥は、玉子でとじた菜の花粥だった。少しばかり塩が効きすぎていたけれど、どこか懐かしい味がした。ふうふうと冷ましながらゆっくりと口に運んでいると、なんだか自分が子どもになったような気がした。どう、食べられる? と訊く真治が仲の良い兄のように思えて、私は幼子のように、こくりと頷いた。彼の話し声が、子守歌のように聞こえていた。その内容がどんなものであろうと、心地好く鼓膜を震わせた。何よりも真治が自分のことについて話してくれていることが嬉しかった。
明くる朝、目覚めてみると熱は引いていた。まだからだの節々がぎしぎしと軋んではいたけれど、起きてホットミルクでも飲もうかと思えるくらいには回復していた。丈の長いカーディガンを羽織ってキッチンに行ってみると、洗いかごの中に、土鍋が伏せてあった。
そういえば、と、思い出す。ゆうべは私だけではなく、真治までもが熱に浮かされたようだった。ふたりして、どこか違っていた。まるで停電の夜の子どものように。あるいは、修学旅行の夜みたいに。いつもよりずっと親密で、怖いくらいに無防備だった。だから色んな話しをした。したような気はするのだけれど。
一夜明けてみれば、すべては夢の中の出来事のように現実感がない。あれはもしかしてクリスマス・キャロルだったのかも。電子レンジからマグカップを取りだして両手で包みこみ、暖かな牛乳の甘い匂いを吸いこみながら、ひとりきりのキッチンでそっと笑った。
が、その微かな笑みは、すぐに冷えて固まってしまった。ホットミルクに張る白い膜のように。
流しの端に、ちょこんと置かれたゴミ袋。元はスーパーのレジ袋の、その持ち手の部分が、きゅっと固結びになっていた。結ばれた先はきれいに伸ばされて、ぴんと上を向いている。まるで長い耳みたいに。それを目にしたとたん思い出したのだ。ゆうべ、真治が話してくれたことを。
流しの三角コーナーにあるゴミ袋を見た真治は、うちと同じだ、と言ったのだった。うちもこのスーパーの袋をゴミ袋にしている、と。私はたぶん、そう、とうなずいただけだったと思う。この辺り一帯にはそのスーパーマーケットのチェーン店が点在しているし、彼の家はここから二駅しか離れていないのだから、それはしごく自然なことで、他に相づちの打ちようがなかったのだと思う。それでも何しろゆうべの私は機嫌が良かったので、ただ、にこにこしながら彼を見ていた。いや、あまつさえ、話しを促すかのような表情をしてみせたかもしれない。彼は、そのゴミ袋に玉子の殻を放り込み、そして話しはじめた。
ある時、ゴミでいっぱいになったこの袋の口をぎゅっと縛って置いておいたら、彼の娘が「うさぎ」と言った。袋を指さして、嬉しそうに、「うさぎだ」と。確かにその袋にはスーパーの名前が赤字で印刷されていて、しかもアルファベットで書かれたそのロゴは、ふたつの「O」という文字がデフォルメされて描かれている。ぎゅっと縛って、まっすぐ上に伸びたふたつの持ち手が長い耳、赤い「O」が、ふたつの目。なるほど、うさぎに見えないこともない。――ほんとだ、うさぎさんだね。
調子よくそう答えたまでは良かったのだけれど、大変なのはそれからでさ、と、真治は続けた。翌朝のゴミ出しに備えて、その袋を収集用の大きなゴミ袋に入れようとすると、突然娘が泣きだした。うさぎさん、捨てちゃだめ。大声でそう言いながら、飛びかかってきたのだという。どんなになだめすかしても泣きやまず、結局違う袋にゴミを移して捨てた。それからは、この袋をゴミ袋にできなくなってしまって困っているんだ。どうしてもこの袋しかない時には、娘が見ていないときにそっと捨てるようにしているんだけれどね。
話し終えた彼は、困ったような、笑いだしたいような顔をしていた。呆れ果てたかのような、それでいて、どこか誇らしげな。
ふたりだけでいるとき、真治はいつだって迷いのないような顔をしていた。こんな曖昧な表情をしたことがなかった。いったい、この人は誰だろう。私はまぶたの重さを感じながら、そう思っていた。
いやだ、買うの。うさぎ、買って。
振り絞るような声に驚いて顔をあげると、赤いコートを着た女の子が泣いていた。いつの間にか辺りは暮れかかっていて、立ち並ぶ夜店に灯がともっている。泣きわめく女の子は、まだ四,五歳だろうか。横にしゃがみこんだ父親が、怒って抱きあげようとするたびに、女の子はその手を振り払い、いかにも哀しそうな泣き声をあげる。取り囲む人々の目を気にしてか、父親はついに、分かったから、と少女に言った。分かったから、もう泣くな、と、やけのように言ったのだった。
すかさず、うさぎ売りの男が優しい声で女の子をあやしはじめる。
お嬢ちゃん、ほら、せっかくの美人が台無しだよ。そうそう、もう泣かなくて良いんだからね。よかったね、優しいお父さんで。
まだ年若いその男は、泣きやんだ娘の小さな肩を抱き寄せるようにして、どれにするんだと訊いている。困ったような、笑いだしたいような曖昧な表情で、真剣に迷う娘の顔とうさぎを交互に見ている。その顔は、あの夜の真治の顔によく似ていた。
ひとりキッチンに立って、あのうさぎのゴミ袋を見たとき、私は初めて淋しいと思った。たぶん彼は、眠っている私を起こさないように、そっと部屋を片付け、土鍋を洗い、ゴミをまとめて袋に入れ、その口をぎゅっと縛って、わざわざ「うさぎ」にしたのだろう。目覚めてこれを見たなら、きっと私は笑うはず。ひとりきりの部屋でも、淋しがらずにいられるだろう、と。レジ袋のうさぎは、彼にとって幸福の象徴だから。その半透明の長い耳の向うに、守るべき者が透けてみえるから。そして灯りを落とし、彼は帰っていった。本当に守るべき人のいる家へ。幸福な家族の元へ。
あれから一度だけ真治に会った。彼の仕事納めの日に。その後も、何度か電話をもらった。その度に真治は、前よりもずっと親密な物言いになり、私は少しずつ言葉を探すようになっていた。
それまで私は真治のことを、風のない海のような男だと思っていた。いつも鏡のように平らかだから、その水面の下に潜む者たちのことなど考えもしなかった。たぶん彼はとても用心深い男なのだ。心を波立たせて、その底にあるものが顕われたりしないように、いつも気を配っている。光射す海底をのぞくことができるのは、彼が心を許したものだけなのだ。愛すべき家族、守るべき者たち。
あの日、いつもと違う状況の中で、彼は錯覚してしまったのかもしれない。弱っている私を、守るべき者だと思いこんでしまった。だからつい心を開いてしまったのだ。愛おしい子どもの話しなんか、してしまった。
聞かなければ良かった、と思う。うさぎの話しなんか、聞くんじゃなかった。そうだ、あの時無理をしてでも平気なふりをして、予約した店で乾杯していれば、あんなことにはならなかった。いや、あの日、熱さえださなければ。そもそも、彼に出会わなければ。
ひとりきりの部屋で、私は何度もそう思った。そんな思いに囚われては、途方に暮れた。今さら、そんなふうに思ったところで、どうにもならない。時を戻すことなどできないのだから。失ったものを、取りもどすことはできない。でも、私はいったい何を失ったのだろう。もしかしたら失ったのではなく、初めから何も得ていなかったのかもしれない。
時が経つにつれ、私は自分を「うさぎ」のように感じるようになっていた。捨て置いても、誰も泣いてはくれないうさぎ。ゴミ捨て場に、ぽつんと置き去りにされた、一匹のうさぎ。
そりゃだめだ、お父さん。うさぎは一匹だけってわけにはいかないんだよ。番(つがい)で一羽なんだからさ。
的屋の濁声が、わざとのようにゆっくり言った。
その言葉に、箱の隅のうさぎを指さしたまま、女の子の父親が眉を寄せ、首を傾げる。立ち去ろうとしていた見物客が足を止め、話しの続きを促すかのように振り返る。男は、少し得意げな顔になり、芝居がかった口調で話しはじめた。
時の将軍徳川綱吉より出された「生類哀れみの令」には、世間一般いかなる者も獣の肉を食べてはならぬ、というお達しがあったそうな。それでもやはり食べたいものは食べたい。ある時、町の知恵者が番(つがい)のうさぎを連れてきて、こう言った。「これは獣ではなく鳥である。鵜(う)と鷺(さぎ)の二羽の鳥だ」。
で、まんまと「うさぎ」を喰っちまった。それから「うさぎ」は番で一羽と数えるようになり、それが正しいうさぎの数え方っていうことになったという、嘘のようなホントの話し。
感心と不審が入り混じったような笑い声があちらこちらから立ちのぼり、人垣が揺れて崩れた。立ち去る見物人につられるようにして、私もゆっくりと歩きだす。灯りに浮かび上がる本堂を背にし、赤い鳥居に向かう。尚も言葉を続ける的屋の声が、背中から聞こえてくる。
だからさ、うさぎは一匹だけじゃだめなの。番が揃って初めて一羽になんだから。片割れのいないのは、ハンパ者。ね、お嬢ちゃんだって、お父さんとお母さんが仲良く一緒にいたほうがいいもんな。
その時初めて、女の子が、はっきりと答えた。
お母さん、いないの。
そうか、おうちでお留守番かな。お母さんも、うさぎさん見て、きっと喜ぶよ。
ううん、そうじゃなくて。おうちにも、いないの。お母さん。
振り向くと、的屋は頬に笑みを貼りつけたまま、固まっていた。うさぎのように、先の丸い鼻だけがぴくぴくと震えていた。
鳥居の向うに、楕円の月が浮んでいた。明日から仕事初めの人も多いのだろう。行き交う人影もまばらになっている。色とりどりのお守りや破魔矢で溢れかえる「お札納め」の小屋にも、もう人影はない。ふと立ち止まり、提げているスーパーの袋を見おろす。中に入っているものは、意外に少ない。歯ブラシと剃刀、シェービング・クリーム、CDが2枚。私の部屋にあった真治の持ち物がたったこれだけなんて、なんだか拍子抜けしてしまう。
ゆっくりと小屋に近づき、その傍らにしゃがみこむ。小さな札やお守りが散らばる黒土の上に袋を置き、口をぎゅっと結び、その先をぴんと伸ばした。
立ち上がって、数歩さがり、眺めてみる。入っているものが少ないせいで、なんだか貧相だ。そのくせ、CDなんかが入っているものだから、やけにエラが張っている。ちょっと強情そうな、痩せたうさぎ。
風が吹いてきて、伸ばした耳がかさかさと揺れる。顔がわずかにへこみ、赤い眼がくしゃりと歪んだ。痩せたうさぎが、泣き顔になる。
片割れのいないうさぎは、ハンパ者なんだろうか。そう考えて、小さく首を振る。良いじゃない、片割れがいなくたって。ひとりだって、歩いていける。今までだって、ちゃんと歩いてきたのだから。欠けた半分を思って泣き暮らすよりも、ずっと良い。小さな箱のような部屋の中で震えながら、抱き上げてくれる手を待ち続けるなんて哀しすぎる。
くるりとからだをまわし、うさぎに背を向けて深呼吸をする。鳥居の向うには坂道が続いている。まっすぐに下ったその先に、ぼんやりと駅の灯りが滲んでいる。
電車に乗って、二駅。歩いて五分。小さな建て売りだというその家の前に、袋のうさぎを置いてくるつもりだった。それで、おしまい。そう思っていたのだ。でも、もう良い。そんなことしなくたって、けりをつけられる。きちんとひとりで。
思い切るように足を踏みだす。弾みをつけて、坂道をくだる。勢いよく、大股で。白々と明るい街灯に照らされて、影が跳ねる。結んだ髪が大きく揺れて、それはまさに長い耳のようだった。
片割れのいない一羽のうさぎが、月に向かって飛び跳ねる。道ばたの闇を蹴散らしながら、ひとりきりで駆けていく。
●《 受賞コメント 》
☆を頂いた、と聞いて、え、うそ、と思ってしまったあたしです。
飛び入りで混ぜていただいたのに、こんな嬉しいことがあっていいのか、と。
うん、ほんとに嬉しいです。ありがとうございます。
じつはこの作品は、あたしにしては珍しく「タイトル先行」で書いたものなので、ちょっと感慨深くもあり(いつもは書上げてからタイトルをつける。というか、なかなかタイトルが決まらないことが多い。いや、つまりはタイトルつけるのが苦手なの・泣)。
以前WEBで調べ物をしているときに、偶然「ウサギを1羽2羽と数えるのはなぜか」という記事に出会い、その謂われを読んでいるうちに、ふと「うさぎの数え方」っていうタイトルが浮かんできて。が、浮かんだだけで、なかなか書きはじめることができなくて、温存するにも程がある、温めすぎて孵化する前に溶けて流れちゃうんじゃないか(そういえば何処ぞの国では孵化する直前のヒヨコを食べるとか。あれ、あたしは絶対に食べられない。って全然関係ないですが)、と思っていたところに、ちょうどこのバトルロイヤルのお話しが。で、もっけの幸い(昔、ほっけの幸い、と言って皆に笑われた。ほっけは干物。炉端焼きか)、いっちょ書いてみようかな、と。なので、書く機会を与えてくださったMCに感謝しております。ほんとうに。
でも今読み返してみると、ちょっと詰め込みすぎのような気も。この倍くらいの長さで、もっとジワジワ進んでもよかったかも。そう思う理由のひとつは、やっぱり横書きと縦書きの違い、かな。ブログとかは別にして、小説とかエッセイはいつもテキスト・エディタに最初から縦書きで打ち込んでいくものだから、それをそのまま横書きに直すと、読む速度とか空気感とかが微妙にずれるようで、なんとなく、ううむ、という感じになってしまう(WEBで長目の作品に出会うと、エディタにコピペして縦書きにしてから読むこともあり。こうすると全く違う印象になるものもあって面白いですよ)。WEBで読んで頂く時には、その辺のことを考えねばなぁ、と、これは常にあたしの課題です。ううむ。
ところで、「番(つがい)で1羽」と数える「うさぎの数え方」。このタイトルから考えられる物語って、けっこう色々あると思う。かなり毒のある物語にもできるし、あるいはファンタジーにもなり得る。あたし自身、途中で、これ、耽美系にしちゃおうかなぁ(超個人的趣味嗜好により)、と思ったりもしたし。そう考えると、タイトルって面白い。たぶん同じタイトルで、100人が自由に小説を書いたら、ぜんぜん違う物語が100個生まれることになるんだろう(タイトルだけが決まっているバトルロイヤルってのも面白そう。なんて言うと責任とれとか言われそう―誰に―なんで撤回)
ということで、なんだか全くまとまりのないコメントですが(怒濤の年末シゴトがようやく終わったところなんで、思考回路がほとんど迷路)、とにかく今年はMCに参加することができてすごく嬉しかったし楽しかったです。ものすごく書くのが遅い上に、掟があれば破りたがり、規定があればどこか綻びをみつけて通り抜けようとするタチなので、なかなかMCに参加する勇気(あたしなんぞに書けるわけないわい、と、尻込みするばかり)がないのだけれど、来年も何かひとつでも参加させていただけたら、と思っています。
って、どんどん長くなるので(申し訳ない)、この辺で。
管理人の皆様方、MCメンバーの皆々さま、ありがとうございました。どうぞ良いお年を。
《mi:media 田川ミメイ》
Mystery Circle Vol.19掲載
●共通出題 (バトルロイヤル・ルール)
◎起の文
『会った瞬間、叱責の幻聴が聞こえてきた。』
◎挿入文
『そして愚直なまでに、失われた時への哀惜を叫び続ける。』
◎結の文
『そいつはまさに影だった。』
『うさぎの数え方』
著者:田川ミメイ
ゆず、と、うさぎが言った。
参道の脇に置かれた段ボール箱の中の小さなうさぎが、柚子っ、と私の名を呼んだのだ。まるで子どもを叱るように。
思わず立ち止まり、その赤い眼をのぞきこむ。息を詰めるようにして尚もじっと見つめると、うさぎは後ずさりしながら箱の隅へと逃げていった。
どうかしてる。うさぎが喋るわけないじゃない。
胸の中でそう呟くと、強ばっていたからだがわずかにほどけた。北風が吹き抜けて、手にしたスーパーの袋が、かさかさと音をたてる。二つに分けて、ゆるく編んだ髪がやわやわと耳を撫で、化粧もせずに出かけてきたことを思い出した。ため息がひとつ、こぼれて落ちる。
さっきまで空は薄青く明るかったのに、いつの間にか日が傾いていた。人波に揺れる破魔矢の羽が、西日に照らされて淡い金色に輝いている。うさぎ売り――そんな呼名があるのかどうか知らないけれど――の男が、いかにも的屋といった声色で、晴れ着姿の彼女を連れた若い男を呼び止める。
ちょっとそこのお兄さん、うさぎはね、縁起がいいんだよ。ぴょんと跳ぶからね。連れて帰ってごらんよ、今年一年が飛躍の年になること間違いなし。出世すりゃ、彼女も惚れ直すってもんだ。な、どうよ 負けとくよ。
陽気な口調に誘われるようにして、参拝客が足を止め、白いうさぎを眺めていく。子どもたちは段ボールの周りにしゃがみこみ、ぴくぴくと鼻を動かすうさぎの顔を、物珍しそうに見つめている。いつまでも動こうとしないその背中を、母親が突いて声をかけ、少し離れた場所に立つ父親が、焦れたように子どもの名を呼んで言う。ほら、行くぞ。
ぼんやりと突っ立っている私の前で、何度も同じような光景が繰り返される。まるで「家族」という名の寸劇みたいに。エンドレスで再演される、決まり切った物語。
その父親役の男たちの疲れた顔に、無意識に真治の顔を重ねていることに気づいて、私はかすかにたじろいでしまう。今までそんな風に思ったことはなかったのに。
彼が、見知らぬ家族の一員で、誰かの父親であることは知っていた。けれど、そんなことはとるにたりないことだと思っていた。私の前で、彼は「男」以外の何者でもなかったし、だから私たちは、いつだってただの男と女だった。ひと組の、あるいは、一対の。
少なくとも、あの日までは。
12月25日。その日は朝からなんとなく億劫だった。珈琲をいれるのも、ベランダの鉢植えに水をやるのも。それでもなんとか急ぎの仕事――日記文学の翻訳。ちょうど旅芸人が安宿で病に伏したところだった――を仕上げてファックスで送ると、まるで見計らったようにひどい悪寒が襲ってきた。よりによって、こんな日に。
それでも私は出かけていった。風邪薬と解熱剤を飲み下し、ヒールの高いブーツを竹馬のように感じながら、どうにか待ち合わせ場所にたどり着くと、煌びやかなツリーの前で真治はまっすぐ前を向いて立っていた。駆け寄る私に気がついて、ゆったりとした笑みを浮かべる。
その笑顔に安堵したせいだろうか、ふいに踵がくねりとよじれた。そのままなだれ落ちるようにして、真治の胸に倒れ込む。咄嗟に私のからだを抱き留めた真治は、その途端、言ったのだ。柚子っ、と、驚きと叱責が入り混ざったような声で。子どもを叱る父親のように。
それからの真治の行動は速かった。こんなに熱があるのにどうして来たんだ。そう言いながらも携帯を取り出し、レストランの予約をキャンセルし、タクシーを拾って私を家まで送ってくれた。ごめんなさい、よりによってこんな日に。謝る私に、いいから、さ、早く寝なさい、寝るのが一番だと言って笑い、パジャマに着替えさせベッドに横たえ、水に濡らしたタオルを絞って額にそっとのせてくれた。されるがままになっていた私は、見慣れた部屋に帰ってきたことで、少しだけ気分が良くなったような気がして、てきぱきと動く彼の姿を眺めていた。こんなに、こまめな人だったっけ。呆けたような頭で、ぼんやりと驚いていた。
出会ってから、ちょうど1年。私が見てきた真治は、どちらかといえば生活感の薄い男だった。何事においても熱くなりすぎず、かと言って、醒めているわけでもなく。自分のことについてあまり語らない代わりに、他人を詮索することもない。人は人と割り切って、自分の人生を飄々と歩いているような、そんな男。だから私は、つい忘れてしまうのだ。彼には帰るべき家があるということを。あまりにも彼が淡々としているから。風のない海のように、平らかだから。
そんな真治が、いつになく懸命になっている。心配そうに私の目を覗きこみ、何か食べられるなら食べたほうが良いな、と、冷蔵庫を開けて何やらがさごそとやっている。熱に浮かされていたからなのか、私は妙に嬉しくなって、まぶたをとろんとさせたまま、台所に立つ彼の背中に向かって話しかけた。なんでも良いから話していたかったのだ。彼の声を聞いていたかった。
あなたが料理をするなんて知らなかった。家でもそうやって台所に立つの? もしかして子どもをお風呂に入れたりもする?
私のその問いかけが、あまりにも軽やかだったからだろう――実際、あの時の私に彼を責める気持ちなど、これっぽっちもなかった――、真治の答えも屈託がなかった。まるで今さっき見たテレビドラマの筋を教えるかのように、気軽に淀みなく話してくれた。
料理はたまにしかしないけれど、子どもたち――8歳になる息子と、5歳の娘――とは、よく一緒にお風呂に入ること。娘はいつも真治のあとをついて回って、なんでも真似をしたがるから、下手なことはできなくて困っている、ということ。
小さな一人用の土鍋に炊かれたお粥は、玉子でとじた菜の花粥だった。少しばかり塩が効きすぎていたけれど、どこか懐かしい味がした。ふうふうと冷ましながらゆっくりと口に運んでいると、なんだか自分が子どもになったような気がした。どう、食べられる? と訊く真治が仲の良い兄のように思えて、私は幼子のように、こくりと頷いた。彼の話し声が、子守歌のように聞こえていた。その内容がどんなものであろうと、心地好く鼓膜を震わせた。何よりも真治が自分のことについて話してくれていることが嬉しかった。
明くる朝、目覚めてみると熱は引いていた。まだからだの節々がぎしぎしと軋んではいたけれど、起きてホットミルクでも飲もうかと思えるくらいには回復していた。丈の長いカーディガンを羽織ってキッチンに行ってみると、洗いかごの中に、土鍋が伏せてあった。
そういえば、と、思い出す。ゆうべは私だけではなく、真治までもが熱に浮かされたようだった。ふたりして、どこか違っていた。まるで停電の夜の子どものように。あるいは、修学旅行の夜みたいに。いつもよりずっと親密で、怖いくらいに無防備だった。だから色んな話しをした。したような気はするのだけれど。
一夜明けてみれば、すべては夢の中の出来事のように現実感がない。あれはもしかしてクリスマス・キャロルだったのかも。電子レンジからマグカップを取りだして両手で包みこみ、暖かな牛乳の甘い匂いを吸いこみながら、ひとりきりのキッチンでそっと笑った。
が、その微かな笑みは、すぐに冷えて固まってしまった。ホットミルクに張る白い膜のように。
流しの端に、ちょこんと置かれたゴミ袋。元はスーパーのレジ袋の、その持ち手の部分が、きゅっと固結びになっていた。結ばれた先はきれいに伸ばされて、ぴんと上を向いている。まるで長い耳みたいに。それを目にしたとたん思い出したのだ。ゆうべ、真治が話してくれたことを。
流しの三角コーナーにあるゴミ袋を見た真治は、うちと同じだ、と言ったのだった。うちもこのスーパーの袋をゴミ袋にしている、と。私はたぶん、そう、とうなずいただけだったと思う。この辺り一帯にはそのスーパーマーケットのチェーン店が点在しているし、彼の家はここから二駅しか離れていないのだから、それはしごく自然なことで、他に相づちの打ちようがなかったのだと思う。それでも何しろゆうべの私は機嫌が良かったので、ただ、にこにこしながら彼を見ていた。いや、あまつさえ、話しを促すかのような表情をしてみせたかもしれない。彼は、そのゴミ袋に玉子の殻を放り込み、そして話しはじめた。
ある時、ゴミでいっぱいになったこの袋の口をぎゅっと縛って置いておいたら、彼の娘が「うさぎ」と言った。袋を指さして、嬉しそうに、「うさぎだ」と。確かにその袋にはスーパーの名前が赤字で印刷されていて、しかもアルファベットで書かれたそのロゴは、ふたつの「O」という文字がデフォルメされて描かれている。ぎゅっと縛って、まっすぐ上に伸びたふたつの持ち手が長い耳、赤い「O」が、ふたつの目。なるほど、うさぎに見えないこともない。――ほんとだ、うさぎさんだね。
調子よくそう答えたまでは良かったのだけれど、大変なのはそれからでさ、と、真治は続けた。翌朝のゴミ出しに備えて、その袋を収集用の大きなゴミ袋に入れようとすると、突然娘が泣きだした。うさぎさん、捨てちゃだめ。大声でそう言いながら、飛びかかってきたのだという。どんなになだめすかしても泣きやまず、結局違う袋にゴミを移して捨てた。それからは、この袋をゴミ袋にできなくなってしまって困っているんだ。どうしてもこの袋しかない時には、娘が見ていないときにそっと捨てるようにしているんだけれどね。
話し終えた彼は、困ったような、笑いだしたいような顔をしていた。呆れ果てたかのような、それでいて、どこか誇らしげな。
ふたりだけでいるとき、真治はいつだって迷いのないような顔をしていた。こんな曖昧な表情をしたことがなかった。いったい、この人は誰だろう。私はまぶたの重さを感じながら、そう思っていた。
いやだ、買うの。うさぎ、買って。
振り絞るような声に驚いて顔をあげると、赤いコートを着た女の子が泣いていた。いつの間にか辺りは暮れかかっていて、立ち並ぶ夜店に灯がともっている。泣きわめく女の子は、まだ四,五歳だろうか。横にしゃがみこんだ父親が、怒って抱きあげようとするたびに、女の子はその手を振り払い、いかにも哀しそうな泣き声をあげる。取り囲む人々の目を気にしてか、父親はついに、分かったから、と少女に言った。分かったから、もう泣くな、と、やけのように言ったのだった。
すかさず、うさぎ売りの男が優しい声で女の子をあやしはじめる。
お嬢ちゃん、ほら、せっかくの美人が台無しだよ。そうそう、もう泣かなくて良いんだからね。よかったね、優しいお父さんで。
まだ年若いその男は、泣きやんだ娘の小さな肩を抱き寄せるようにして、どれにするんだと訊いている。困ったような、笑いだしたいような曖昧な表情で、真剣に迷う娘の顔とうさぎを交互に見ている。その顔は、あの夜の真治の顔によく似ていた。
ひとりキッチンに立って、あのうさぎのゴミ袋を見たとき、私は初めて淋しいと思った。たぶん彼は、眠っている私を起こさないように、そっと部屋を片付け、土鍋を洗い、ゴミをまとめて袋に入れ、その口をぎゅっと縛って、わざわざ「うさぎ」にしたのだろう。目覚めてこれを見たなら、きっと私は笑うはず。ひとりきりの部屋でも、淋しがらずにいられるだろう、と。レジ袋のうさぎは、彼にとって幸福の象徴だから。その半透明の長い耳の向うに、守るべき者が透けてみえるから。そして灯りを落とし、彼は帰っていった。本当に守るべき人のいる家へ。幸福な家族の元へ。
あれから一度だけ真治に会った。彼の仕事納めの日に。その後も、何度か電話をもらった。その度に真治は、前よりもずっと親密な物言いになり、私は少しずつ言葉を探すようになっていた。
それまで私は真治のことを、風のない海のような男だと思っていた。いつも鏡のように平らかだから、その水面の下に潜む者たちのことなど考えもしなかった。たぶん彼はとても用心深い男なのだ。心を波立たせて、その底にあるものが顕われたりしないように、いつも気を配っている。光射す海底をのぞくことができるのは、彼が心を許したものだけなのだ。愛すべき家族、守るべき者たち。
あの日、いつもと違う状況の中で、彼は錯覚してしまったのかもしれない。弱っている私を、守るべき者だと思いこんでしまった。だからつい心を開いてしまったのだ。愛おしい子どもの話しなんか、してしまった。
聞かなければ良かった、と思う。うさぎの話しなんか、聞くんじゃなかった。そうだ、あの時無理をしてでも平気なふりをして、予約した店で乾杯していれば、あんなことにはならなかった。いや、あの日、熱さえださなければ。そもそも、彼に出会わなければ。
ひとりきりの部屋で、私は何度もそう思った。そんな思いに囚われては、途方に暮れた。今さら、そんなふうに思ったところで、どうにもならない。時を戻すことなどできないのだから。失ったものを、取りもどすことはできない。でも、私はいったい何を失ったのだろう。もしかしたら失ったのではなく、初めから何も得ていなかったのかもしれない。
時が経つにつれ、私は自分を「うさぎ」のように感じるようになっていた。捨て置いても、誰も泣いてはくれないうさぎ。ゴミ捨て場に、ぽつんと置き去りにされた、一匹のうさぎ。
そりゃだめだ、お父さん。うさぎは一匹だけってわけにはいかないんだよ。番(つがい)で一羽なんだからさ。
的屋の濁声が、わざとのようにゆっくり言った。
その言葉に、箱の隅のうさぎを指さしたまま、女の子の父親が眉を寄せ、首を傾げる。立ち去ろうとしていた見物客が足を止め、話しの続きを促すかのように振り返る。男は、少し得意げな顔になり、芝居がかった口調で話しはじめた。
時の将軍徳川綱吉より出された「生類哀れみの令」には、世間一般いかなる者も獣の肉を食べてはならぬ、というお達しがあったそうな。それでもやはり食べたいものは食べたい。ある時、町の知恵者が番(つがい)のうさぎを連れてきて、こう言った。「これは獣ではなく鳥である。鵜(う)と鷺(さぎ)の二羽の鳥だ」。
で、まんまと「うさぎ」を喰っちまった。それから「うさぎ」は番で一羽と数えるようになり、それが正しいうさぎの数え方っていうことになったという、嘘のようなホントの話し。
感心と不審が入り混じったような笑い声があちらこちらから立ちのぼり、人垣が揺れて崩れた。立ち去る見物人につられるようにして、私もゆっくりと歩きだす。灯りに浮かび上がる本堂を背にし、赤い鳥居に向かう。尚も言葉を続ける的屋の声が、背中から聞こえてくる。
だからさ、うさぎは一匹だけじゃだめなの。番が揃って初めて一羽になんだから。片割れのいないのは、ハンパ者。ね、お嬢ちゃんだって、お父さんとお母さんが仲良く一緒にいたほうがいいもんな。
その時初めて、女の子が、はっきりと答えた。
お母さん、いないの。
そうか、おうちでお留守番かな。お母さんも、うさぎさん見て、きっと喜ぶよ。
ううん、そうじゃなくて。おうちにも、いないの。お母さん。
振り向くと、的屋は頬に笑みを貼りつけたまま、固まっていた。うさぎのように、先の丸い鼻だけがぴくぴくと震えていた。
鳥居の向うに、楕円の月が浮んでいた。明日から仕事初めの人も多いのだろう。行き交う人影もまばらになっている。色とりどりのお守りや破魔矢で溢れかえる「お札納め」の小屋にも、もう人影はない。ふと立ち止まり、提げているスーパーの袋を見おろす。中に入っているものは、意外に少ない。歯ブラシと剃刀、シェービング・クリーム、CDが2枚。私の部屋にあった真治の持ち物がたったこれだけなんて、なんだか拍子抜けしてしまう。
ゆっくりと小屋に近づき、その傍らにしゃがみこむ。小さな札やお守りが散らばる黒土の上に袋を置き、口をぎゅっと結び、その先をぴんと伸ばした。
立ち上がって、数歩さがり、眺めてみる。入っているものが少ないせいで、なんだか貧相だ。そのくせ、CDなんかが入っているものだから、やけにエラが張っている。ちょっと強情そうな、痩せたうさぎ。
風が吹いてきて、伸ばした耳がかさかさと揺れる。顔がわずかにへこみ、赤い眼がくしゃりと歪んだ。痩せたうさぎが、泣き顔になる。
片割れのいないうさぎは、ハンパ者なんだろうか。そう考えて、小さく首を振る。良いじゃない、片割れがいなくたって。ひとりだって、歩いていける。今までだって、ちゃんと歩いてきたのだから。欠けた半分を思って泣き暮らすよりも、ずっと良い。小さな箱のような部屋の中で震えながら、抱き上げてくれる手を待ち続けるなんて哀しすぎる。
くるりとからだをまわし、うさぎに背を向けて深呼吸をする。鳥居の向うには坂道が続いている。まっすぐに下ったその先に、ぼんやりと駅の灯りが滲んでいる。
電車に乗って、二駅。歩いて五分。小さな建て売りだというその家の前に、袋のうさぎを置いてくるつもりだった。それで、おしまい。そう思っていたのだ。でも、もう良い。そんなことしなくたって、けりをつけられる。きちんとひとりで。
思い切るように足を踏みだす。弾みをつけて、坂道をくだる。勢いよく、大股で。白々と明るい街灯に照らされて、影が跳ねる。結んだ髪が大きく揺れて、それはまさに長い耳のようだった。
片割れのいない一羽のうさぎが、月に向かって飛び跳ねる。道ばたの闇を蹴散らしながら、ひとりきりで駆けていく。
●《 受賞コメント 》
☆を頂いた、と聞いて、え、うそ、と思ってしまったあたしです。
飛び入りで混ぜていただいたのに、こんな嬉しいことがあっていいのか、と。
うん、ほんとに嬉しいです。ありがとうございます。
じつはこの作品は、あたしにしては珍しく「タイトル先行」で書いたものなので、ちょっと感慨深くもあり(いつもは書上げてからタイトルをつける。というか、なかなかタイトルが決まらないことが多い。いや、つまりはタイトルつけるのが苦手なの・泣)。
以前WEBで調べ物をしているときに、偶然「ウサギを1羽2羽と数えるのはなぜか」という記事に出会い、その謂われを読んでいるうちに、ふと「うさぎの数え方」っていうタイトルが浮かんできて。が、浮かんだだけで、なかなか書きはじめることができなくて、温存するにも程がある、温めすぎて孵化する前に溶けて流れちゃうんじゃないか(そういえば何処ぞの国では孵化する直前のヒヨコを食べるとか。あれ、あたしは絶対に食べられない。って全然関係ないですが)、と思っていたところに、ちょうどこのバトルロイヤルのお話しが。で、もっけの幸い(昔、ほっけの幸い、と言って皆に笑われた。ほっけは干物。炉端焼きか)、いっちょ書いてみようかな、と。なので、書く機会を与えてくださったMCに感謝しております。ほんとうに。
でも今読み返してみると、ちょっと詰め込みすぎのような気も。この倍くらいの長さで、もっとジワジワ進んでもよかったかも。そう思う理由のひとつは、やっぱり横書きと縦書きの違い、かな。ブログとかは別にして、小説とかエッセイはいつもテキスト・エディタに最初から縦書きで打ち込んでいくものだから、それをそのまま横書きに直すと、読む速度とか空気感とかが微妙にずれるようで、なんとなく、ううむ、という感じになってしまう(WEBで長目の作品に出会うと、エディタにコピペして縦書きにしてから読むこともあり。こうすると全く違う印象になるものもあって面白いですよ)。WEBで読んで頂く時には、その辺のことを考えねばなぁ、と、これは常にあたしの課題です。ううむ。
ところで、「番(つがい)で1羽」と数える「うさぎの数え方」。このタイトルから考えられる物語って、けっこう色々あると思う。かなり毒のある物語にもできるし、あるいはファンタジーにもなり得る。あたし自身、途中で、これ、耽美系にしちゃおうかなぁ(超個人的趣味嗜好により)、と思ったりもしたし。そう考えると、タイトルって面白い。たぶん同じタイトルで、100人が自由に小説を書いたら、ぜんぜん違う物語が100個生まれることになるんだろう(タイトルだけが決まっているバトルロイヤルってのも面白そう。なんて言うと責任とれとか言われそう―誰に―なんで撤回)
ということで、なんだか全くまとまりのないコメントですが(怒濤の年末シゴトがようやく終わったところなんで、思考回路がほとんど迷路)、とにかく今年はMCに参加することができてすごく嬉しかったし楽しかったです。ものすごく書くのが遅い上に、掟があれば破りたがり、規定があればどこか綻びをみつけて通り抜けようとするタチなので、なかなかMCに参加する勇気(あたしなんぞに書けるわけないわい、と、尻込みするばかり)がないのだけれど、来年も何かひとつでも参加させていただけたら、と思っています。
って、どんどん長くなるので(申し訳ない)、この辺で。
管理人の皆様方、MCメンバーの皆々さま、ありがとうございました。どうぞ良いお年を。
《mi:media 田川ミメイ》
2004.08.05 21:44 | ――― |
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《 ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆ 星十五作品 》
Mystery Circle Vol.24掲載
◎これまでに、こんなにだいじな決断を迫られることはなかった。
『無声映画』
著者:李九龍
これまでに、こんなに大事な決断を迫られる事は無かった。
僕は、気を失い、ぐったりしている少年を抱きかかえ、開いている電車の窓に向かって声をかけた。
「この電車は、地獄と天国、どっちへと辿り着くんだ」
――― 十九時の、週末の地下のショッピングモール。 僕は、帰宅の人並みを掻き分けながら、地下鉄の乗り口へと足早に向かう。
田舎からこっちに出て来た頃は、こんなにも早足で歩く事はなかったなと、僕はぼんやり考えた。 今では当たり前に、人の波と同化する。 むしろ今では、前を歩いている人の背中に向かって、「早く歩け」」と念じていたりする時もある。 随分と染まったものだ。 僕はそう思い、ちょっと俯きながら苦笑する。
その時僕は、前方にお目当ての店を見付け、ちょっと通路を端に寄り、人混みを避ける。
その店は、瞳が大好きな、ベーカリーショップ。 休日の、二人の朝食は、いつもここのパンだった。
僕は金曜日の夜には、必ずここでパンを買う。 食パン一斤と、菓子パン数個。 菓子パンは、週末だけ泊まりに来る瞳と、夜中まで映画を見ながらのおやつだった。
今日は何にしようかと、僕は外のガラス越しに中を覗く。 店内の奥の方では喫茶コーナーも設けられており、いつも満員に近いぐらいの客で溢れている。
チョコクロワッサン、チーズタルト、カレーナンに、バターたっぷりなワッフル。 僕自身、わくわくしながら、品定めをしていた。
・・・・・・・・・・・・・・・ズン
僕の視界が、少しぶれた。 足元から、鈍く重たい振動が来たのだ。
瞬間、地震かと思った。 だが、次の瞬間、気のせいだと思い直した。 どうやらその振動を感じたのは僕だけらしく、背後で道急ぐ人達の中には、その振動の異常性を感じた素振りの人間は、誰もいなかった。
「こんな地下で地震が来たら、とんでもない事になるよな」
僕は自分の言葉に不吉なものを感じつつも、努めてそれを笑い飛ばした。 そして僕は、再び店内の方に目をやった。
・・・・・・・・・・ズン
再び、感じた。 だが今度は、気のせいではなかった。 店内で座っている客達が、一斉に周囲を見渡し始めたからだ。
僕は、咄嗟に、「ヤバい」とそのまま声に出し、店の前を離れ、店舗と店舗を結ぶ間にある、太い円柱の前まで走り寄った。
次の振動は、僕がその円柱へと駆け寄り、そのひんやりとした表面に手を触れた瞬間だった。
・・・・・ズン!
確実に、揺れた。 もはや、モールを早足で歩いている人達さえも足を止め、周囲を見渡していた。
ドズン!
僕の足が、くだけるようにしてバランスを崩し、目の前の人々も、同じように地を跳ねた。
もはや、疑う余地は無かった。 どこかで上がる、「地震だ!」と言う声と共に、見る見る内に、人々の顔に驚愕が浮かんだ。
だが、次に来る振動と共に、人々の上げる声よりも、その周囲を取り巻く建造物の上げる悲鳴の方が、その威力を上回った。
ガズン!!!
まず最初に、僕が先程まで立っていた、ベーカリーの店の窓ガラスが、弾けるように砕け散る音が聞こえた。
続いて、その周辺にある各店舗から、同じように何かが壊れる音。 崩れ、倒れる音。 それに続いて、僕の頭の上に、パラパラと何かの破片が降り注ぐ。 人々の上げる悲鳴は、たっぷりと遅れてその後だった。
だが、その悲鳴も、長くは続かない。 それに引き続いて襲う次なる振動とその音は、今までの全てを上回っていたからだ。
それは、音ですらなかった。 僕の耳が、拾える音の限界を聞き、それはまるで、僕の頭上で起こる爆発のようなものだったからだ。
音は続き、何かが崩れ落ちる音。 人か獣か判らないような悲鳴が続き、そして、生理的に不愉快と思えるような、金属と金属がぶつかりあい、激しく擦れあう音が響き渡った。
そして再びの、強い振動音。 僕がその音の後に目を開くと、既に周囲は暗闇だった。 恐らくは、その一瞬の振動にて、電気系統がイカれたのだろう。 光の届かないこの地下のモールにおいては、例えれば、照明の無いトンネルのようであった。
その時、ほんの一瞬だけ、不思議な静寂の時間があったのだが、またすぐに、次の振動音。 だがその振動は、先程の一番大きい振動に比べ、数段落ちるものだった。
僕はふと、その振動は、何かの巨大な足音のような気がした。 一定の時間を置いてやって来るのと、近付いては遠ざかる、その事実に・・・で、ある。
やはり思った通り、次の振動は更に遠かった。 僕はほんの少しだけ安堵しながら、まずは自分に怪我がないかを確かめる。
周囲では、悲鳴の代わりに、人々の呻きと、鳴き声が充満していた。 中には、直接的に、痛い痛いと訴える声まであった。
僕は一瞬、ここが暗闇で良かったとすら感じていた。 もしもここに灯りがあるならば、僕は、見てはいけないものまで見てしまいそうな気がしたからだ。
確かに、巨大な足音のような震源は、遠ざかりつつあった。 今だに激しく揺れはするが、それも次第に小さくなって行く。
一瞬、その世界が見えた。 誰かがライターの火を起こしたのだ。 少し前方の暗闇で、その小さな周辺だけが、浮かび上がって見えた。
想像していた通りの、阿鼻叫喚の世界だった。 地下の天井に張られた壁材が砕け落ち、その下敷きになった人々が、見たくなくても目に入った。
僕の、ほんの二、三メートル前方の瓦礫からは、間違い無く女性のものだと思われる、二本の足が生えていた。
足が震えた。 たった一瞬の事なのに、こうして生き残る人と、息絶える人との隔たりが出来た。 僕ですら、ほんの数歩違えば、今はもう思考する術すら無くなっていたかも知れないのだ。
そして、暗闇の中、僕の嗅覚が何かを捕らえる。 それは、少し離れた場所から香る、焼きたてのパンの匂い。 そして、それに混ざる鉄のような匂い。 僕は、そんなミスマッチな匂いに、自然に込み上げて来る胃液が、逆流するのを必死で堪えた。
僕は、ポケットから携帯電話を取り出し、開いてみる。 時刻は、十九時六分。 アンテナの表示は無く、虚しく見える圏外の文字が浮かんでいた。
「上に昇れ!」
どこかで誰かが、そんな言葉を発した。 その瞬間、声では無い、雰囲気だけの音が、周囲を揺るがした。
あちこちで、ライターの火が灯り始める。 僕はそれを見て、今の時代でも、案外に喫煙者は多いのだなと、全く関係の無い思考を巡らす。
人が動き始めた。 地下街を出て、地上を目指す人の群れだ。
だが僕は、そこを動けなかった。 何しろ、地上を目指す人の群れは、何もかもを踏み越えての行進だったからだ。
・・・そう、瓦礫の下の同種族までも。
唖然としている僕の腕に、突然、何かが触れた。
僕は小さな悲鳴を上げ、跳ねるように飛び上がった。
だがそれは、暗闇に目が慣れて来たのと、人の手から洩れるほのかな灯りによって、小さな少年である事が判った。
「どう・・・したんだい」 僕は、かろうじて声が出た。
だが、少年の方は、僕よりもずっと落ち着いているかのように、単調なトーンで返答をする。
「この辺に、パン屋さんがあった筈なんです。 どこだか知りませんか?」
僕は、考えあぐねた。 この少年は、こんな状況で、何を聞きたいのだろうかと。
「パパとママが、そこで待ってるんです。 僕が本屋に行っている間に、二人はお茶を飲んでるって・・・」
血の気が引いた。 僕は咄嗟に、先程までいたベーカリーの方を見る。 だがそこは、中から崩れ出ている天井の瓦礫が、完全に中が潰れている事が理解出来たからだ。
途端、しまったと思った。 少年は、もはや、見てしまった。 目的地を見付け、僕から視線を外し、ふらふらとそちらへと歩いて行ってしまったからだ。
少年は、崩れ落ちた店の前で足を止める。 気にはなったが、僕はその少年に声をかける事も出来ずに、置き去りにして黙って歩き始めた。 地震が来る前に歩いて来た道を逆に辿り、再び地上へと向かう階段の方向へと。
僕が数歩あるいた辺りで、世界は緑色になった。 壁や天井の隅、あちこちに設置されてある、非常用の灯りが点いたのだ。
見渡せば、かなりの被害が見受けられた。 相当の瓦礫が散乱し、中にはうず高く積み上げたかのように、山になっている場所もあった。
だが、そんな瓦礫の下から、被害者を助けようとしている人は稀で、目に入る人の姿は皆、どこかを負傷したり、放心してうずくまっているだけだった。
見えるもの全てが、薄い緑に光るその不気味な世界の中、遠くに群集の怒号が飛び交っていた。
階段へと詰め掛ける人の群れ。 普段ならば、いくらごった返している階段付近でも、皆無口のまま、小さな歩幅でそこへと向かう筈の場所。 だが、今は違った。 我先にと詰め掛ける群衆にて、その周辺は、恐ろしい程に殺気立っていた。
そこはもはや、男も女も、老人も子供も関係が無かった。 先に階段を昇ろうとする者があれば、髪を掴んででも引き摺り下ろし、後ろから押そうとしたならば、顔を蹴飛ばそうかとするぐらいの勢いで、人は地上を目指していた。
やめてと聞こえる声があれば、退けと言う叫びもあった。 理性と言う皮膚が一皮剥けた獣達の交錯する中、次なる地獄がその世界を襲った。
突然、「ゴン」と、鈍い金属音が聞こえたかと思うと、そんな人々が押し合う中、階段と通路を分ける、非常用の防火壁が降りて来たのだ。 しかもその下降は案外と早く、下にいる人々達は全く気付かないまま、重い鉄の壁は、襲いかかって来た。
声が上がる。 そこを退けと。 だが、その声を聞ける人々が、その階段付近に、何人いたであろうか。
周りで見ている人達が騒いでも、結局は何も変わらなかった。 ただ単に、人が奏でる騒音が、一層大きくなっただけだった。
僕は瞬間、目を閉じる。 僕の周囲にいた人々からは、恐怖のあまりに絶叫がほとばしった。
音までが、僕の耳へと聞こえて来た。 それはまるで、船の上に打ち上げられた魚が、びちびちと飛び跳ねる音にすら似ていた。
もはや、何が起こっているのかさえ判らないまま、痺れた思考のまま、僕は人に突き飛ばされ、後方へと転がった。
吐き気と、強く打った腰の痛みとで、僕はその場でうずくまる。 気配で、再び人々が、移動し始めたのが判った。
ぼんやりと、次の階段を目指しているのだろうと、僕は思った。 だが、どこへと行っても同じだろうとも思ったが。
「爆弾テロだ」
誰かがそう呟いた。
僕がそこを通り過ぎると、今度は誰かが、「爆撃だ」、「空襲だ」と言う。
聞こえて来る想像だけの噂は、案外とユーモラスだった。 中には、列車事故だとか、ガス爆発だとか言う比較的まともなものもあれば、中には、宗教団体の仕業だとか、最後の審判だとか言うものもある。
だが、僕が感じた、「巨人の足音」だって、相当に変な想像だろう。 だが僕には、完全に大間違いには、未だに思えないのだが。
ふと、視線が泳いだ。 見ればそこは、先程まで僕がいた、ベーカリーの前だった。
少年は、いた。 ずっとそこでそうしていたのだろう。 緑に光る、あまり趣味の良くない世界の中、少年は黙って、そのひしゃげ潰れた店の前に立っていた。
僕は少しだけ責任を感じ、その少年の後ろに立つ。 彼は、気付いているのか気付いていないのか判らないまま、微動だにせずに、その場を動かなかった。
何故か、妙に寒かった。 僕は、自分が半袖のワイシャツ一枚でしかない事に気付き、少し不安になった。
「ベンチウォーマーが置いてあった。 これで少しは凌げるだろう」
僕はそう言って、少年に、季節外れの衣服を差し出した。
すぐ先に見える、半壊した洋服店の中から、引っ張り出して来たものである。 要するに泥棒だが、それを見て咎める人など誰もいないだろうと、僕は思った、
少年は、軽く頭を下げ、震える腕でそれを取る。 少し大きいが、それでも少年は首までボタンを止めると、身体を抱えるようにしてうずくまった。
僕も同じように、もう一着くすねて来たベンチウォーマーを羽織る。
異常な気温だった。 もうすぐ七月に入ろうと言う時期なのに、この寒さはなんなのだろうと思った。
見れば、僕と同じように、半分潰れた洋服店の中から、冬用の在庫を探して来る人の姿が目立った。
何しろ、息をすれば白くなるのだ。 これが異常なる気象でないならば、どこかの空調が異常を来たしていると言う事だ。
僕は少年の横に腰を下ろし、その小さな肩を抱いた。
あれから彼は、一言も口を聞かない。 表情こそは普通だが、相当のショックを受けているのだろう。 なにしろ例のベーカリーショップは、どこをどう見ても、中にいる人達が生きている訳が無いと言う程、店は全壊していたのだから。
少年は一言も無いままに、剥き出しの膝を抱え、寒さに震えながら、小さくなった。 僕は、何もかける言葉を見付けられず、黙ってその少年の横で、同じように座っているだけだった。
目の前を、「ホームに行けば・・・」と、うわごとのように呟きながら、歩き去る男の人が通り過ぎた。 それを聞いて、腰を浮かしてその後をつける人の姿も、いくらか見受けられた。
そう言えば・・・と、僕は思う。 この騒動が起こる前に、あれだけの往来だった人混みは、一体どこへ消えたのだろうかと。
かなり多くの人々が、この瓦礫の下にいるとしても、それでもどうしても、数が合わない。 あの階段に詰め掛けて、その多くが上へと昇り切ったとも思えない。
そうなれば、残りは二つ。 一つは、先程の男性のように、ホームへと向かって、そこから別の手段を見付けたか。 もう一つは、この阿鼻叫喚なる瓦礫の通路を進み、モールの中心部であるコンコースまで辿り着いたか・・・で、ある。
僕が今いる場所は、地下モールの中でも、最北端に近い場所だった。 ならば、辻褄も合う。 階段と言う移動手段が封じられた以上、例え望みが薄くとも、ここで留まるべきではないのかも知れない。
僕は、自分の考えを少年に打ち明け、一緒にこの通路を、中心部まで行かないかと交渉した。 少年は、黙ってベーカリーショップの方を見て、決心したように僕の方へと向き直ると、小さく、「行く」とだけ、答えた。
予想以上の被害だった。
崩れて積もった瓦礫の上を、僕達二人は、よろめきながら進んで行く。
体は汗ばむが、相変わらず吐く息は白く凍り付く。 僕は、この寒さの原因は何なのだろうと考えるが、一向にピンと来る仮説は浮かばない。
時折、そんな瓦礫の中から、人のものとおぼしきパーツが覗く。 僕は敢えてそれから視線を外し、黙々と少年を助けながら、前へと進んだ。
もはや、目に入る生存者はあまり無く、いたとしても、その場を自力で動けない人ばかりだった。
しばらく進むと、突然に瓦礫の散乱が減り出す。 見れば、壁も天井も、勿論、店舗の数々も。 そこから先は、あまり大きな被害は無さそうに見えた。
途端に進行が早くなる。 足元もおぼつかない場所よりは、やはり平らな床がいいと、改めて感じる。
だが、相変わらず、人はいない。 負傷した人々を除いたとしても、あれだけ大勢いた人の群れが、一向に見えない。
どうやら僕達は、相当遅くに取り残された口だと思った。 僕は少しだけ、自分の判断力の悪さに苛立った。
しばらくすると、前方に、非常用の緑の光が集まる、中央コンコースが見えて来た。 流石にそこまで来ると幾人かの人影が見え、僕自身、それに安堵する。
天井と床とを結ぶ、沢山の柱が立ち並ぶ中、人々はただ、上を見ていた。
僕は、無理に笑顔を作って、少年を見る。 軽く背中を押しながら、僕達はコンコースへと進む。
・・・・・どしゃっ
鈍く、そして、何か得体の知れない不快な音が、そこに聞こえた。
広場へと出て見ると、そこには何か小さき埃のようなものが、数限りなく降り注いでいる。 僕は、瞬時に判った。 それは、天から降り注ぐ、雪だった。
寒さの原因は、これだと思った。 何故に今、雪が降るのかの疑問は消えないにしても、その寒さの源は、理解が出来た。
コンコースは、地上の駅ビルまでもが見渡せる、吹き抜けの空間だった。 僕がそこに出て上を見上げると、明り取りの美しい紋様な、ドーム型のガラス天井は既に無く、拭きっ晒しの夜空が見渡せた。
なるほど。 それでここには雪が降るのかと納得した瞬間、またしても、「どすっ」と言う鈍い音。 そして、今まで気付かなかったのだが、そこには遠い笑い声が充満し、目の前に広がる広場の床には、得体の知れない物体が、あちこちに転がっていた。
途端、戦慄した。 地上部分に見える手摺りに、幾人かの人影が見えたのだが、今正に、その中の一人が手摺りを乗り越え、迷う事無く宙へと舞った。
短いながらも、ハッキリとした笑い声を乗せ、その人影は、コンコースの床へとめり込んだ。 先程と同じような、鈍く湿った破壊の音が響いた。
間違い無く、狂っていた。 そこには、くっきりと線引きが出来るように、狂った世界と、まだその余波が来ていない世界との、区分けがあった。
狂っている地上の部分には、完全に何かのタガが外れた人間が彷徨い、大声で、異常な高笑いを響かせている。
見ればそれは、手摺りの先だけではなかった。 完全に、地上と地下を結ぶエスカレーターは、「故意」に壊され、行き来出来ない状況にあると言うのに、その先で彷徨う人影は、まるで地下へと降りて来ようとするかのように、ふいに、突然として、宙へと弾かれた。
異常な世界だった。 雪の舞う、初夏の月夜に、遥かに高い地上から、雪と一緒に、笑う人々が降って来るのだ。
一体、地上では何があったのかと、周りに立っている人に声を掛けようとするが、どの人も、間違い無く向こうの世界へと足を踏み入れている表情だった。
空を見上げる人々の群れは皆、笑っていた。
僕は、発作的に少年の手を掴むと、笑顔を張り付けたままの人々の間を擦り抜け、駅の改札口へと走った。
僕は、地上で何があったのかが気掛かりだった。 真っ先に思い浮かべるのが、今夜逢う約束をしていた、瞳の事だった。
走りながら、再び携帯電話を取り出すも、表示は圏外以外を指さない。 普段ならば、駅地下の方こそ電波が安定するはずなのに。
僕は、遅れ気味な少年に向き直ると、その少年を抱え上げた。 まだ、小学校の三、四年ぐらいなのだろうか。 その身体は、案外に軽く感じた。
少年を抱きかかえて走り出す。 少し行くと、半分閉まりかけの店のシャッターの中から、一人の男が、くぐって出て来た。 彼は、走る僕達を見掛けると、両手を振って止まれと合図する。
「なぁ、アンタ。 今地上では、何が起こってるのか知ってるかい?」
男は、僕が止まるより先に、大声でそう言った。
「今、俺は、店の中で、ラジオを聴いてたんだ。 全然どこも入らなかったんだが、ようやく一つだけ周波が合った。 そうしたら、今、地上で起こっている事を、実況生中継してたって訳さ」
僕は立ち止まり、その男の顔を見る。
少し、異常な気配を見た。 男の顔は笑い顔で、やけにテンションが高かった。
「なぁ、何が起こってると思う? さっきの、巨大なロボットが歩いて行ったかのような振動は、何だと思う? なぁ」
僕は黙って、首を横に振った。 すると男は、僕の事など見えていなかったように、話を続ける。
「知らなくていい。 知らなくていい事は、知っちゃあいけない。 なぁ、そうだろう?」
男はそう言うと、ポケットから何かを取り出した。
そして彼は、笑い顔を絶やさぬままにそれを自分の頭のこめかみへとあてがう。
ポンと弾ける音がして、その男の反対側のこめかみから、何かが吹き飛んだ。 そして男は、背中から直立不動の姿勢で、地面へと倒れ込んだ。
少年は、しきりに、苦しいを連呼するようになった。 見れば、この寒さの中で、かなりの汗をかいている。 呼吸も、相当に荒い。
走っている途中で、変な人を見た。 通路の端の方で、全裸のままで、後方宙返りをしている初老の男性だった。
彼は、一生懸命に後方宙返りをするが、どうにもそれを出来るだけの技量が備わっていないらしい。 初老の男性はことごとく、宙返りしては自分の後頭部から地面へと落下するのだが、彼は決してそれを止める事なく、狂気染みた声で笑いながら、何度も何度も、固い床の上へと、血に濡れた自分の頭を打ち付けていた。
僕はそれを少年に見せないように庇いつつ、先を急ぐ。 もしかしたら、これほどまでの人間の変わりようは、何かの薬品かウィルス等の空気感染かとも思ったのだが、今更それに気付いても遅かった。 恐らくは僕達も、相当にそれを吸い込んでいる事だろう。 問題は、いつ、あの連中と同じような症状が出るのかと言う事だ。
ようやく、駅の改札口へと辿り着く。 そこは、他の区画とは違い、例え緊急の設備だとしても、しっかりとした明るい照明によって、照らし出されていた。
僕は、驚いた。 改札には幾人かの人が立っており、その姿は、迷彩服に包まれた軍隊のそれであり、各自大型の銃を持ち、顔にはしっかりと、防毒マスクが着用されていた。
僕が近付くと、何人かの軍人が僕に手招きをする。 僕は恐る恐るそれに近付き、何事なのかを聞く。 だが、その質問には誰も答えない。 電車が出るから早く入れと、小声でそう言われただけだった。
駅の構内にも、死体らしき塊が溢れていた。 そんな死体は視界にも入らないとばかりに、迷彩服の人々は、一定の間隔を置きながら、要所要所に立っていた。
少年の息が、いよいよ荒い。 僕は素手でその額を拭う。 手の平に、べとりと大量の油汗が付く。
「もうすぐ助かる。 頑張れ」
僕は、何の確信もない慰めを言いながら、閑散とした駅の構内を歩き、所々に立っている軍人の案内にて、ホームの一つへと向かう。
薄暗い階段を降りながら、とうとう返事の返らなくなった少年の身体を揺する。 呼吸はしっかりしているが、僕には医学的な知識は全く無く、ただもどかしいままに、少年を階段に座らせ、様子を見る事しか出来ない。
すると階下で、人が、大きな声で罵るのが聞こえた。
僕は、耳を澄ます。 どうやらそれは、僕達と同じように、助けを求めてこのホームへと辿り着いた人のようで、僕が持っている不安感をそのままに、言葉へと出して叫んでいた。
この電車はどこに行くのかと聞き、そして、今起こっている地上での騒動、おかしくなった人々の原因。 それらを矢継ぎ早に聞いている。
だが相手は、その返事を返さなかった代わりに、小気味良い、リズミカルな銃声を轟かせ、その会話を終わらせた。
タタタタタタタタタタタ・・・・・
呆然としたまま、何分が経ったのだろうか。 その内に、場違いながらも不気味に聞こえる軽快な電子音が鳴り響き、電車がゆっくりと走り出した音がした。
電車が走り去り、それからしばらく経った後、僕は再び少年を抱きかかえ、今度こそ階段の一番下部まで降りて行った。
見渡す限り、誰もいない駅のホームだった。 いるのは、所々に点在している、少し前まで、「人」だった塊だ。
先程撃たれたであろう人影が、横たわっていた。 それは、ごく普通の、僕と同年代ぐらいの、スーツを着た男性だった。
一瞬その姿が、僕のものとダブった。 もしかしたら僕は、もはや意識がなくなったこの少年と一緒でなければ、ここに横たわっていたのは、僕の方かも知れないと思った。
縦に並ぶ、いくつものプラットホーム。 果たして、乗り遅れた最後の客は、幸いなのか、不幸なのか。
遠くの暗闇に、一筋の明かりが見えた。 電車の警笛が鳴り響き、金属製の車輪が路線を捉える音が、どんどん近づいた。
それは、ほんの数両だけの短い電車。 乗客は誰もおらず、ただ操縦席に、運転手の他にもう一人、ガスマスクの軍人らしき人影が見えるだけだった。
僕の目の前で、電車が止まる。
乗るべきか、逃げるべきか。 これまでに、こんなに大事な決断を迫られる事は無かった。
僕は、気を失い、ぐったりしている少年を抱きかかえ、開いている電車の窓に向かって声をかけた。
「この電車は、地獄と天国、どっちへと辿り着くんだ」
顔中痣だらけになった運転手は、ニヤリと崩れた笑みを浮かべ、「行き先の片方はもうないよ」と答える。
肩越しに、抱き締めた少年が、くすりと笑ったような気がした。
●《 受賞コメント 》
なんつーの? 俺ってさぁ、もはやOBなんだけどさ。 俺がMCに在籍していた時、約二年もの間、内藤のクソカボチャは、俺にはただの一回も、「イチオシ」くれた事無いのな。 それだけが悔しいんだけどな。
でも、今回こうして二つも選ばれた。 これでようやく、あのカボチャの審査基準ってのは、「全くアテにならん」ってのが実証された訳だ。
・・・・・ふっ。 フシアナ野郎めが。(自虐)
この作品を書くに当たって、俺が最初にイメージしていたのは、現代版終戦直後の都内の地下鉄。 普段は大人しく人の波に揉まれながら歩く人々が、「生きるか死ぬか」ってな場面になると、理性なんかかなぐり捨ててまで、「逃げよう」「帰ろう」とするその浅ましさを表現したかった。
そして主人公は若い男。 自分も逃げようとするんだが、目の前で突き倒されて怪我をしてしまう見知らぬ母親がいる。 そしてそれにすがって泣く男の子。 一旦は見捨てるんだが、思い留まり戻る主人公。 見ると母親は骨折しちゃってて歩けない。 だが、最後の電車はもうすぐ出発。 母親は、子供だけでも助けてくれと主人公に託すんだな。
どうしても、若い男が小さな男の子を抱きかかえて、駅のホームで立ち往生するシーンだけは外せなかった。 これだけは書きたかった。 でも、そのまんまだと面白くないので、徹底したパニック系にしようと思った。 謎なんか投げっぱなしで、回収しない系。
で、意外とウケたので面白かったな。 うひゃひゃ。
ホラーってのはやはり、謎なんか究明すべきじゃないな。 これ書いて思ったよ。 人は謎が好きだが、そのタネまで明かされたら冷めるもんだ。 皆もホラー書く時は、ちょっと考えてみて欲しいね。(偉そう)
つーか、これが選ばれるってのは、ある意味本当に勉強なった。 心より、どうもありがとう。
今回は時間が無いから無理だけど、自分のブログに載せる際には、徹底して書き直ししたいねぇ・・・。
《魔城九龍別館 -玄武- 李九龍》
Mystery Circle Vol.24掲載
◎これまでに、こんなにだいじな決断を迫られることはなかった。
『無声映画』
著者:李九龍
これまでに、こんなに大事な決断を迫られる事は無かった。
僕は、気を失い、ぐったりしている少年を抱きかかえ、開いている電車の窓に向かって声をかけた。
「この電車は、地獄と天国、どっちへと辿り着くんだ」
――― 十九時の、週末の地下のショッピングモール。 僕は、帰宅の人並みを掻き分けながら、地下鉄の乗り口へと足早に向かう。
田舎からこっちに出て来た頃は、こんなにも早足で歩く事はなかったなと、僕はぼんやり考えた。 今では当たり前に、人の波と同化する。 むしろ今では、前を歩いている人の背中に向かって、「早く歩け」」と念じていたりする時もある。 随分と染まったものだ。 僕はそう思い、ちょっと俯きながら苦笑する。
その時僕は、前方にお目当ての店を見付け、ちょっと通路を端に寄り、人混みを避ける。
その店は、瞳が大好きな、ベーカリーショップ。 休日の、二人の朝食は、いつもここのパンだった。
僕は金曜日の夜には、必ずここでパンを買う。 食パン一斤と、菓子パン数個。 菓子パンは、週末だけ泊まりに来る瞳と、夜中まで映画を見ながらのおやつだった。
今日は何にしようかと、僕は外のガラス越しに中を覗く。 店内の奥の方では喫茶コーナーも設けられており、いつも満員に近いぐらいの客で溢れている。
チョコクロワッサン、チーズタルト、カレーナンに、バターたっぷりなワッフル。 僕自身、わくわくしながら、品定めをしていた。
・・・・・・・・・・・・・・・ズン
僕の視界が、少しぶれた。 足元から、鈍く重たい振動が来たのだ。
瞬間、地震かと思った。 だが、次の瞬間、気のせいだと思い直した。 どうやらその振動を感じたのは僕だけらしく、背後で道急ぐ人達の中には、その振動の異常性を感じた素振りの人間は、誰もいなかった。
「こんな地下で地震が来たら、とんでもない事になるよな」
僕は自分の言葉に不吉なものを感じつつも、努めてそれを笑い飛ばした。 そして僕は、再び店内の方に目をやった。
・・・・・・・・・・ズン
再び、感じた。 だが今度は、気のせいではなかった。 店内で座っている客達が、一斉に周囲を見渡し始めたからだ。
僕は、咄嗟に、「ヤバい」とそのまま声に出し、店の前を離れ、店舗と店舗を結ぶ間にある、太い円柱の前まで走り寄った。
次の振動は、僕がその円柱へと駆け寄り、そのひんやりとした表面に手を触れた瞬間だった。
・・・・・ズン!
確実に、揺れた。 もはや、モールを早足で歩いている人達さえも足を止め、周囲を見渡していた。
ドズン!
僕の足が、くだけるようにしてバランスを崩し、目の前の人々も、同じように地を跳ねた。
もはや、疑う余地は無かった。 どこかで上がる、「地震だ!」と言う声と共に、見る見る内に、人々の顔に驚愕が浮かんだ。
だが、次に来る振動と共に、人々の上げる声よりも、その周囲を取り巻く建造物の上げる悲鳴の方が、その威力を上回った。
ガズン!!!
まず最初に、僕が先程まで立っていた、ベーカリーの店の窓ガラスが、弾けるように砕け散る音が聞こえた。
続いて、その周辺にある各店舗から、同じように何かが壊れる音。 崩れ、倒れる音。 それに続いて、僕の頭の上に、パラパラと何かの破片が降り注ぐ。 人々の上げる悲鳴は、たっぷりと遅れてその後だった。
だが、その悲鳴も、長くは続かない。 それに引き続いて襲う次なる振動とその音は、今までの全てを上回っていたからだ。
それは、音ですらなかった。 僕の耳が、拾える音の限界を聞き、それはまるで、僕の頭上で起こる爆発のようなものだったからだ。
音は続き、何かが崩れ落ちる音。 人か獣か判らないような悲鳴が続き、そして、生理的に不愉快と思えるような、金属と金属がぶつかりあい、激しく擦れあう音が響き渡った。
そして再びの、強い振動音。 僕がその音の後に目を開くと、既に周囲は暗闇だった。 恐らくは、その一瞬の振動にて、電気系統がイカれたのだろう。 光の届かないこの地下のモールにおいては、例えれば、照明の無いトンネルのようであった。
その時、ほんの一瞬だけ、不思議な静寂の時間があったのだが、またすぐに、次の振動音。 だがその振動は、先程の一番大きい振動に比べ、数段落ちるものだった。
僕はふと、その振動は、何かの巨大な足音のような気がした。 一定の時間を置いてやって来るのと、近付いては遠ざかる、その事実に・・・で、ある。
やはり思った通り、次の振動は更に遠かった。 僕はほんの少しだけ安堵しながら、まずは自分に怪我がないかを確かめる。
周囲では、悲鳴の代わりに、人々の呻きと、鳴き声が充満していた。 中には、直接的に、痛い痛いと訴える声まであった。
僕は一瞬、ここが暗闇で良かったとすら感じていた。 もしもここに灯りがあるならば、僕は、見てはいけないものまで見てしまいそうな気がしたからだ。
確かに、巨大な足音のような震源は、遠ざかりつつあった。 今だに激しく揺れはするが、それも次第に小さくなって行く。
一瞬、その世界が見えた。 誰かがライターの火を起こしたのだ。 少し前方の暗闇で、その小さな周辺だけが、浮かび上がって見えた。
想像していた通りの、阿鼻叫喚の世界だった。 地下の天井に張られた壁材が砕け落ち、その下敷きになった人々が、見たくなくても目に入った。
僕の、ほんの二、三メートル前方の瓦礫からは、間違い無く女性のものだと思われる、二本の足が生えていた。
足が震えた。 たった一瞬の事なのに、こうして生き残る人と、息絶える人との隔たりが出来た。 僕ですら、ほんの数歩違えば、今はもう思考する術すら無くなっていたかも知れないのだ。
そして、暗闇の中、僕の嗅覚が何かを捕らえる。 それは、少し離れた場所から香る、焼きたてのパンの匂い。 そして、それに混ざる鉄のような匂い。 僕は、そんなミスマッチな匂いに、自然に込み上げて来る胃液が、逆流するのを必死で堪えた。
僕は、ポケットから携帯電話を取り出し、開いてみる。 時刻は、十九時六分。 アンテナの表示は無く、虚しく見える圏外の文字が浮かんでいた。
「上に昇れ!」
どこかで誰かが、そんな言葉を発した。 その瞬間、声では無い、雰囲気だけの音が、周囲を揺るがした。
あちこちで、ライターの火が灯り始める。 僕はそれを見て、今の時代でも、案外に喫煙者は多いのだなと、全く関係の無い思考を巡らす。
人が動き始めた。 地下街を出て、地上を目指す人の群れだ。
だが僕は、そこを動けなかった。 何しろ、地上を目指す人の群れは、何もかもを踏み越えての行進だったからだ。
・・・そう、瓦礫の下の同種族までも。
唖然としている僕の腕に、突然、何かが触れた。
僕は小さな悲鳴を上げ、跳ねるように飛び上がった。
だがそれは、暗闇に目が慣れて来たのと、人の手から洩れるほのかな灯りによって、小さな少年である事が判った。
「どう・・・したんだい」 僕は、かろうじて声が出た。
だが、少年の方は、僕よりもずっと落ち着いているかのように、単調なトーンで返答をする。
「この辺に、パン屋さんがあった筈なんです。 どこだか知りませんか?」
僕は、考えあぐねた。 この少年は、こんな状況で、何を聞きたいのだろうかと。
「パパとママが、そこで待ってるんです。 僕が本屋に行っている間に、二人はお茶を飲んでるって・・・」
血の気が引いた。 僕は咄嗟に、先程までいたベーカリーの方を見る。 だがそこは、中から崩れ出ている天井の瓦礫が、完全に中が潰れている事が理解出来たからだ。
途端、しまったと思った。 少年は、もはや、見てしまった。 目的地を見付け、僕から視線を外し、ふらふらとそちらへと歩いて行ってしまったからだ。
少年は、崩れ落ちた店の前で足を止める。 気にはなったが、僕はその少年に声をかける事も出来ずに、置き去りにして黙って歩き始めた。 地震が来る前に歩いて来た道を逆に辿り、再び地上へと向かう階段の方向へと。
僕が数歩あるいた辺りで、世界は緑色になった。 壁や天井の隅、あちこちに設置されてある、非常用の灯りが点いたのだ。
見渡せば、かなりの被害が見受けられた。 相当の瓦礫が散乱し、中にはうず高く積み上げたかのように、山になっている場所もあった。
だが、そんな瓦礫の下から、被害者を助けようとしている人は稀で、目に入る人の姿は皆、どこかを負傷したり、放心してうずくまっているだけだった。
見えるもの全てが、薄い緑に光るその不気味な世界の中、遠くに群集の怒号が飛び交っていた。
階段へと詰め掛ける人の群れ。 普段ならば、いくらごった返している階段付近でも、皆無口のまま、小さな歩幅でそこへと向かう筈の場所。 だが、今は違った。 我先にと詰め掛ける群衆にて、その周辺は、恐ろしい程に殺気立っていた。
そこはもはや、男も女も、老人も子供も関係が無かった。 先に階段を昇ろうとする者があれば、髪を掴んででも引き摺り下ろし、後ろから押そうとしたならば、顔を蹴飛ばそうかとするぐらいの勢いで、人は地上を目指していた。
やめてと聞こえる声があれば、退けと言う叫びもあった。 理性と言う皮膚が一皮剥けた獣達の交錯する中、次なる地獄がその世界を襲った。
突然、「ゴン」と、鈍い金属音が聞こえたかと思うと、そんな人々が押し合う中、階段と通路を分ける、非常用の防火壁が降りて来たのだ。 しかもその下降は案外と早く、下にいる人々達は全く気付かないまま、重い鉄の壁は、襲いかかって来た。
声が上がる。 そこを退けと。 だが、その声を聞ける人々が、その階段付近に、何人いたであろうか。
周りで見ている人達が騒いでも、結局は何も変わらなかった。 ただ単に、人が奏でる騒音が、一層大きくなっただけだった。
僕は瞬間、目を閉じる。 僕の周囲にいた人々からは、恐怖のあまりに絶叫がほとばしった。
音までが、僕の耳へと聞こえて来た。 それはまるで、船の上に打ち上げられた魚が、びちびちと飛び跳ねる音にすら似ていた。
もはや、何が起こっているのかさえ判らないまま、痺れた思考のまま、僕は人に突き飛ばされ、後方へと転がった。
吐き気と、強く打った腰の痛みとで、僕はその場でうずくまる。 気配で、再び人々が、移動し始めたのが判った。
ぼんやりと、次の階段を目指しているのだろうと、僕は思った。 だが、どこへと行っても同じだろうとも思ったが。
「爆弾テロだ」
誰かがそう呟いた。
僕がそこを通り過ぎると、今度は誰かが、「爆撃だ」、「空襲だ」と言う。
聞こえて来る想像だけの噂は、案外とユーモラスだった。 中には、列車事故だとか、ガス爆発だとか言う比較的まともなものもあれば、中には、宗教団体の仕業だとか、最後の審判だとか言うものもある。
だが、僕が感じた、「巨人の足音」だって、相当に変な想像だろう。 だが僕には、完全に大間違いには、未だに思えないのだが。
ふと、視線が泳いだ。 見ればそこは、先程まで僕がいた、ベーカリーの前だった。
少年は、いた。 ずっとそこでそうしていたのだろう。 緑に光る、あまり趣味の良くない世界の中、少年は黙って、そのひしゃげ潰れた店の前に立っていた。
僕は少しだけ責任を感じ、その少年の後ろに立つ。 彼は、気付いているのか気付いていないのか判らないまま、微動だにせずに、その場を動かなかった。
何故か、妙に寒かった。 僕は、自分が半袖のワイシャツ一枚でしかない事に気付き、少し不安になった。
「ベンチウォーマーが置いてあった。 これで少しは凌げるだろう」
僕はそう言って、少年に、季節外れの衣服を差し出した。
すぐ先に見える、半壊した洋服店の中から、引っ張り出して来たものである。 要するに泥棒だが、それを見て咎める人など誰もいないだろうと、僕は思った、
少年は、軽く頭を下げ、震える腕でそれを取る。 少し大きいが、それでも少年は首までボタンを止めると、身体を抱えるようにしてうずくまった。
僕も同じように、もう一着くすねて来たベンチウォーマーを羽織る。
異常な気温だった。 もうすぐ七月に入ろうと言う時期なのに、この寒さはなんなのだろうと思った。
見れば、僕と同じように、半分潰れた洋服店の中から、冬用の在庫を探して来る人の姿が目立った。
何しろ、息をすれば白くなるのだ。 これが異常なる気象でないならば、どこかの空調が異常を来たしていると言う事だ。
僕は少年の横に腰を下ろし、その小さな肩を抱いた。
あれから彼は、一言も口を聞かない。 表情こそは普通だが、相当のショックを受けているのだろう。 なにしろ例のベーカリーショップは、どこをどう見ても、中にいる人達が生きている訳が無いと言う程、店は全壊していたのだから。
少年は一言も無いままに、剥き出しの膝を抱え、寒さに震えながら、小さくなった。 僕は、何もかける言葉を見付けられず、黙ってその少年の横で、同じように座っているだけだった。
目の前を、「ホームに行けば・・・」と、うわごとのように呟きながら、歩き去る男の人が通り過ぎた。 それを聞いて、腰を浮かしてその後をつける人の姿も、いくらか見受けられた。
そう言えば・・・と、僕は思う。 この騒動が起こる前に、あれだけの往来だった人混みは、一体どこへ消えたのだろうかと。
かなり多くの人々が、この瓦礫の下にいるとしても、それでもどうしても、数が合わない。 あの階段に詰め掛けて、その多くが上へと昇り切ったとも思えない。
そうなれば、残りは二つ。 一つは、先程の男性のように、ホームへと向かって、そこから別の手段を見付けたか。 もう一つは、この阿鼻叫喚なる瓦礫の通路を進み、モールの中心部であるコンコースまで辿り着いたか・・・で、ある。
僕が今いる場所は、地下モールの中でも、最北端に近い場所だった。 ならば、辻褄も合う。 階段と言う移動手段が封じられた以上、例え望みが薄くとも、ここで留まるべきではないのかも知れない。
僕は、自分の考えを少年に打ち明け、一緒にこの通路を、中心部まで行かないかと交渉した。 少年は、黙ってベーカリーショップの方を見て、決心したように僕の方へと向き直ると、小さく、「行く」とだけ、答えた。
予想以上の被害だった。
崩れて積もった瓦礫の上を、僕達二人は、よろめきながら進んで行く。
体は汗ばむが、相変わらず吐く息は白く凍り付く。 僕は、この寒さの原因は何なのだろうと考えるが、一向にピンと来る仮説は浮かばない。
時折、そんな瓦礫の中から、人のものとおぼしきパーツが覗く。 僕は敢えてそれから視線を外し、黙々と少年を助けながら、前へと進んだ。
もはや、目に入る生存者はあまり無く、いたとしても、その場を自力で動けない人ばかりだった。
しばらく進むと、突然に瓦礫の散乱が減り出す。 見れば、壁も天井も、勿論、店舗の数々も。 そこから先は、あまり大きな被害は無さそうに見えた。
途端に進行が早くなる。 足元もおぼつかない場所よりは、やはり平らな床がいいと、改めて感じる。
だが、相変わらず、人はいない。 負傷した人々を除いたとしても、あれだけ大勢いた人の群れが、一向に見えない。
どうやら僕達は、相当遅くに取り残された口だと思った。 僕は少しだけ、自分の判断力の悪さに苛立った。
しばらくすると、前方に、非常用の緑の光が集まる、中央コンコースが見えて来た。 流石にそこまで来ると幾人かの人影が見え、僕自身、それに安堵する。
天井と床とを結ぶ、沢山の柱が立ち並ぶ中、人々はただ、上を見ていた。
僕は、無理に笑顔を作って、少年を見る。 軽く背中を押しながら、僕達はコンコースへと進む。
・・・・・どしゃっ
鈍く、そして、何か得体の知れない不快な音が、そこに聞こえた。
広場へと出て見ると、そこには何か小さき埃のようなものが、数限りなく降り注いでいる。 僕は、瞬時に判った。 それは、天から降り注ぐ、雪だった。
寒さの原因は、これだと思った。 何故に今、雪が降るのかの疑問は消えないにしても、その寒さの源は、理解が出来た。
コンコースは、地上の駅ビルまでもが見渡せる、吹き抜けの空間だった。 僕がそこに出て上を見上げると、明り取りの美しい紋様な、ドーム型のガラス天井は既に無く、拭きっ晒しの夜空が見渡せた。
なるほど。 それでここには雪が降るのかと納得した瞬間、またしても、「どすっ」と言う鈍い音。 そして、今まで気付かなかったのだが、そこには遠い笑い声が充満し、目の前に広がる広場の床には、得体の知れない物体が、あちこちに転がっていた。
途端、戦慄した。 地上部分に見える手摺りに、幾人かの人影が見えたのだが、今正に、その中の一人が手摺りを乗り越え、迷う事無く宙へと舞った。
短いながらも、ハッキリとした笑い声を乗せ、その人影は、コンコースの床へとめり込んだ。 先程と同じような、鈍く湿った破壊の音が響いた。
間違い無く、狂っていた。 そこには、くっきりと線引きが出来るように、狂った世界と、まだその余波が来ていない世界との、区分けがあった。
狂っている地上の部分には、完全に何かのタガが外れた人間が彷徨い、大声で、異常な高笑いを響かせている。
見ればそれは、手摺りの先だけではなかった。 完全に、地上と地下を結ぶエスカレーターは、「故意」に壊され、行き来出来ない状況にあると言うのに、その先で彷徨う人影は、まるで地下へと降りて来ようとするかのように、ふいに、突然として、宙へと弾かれた。
異常な世界だった。 雪の舞う、初夏の月夜に、遥かに高い地上から、雪と一緒に、笑う人々が降って来るのだ。
一体、地上では何があったのかと、周りに立っている人に声を掛けようとするが、どの人も、間違い無く向こうの世界へと足を踏み入れている表情だった。
空を見上げる人々の群れは皆、笑っていた。
僕は、発作的に少年の手を掴むと、笑顔を張り付けたままの人々の間を擦り抜け、駅の改札口へと走った。
僕は、地上で何があったのかが気掛かりだった。 真っ先に思い浮かべるのが、今夜逢う約束をしていた、瞳の事だった。
走りながら、再び携帯電話を取り出すも、表示は圏外以外を指さない。 普段ならば、駅地下の方こそ電波が安定するはずなのに。
僕は、遅れ気味な少年に向き直ると、その少年を抱え上げた。 まだ、小学校の三、四年ぐらいなのだろうか。 その身体は、案外に軽く感じた。
少年を抱きかかえて走り出す。 少し行くと、半分閉まりかけの店のシャッターの中から、一人の男が、くぐって出て来た。 彼は、走る僕達を見掛けると、両手を振って止まれと合図する。
「なぁ、アンタ。 今地上では、何が起こってるのか知ってるかい?」
男は、僕が止まるより先に、大声でそう言った。
「今、俺は、店の中で、ラジオを聴いてたんだ。 全然どこも入らなかったんだが、ようやく一つだけ周波が合った。 そうしたら、今、地上で起こっている事を、実況生中継してたって訳さ」
僕は立ち止まり、その男の顔を見る。
少し、異常な気配を見た。 男の顔は笑い顔で、やけにテンションが高かった。
「なぁ、何が起こってると思う? さっきの、巨大なロボットが歩いて行ったかのような振動は、何だと思う? なぁ」
僕は黙って、首を横に振った。 すると男は、僕の事など見えていなかったように、話を続ける。
「知らなくていい。 知らなくていい事は、知っちゃあいけない。 なぁ、そうだろう?」
男はそう言うと、ポケットから何かを取り出した。
そして彼は、笑い顔を絶やさぬままにそれを自分の頭のこめかみへとあてがう。
ポンと弾ける音がして、その男の反対側のこめかみから、何かが吹き飛んだ。 そして男は、背中から直立不動の姿勢で、地面へと倒れ込んだ。
少年は、しきりに、苦しいを連呼するようになった。 見れば、この寒さの中で、かなりの汗をかいている。 呼吸も、相当に荒い。
走っている途中で、変な人を見た。 通路の端の方で、全裸のままで、後方宙返りをしている初老の男性だった。
彼は、一生懸命に後方宙返りをするが、どうにもそれを出来るだけの技量が備わっていないらしい。 初老の男性はことごとく、宙返りしては自分の後頭部から地面へと落下するのだが、彼は決してそれを止める事なく、狂気染みた声で笑いながら、何度も何度も、固い床の上へと、血に濡れた自分の頭を打ち付けていた。
僕はそれを少年に見せないように庇いつつ、先を急ぐ。 もしかしたら、これほどまでの人間の変わりようは、何かの薬品かウィルス等の空気感染かとも思ったのだが、今更それに気付いても遅かった。 恐らくは僕達も、相当にそれを吸い込んでいる事だろう。 問題は、いつ、あの連中と同じような症状が出るのかと言う事だ。
ようやく、駅の改札口へと辿り着く。 そこは、他の区画とは違い、例え緊急の設備だとしても、しっかりとした明るい照明によって、照らし出されていた。
僕は、驚いた。 改札には幾人かの人が立っており、その姿は、迷彩服に包まれた軍隊のそれであり、各自大型の銃を持ち、顔にはしっかりと、防毒マスクが着用されていた。
僕が近付くと、何人かの軍人が僕に手招きをする。 僕は恐る恐るそれに近付き、何事なのかを聞く。 だが、その質問には誰も答えない。 電車が出るから早く入れと、小声でそう言われただけだった。
駅の構内にも、死体らしき塊が溢れていた。 そんな死体は視界にも入らないとばかりに、迷彩服の人々は、一定の間隔を置きながら、要所要所に立っていた。
少年の息が、いよいよ荒い。 僕は素手でその額を拭う。 手の平に、べとりと大量の油汗が付く。
「もうすぐ助かる。 頑張れ」
僕は、何の確信もない慰めを言いながら、閑散とした駅の構内を歩き、所々に立っている軍人の案内にて、ホームの一つへと向かう。
薄暗い階段を降りながら、とうとう返事の返らなくなった少年の身体を揺する。 呼吸はしっかりしているが、僕には医学的な知識は全く無く、ただもどかしいままに、少年を階段に座らせ、様子を見る事しか出来ない。
すると階下で、人が、大きな声で罵るのが聞こえた。
僕は、耳を澄ます。 どうやらそれは、僕達と同じように、助けを求めてこのホームへと辿り着いた人のようで、僕が持っている不安感をそのままに、言葉へと出して叫んでいた。
この電車はどこに行くのかと聞き、そして、今起こっている地上での騒動、おかしくなった人々の原因。 それらを矢継ぎ早に聞いている。
だが相手は、その返事を返さなかった代わりに、小気味良い、リズミカルな銃声を轟かせ、その会話を終わらせた。
タタタタタタタタタタタ・・・・・
呆然としたまま、何分が経ったのだろうか。 その内に、場違いながらも不気味に聞こえる軽快な電子音が鳴り響き、電車がゆっくりと走り出した音がした。
電車が走り去り、それからしばらく経った後、僕は再び少年を抱きかかえ、今度こそ階段の一番下部まで降りて行った。
見渡す限り、誰もいない駅のホームだった。 いるのは、所々に点在している、少し前まで、「人」だった塊だ。
先程撃たれたであろう人影が、横たわっていた。 それは、ごく普通の、僕と同年代ぐらいの、スーツを着た男性だった。
一瞬その姿が、僕のものとダブった。 もしかしたら僕は、もはや意識がなくなったこの少年と一緒でなければ、ここに横たわっていたのは、僕の方かも知れないと思った。
縦に並ぶ、いくつものプラットホーム。 果たして、乗り遅れた最後の客は、幸いなのか、不幸なのか。
遠くの暗闇に、一筋の明かりが見えた。 電車の警笛が鳴り響き、金属製の車輪が路線を捉える音が、どんどん近づいた。
それは、ほんの数両だけの短い電車。 乗客は誰もおらず、ただ操縦席に、運転手の他にもう一人、ガスマスクの軍人らしき人影が見えるだけだった。
僕の目の前で、電車が止まる。
乗るべきか、逃げるべきか。 これまでに、こんなに大事な決断を迫られる事は無かった。
僕は、気を失い、ぐったりしている少年を抱きかかえ、開いている電車の窓に向かって声をかけた。
「この電車は、地獄と天国、どっちへと辿り着くんだ」
顔中痣だらけになった運転手は、ニヤリと崩れた笑みを浮かべ、「行き先の片方はもうないよ」と答える。
肩越しに、抱き締めた少年が、くすりと笑ったような気がした。
●《 受賞コメント 》
なんつーの? 俺ってさぁ、もはやOBなんだけどさ。 俺がMCに在籍していた時、約二年もの間、内藤のクソカボチャは、俺にはただの一回も、「イチオシ」くれた事無いのな。 それだけが悔しいんだけどな。
でも、今回こうして二つも選ばれた。 これでようやく、あのカボチャの審査基準ってのは、「全くアテにならん」ってのが実証された訳だ。
・・・・・ふっ。 フシアナ野郎めが。(自虐)
この作品を書くに当たって、俺が最初にイメージしていたのは、現代版終戦直後の都内の地下鉄。 普段は大人しく人の波に揉まれながら歩く人々が、「生きるか死ぬか」ってな場面になると、理性なんかかなぐり捨ててまで、「逃げよう」「帰ろう」とするその浅ましさを表現したかった。
そして主人公は若い男。 自分も逃げようとするんだが、目の前で突き倒されて怪我をしてしまう見知らぬ母親がいる。 そしてそれにすがって泣く男の子。 一旦は見捨てるんだが、思い留まり戻る主人公。 見ると母親は骨折しちゃってて歩けない。 だが、最後の電車はもうすぐ出発。 母親は、子供だけでも助けてくれと主人公に託すんだな。
どうしても、若い男が小さな男の子を抱きかかえて、駅のホームで立ち往生するシーンだけは外せなかった。 これだけは書きたかった。 でも、そのまんまだと面白くないので、徹底したパニック系にしようと思った。 謎なんか投げっぱなしで、回収しない系。
で、意外とウケたので面白かったな。 うひゃひゃ。
ホラーってのはやはり、謎なんか究明すべきじゃないな。 これ書いて思ったよ。 人は謎が好きだが、そのタネまで明かされたら冷めるもんだ。 皆もホラー書く時は、ちょっと考えてみて欲しいね。(偉そう)
つーか、これが選ばれるってのは、ある意味本当に勉強なった。 心より、どうもありがとう。
今回は時間が無いから無理だけど、自分のブログに載せる際には、徹底して書き直ししたいねぇ・・・。
《魔城九龍別館 -玄武- 李九龍》
2004.08.05 21:06 | ――― |
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《 ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆ 星十作品 》
Sexual Mystery Circle Vol.2掲載
◎簡素な家の中には色彩がなかった。
『片羽の天使たち』
著者:宇津木
――ゴーンッ ゴーンッ ゴーンッ
遠くで響く重くて悲しい鐘の音が、町に染み渡る。
簡素な家の中には色彩がなかった。
だから僕は、絵を描く。窓から入る光だけを頼りに、灰色の壁に囲まれて、油の匂いにまみれながら、僕は筆を動かす。
「シア! オレ、走ってくるな。商店街寄ってくるけど、何か買ってくるものあるか?」
溌剌とした声に視線を向ければ、そこには見慣れた顔。やわらかい太陽の光のような色の短い髪に、幼さ特有の他意のない笑みを浮かべたトキは、すでにトレーニングウェアに着替えて、部屋の入り口に立っていた。
「リンゴ、買ってきて」
「また? お前どうせ腐るまでテーブルにおいておく気だろ。そりゃ絵に描くのもいいけどさ、ちゃっちゃと描いてちゃっちゃと食えよ、勿体無い」
「じゃあ、いいよ」
僕は新しいリンゴを諦めて、イーゼルの前のテーブルに目を移す。テーブルの上には、朽ちたリンゴの残骸。それもまた、絵になる。
だけどトキは、その僕の仕草を怒ったと勘違いしたらしい。小さくため息をついて、ちょっとムキになって声が大きくなった。
「いいよ、買ってくるよ。じゃ、一時間くらいで戻るから」
いらないと言おうと彼に視線を戻せば、もうきびすを返して走り出したトキの背中で、真っ白い羽が風を受けるかのように広がろうとしていた。
僕達の小さな羽では、飛ぶことなど出来ないのに。
トキは、いつも夕方になると走りに出る。学校に行く前に走ればいいと思うのだけれど、彼は朝が苦手だから無理だと言う。朝は苦手でも、夕方は元気に毎日走りにいく。雨が降っても、雪が降っても。
元気で、強くて、がさつなトキ。
穏やかで、優しいシア。
それが僕たちの一般的な評価。見てくれだけの、間違った評価。
本当はトキがずっと優しくて繊細なことを僕は知ってるし、僕は優しくなんかない、真っ黒で歪んだ人間だって事を自分でわかってる。
だけど僕は周りが期待する僕であるために、いつも笑顔を浮かべる。優しいシアであるために。それでもトキはわかっているのだろう。僕がそれほど優しくないことを。
トキとはもう10年も同じ学年、同じ寮の友達として接しているから、いい加減お互いの性格はよくわかっているつもりだ。特にここ2年は同室になったこともあって、たいていは一緒にいる。
だけど、それもあとわずか。
僕の右羽が、落ちたから。
片方しか残っていない僕の羽は、まだちょっと違和感を感じる。
バサバサ動かしてみても、反対側がないからバランスが悪い。役に立たない羽根なのに無くなるとどこか寂しいなんて、都合の良い僕。
15歳前後で、突然落ちる僕達の羽。
右が落ちれば、女。左が落ちれば、男。
どちらが落ちるか、落ちてみるまでわからない。でも片方落ちれば、少しずつ体の変化が始まって、2年のうちに残りの片方の羽も落ちる。そうすれば、成人として、この町を出なければいけない。
だってここは、羽を持つ者だけの楽園だから。
僕は、膨らみ始めた胸に手を当てた。まだちょっと、胸の奥が疼く。
「こんにちは。君に郵便だよ。羽、落ちたんだってね。おめでとう」
振り向けば、部屋の入り口には黒い郵便配達夫の制服に身を包んだシロが、一通の真っ白い封筒を持って立っていた。2歳年上のシロ。もうとっくに羽を無くした、裏切り者のシロ。
羽ほどに白い彼の肌と真っ黒い制服のコントラストが、僕には弔いに見える。
「ありがとう」
彼の手から封筒を受け取った。相変わらず彼の手は、いやになるほど白い。
「右の羽が落ちたのか、じゃあ君は女になるんだね」
僕の羽を肩越しに確認した彼の温かい笑みに、わずかに殺意を覚えた。
幼い僕が女になれればいいと願ったのは、あなたのためだった。なのに、あなたは僕の羽が落ちるより二年も前に、僕を置いてエナと一緒に行ってしまった。それ以来、あなたに裏切られた僕は、男になれればいいと願っていたことを、あなたは無邪気な笑みで知らないフリをする。
僕はペインティングナイフを持つ手に力を入れて、だけどあいまいな笑みを浮かべた。彼は、殺意に気づかない。
「今日は、トキ君は?」
「走りに行ってます」
知っているはずでしょう? 彼が毎日この時間に走りに行くのは。注意深くて記憶力の良いあなたが、忘れるはずはないもの。
「それじゃ、彼にもよろしく伝えておいて」
「はい」
僕はにっこりと微笑んだ。シロには、それが偽りだということなどすぐにわかるのだろう。彼は少し、困ったように笑う。
「それじゃ」
彼がきびすを返したから僕は彼を追って廊下に出たけれど、それ以上追うことはしなかった。
ペインティングナイフが、乾いた音を立てて廊下に落ちる。
こんな軟いナイフじゃ、彼を殺せやしない。もっと固く、もっと鋭くなきゃ。
遠ざかる彼の後姿には、かつて羽が生えていた部分に突起があった。それが、彼が堕ちた証。天から与えられたその羽を、自らの意思で引きちぎったその報い。
だから彼と、彼と一緒に羽を引きちぎったエナは、羽を持たないけれども大人にもなれないまま、楽園に閉じ込められている。
僕は彼の醜い背中を、彼が廊下を曲がって去っていってしまうまで見つめていた。
何故僕は、彼の背中を見て泣きたくなるのだろう?
「シア−っ!」
僕の気持ちを振り払うように、外から声が聞こえた。
元気のいい声に呼ばれて一瞬で笑みを浮かべた僕が窓から顔を出せば、小さい子供たちが手を振って僕を呼んでいる。
「あそぼーよー」
「わかった。今行くよ」
小さくて白い羽が、飛びたがっているように背中のうえで羽ばたいている子供たち。
下に降りていけば子供たちが純白の羽を撒き散らしながら駆け寄ってきた。
「トキはー?」
「走りに行ったよ」
「じゃあまたあれだね、公園でシュっシュって」
「かっこいいんだよね、シュっシュって」
子供たちがこぶしを突き出す真似をするので、ようやくボクシングの真似事だとわかる。だけど手を突き出すたびに羽がパサッパサッと鳴る様は、どう見てもボクシングには見えない。
トキもきっと、似たり寄ったりだろう。
「トキはどうしてシュッシュッてしてるのかな?」
「わかんなーい。でもその時のトキ兄ちゃんは怖いからきらーい」
「ねー」
幼いからこその遠慮のない言葉に、僕は苦笑する。きっとトキは真剣にやりすぎて子供たちがいることにも気づかないほどなのだろう。
「トキは優しいよ」
「えー、優しくないよー」
「シア兄ちゃ……あ、シア姉ちゃんのほうが優しいし、料理がうまいもん」
姉と言われて、僕は右羽が落ちたことを意識した。スカスカする右の背中に、もはや無い羽を動かそうとしてちょっと力を入れてみるけど、平坦な背中はうんともすんともいわない。両羽をクイックイッと動かす子供たちが、今は何よりも羨ましく見えた。
「そういえば、シロ兄ちゃんが来てたねー。お手紙?」
「うん」
「シロ兄ちゃんは町外れでエナ姉ちゃんと住んでるんでしょ? 夫婦なの?」
「夫婦なんて言葉、どこで覚えたんだい? 夫婦はね、ちゃんと羽が落ちて男と女にならないとなれないんだよ。シロもエナも羽を自分で切っちゃったから、夫婦にはなれないんだよ」
夫婦の意味だってわかっていない幼いキクには、理解できなかったらしい。ふしぎそうな顔で首をかしげるキクを押しのけて、今度はエルが断言する。
「シア姉ちゃんはシロ兄ちゃんと似てるね」
「そう? どのへんが?」
「笑った顔とか、優しいとことか。シア姉ちゃんはシロ兄ちゃんと仲良しさんだからかな?」
「そうだね。僕達は、よく似ているよ」
僕はやはり、笑みを浮かべた。シロと同じ、表面だけの優しい笑みを。
「シア姉ちゃんはもう一個の羽が落ちたら行っちゃうの?」
「そうだよ。羽が落ちて、ちゃんと女の人になれたら、この町を出て行かなきゃいけないんだよ」
「どうして羽が落ちるの? どうして出て行かなきゃいけないの? ミアはここを出て行きたくないよ」
そうだね、ミア。可愛いミア。僕もこの楽園を、出て行きたくないよ。でもね、羽が落ちたら出て行かなきゃいけないんだよ。ここに残ることは出来ないんだよ。残るなら、シロみたいに罰を受けることになるよ。怖い、怖い罰をね。
首をかしげる幼いミアに、僕は真実を告げることをしなかった。
僕達の祖先は、もっとずっと大きい羽を持っていたという。成人しても羽を落とすことはなく、自由に空を飛んでいたのだと言われている。
男も女もなく、皆が平等に生きて。それは幸せの象徴のように描かれる。
いつから人は羽を退化させ、性を分けるようになったのかは知られていない。
けれども僕は思う。僕達はこの地上に生み出されたときすでに、天使になる資格を失ってしまったのではないか。
飛べもしない羽を抱えた僕らは、憐れな出来損ないなんじゃないか。
空を夢見ることさえ許されない、憐れな咎人の子たち。
この小さな羽では、どこへも飛んで行けやしない。
神に見放された僕らは、だから楽園を去らなければいけないんだ。
17歳になって、最後の羽も落ちるそのときに。
――最後の希望が落ちる、そのときに。
数日後、初雪が降った。
そしてその次の日、トキが寝込んだ。
「風邪だよ。この間も雨の中走ってただろ。昨日は雪だって降ったのに。雨とか雪の日くらいは、走るのやめたら?」
ベッドの中でだるそうに息をするときを見ていると、ついつい小言が言いたくなる。
なのにトキは何を勘違いしたのか、僕の顔を見て温かい笑みを浮かべた。
「オレ、頭悪いからさ、体力くらいはつけておかないと。羽が落ちてからじゃ遅すぎるんだって。今のうちに体を作っておかないといけないんだ。それにさ、体力ある子は男になるって昔から言うだろ」
って言いながら、僕の冷ややかな視線に気づいてか、彼は素直に頭を下げる。
「ごめん。でも、さ。風邪ひいてもシアがいてくれるから安心して走りにいけるんだぜ」
「ほう? それは僕に面倒をかけるのはどうでも良いと、そう思って確信犯的にやってるってことかな、トキ?」
「違うよ、安心してんの。おまえがいるから、さ。だって絶対俺のこと見捨てないだろ、優しいから」
優しいからじゃないよ、トキ。
そう言ってやりたかったのに、僕はその意思に反して笑顔を浮かべて。
「馬鹿言ってないで、さっさと寝ろよ。僕は学校に行ってくるからね」
「遅刻させちゃって、ごめんな」
珍しく愁傷な態度のトキに、僕はなんだかくすぐったいような気持ちになってしまう。まだ羽さえ落ちてないトキなのに、なんだかとても大人に見えて。僕はどうしたいのか判らなくなって、だから微笑んだ。
「大丈夫。トキが風邪ひいたから遅くなるって、ケイに伝えてもらってる。それじゃ、ちゃんと寝ててよね」
僕はトキの言葉を待たないで、外へ出た。
いつもより遅い時間だから、雪が積もっていても少し暖かい。
白い息を吐きながら、僕は歩いた。学校は、寮から十分のところにある。丘の上で、町が一望できる所だ。
でも僕は、学校へ行く道を横で逸れた。
真面目で優しいという、本質とはかけ離れたイメージを持たれている僕は、きっとサボったなどとは言われない。風邪をひいた同室のトキの看病のために休んだのだと、友達も先生も思ってくれるに違いない。そして誰かがそれをトキに言ったとしても、トキは笑って頷くんだ。そうだよって。
それが僕の胸を締め付けるけど、それでも今日は学校へ行こうとは思わなかった。
町外れの橋には、今日は誰もいない。
いや、そもそも子供たちばかりのこの町で、学校のある時間に外にいるのは管理のスタッフくらい。それだって、めったに出会うことはない。
だから学校をサボっても、誰も咎める人はいないんだ。
白い封筒を、凍える手で小さく破って川に撒いたら、それは雪というよりはむしろ桜の花びらのようで、緩やかに風の軌跡を描きながら、黒い川に白い姿を浮かべて流れ去っていく。
僕は小さく息を吐いた。
「サボりかい、シア?」
ふりかえれば、郵便配達夫の格好をしたシロが立っていた。
「せっかく配達したものを、封も開けずに破り捨てたね」
「だって僕には、関係のないものだから」
大学からの、入学を促す文書。羽が落ちたらすぐに入学するようにって。いや、羽があっても構わない。意思があるならすぐにこちらへ。
もう何通も受け取っていれば、内容なんて読まなくたって覚えてる。
「この町からそんなに優秀な人間が出るなんて、珍しいことだよ。行けば良いのに」
「そしてこの不恰好な片羽を晒して、笑い者になれと?」
「そうじゃない。君の将来のためには……」
「あなたが僕の将来に口を出すの? お笑い種だね。自分から羽を落として楽園に留まっているあなたが、僕にはここを出て行けって言うの!?」
「シア……」
「前からあなたに聞きたかったんだ、シロ。あなたは泣いて縋る僕をおいて、エナと一緒にその羽を落としに行ったよね。それで、あなたは今幸せなの? エナと二人でこの町に残って。楽園にしがみついて、あなたは幸せ?」
言いながら僕は涙が流れそうになるのを、必死にこらえた。
こんなことが言いたいんじゃない。
それは僕の甘え、僕のワガママ。そしてそれは人を傷つける。
僕は傷つけたく無いのに、でも僕の口は止まらない。弱さを隠すように、僕は彼を傷つける刃になってしまう。
僕は優しくないのに、優しいフリして。人を傷つけたくないのに、傷つけてばかり。
「幸せだよ」
僕の痛みを知っているかのように、彼も辛そうな顔で、でも幸せだと呟いた。
「幸せだ、楽園にエナと二人でいられることは。でも、今は幸せでも、俺たちの先に待つのは悲しみだけだよ」
それこそ、彼らの罪。自ら羽を落とした者たちに与えられた最上の罰。
なのに僕は、その言葉さえ真っ向から受け止める強さも持たずに。また、刃を放つ。
「それは当然の報いだよ。自ら羽を落としたあなたの」
「だから、君は俺のようにはなるなよ。悲しみが待つ人生なんて……」
「勝手だよ、あなたは! 僕の気も知らないで勝手に出て行って、今更俺のようにはなるなって……。あなたが僕を……」
ダメだ、これ以上言ったら、余計に傷つける。それだけは言っちゃいけないんだ。
僕は、シロが何か言うのも聞かずに雪の中を走り出した。
走って、走って、気がつけば寮に戻っていた。
行くあてもなく、僕は部屋に戻る。寝ててくれれば良いと思っていたトキは、起きていた。
「おかえり。やっぱり学校行かなかったんだな」
「どうして……」
「封筒、持っていったろ? だから、さ。なんとなく」
トキの声は弱々しいのに、優しい。僕はその優しさに縋りたくなるのを必死にこらえて、部屋を出た。
昔は物置だった、僕だけのアトリエ。掃除をして、使えるようにして、油絵の道具を持ち込んだそこに、僕は向かった。
誰かにすがって、頼って、裏切られるのが、怖い。もう二度と、裏切られたくない。弱さをさらけ出したくない。
トキに抱きついて泣きたいのに、それが怖い。トキが裏切らないことを知っているはずなのに、それが出来ない。ぬくもりがほしい。抱きしめてほしい。なのに、僕はそれらをねだることもできずに、自分自身を抱きとめる。
切なさを、寂しさを、恋しさを、押さえ込むようにきつく、自分の体を抱くように腕を回して縮こまる。暗いアトリエの中、冷たい涙が僕の頬に痕をつけて落ちていく。
それでものろのろと僕は涙をぬぐって、立ち上がった。
イーゼルには描きかけの絵。
大きな、昔空を飛んでいた祖先たちの翼を持つ天使の肖像。
その顔は、まだない。
描きたい顔を、僕は確かに知っている。
天真爛漫で、疑うことを知らない、純朴な、まさに天使にうってつけのトキ。
筆をただ動かしていればいつもなら無心になれるのに、その顔を描こうとすると手が止まってしまう。僕は、その翼を丹念に描いて。どこまでも飛べるように、昔本で見た祖先たちの翼のように雄雄しく大きい白い翼を、精一杯描く。
本物の天使を、僕は描きたかった。
なのにその顔だけが、いつまでも描けない。僕の手は、止まってしまう。
その日のことを、僕はよく憶えている。
吹雪きはじめた夕方、もうすっかり風邪の治っていたトキは走りに行った。僕はそんなトキの帰りを待ちながら、夕飯の支度を。
あとは煮込むだけのスープを弱火にかけて、キッチンで本でも読もうかとしたところだった。
ざわめきと、悲鳴。乱暴に開けられたドアから吹き込む、身を切るような風。そして、雪まみれのトキと、その背中に担がれたシロ。それだけで、僕はスーッと自分の感情が引いていくのがわかった。
恐ろしいほど冷静に、僕は物事を理解する。
ついにその日が来たのだと。
「トキ、シロをそこのベッドに寝かせて。
ムン、見ているなら管理室に連絡して医者を!
君たちも見ているだけなら手伝ってくれ。ハレ、お湯を沸かして!
ミオはタオル、清潔なのを持ってきてくれないか。
イラは体温計を下で借りてきて。
スイは毛布をありったけ、ウルと集めてきて」
野次馬全員に指示を出して、僕ははじめてシロを見る。
想像以上に苦しんでいる。身をよじり、汗をかくのに、体は驚くほど冷たい。
とにかく濡れたままの服を脱がせたとたん、さすがに僕も凍りついた。羽を強引にちぎったときの傷が、縦横に裂けて体中を茨のように取り巻いていたのだ。おそらくそこから痛みがあるから、身をよじるのだろう。
その傷をかきむしろうとするシロの手を止めながら、僕は消毒をしてシャツを着せる。それが精一杯だったから。
医者は鎮痛剤と睡眠薬を投与して眠りにつくシロを確認すると、そそくさと帰っていった。他に出来ることは無いと。打つ手は何も無いのだと、彼は静かに告げた。だからせめて苦しみだしたら、呼ぶようにと。
僕達は、実際にシロを見るまで知らなかった。羽を自ら失った者達の、末路を。それは禁忌とされていて、だから犯す者はいなかったから。ただ、羽をちぎれば死が訪れると、それだけを聞かされていた。
もちろんシロにもエナにも、その死は訪れるはずだった。だけどそれは近い将来のいつかであって、今日ではないはず。その、繰り返し。
僕達はすっかり、羽の無い彼らのいる生活に慣れてしまっていた。死の恐怖が、彼らを失う怖さが、麻痺してしまっていた。
だけどシロもエナも、知っていたはずだ。羽を失えば死が待っていると。
それなのに二人は禁忌を破った。理由は簡単。二人がずっと一緒にいるため。なのに今、エナはここにはいない。誰かが呼びに行ったはずだけど、外を見れば激しい吹雪。ここまで来れるかどうかも怪しいところだ。
羽根をひきちぎった者は、苦しんで、苦しんで、狂い死ぬ。医者は、そう告げた。
だからせめて致死量ぎりぎりの鎮痛剤を。安らかな眠りを。
「シア、みんな部屋に戻った。もう、消灯時間だから」
気を使っているのか、いつもより心なしか優しい声音でトキは言った。
僕はそう言われるまで、みんなが後ろにいたことにさえ気づいていなかったというのに。
流れ落ちた感情は戻らない。理性だけの人形のような、僕。
「交代で診よう」
「いや、僕は起きてるよ。シロが明日を迎えられる確証はないから」
どんな声で、僕はそう言ったんだろう?
「医者呼んでくるから!」
深夜、苦しむシロを僕が押さえている間に、トキはコートを着込んで飛び出していった。
さっきよりも酷い苦しみように僕はシロの大きな体を押さえきれない。それでもどうにか彼がベッドから落ちないように、ひっしに彼の体に覆いかぶさった。
叫びは、もはや人間らしいものではなく。開かれた目に知性の光はない。
獣のようなシロの体を、ただただ必死にベッドにつなぎとめるだけの僕。これはあまりにも滑稽で、そして悲しい。
不意に、彼の手が僕の左手を掴んだ。信じられない力で、僕の手のひらを握り潰す。何かに縋るように、いや、引きずり込もうとするように。
そしてその目が、まっすぐに僕を射抜いていた。
僕は、静かに問う。
「僕を連れて行きたいの?」
この苦しみの中に。道連れとして。あなたを傷つけた僕を、あなたに似ている僕を――。
「でも僕はあなたとは同じ道は行かないよ、シロ」
だって、僕には大事な人がいるから。あなたと同じ末路をたどりはしない。
だから安心して、シロ。僕はもうあなたの後を追いかけるだけの、幼い子供ではないから。
ふっと、彼は動きを止めた。僕は自然と笑みがこぼれるのを、どこかで冷静に感じていた。僕の微笑みに、彼も応えて笑ってくれた、ような気がした。
そうしてそれっきり、彼の目は光を消した。
握り潰されておかしな方に曲がった手が、いまさら思い出したように痛み始めるのに、冷たくなったシロの手はそれでも僕の手を離さない。
駆けつけた医者とトキがシロの手を開くまで、僕はただ彼の亡骸の横で為すすべなく、座っているだけだった。
「羽……」
気づいたのはずいぶん遅く。
シロの遺体を別の部屋に安置して、医者が帰った後だった。
トキの真っ白い羽が、無残にもかきむしられ、根元からだらりと垂れ下がっている。
「ああ、気づかなかった」
そんなわけないのに、トキは痛みを隠してそう言う。
あれだけ暴れるシロを背中に担いでここまで走ってきたのなら、当然だ。もっと早く気づくべきだった。
彼の羽はずいぶん抜け、骨は折れている。
「おまえの手も、手当してもらえよ」
「もう医者、帰っちゃったから」
「せめて冷やそう。このまま化膿したら大変だろ」
「トキの羽もね」
「そうしたら少し眠ろう。明日は葬式だ」
ああ、彼は聞いていないんだ。僕は小さく、頭を振った。
「葬式はね、出せないんだって。自ら羽をひきちぎった者には、天国に行く資格がないんだってさ」
「じゃあ……」
「それでも墓地の片隅に、埋葬してもいいんだって。エナを誘ってさ、埋葬しよう」
今度はトキが、頭を振る番だった。
「エナ、もういないんだ」
僕は驚いた。エナが、シロといっしょに羽をひきちぎったエナが、ここに現れないのはそういうわけか。
「……シロより先に?」
「医者を迎えに行ったときに、聞いた。シロはエナをたった一人で見取ったんだって。一ヶ月前」
「そう……」
じゃあどうして、幸せだなんて答えたの、シロ?
悲しみはとっくにあなたを覆っていたというのに。
そして僕はどうしてそれに気づくこともせず、彼を最後まで傷つけたの?
彼と自分は似てるって、そう思っていたからこそ慕ってもいたし嫌ってもいた。
なのに彼と僕はちっとも似てなかったじゃないか。彼は僕のことをわかってたのに、僕は彼のことを理解することもなく。ただ傷つけて。
僕は何一つわかろうともせずに、最後まで……。
――ゴーンッ ゴーンッ ゴーンッ
重くて悲しい鐘の音が、町に染み渡る。
埋葬は晴れた高い空の下、僕とトキだけ。
神父さんが貸してくれたスコップで、少しずつ土をかける。片手しか使えない僕に、トキは手を貸してくれた。 でもそのトキの背中で、添え木を当てられた羽が小刻みに震えている。
一枚、二枚、羽がそのたびに抜け落ちた。
不安が、胸をよぎる。彼まで、羽を失いそうな。そして僕から遠ざかってしまうような。言い様のない不安に、僕はだんだん満たされる。
「オレ、シロと毎日話してたんだ」
懺悔をするように、彼は土をかける手を休めずにポツリと呟いた。
「シアが知ったら怒ると思ったから、内緒にしてた」
「トキもシロのこと、好きだったの?」
「……お前のこと、聞いてた。昔はあんなにシロに懐いてたのに、今は無理に嫌ってるように見えたから、心配で」
やっぱりトキは、繊細で優しい。だけど、お節介だ。
「ふうん。シロ、何か言ってた?」
「幸せになりたかったって」
「そう」
幸せに、なったんじゃなかったの?
僕には幸せだって言ったよね、シロ?
なのに僕にはシロの、幸せだと言ったときの辛そうな表情しか、思い出せない。
「ここに残れば、ずっと幸せだと思ってたって。それまでと同じように、幸せな毎日が過ごせるって。でも、違った」
僕は、口を挟めない。トキは土をかける手を休めない。
「シロが言ってた。羽を引きちぎった本当の理由は、ただこの生活を続けたかったからなんだって。二人だけで幸せになりたかったんじゃなくて、シアや、他の子供たちがいるここを出て行くのが嫌で、ずっと皆で仲良く暮らしたかったからだって」
なんて勝手な言い分。誰だって変わっていかなきゃいけない、生活していかなきゃいけないのに、二人だけがその変化を止めてここに留まることなんて、許されるはずも無いのに。
「だけど羽を引きちぎってまでここに残っても、あるのはいつ来るかわからない終わりへの不安。恐れ。そして、変化した環境が、何より辛かったって」
死ぬことを、もちろん二人は知っていた。それが怖いのは当たり前だ。
「二人は、もう羽根を持たない。でも大人にもなれなくて。羽を持つ子どもを見て、羨ましさと憎しみを感じた。もう決して、その中には戻れないってわかったからさ。
なんで自分たちがこんなに苦しまなければいけないのか、すごく悔やんだって。
もう戻れない楽園が、目の前にずっとある。そこから抜け出せない苦しみを、エナと二人でずっと感じていなきゃいけなかった。
それに……」
言葉を切ったトキの瞳が、迷ったまま僕を見る。
「僕のこと? いいよ、話して」
「シアに申し訳なかったって。どうしてシアが怒ってるのかがわかるから、謝ることも出来なかった。それだけが、心残りで」
いや、僕の怒りを二人が理解するはずがない。
だって僕の怒りは、僕のものだから。僕の中に渦巻く汚いものだから、二人が理解するはずなんてない。
おいて行かれた悲しみを。仲間はずれにされた寂しさを。言葉にすればこんなにチープなこの怒りを、慰めてほしくなんかない。謝ってほしくなんかない。
「本当は自分とは似てないシアを、似てる似てると思い込んでたのはシロの方なんだって。そのせいで、シアを自分と同じ所まで落としてしまうとこだった。
でも、シアが自分のようになっちゃいけないって、羽をなくして初めて思えた。 だから自分の代わりに謝ってほしいって。自分はもうシアに謝る機会を与えてもらえないだろうから、自分が死んだらシアに謝ってほしいって。
自分に似てると言い続けて、シアの心を閉ざさせてしまって、ごめん。だから俺のようにだけは、なるなって」
――だから君は、俺のようにはなるなよ。
シロの声が、不意によみがえる。悲しい瞳で、だけど強い意志で、あなたは笑いもせずにそう言った。
気がつけば、僕はあの部屋に閉じこもっていた。スコップを投げ出して、走って寮に戻って、アトリエに鍵をかけて。
不意に沸き起こる感情の本流が僕の中で渦巻いて僕を全て染め上げてしまう。
誰の話す声も耳に入らない。トキの声さえも、僕の心を捕まえられない。
だって、シロは死んでしまったのだから。
シロに似ているといわれて嬉しかった幼い僕。
シロとエナと一緒にいるのが、何よりも幸せで。
シロが優しくないのを知っていて、それでも優しく振舞おうとしていたのを知っていた。僕も優しくないから、シロのように優しくあろうと真似をした。
似てないのは僕の方だ、シロ!
優しく振舞おうとしていた本当のあなたの優しさに、気づかなかった。辛さや苦しみを抱えて、それでも幸せを探していたあなたを、責め立てた。
あなたは僕のことを心配してくれたのに。
僕はあなたに伝えたいことがたくさんあるのに、もう全てが手遅れなんだね、シロ!
謝りたいんだ、シロ!
僕はあなたに謝らなきゃいけないんだ!
でも、もう伝わらないね。どんな言葉も、あなたには届かないね。
僕は、筆を取った。
描きかけの天使の絵。
天使は、純真無垢じゃなくていい。悩み、苦しみ、辛さを知って、それでも幸せを求める姿を。空へ、空へと羽を伸ばす姿を。
僕は描くよ。
もう届かない気持ちを、言葉を、僕はこれでしか表せないから。
あなたの笑顔を覚えていない僕だけど、あなたがどうやって笑っていたかは知っている。
僕は一心不乱に、絵を描き続けた。
パレットを持てない左手は、そのままギプスの上に色を乗せてパレット代わりに。寝るのは絵を乾燥させるときだけ。アトリエに毛布だけを持ち込んで、床で寝た。
生活のほとんどを僕は捨てて、ただ絵を描く。この情熱の本流が枯れないうちに。僕の理性が落ち着かないうちに。僕は、僕は……。
久しぶりにベッドで寝たときには、もう何日経っていたかわからなかった。
油まみれで出てきた僕を、友達は心配そうに見つめていたけど、僕は言葉を交わす元気すらなく、ただ部屋に戻ってシャワーを浴びてベッドに突っ伏した。
柔らかくて温かいベッドの感触に、僕はすぐに意識を失う。
だけど深夜に目が覚めたのは、不安が胸をよぎったからとしか言いようがない。
違和感があったのだ。
トキが、いない。
アトリエにこもって最初の数日、声をかけ続けてくれたトキがいない。
僕があまりにも反応しなかったから怒ってるんだろうと思ってたけど、だから僕と会わないようにしているんだろうとしか思えなかったけど、でもどこかで心に引っかかる。
トキは、そんな奴じゃない。言いたいことがあれば、真っ先に正面から堂々と言うはず。
僕は起き上がって、隣の空のベッドを見つめた。
窓から青白い月明かりが入ってきて、そして僕は見てはいけないものを、発見した。
ベッドの下にある、白いものを。
恐る恐る引っ張り出してみると、それは落ちた羽だった。骨の根の方が折れている。
シロをつれてくるときに折れた、トキの右羽。
――右が落ちれば、女の子。
僕は、すぐに奥の部屋に続くドアを開けた。トキがいるとしたら、そこしかなかったから。
あのトキの右の羽が落ちたなんて寮生に知られたら、噂にならないはずがないし、誰かが必ず僕に言っただろうから。何も聞かなかったってことは、トキが皆から隠れてるとしか思えなくて。
だとしたら、いるのはここだ。物置代わりの小さな部屋。
僕はまた、大切な人を失うかも知れない。何も伝えられず、何も分かり合えないまま。そんなのは、もう嫌だ!
ドアは鍵もかかっていなくて、すんなりと開いて。
目に飛び込んできたのは、おびただしい数の羽、羽、羽。
紅い血にまみれながらもその白さを強調する、羽。
鋭いはさみを手に、血塗られた羽で、力なく笑うトキ。何も纏わない上半身で、その背中と羽の付け根に走る、赤い糸。いや、鋭く肉を抉った、痕。
「手がさ、後ろまでちゃんと届かねぇんだよ。だから下の方ばっかり切って、肝心の骨が背中から外れてくれねぇんだ」
ガサッ、ガサッ、と僕に踏まれた羽が悲鳴をあげる。もうトキにはまともな羽なんて一枚も残ってなくて、途中で切れているか、血にまみれているか、抜かれているか。
僕はトキを抱きしめた。
「どうして羽を落とそうとするの?」
「女にならないためだよ」
かすれた声で、トキが答える。
「シロの最期を見たのに? それでも、羽を落とそうとするの? 2年しか生きられないってわかってても」
ビクッと、トキのからだが震えた。
「でも、駄目なんだよ。オレは女じゃ駄目なんだよ。2年間……、2年間いられるならそれでいい。女になんかなりたくないんだよ!」
「女でも男でも、トキはトキだよ。どうしてそれじゃ、駄目なの?」
カラン、とはさみが床に落ちる。僕はトキを抱く腕に力を入れた。
「だって女になったら、お前を守れないだろ!」
搾り出すような涙声で、トキがそう言った。
「オレはおまえが好きなのに、俺が女になったらおまえを守れないし、お前と一緒にはいられない! 同性じゃ、結婚も出来ないし、好きでいる事だって認められないんだろ。だったら2年間だけでも、今までどおりおまえと暮らしたかったんだよ」
僕はトキの体を自分から引き離す。
そうして真正面からトキの顔を見た。弱く、打ちひしがれた少女が、そこにはいた。
「そんなものなの?」
僕の声は、月の光よりもはさみよりも鋭く、トキに突き刺さる。
「トキの想いはそんなものなの!? 男とか、女とか、そんなものに左右されるような、そんなに軽いものなの!? たった2年間で満足できる、その程度のものなの!?」
僕は、残された右腕で時の頭を支えたまま、彼に口付けた。
柔らかい感触が、一瞬だけ。
「僕はトキが好きだよ。男でも女でもトキが好きだよ。それじゃ駄目? だって性別があったって、羽が無くたって、僕は僕だもの。僕がトキを好きなのは、変わらないんだよ? 一生トキと一緒にいたい。そばにいてほしい。性別なんか関係ない。だって僕が好きなのは、トキだから」
「だって、男じゃなきゃ守れない。シアを守る存在でいたかったのに!」
「力があるだけが守ることにはならないだろ?
僕が羽を落とさなかったのは、トキがいたからだ。いつも元気で笑ってるトキが隣にいたから、僕は僕でいられたんだよ。
お願い、トキ。
僕の前からいなくならないで。
愛してるんだ、トキ。
トキじゃなきゃ、嫌なんだ。
トキがいなくなるかもしれないって事が、怖いんだ。
僕のそばにいて、トキ、お願いだから、トキ」
僕はもう一度、トキの目をしっかり見て確認してからゆっくりと口付けた。トキは、恐る恐る僕の背に手を伸ばして、そしてしっかりと抱きしめて。
僕たちは固く抱き合いながら、何度も何度もキスをした。
「絶対に開かないって感じだろ」
僕が金槌を持つ手を休めて振り返れば、トキが呆れ顔でそこに立っていた。羽はすっかり元に戻ってきれいなままで、僕の左腕も少し痩せたけれども元通りにちゃんと動く。
あれから、何も変わらない日常が続いている。いや、ちょっとだけ、トキが自分のことを私って言うようになったとか、よく頬を染めるようになったとか、胸が出てきたとか、そういう変化はあるけれど、基本的な僕達の生活は何も変わらない。
そんな日常の中で、僕は一枚の絵を描き上げて、そしてアトリエのドアを打ち付けて塞いだ。
「そりゃ、絶対に開かないだろうけどさぁ。台風の前じゃないんだから」
僕もドアを見直して、言われれば確かに台風の前みたいだと納得する。大きな板で左右を何枚も何枚も釘で打ち込んで封印してしまったドア。
開かずの、僕のアトリエ。
「よかったのか? あの絵、本当にすごいのに」
「いいんだよ。ここは天使の墓。僕の幼さを埋葬してるところだから」
部屋の中にはイーゼルが、一つ。そこにあるキャンバスには、大きな羽を持つシロの肖像。
優しく微笑んでるシロじゃない。もっと強く、激しく、憂いを秘めながらも幸せを探す、シロの横顔。
大きな羽で、空を夢見る。僕から見た、シロの姿。
それだけが部屋にある。そのドアを、僕は封印した。
思い出は過去に。
それは振り返るものではなく、ただ僕が歩いてきた軌跡。
そして僕の過ちの確かな証拠。
だけれども温かい、楽園の記憶。
「シロのこと、好きだった?」
トキが複雑な表情のまま尋ねてくる。最近の彼女は、前ほど単純じゃなくなった。いや、単純なフリをしなくなった。そこが、イイ。
「好きだったよ。トキも好きだったろ、シロのこと」
「そういうのじゃなくて……」
「愛してたかって?」
トキが頬を染める。まだまだうぶな彼女のそういうしぐさは、可愛い。伸びかけの髪の毛と、丸みを帯びた体つきが、余計にトキをいとしく見せる。
僕は抱きつきたくなる衝動を我慢して、でもまだ少し震える心が怖くて、トキの手を掴んだ。
「最初は、僕も愛してるって思ってた。でも違ったんだ。やっぱり僕とシロはよく似てたと思う。だから、一緒にいたいと思ったし、あこがれてたし、嫌ってた。兄さんみたいな人だったよ。だから好きだけど、愛してるわけじゃない」
だから僕は、シロへの感情をアトリエに閉じ込める。
「さ、行こうトキ! 一緒に!!」
手をつないだまま、僕達は歩き出した。遠くで鐘が鳴っていた。
●《 受賞コメント 》
これは「女王の島」とは別の意味でものすごくグロッキーになりながら書きました。
というのも、草稿が出来てからの手直しが、今までで一番時間がかかった作品だったので。
もともと一人称は苦手で、ライトノベルも書けなくて、どうして今回こんな作品を書いたのか、本人でさえ不思議なんです。ただ、書き始めたらもう進む、進む。おかげでろくに構成もなく、勢いに任せて書いてしまいました。
某所でこの作品の感想を募ったところ、もうこれが面白いほどに賛否両論。
昔から私の作品を読んでくださっているネットのお友達には比較的否定派が多いんですよ。
一方でリアル友達の中には泣いてくれた人もいたり、今まで私の作品を読んだ事の無い方には気に入っていただいたり。
作者としてこれほど困惑した作品もありません。
良いところも悪いところも、ある程度冷静に把握してるつもりなのですが、頂く感想がその幅を越して賛否極端なものですから。
でもこの作品は私にとっては「醜いアヒルの子」のような存在です。
今はまだまだだけど、磨けば自分の作品の中では一番飛躍しそうな感触があるんです。……なんて、書いてる自分が恥ずかしい。
この作品は、読んだ方から元ネタ指摘をいくつか受けまして、自分も某所で書いているのですが、「トーマの心臓」のセンチメンタリズムと「灰羽連盟」の切なさ、「晴天なり。」の思春期もどかしさをイメージして書きました。
でもね、誰も指摘してくれなかったのでばらす機会を失ってたのですが、実は一番根底でイメージしてたのは「蒼穹のファフナー」です。
あんなに「楽園」って言葉を多用したのに、気づいてもらえず……。
さすがに「あなたはそこにいますか」は作中で使わなかったですが、でも一番イメージしてたのは「蒼穹のファフナー」なんですよ。あの、思春期の傲慢さとか、すれ違いとか、切なさとか、儚さとか。
この作品を書く時のBGMはangelaの「果て無きモノローグ」でした。エンドレスでがんがんかけてました。
おかげで欝っぽい。
ちなみに、このお話は後日談があります。
もうちょっと大人になって、楽園を去った後の二人のお話です。
機会があれば、サイトの方で公開したいと思います。
この作品を気に入ってくださった皆様、どうもありがとうございました。
これからもいい作品を書けるように、精進してまいります。
《言の葉砂漠 宇津木》
Sexual Mystery Circle Vol.2掲載
◎簡素な家の中には色彩がなかった。
『片羽の天使たち』
著者:宇津木
――ゴーンッ ゴーンッ ゴーンッ
遠くで響く重くて悲しい鐘の音が、町に染み渡る。
簡素な家の中には色彩がなかった。
だから僕は、絵を描く。窓から入る光だけを頼りに、灰色の壁に囲まれて、油の匂いにまみれながら、僕は筆を動かす。
「シア! オレ、走ってくるな。商店街寄ってくるけど、何か買ってくるものあるか?」
溌剌とした声に視線を向ければ、そこには見慣れた顔。やわらかい太陽の光のような色の短い髪に、幼さ特有の他意のない笑みを浮かべたトキは、すでにトレーニングウェアに着替えて、部屋の入り口に立っていた。
「リンゴ、買ってきて」
「また? お前どうせ腐るまでテーブルにおいておく気だろ。そりゃ絵に描くのもいいけどさ、ちゃっちゃと描いてちゃっちゃと食えよ、勿体無い」
「じゃあ、いいよ」
僕は新しいリンゴを諦めて、イーゼルの前のテーブルに目を移す。テーブルの上には、朽ちたリンゴの残骸。それもまた、絵になる。
だけどトキは、その僕の仕草を怒ったと勘違いしたらしい。小さくため息をついて、ちょっとムキになって声が大きくなった。
「いいよ、買ってくるよ。じゃ、一時間くらいで戻るから」
いらないと言おうと彼に視線を戻せば、もうきびすを返して走り出したトキの背中で、真っ白い羽が風を受けるかのように広がろうとしていた。
僕達の小さな羽では、飛ぶことなど出来ないのに。
トキは、いつも夕方になると走りに出る。学校に行く前に走ればいいと思うのだけれど、彼は朝が苦手だから無理だと言う。朝は苦手でも、夕方は元気に毎日走りにいく。雨が降っても、雪が降っても。
元気で、強くて、がさつなトキ。
穏やかで、優しいシア。
それが僕たちの一般的な評価。見てくれだけの、間違った評価。
本当はトキがずっと優しくて繊細なことを僕は知ってるし、僕は優しくなんかない、真っ黒で歪んだ人間だって事を自分でわかってる。
だけど僕は周りが期待する僕であるために、いつも笑顔を浮かべる。優しいシアであるために。それでもトキはわかっているのだろう。僕がそれほど優しくないことを。
トキとはもう10年も同じ学年、同じ寮の友達として接しているから、いい加減お互いの性格はよくわかっているつもりだ。特にここ2年は同室になったこともあって、たいていは一緒にいる。
だけど、それもあとわずか。
僕の右羽が、落ちたから。
片方しか残っていない僕の羽は、まだちょっと違和感を感じる。
バサバサ動かしてみても、反対側がないからバランスが悪い。役に立たない羽根なのに無くなるとどこか寂しいなんて、都合の良い僕。
15歳前後で、突然落ちる僕達の羽。
右が落ちれば、女。左が落ちれば、男。
どちらが落ちるか、落ちてみるまでわからない。でも片方落ちれば、少しずつ体の変化が始まって、2年のうちに残りの片方の羽も落ちる。そうすれば、成人として、この町を出なければいけない。
だってここは、羽を持つ者だけの楽園だから。
僕は、膨らみ始めた胸に手を当てた。まだちょっと、胸の奥が疼く。
「こんにちは。君に郵便だよ。羽、落ちたんだってね。おめでとう」
振り向けば、部屋の入り口には黒い郵便配達夫の制服に身を包んだシロが、一通の真っ白い封筒を持って立っていた。2歳年上のシロ。もうとっくに羽を無くした、裏切り者のシロ。
羽ほどに白い彼の肌と真っ黒い制服のコントラストが、僕には弔いに見える。
「ありがとう」
彼の手から封筒を受け取った。相変わらず彼の手は、いやになるほど白い。
「右の羽が落ちたのか、じゃあ君は女になるんだね」
僕の羽を肩越しに確認した彼の温かい笑みに、わずかに殺意を覚えた。
幼い僕が女になれればいいと願ったのは、あなたのためだった。なのに、あなたは僕の羽が落ちるより二年も前に、僕を置いてエナと一緒に行ってしまった。それ以来、あなたに裏切られた僕は、男になれればいいと願っていたことを、あなたは無邪気な笑みで知らないフリをする。
僕はペインティングナイフを持つ手に力を入れて、だけどあいまいな笑みを浮かべた。彼は、殺意に気づかない。
「今日は、トキ君は?」
「走りに行ってます」
知っているはずでしょう? 彼が毎日この時間に走りに行くのは。注意深くて記憶力の良いあなたが、忘れるはずはないもの。
「それじゃ、彼にもよろしく伝えておいて」
「はい」
僕はにっこりと微笑んだ。シロには、それが偽りだということなどすぐにわかるのだろう。彼は少し、困ったように笑う。
「それじゃ」
彼がきびすを返したから僕は彼を追って廊下に出たけれど、それ以上追うことはしなかった。
ペインティングナイフが、乾いた音を立てて廊下に落ちる。
こんな軟いナイフじゃ、彼を殺せやしない。もっと固く、もっと鋭くなきゃ。
遠ざかる彼の後姿には、かつて羽が生えていた部分に突起があった。それが、彼が堕ちた証。天から与えられたその羽を、自らの意思で引きちぎったその報い。
だから彼と、彼と一緒に羽を引きちぎったエナは、羽を持たないけれども大人にもなれないまま、楽園に閉じ込められている。
僕は彼の醜い背中を、彼が廊下を曲がって去っていってしまうまで見つめていた。
何故僕は、彼の背中を見て泣きたくなるのだろう?
「シア−っ!」
僕の気持ちを振り払うように、外から声が聞こえた。
元気のいい声に呼ばれて一瞬で笑みを浮かべた僕が窓から顔を出せば、小さい子供たちが手を振って僕を呼んでいる。
「あそぼーよー」
「わかった。今行くよ」
小さくて白い羽が、飛びたがっているように背中のうえで羽ばたいている子供たち。
下に降りていけば子供たちが純白の羽を撒き散らしながら駆け寄ってきた。
「トキはー?」
「走りに行ったよ」
「じゃあまたあれだね、公園でシュっシュって」
「かっこいいんだよね、シュっシュって」
子供たちがこぶしを突き出す真似をするので、ようやくボクシングの真似事だとわかる。だけど手を突き出すたびに羽がパサッパサッと鳴る様は、どう見てもボクシングには見えない。
トキもきっと、似たり寄ったりだろう。
「トキはどうしてシュッシュッてしてるのかな?」
「わかんなーい。でもその時のトキ兄ちゃんは怖いからきらーい」
「ねー」
幼いからこその遠慮のない言葉に、僕は苦笑する。きっとトキは真剣にやりすぎて子供たちがいることにも気づかないほどなのだろう。
「トキは優しいよ」
「えー、優しくないよー」
「シア兄ちゃ……あ、シア姉ちゃんのほうが優しいし、料理がうまいもん」
姉と言われて、僕は右羽が落ちたことを意識した。スカスカする右の背中に、もはや無い羽を動かそうとしてちょっと力を入れてみるけど、平坦な背中はうんともすんともいわない。両羽をクイックイッと動かす子供たちが、今は何よりも羨ましく見えた。
「そういえば、シロ兄ちゃんが来てたねー。お手紙?」
「うん」
「シロ兄ちゃんは町外れでエナ姉ちゃんと住んでるんでしょ? 夫婦なの?」
「夫婦なんて言葉、どこで覚えたんだい? 夫婦はね、ちゃんと羽が落ちて男と女にならないとなれないんだよ。シロもエナも羽を自分で切っちゃったから、夫婦にはなれないんだよ」
夫婦の意味だってわかっていない幼いキクには、理解できなかったらしい。ふしぎそうな顔で首をかしげるキクを押しのけて、今度はエルが断言する。
「シア姉ちゃんはシロ兄ちゃんと似てるね」
「そう? どのへんが?」
「笑った顔とか、優しいとことか。シア姉ちゃんはシロ兄ちゃんと仲良しさんだからかな?」
「そうだね。僕達は、よく似ているよ」
僕はやはり、笑みを浮かべた。シロと同じ、表面だけの優しい笑みを。
「シア姉ちゃんはもう一個の羽が落ちたら行っちゃうの?」
「そうだよ。羽が落ちて、ちゃんと女の人になれたら、この町を出て行かなきゃいけないんだよ」
「どうして羽が落ちるの? どうして出て行かなきゃいけないの? ミアはここを出て行きたくないよ」
そうだね、ミア。可愛いミア。僕もこの楽園を、出て行きたくないよ。でもね、羽が落ちたら出て行かなきゃいけないんだよ。ここに残ることは出来ないんだよ。残るなら、シロみたいに罰を受けることになるよ。怖い、怖い罰をね。
首をかしげる幼いミアに、僕は真実を告げることをしなかった。
僕達の祖先は、もっとずっと大きい羽を持っていたという。成人しても羽を落とすことはなく、自由に空を飛んでいたのだと言われている。
男も女もなく、皆が平等に生きて。それは幸せの象徴のように描かれる。
いつから人は羽を退化させ、性を分けるようになったのかは知られていない。
けれども僕は思う。僕達はこの地上に生み出されたときすでに、天使になる資格を失ってしまったのではないか。
飛べもしない羽を抱えた僕らは、憐れな出来損ないなんじゃないか。
空を夢見ることさえ許されない、憐れな咎人の子たち。
この小さな羽では、どこへも飛んで行けやしない。
神に見放された僕らは、だから楽園を去らなければいけないんだ。
17歳になって、最後の羽も落ちるそのときに。
――最後の希望が落ちる、そのときに。
数日後、初雪が降った。
そしてその次の日、トキが寝込んだ。
「風邪だよ。この間も雨の中走ってただろ。昨日は雪だって降ったのに。雨とか雪の日くらいは、走るのやめたら?」
ベッドの中でだるそうに息をするときを見ていると、ついつい小言が言いたくなる。
なのにトキは何を勘違いしたのか、僕の顔を見て温かい笑みを浮かべた。
「オレ、頭悪いからさ、体力くらいはつけておかないと。羽が落ちてからじゃ遅すぎるんだって。今のうちに体を作っておかないといけないんだ。それにさ、体力ある子は男になるって昔から言うだろ」
って言いながら、僕の冷ややかな視線に気づいてか、彼は素直に頭を下げる。
「ごめん。でも、さ。風邪ひいてもシアがいてくれるから安心して走りにいけるんだぜ」
「ほう? それは僕に面倒をかけるのはどうでも良いと、そう思って確信犯的にやってるってことかな、トキ?」
「違うよ、安心してんの。おまえがいるから、さ。だって絶対俺のこと見捨てないだろ、優しいから」
優しいからじゃないよ、トキ。
そう言ってやりたかったのに、僕はその意思に反して笑顔を浮かべて。
「馬鹿言ってないで、さっさと寝ろよ。僕は学校に行ってくるからね」
「遅刻させちゃって、ごめんな」
珍しく愁傷な態度のトキに、僕はなんだかくすぐったいような気持ちになってしまう。まだ羽さえ落ちてないトキなのに、なんだかとても大人に見えて。僕はどうしたいのか判らなくなって、だから微笑んだ。
「大丈夫。トキが風邪ひいたから遅くなるって、ケイに伝えてもらってる。それじゃ、ちゃんと寝ててよね」
僕はトキの言葉を待たないで、外へ出た。
いつもより遅い時間だから、雪が積もっていても少し暖かい。
白い息を吐きながら、僕は歩いた。学校は、寮から十分のところにある。丘の上で、町が一望できる所だ。
でも僕は、学校へ行く道を横で逸れた。
真面目で優しいという、本質とはかけ離れたイメージを持たれている僕は、きっとサボったなどとは言われない。風邪をひいた同室のトキの看病のために休んだのだと、友達も先生も思ってくれるに違いない。そして誰かがそれをトキに言ったとしても、トキは笑って頷くんだ。そうだよって。
それが僕の胸を締め付けるけど、それでも今日は学校へ行こうとは思わなかった。
町外れの橋には、今日は誰もいない。
いや、そもそも子供たちばかりのこの町で、学校のある時間に外にいるのは管理のスタッフくらい。それだって、めったに出会うことはない。
だから学校をサボっても、誰も咎める人はいないんだ。
白い封筒を、凍える手で小さく破って川に撒いたら、それは雪というよりはむしろ桜の花びらのようで、緩やかに風の軌跡を描きながら、黒い川に白い姿を浮かべて流れ去っていく。
僕は小さく息を吐いた。
「サボりかい、シア?」
ふりかえれば、郵便配達夫の格好をしたシロが立っていた。
「せっかく配達したものを、封も開けずに破り捨てたね」
「だって僕には、関係のないものだから」
大学からの、入学を促す文書。羽が落ちたらすぐに入学するようにって。いや、羽があっても構わない。意思があるならすぐにこちらへ。
もう何通も受け取っていれば、内容なんて読まなくたって覚えてる。
「この町からそんなに優秀な人間が出るなんて、珍しいことだよ。行けば良いのに」
「そしてこの不恰好な片羽を晒して、笑い者になれと?」
「そうじゃない。君の将来のためには……」
「あなたが僕の将来に口を出すの? お笑い種だね。自分から羽を落として楽園に留まっているあなたが、僕にはここを出て行けって言うの!?」
「シア……」
「前からあなたに聞きたかったんだ、シロ。あなたは泣いて縋る僕をおいて、エナと一緒にその羽を落としに行ったよね。それで、あなたは今幸せなの? エナと二人でこの町に残って。楽園にしがみついて、あなたは幸せ?」
言いながら僕は涙が流れそうになるのを、必死にこらえた。
こんなことが言いたいんじゃない。
それは僕の甘え、僕のワガママ。そしてそれは人を傷つける。
僕は傷つけたく無いのに、でも僕の口は止まらない。弱さを隠すように、僕は彼を傷つける刃になってしまう。
僕は優しくないのに、優しいフリして。人を傷つけたくないのに、傷つけてばかり。
「幸せだよ」
僕の痛みを知っているかのように、彼も辛そうな顔で、でも幸せだと呟いた。
「幸せだ、楽園にエナと二人でいられることは。でも、今は幸せでも、俺たちの先に待つのは悲しみだけだよ」
それこそ、彼らの罪。自ら羽を落とした者たちに与えられた最上の罰。
なのに僕は、その言葉さえ真っ向から受け止める強さも持たずに。また、刃を放つ。
「それは当然の報いだよ。自ら羽を落としたあなたの」
「だから、君は俺のようにはなるなよ。悲しみが待つ人生なんて……」
「勝手だよ、あなたは! 僕の気も知らないで勝手に出て行って、今更俺のようにはなるなって……。あなたが僕を……」
ダメだ、これ以上言ったら、余計に傷つける。それだけは言っちゃいけないんだ。
僕は、シロが何か言うのも聞かずに雪の中を走り出した。
走って、走って、気がつけば寮に戻っていた。
行くあてもなく、僕は部屋に戻る。寝ててくれれば良いと思っていたトキは、起きていた。
「おかえり。やっぱり学校行かなかったんだな」
「どうして……」
「封筒、持っていったろ? だから、さ。なんとなく」
トキの声は弱々しいのに、優しい。僕はその優しさに縋りたくなるのを必死にこらえて、部屋を出た。
昔は物置だった、僕だけのアトリエ。掃除をして、使えるようにして、油絵の道具を持ち込んだそこに、僕は向かった。
誰かにすがって、頼って、裏切られるのが、怖い。もう二度と、裏切られたくない。弱さをさらけ出したくない。
トキに抱きついて泣きたいのに、それが怖い。トキが裏切らないことを知っているはずなのに、それが出来ない。ぬくもりがほしい。抱きしめてほしい。なのに、僕はそれらをねだることもできずに、自分自身を抱きとめる。
切なさを、寂しさを、恋しさを、押さえ込むようにきつく、自分の体を抱くように腕を回して縮こまる。暗いアトリエの中、冷たい涙が僕の頬に痕をつけて落ちていく。
それでものろのろと僕は涙をぬぐって、立ち上がった。
イーゼルには描きかけの絵。
大きな、昔空を飛んでいた祖先たちの翼を持つ天使の肖像。
その顔は、まだない。
描きたい顔を、僕は確かに知っている。
天真爛漫で、疑うことを知らない、純朴な、まさに天使にうってつけのトキ。
筆をただ動かしていればいつもなら無心になれるのに、その顔を描こうとすると手が止まってしまう。僕は、その翼を丹念に描いて。どこまでも飛べるように、昔本で見た祖先たちの翼のように雄雄しく大きい白い翼を、精一杯描く。
本物の天使を、僕は描きたかった。
なのにその顔だけが、いつまでも描けない。僕の手は、止まってしまう。
その日のことを、僕はよく憶えている。
吹雪きはじめた夕方、もうすっかり風邪の治っていたトキは走りに行った。僕はそんなトキの帰りを待ちながら、夕飯の支度を。
あとは煮込むだけのスープを弱火にかけて、キッチンで本でも読もうかとしたところだった。
ざわめきと、悲鳴。乱暴に開けられたドアから吹き込む、身を切るような風。そして、雪まみれのトキと、その背中に担がれたシロ。それだけで、僕はスーッと自分の感情が引いていくのがわかった。
恐ろしいほど冷静に、僕は物事を理解する。
ついにその日が来たのだと。
「トキ、シロをそこのベッドに寝かせて。
ムン、見ているなら管理室に連絡して医者を!
君たちも見ているだけなら手伝ってくれ。ハレ、お湯を沸かして!
ミオはタオル、清潔なのを持ってきてくれないか。
イラは体温計を下で借りてきて。
スイは毛布をありったけ、ウルと集めてきて」
野次馬全員に指示を出して、僕ははじめてシロを見る。
想像以上に苦しんでいる。身をよじり、汗をかくのに、体は驚くほど冷たい。
とにかく濡れたままの服を脱がせたとたん、さすがに僕も凍りついた。羽を強引にちぎったときの傷が、縦横に裂けて体中を茨のように取り巻いていたのだ。おそらくそこから痛みがあるから、身をよじるのだろう。
その傷をかきむしろうとするシロの手を止めながら、僕は消毒をしてシャツを着せる。それが精一杯だったから。
医者は鎮痛剤と睡眠薬を投与して眠りにつくシロを確認すると、そそくさと帰っていった。他に出来ることは無いと。打つ手は何も無いのだと、彼は静かに告げた。だからせめて苦しみだしたら、呼ぶようにと。
僕達は、実際にシロを見るまで知らなかった。羽を自ら失った者達の、末路を。それは禁忌とされていて、だから犯す者はいなかったから。ただ、羽をちぎれば死が訪れると、それだけを聞かされていた。
もちろんシロにもエナにも、その死は訪れるはずだった。だけどそれは近い将来のいつかであって、今日ではないはず。その、繰り返し。
僕達はすっかり、羽の無い彼らのいる生活に慣れてしまっていた。死の恐怖が、彼らを失う怖さが、麻痺してしまっていた。
だけどシロもエナも、知っていたはずだ。羽を失えば死が待っていると。
それなのに二人は禁忌を破った。理由は簡単。二人がずっと一緒にいるため。なのに今、エナはここにはいない。誰かが呼びに行ったはずだけど、外を見れば激しい吹雪。ここまで来れるかどうかも怪しいところだ。
羽根をひきちぎった者は、苦しんで、苦しんで、狂い死ぬ。医者は、そう告げた。
だからせめて致死量ぎりぎりの鎮痛剤を。安らかな眠りを。
「シア、みんな部屋に戻った。もう、消灯時間だから」
気を使っているのか、いつもより心なしか優しい声音でトキは言った。
僕はそう言われるまで、みんなが後ろにいたことにさえ気づいていなかったというのに。
流れ落ちた感情は戻らない。理性だけの人形のような、僕。
「交代で診よう」
「いや、僕は起きてるよ。シロが明日を迎えられる確証はないから」
どんな声で、僕はそう言ったんだろう?
「医者呼んでくるから!」
深夜、苦しむシロを僕が押さえている間に、トキはコートを着込んで飛び出していった。
さっきよりも酷い苦しみように僕はシロの大きな体を押さえきれない。それでもどうにか彼がベッドから落ちないように、ひっしに彼の体に覆いかぶさった。
叫びは、もはや人間らしいものではなく。開かれた目に知性の光はない。
獣のようなシロの体を、ただただ必死にベッドにつなぎとめるだけの僕。これはあまりにも滑稽で、そして悲しい。
不意に、彼の手が僕の左手を掴んだ。信じられない力で、僕の手のひらを握り潰す。何かに縋るように、いや、引きずり込もうとするように。
そしてその目が、まっすぐに僕を射抜いていた。
僕は、静かに問う。
「僕を連れて行きたいの?」
この苦しみの中に。道連れとして。あなたを傷つけた僕を、あなたに似ている僕を――。
「でも僕はあなたとは同じ道は行かないよ、シロ」
だって、僕には大事な人がいるから。あなたと同じ末路をたどりはしない。
だから安心して、シロ。僕はもうあなたの後を追いかけるだけの、幼い子供ではないから。
ふっと、彼は動きを止めた。僕は自然と笑みがこぼれるのを、どこかで冷静に感じていた。僕の微笑みに、彼も応えて笑ってくれた、ような気がした。
そうしてそれっきり、彼の目は光を消した。
握り潰されておかしな方に曲がった手が、いまさら思い出したように痛み始めるのに、冷たくなったシロの手はそれでも僕の手を離さない。
駆けつけた医者とトキがシロの手を開くまで、僕はただ彼の亡骸の横で為すすべなく、座っているだけだった。
「羽……」
気づいたのはずいぶん遅く。
シロの遺体を別の部屋に安置して、医者が帰った後だった。
トキの真っ白い羽が、無残にもかきむしられ、根元からだらりと垂れ下がっている。
「ああ、気づかなかった」
そんなわけないのに、トキは痛みを隠してそう言う。
あれだけ暴れるシロを背中に担いでここまで走ってきたのなら、当然だ。もっと早く気づくべきだった。
彼の羽はずいぶん抜け、骨は折れている。
「おまえの手も、手当してもらえよ」
「もう医者、帰っちゃったから」
「せめて冷やそう。このまま化膿したら大変だろ」
「トキの羽もね」
「そうしたら少し眠ろう。明日は葬式だ」
ああ、彼は聞いていないんだ。僕は小さく、頭を振った。
「葬式はね、出せないんだって。自ら羽をひきちぎった者には、天国に行く資格がないんだってさ」
「じゃあ……」
「それでも墓地の片隅に、埋葬してもいいんだって。エナを誘ってさ、埋葬しよう」
今度はトキが、頭を振る番だった。
「エナ、もういないんだ」
僕は驚いた。エナが、シロといっしょに羽をひきちぎったエナが、ここに現れないのはそういうわけか。
「……シロより先に?」
「医者を迎えに行ったときに、聞いた。シロはエナをたった一人で見取ったんだって。一ヶ月前」
「そう……」
じゃあどうして、幸せだなんて答えたの、シロ?
悲しみはとっくにあなたを覆っていたというのに。
そして僕はどうしてそれに気づくこともせず、彼を最後まで傷つけたの?
彼と自分は似てるって、そう思っていたからこそ慕ってもいたし嫌ってもいた。
なのに彼と僕はちっとも似てなかったじゃないか。彼は僕のことをわかってたのに、僕は彼のことを理解することもなく。ただ傷つけて。
僕は何一つわかろうともせずに、最後まで……。
――ゴーンッ ゴーンッ ゴーンッ
重くて悲しい鐘の音が、町に染み渡る。
埋葬は晴れた高い空の下、僕とトキだけ。
神父さんが貸してくれたスコップで、少しずつ土をかける。片手しか使えない僕に、トキは手を貸してくれた。 でもそのトキの背中で、添え木を当てられた羽が小刻みに震えている。
一枚、二枚、羽がそのたびに抜け落ちた。
不安が、胸をよぎる。彼まで、羽を失いそうな。そして僕から遠ざかってしまうような。言い様のない不安に、僕はだんだん満たされる。
「オレ、シロと毎日話してたんだ」
懺悔をするように、彼は土をかける手を休めずにポツリと呟いた。
「シアが知ったら怒ると思ったから、内緒にしてた」
「トキもシロのこと、好きだったの?」
「……お前のこと、聞いてた。昔はあんなにシロに懐いてたのに、今は無理に嫌ってるように見えたから、心配で」
やっぱりトキは、繊細で優しい。だけど、お節介だ。
「ふうん。シロ、何か言ってた?」
「幸せになりたかったって」
「そう」
幸せに、なったんじゃなかったの?
僕には幸せだって言ったよね、シロ?
なのに僕にはシロの、幸せだと言ったときの辛そうな表情しか、思い出せない。
「ここに残れば、ずっと幸せだと思ってたって。それまでと同じように、幸せな毎日が過ごせるって。でも、違った」
僕は、口を挟めない。トキは土をかける手を休めない。
「シロが言ってた。羽を引きちぎった本当の理由は、ただこの生活を続けたかったからなんだって。二人だけで幸せになりたかったんじゃなくて、シアや、他の子供たちがいるここを出て行くのが嫌で、ずっと皆で仲良く暮らしたかったからだって」
なんて勝手な言い分。誰だって変わっていかなきゃいけない、生活していかなきゃいけないのに、二人だけがその変化を止めてここに留まることなんて、許されるはずも無いのに。
「だけど羽を引きちぎってまでここに残っても、あるのはいつ来るかわからない終わりへの不安。恐れ。そして、変化した環境が、何より辛かったって」
死ぬことを、もちろん二人は知っていた。それが怖いのは当たり前だ。
「二人は、もう羽根を持たない。でも大人にもなれなくて。羽を持つ子どもを見て、羨ましさと憎しみを感じた。もう決して、その中には戻れないってわかったからさ。
なんで自分たちがこんなに苦しまなければいけないのか、すごく悔やんだって。
もう戻れない楽園が、目の前にずっとある。そこから抜け出せない苦しみを、エナと二人でずっと感じていなきゃいけなかった。
それに……」
言葉を切ったトキの瞳が、迷ったまま僕を見る。
「僕のこと? いいよ、話して」
「シアに申し訳なかったって。どうしてシアが怒ってるのかがわかるから、謝ることも出来なかった。それだけが、心残りで」
いや、僕の怒りを二人が理解するはずがない。
だって僕の怒りは、僕のものだから。僕の中に渦巻く汚いものだから、二人が理解するはずなんてない。
おいて行かれた悲しみを。仲間はずれにされた寂しさを。言葉にすればこんなにチープなこの怒りを、慰めてほしくなんかない。謝ってほしくなんかない。
「本当は自分とは似てないシアを、似てる似てると思い込んでたのはシロの方なんだって。そのせいで、シアを自分と同じ所まで落としてしまうとこだった。
でも、シアが自分のようになっちゃいけないって、羽をなくして初めて思えた。 だから自分の代わりに謝ってほしいって。自分はもうシアに謝る機会を与えてもらえないだろうから、自分が死んだらシアに謝ってほしいって。
自分に似てると言い続けて、シアの心を閉ざさせてしまって、ごめん。だから俺のようにだけは、なるなって」
――だから君は、俺のようにはなるなよ。
シロの声が、不意によみがえる。悲しい瞳で、だけど強い意志で、あなたは笑いもせずにそう言った。
気がつけば、僕はあの部屋に閉じこもっていた。スコップを投げ出して、走って寮に戻って、アトリエに鍵をかけて。
不意に沸き起こる感情の本流が僕の中で渦巻いて僕を全て染め上げてしまう。
誰の話す声も耳に入らない。トキの声さえも、僕の心を捕まえられない。
だって、シロは死んでしまったのだから。
シロに似ているといわれて嬉しかった幼い僕。
シロとエナと一緒にいるのが、何よりも幸せで。
シロが優しくないのを知っていて、それでも優しく振舞おうとしていたのを知っていた。僕も優しくないから、シロのように優しくあろうと真似をした。
似てないのは僕の方だ、シロ!
優しく振舞おうとしていた本当のあなたの優しさに、気づかなかった。辛さや苦しみを抱えて、それでも幸せを探していたあなたを、責め立てた。
あなたは僕のことを心配してくれたのに。
僕はあなたに伝えたいことがたくさんあるのに、もう全てが手遅れなんだね、シロ!
謝りたいんだ、シロ!
僕はあなたに謝らなきゃいけないんだ!
でも、もう伝わらないね。どんな言葉も、あなたには届かないね。
僕は、筆を取った。
描きかけの天使の絵。
天使は、純真無垢じゃなくていい。悩み、苦しみ、辛さを知って、それでも幸せを求める姿を。空へ、空へと羽を伸ばす姿を。
僕は描くよ。
もう届かない気持ちを、言葉を、僕はこれでしか表せないから。
あなたの笑顔を覚えていない僕だけど、あなたがどうやって笑っていたかは知っている。
僕は一心不乱に、絵を描き続けた。
パレットを持てない左手は、そのままギプスの上に色を乗せてパレット代わりに。寝るのは絵を乾燥させるときだけ。アトリエに毛布だけを持ち込んで、床で寝た。
生活のほとんどを僕は捨てて、ただ絵を描く。この情熱の本流が枯れないうちに。僕の理性が落ち着かないうちに。僕は、僕は……。
久しぶりにベッドで寝たときには、もう何日経っていたかわからなかった。
油まみれで出てきた僕を、友達は心配そうに見つめていたけど、僕は言葉を交わす元気すらなく、ただ部屋に戻ってシャワーを浴びてベッドに突っ伏した。
柔らかくて温かいベッドの感触に、僕はすぐに意識を失う。
だけど深夜に目が覚めたのは、不安が胸をよぎったからとしか言いようがない。
違和感があったのだ。
トキが、いない。
アトリエにこもって最初の数日、声をかけ続けてくれたトキがいない。
僕があまりにも反応しなかったから怒ってるんだろうと思ってたけど、だから僕と会わないようにしているんだろうとしか思えなかったけど、でもどこかで心に引っかかる。
トキは、そんな奴じゃない。言いたいことがあれば、真っ先に正面から堂々と言うはず。
僕は起き上がって、隣の空のベッドを見つめた。
窓から青白い月明かりが入ってきて、そして僕は見てはいけないものを、発見した。
ベッドの下にある、白いものを。
恐る恐る引っ張り出してみると、それは落ちた羽だった。骨の根の方が折れている。
シロをつれてくるときに折れた、トキの右羽。
――右が落ちれば、女の子。
僕は、すぐに奥の部屋に続くドアを開けた。トキがいるとしたら、そこしかなかったから。
あのトキの右の羽が落ちたなんて寮生に知られたら、噂にならないはずがないし、誰かが必ず僕に言っただろうから。何も聞かなかったってことは、トキが皆から隠れてるとしか思えなくて。
だとしたら、いるのはここだ。物置代わりの小さな部屋。
僕はまた、大切な人を失うかも知れない。何も伝えられず、何も分かり合えないまま。そんなのは、もう嫌だ!
ドアは鍵もかかっていなくて、すんなりと開いて。
目に飛び込んできたのは、おびただしい数の羽、羽、羽。
紅い血にまみれながらもその白さを強調する、羽。
鋭いはさみを手に、血塗られた羽で、力なく笑うトキ。何も纏わない上半身で、その背中と羽の付け根に走る、赤い糸。いや、鋭く肉を抉った、痕。
「手がさ、後ろまでちゃんと届かねぇんだよ。だから下の方ばっかり切って、肝心の骨が背中から外れてくれねぇんだ」
ガサッ、ガサッ、と僕に踏まれた羽が悲鳴をあげる。もうトキにはまともな羽なんて一枚も残ってなくて、途中で切れているか、血にまみれているか、抜かれているか。
僕はトキを抱きしめた。
「どうして羽を落とそうとするの?」
「女にならないためだよ」
かすれた声で、トキが答える。
「シロの最期を見たのに? それでも、羽を落とそうとするの? 2年しか生きられないってわかってても」
ビクッと、トキのからだが震えた。
「でも、駄目なんだよ。オレは女じゃ駄目なんだよ。2年間……、2年間いられるならそれでいい。女になんかなりたくないんだよ!」
「女でも男でも、トキはトキだよ。どうしてそれじゃ、駄目なの?」
カラン、とはさみが床に落ちる。僕はトキを抱く腕に力を入れた。
「だって女になったら、お前を守れないだろ!」
搾り出すような涙声で、トキがそう言った。
「オレはおまえが好きなのに、俺が女になったらおまえを守れないし、お前と一緒にはいられない! 同性じゃ、結婚も出来ないし、好きでいる事だって認められないんだろ。だったら2年間だけでも、今までどおりおまえと暮らしたかったんだよ」
僕はトキの体を自分から引き離す。
そうして真正面からトキの顔を見た。弱く、打ちひしがれた少女が、そこにはいた。
「そんなものなの?」
僕の声は、月の光よりもはさみよりも鋭く、トキに突き刺さる。
「トキの想いはそんなものなの!? 男とか、女とか、そんなものに左右されるような、そんなに軽いものなの!? たった2年間で満足できる、その程度のものなの!?」
僕は、残された右腕で時の頭を支えたまま、彼に口付けた。
柔らかい感触が、一瞬だけ。
「僕はトキが好きだよ。男でも女でもトキが好きだよ。それじゃ駄目? だって性別があったって、羽が無くたって、僕は僕だもの。僕がトキを好きなのは、変わらないんだよ? 一生トキと一緒にいたい。そばにいてほしい。性別なんか関係ない。だって僕が好きなのは、トキだから」
「だって、男じゃなきゃ守れない。シアを守る存在でいたかったのに!」
「力があるだけが守ることにはならないだろ?
僕が羽を落とさなかったのは、トキがいたからだ。いつも元気で笑ってるトキが隣にいたから、僕は僕でいられたんだよ。
お願い、トキ。
僕の前からいなくならないで。
愛してるんだ、トキ。
トキじゃなきゃ、嫌なんだ。
トキがいなくなるかもしれないって事が、怖いんだ。
僕のそばにいて、トキ、お願いだから、トキ」
僕はもう一度、トキの目をしっかり見て確認してからゆっくりと口付けた。トキは、恐る恐る僕の背に手を伸ばして、そしてしっかりと抱きしめて。
僕たちは固く抱き合いながら、何度も何度もキスをした。
「絶対に開かないって感じだろ」
僕が金槌を持つ手を休めて振り返れば、トキが呆れ顔でそこに立っていた。羽はすっかり元に戻ってきれいなままで、僕の左腕も少し痩せたけれども元通りにちゃんと動く。
あれから、何も変わらない日常が続いている。いや、ちょっとだけ、トキが自分のことを私って言うようになったとか、よく頬を染めるようになったとか、胸が出てきたとか、そういう変化はあるけれど、基本的な僕達の生活は何も変わらない。
そんな日常の中で、僕は一枚の絵を描き上げて、そしてアトリエのドアを打ち付けて塞いだ。
「そりゃ、絶対に開かないだろうけどさぁ。台風の前じゃないんだから」
僕もドアを見直して、言われれば確かに台風の前みたいだと納得する。大きな板で左右を何枚も何枚も釘で打ち込んで封印してしまったドア。
開かずの、僕のアトリエ。
「よかったのか? あの絵、本当にすごいのに」
「いいんだよ。ここは天使の墓。僕の幼さを埋葬してるところだから」
部屋の中にはイーゼルが、一つ。そこにあるキャンバスには、大きな羽を持つシロの肖像。
優しく微笑んでるシロじゃない。もっと強く、激しく、憂いを秘めながらも幸せを探す、シロの横顔。
大きな羽で、空を夢見る。僕から見た、シロの姿。
それだけが部屋にある。そのドアを、僕は封印した。
思い出は過去に。
それは振り返るものではなく、ただ僕が歩いてきた軌跡。
そして僕の過ちの確かな証拠。
だけれども温かい、楽園の記憶。
「シロのこと、好きだった?」
トキが複雑な表情のまま尋ねてくる。最近の彼女は、前ほど単純じゃなくなった。いや、単純なフリをしなくなった。そこが、イイ。
「好きだったよ。トキも好きだったろ、シロのこと」
「そういうのじゃなくて……」
「愛してたかって?」
トキが頬を染める。まだまだうぶな彼女のそういうしぐさは、可愛い。伸びかけの髪の毛と、丸みを帯びた体つきが、余計にトキをいとしく見せる。
僕は抱きつきたくなる衝動を我慢して、でもまだ少し震える心が怖くて、トキの手を掴んだ。
「最初は、僕も愛してるって思ってた。でも違ったんだ。やっぱり僕とシロはよく似てたと思う。だから、一緒にいたいと思ったし、あこがれてたし、嫌ってた。兄さんみたいな人だったよ。だから好きだけど、愛してるわけじゃない」
だから僕は、シロへの感情をアトリエに閉じ込める。
「さ、行こうトキ! 一緒に!!」
手をつないだまま、僕達は歩き出した。遠くで鐘が鳴っていた。
●《 受賞コメント 》
これは「女王の島」とは別の意味でものすごくグロッキーになりながら書きました。
というのも、草稿が出来てからの手直しが、今までで一番時間がかかった作品だったので。
もともと一人称は苦手で、ライトノベルも書けなくて、どうして今回こんな作品を書いたのか、本人でさえ不思議なんです。ただ、書き始めたらもう進む、進む。おかげでろくに構成もなく、勢いに任せて書いてしまいました。
某所でこの作品の感想を募ったところ、もうこれが面白いほどに賛否両論。
昔から私の作品を読んでくださっているネットのお友達には比較的否定派が多いんですよ。
一方でリアル友達の中には泣いてくれた人もいたり、今まで私の作品を読んだ事の無い方には気に入っていただいたり。
作者としてこれほど困惑した作品もありません。
良いところも悪いところも、ある程度冷静に把握してるつもりなのですが、頂く感想がその幅を越して賛否極端なものですから。
でもこの作品は私にとっては「醜いアヒルの子」のような存在です。
今はまだまだだけど、磨けば自分の作品の中では一番飛躍しそうな感触があるんです。……なんて、書いてる自分が恥ずかしい。
この作品は、読んだ方から元ネタ指摘をいくつか受けまして、自分も某所で書いているのですが、「トーマの心臓」のセンチメンタリズムと「灰羽連盟」の切なさ、「晴天なり。」の思春期もどかしさをイメージして書きました。
でもね、誰も指摘してくれなかったのでばらす機会を失ってたのですが、実は一番根底でイメージしてたのは「蒼穹のファフナー」です。
あんなに「楽園」って言葉を多用したのに、気づいてもらえず……。
さすがに「あなたはそこにいますか」は作中で使わなかったですが、でも一番イメージしてたのは「蒼穹のファフナー」なんですよ。あの、思春期の傲慢さとか、すれ違いとか、切なさとか、儚さとか。
この作品を書く時のBGMはangelaの「果て無きモノローグ」でした。エンドレスでがんがんかけてました。
おかげで欝っぽい。
ちなみに、このお話は後日談があります。
もうちょっと大人になって、楽園を去った後の二人のお話です。
機会があれば、サイトの方で公開したいと思います。
この作品を気に入ってくださった皆様、どうもありがとうございました。
これからもいい作品を書けるように、精進してまいります。
《言の葉砂漠 宇津木》
2004.08.05 21:04 | ――― |
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《 ☆☆☆☆☆ ☆☆ 星七つ作品 》
Mystery Circle Vol.20掲載
◎何故、ぼくが、再び書きはじめたのか。
『綴り人の思想』
著者:望月来羅
何故、私が、再び書きはじめたのか。
それは、世界を広げたくなったからに他ならない。
今、私の目の前の机には何も記していない一枚の白紙があり、その周りを膨大な量の原稿用紙の束がまるでビル群のようにそびえ立っている。
手元を見ればペンダコの出来た掌に愛用の万年筆が握られ、僅かに拉げたペン先と、すっかり黒ずんでしまったグリップ部分が使ってきた年月を物語っている。
(これもそろそろ代え時ですかねぇ)
ふと思う。
もう十数年もの間、グリップもペン先も騙し騙し使ってきた。常に側にいたこのペンは、単なる無機物ではなく、長年共に歩んできた戦友のような気持ちだ。柄の部分の、買った時に掘ってもらった『萩野』の苗字はすっかり磨り減り、今では薄い線を残すのみとなっている。
――コンコン
「先生?お茶が入りましたけど」
日本人ならではのノックと共に背後の扉が開き、肩ほどの長さの綺麗な黒髪が印象的な女性が入ってきた。目を引くような美貌というわけではなく、優しげな顔立ちの女性だった。
手には湯呑みの乗せられたお盆を抱えもち、淡い茶色のスーツに身を包んでいる。
いつもながらの気の利きように口元を緩めながら、立ち上がって彼女からお盆を受け取った。
「清水さん、いつもすみませんね。ちなみに今日のお茶は?」
「先生の好きな梅昆布茶です。ほうじ茶と迷いましたが」
「いやぁ、梅昆布茶で嬉しいです。ありがとうございます」
「いえ…小説の方はどうですか? 進み具合」
足の踏み場も無いほど紙で埋め尽くされた原稿用紙の部屋で、彼女は視線を机の上に向けた。モダンな形の机だが、今は上も回りも紙の束に占領されて見る影も無く、唯一のスペースはたった一枚の白紙と万年筆が置かれている中央部分だけだ。
彼女と私は、2年ほど前から担当と作家という関係にある。気の利いた女性で、締め切り間近になるとこうして私の家に泊まりこんでは料理などをしてくれる。
まだ二十代の後半と若いのに、その落ち着きぶりと気の利かせ方は、今は亡き妻を彷彿とさせた。
「ええ。丁度今考え付いたところです。そうだ、清水さん。ちょっと一緒に考えてくれませんか」
「え、私…ですか。はい」
戸惑いつつも協力してくれる彼女に笑いかけて、私は自分の作業机に取って返した。床も机も乱れに乱れた様子だが、その実この状態が一番良いのである。今更散らばった原稿用紙の束を一枚残らず棚に片付けてくれたところで、むしろどこに何があったのか分からなくなるだろう。なにしろ、この状態とも5年以上の付き合いなのだ。
座り心地の良い革張りの椅子に腰掛ける。机の上の白紙を手に取り、下の消しゴムの粕を払い落とすと、万年筆を取って彼女を呼んだ。
「ちょっと今考えていることなんですがね。今度は自伝でも書こうかと思いまして」
「自伝ですか。先生の?」
「はい。いや…正確には『自伝』ではないですね。自分の物語り、とでも言いましょうか。今までジャンルを問わず書いてきましたけど、今度は『荻野洋一』としての物語を書いてみたいんですよ」
「自分を外から見て、自分が主人公の小説、という意味ですか?」
「ええ。久しぶりの作品ですがね。そうですね、清水さん。あなたから見て小説というのは何ですか?」
足元の原稿用紙を出来るだけ踏まないようにと注意を払って歩いてきた彼女は、私の問いを聞いて小さく首を傾げた。黒髪がさらりと流れる。
「小説…ですか。知識を増やしてくれるもの…でしょうか」
「知識! 良いですね。そう。小説の原点は貪欲な知識を求める力です。誰しも持っている欲求…。ここに一枚の白紙が有るとして、私がここに何かを書く。すると、それはすでに『ゼロ』ではないんです。世界が紡がれる。分かりますか?」
「なんとなくは」
「例えば私が小説を書いたとしたら、その書かれた世界の中では私の書いた筋書きが一端の事実として広がりをみせ、この世界と隣接して広がっているんだと私は思うんです」
彼女の入れてくれた熱い梅昆布茶をズズと啜りながら、部屋の中を見渡した。8畳の部屋の、どこもかしこも文字の記された原稿用紙だらけ。この一枚一枚の中には、書いた私ですら与り知らぬ世界が広がっているはずだ。
「一時期文字を書くのに嫌気が差して筆を執るのを辞めた時期がありましたっけ…もう随分と経つんですねぇ」
幼い頃から、文章を書くことが好きだった。
新人賞を取ったのは、二十四歳の秋だった。
高校を卒業後、大学に行くことなくコンピュータ会社に就職。仕事の傍ら、自然と上達するタイピングで暇を見つけては物語を書いて、三作目の応募作品だった。嬉しくてはしゃぎ、自分の文章が認めてもらえるのだと次々と作品を綴った。ネタに困ることはなかった。脳裏に浮かぶ、ふとした言葉。他人との会話。夢での出来事。ほんの些細なことから瞬時に物語を生み出すことが出来た。
気がつくと、いくつもの賞を受賞していた。
過ぎる時間。山のようなファンレター。銀行預金に振り込まれる、莫大な印税。
だが、それも最初の十数年だけだった。
月日を重ねるごとに、仕事として文章を書くことが憂鬱になりだした。スランプに陥る。周りにもまして、一番困惑したのは自分だ。
焦れば焦るほど、文章が思いつかなくなる。あれほど楽しかったことが、ストレスになるほど嫌になっていた。
いつも契約を結んでいた、連載の仕事が手につかなくなったその年の秋に、置手紙だけを残して電車に飛び乗っていた。どこに行くとも当ては無く、最悪なことをしでかしたという自覚もあったが、そのときは八方塞がりの気分で、物書きという職業から逃れたいという思いだけで動いていた。
「あの時は驚きました…。私が第一に尊敬していた萩野さんが、まさか失踪されるなんて」
「あの時のことは…どんなに謝っても許されることではないですが。今から思うと恥ずかしい限りです。読んで下さっていた人達を裏切り…連載の契約会社さんにもとても失礼なことをしてしまいました…。一年くらい地方を旅しながら考えて、頭がすっきりしたんです。戻って方々に謝って…そしてまた、世界を広げたくなった」
「良かったです。本当に」
微笑む彼女に、ええ、と頷いて手元のペンに目を落とした。自分でも作家業を辞めなくて本当に良かったと思う。作家は、精神的な職業でもある。文を書くのは難しくは無いが、その状態を持続することが難しい。手元のペンを指だけでくるりとまわす。
「時々ね、思うんです。何かの話じゃありませんけど、書かれた物語が本当に広がっていたら、って。私達は外からそれを見ていたり…ある意味私達は創始者みたいなものでしょうか」
「『はてしない物語』みたいですね」
付き合いで飲んでいた自分の湯呑みに、急須からお茶を注ぎながら、目を和ませて彼女が言う。
彼女は自分で物語を書くことはしないが、大の本好きで博識だ。部屋に篭りがちの私が彼女から教わることは多い。ファンタジーが好きらしく、特に小さい頃はエンデの著書を愛読していたという。
おっとりした彼女は、人を否定することが無い。人から変人と言われがちの私がどんな考えを漏らしてもきちんと考えて答えてくれる。
「ああ、私もファンタジーはちょっと苦手ですが、エンデさんの作品は好きですよ。…同じことが、この世界にも言えると思いますか?清水さん」
「なにがですか?」
「私はね、時々ですがこの世界が本当にあるのか疑問を持つことがあるんですよ。そうですね。例えば…どこの国、どんな状態でも…人間が集まればなんらかの集団思想が生まれますよね。宗教であったり、いろいろな集団が。私もいつしか気がつけば『神』という単語を覚えました。絶対的存在ですね。本当にいるとしたら…さながら私達のこの世界は戯れ、『神の箱庭』と言えるのでしょうか」
「よく分かりませんが…」
「小さい頃から不思議に思ったことがあるんです。宇宙の果てはどうなっているのか、私はなぜ私なのか、とか。といっても哲学のような小難しい考えではないのですが。私達のこの世界も、誰かが最初に『エデン』の話しを作って、ソレを発端に広がった世界なのではないか…この世界の外側には、また別の世界があるのではないか…とか、そういうことを考えていると、小説を書いているときに行き詰まりを感じてしまうんですよ」
私が自分の考えを微苦笑しながら告白すると、彼女はしばらく思案顔になり、それから「私には…」と続けた。
「私には文章を書く能力はありませんけど、昔から小説家の方々には憧れていました。自分がまだ知らない世界を生み出せる、新しい知識、考え方をくれる魔法使いみたいだなと…それは今も同じです。今先生が仰ったこと、私も考えたことがあります。でも…いいんじゃないでしょうか。
たとえこの世界が誰かによって造られたものだとしても、少なくとも今ここにいる私は私です。先生も先生です。たとえこの世界が誰かの書いた物語が発端だとしても、先生は新しい物語を作ることができます。それはとても凄いことだと思います」
血色の良い顔でにこりと笑う。本当に、彼女は出来た人間だと思う。完璧な人間などいないと思うが、彼女にはどことなく母性を感じる。
最近は若者の犯罪が増えていると聞く。
滅多に外には出ない私だが、世の若者が皆彼女のような気質の持ち主であったのなら、さぞかし平和な世だろうと思う。現実的にありえないことだが。
(これはなんだか…)
自然に口元が綻んだ。
癒される、というのだろうか。胸中が暖かくなった。といっても、胸を満たす感情は決して恋愛感情ではない。なにしろ、彼女と私とでは年齢が離れすぎているし、なんとなく我が子を見やる心境だった。
当の昔に一人立ちしていった息子のことを思い出す。今頃元気で暮らしているだろうか。
「清水さんは凄いですねぇ。私には出来ない考え方です」
まだ半分ほど中身の残っている湯呑みを机の隅に置く。
キィ、と音を立てて椅子を机側に回転させると、机の上の白紙をどかし、変わりに側から原稿用紙を一枚敷いた。
すっかり黒ずんだ万年筆を手に取り、薄い線のみとなった自分の名前を軽く撫でる。
「有難うございます、清水さん。おかげで大分考えがまとまってきました」
「お役に立てたのでしたら良かったです。あ、では、失礼しますね。後でお夕食を作ってきます」
担当の彼女だが、私に『頑張ってください』と言うことは無い。これは、今まで作家生活を送り、数多くの担当と会う機会があったが、他には無かった気配りだ。書こうとしている人間にとって、時に励ましの言葉は重荷にもなりかねない。彼女のこういうところにも救われる。彼女の気配が頭を下げたことを伝え、静かな衣擦れの音とともに部屋の外へと出て行った。
原稿用紙の右上、一番始めのマスに、小さく丸を書く。これには特に意味は無い。癖とでも言おうか。
この部屋に詰め込まれている小説の出だしの文には、どの物語にも最初のマスに小さな丸が付いている。ジンクスみたいなもので、なんとなく出だしの筆の滑りが良くなるのだ。
ペンを指先で回す。なんなく、先ほどの会話を脳内で反芻していた。昔、何かの本で、興味深い文章を読んだ気がする。
「『私達は、兎の毛の先に捕まっているようなものだ。そして、自分ではそのことに気がつかない。』…でしたっけ。」
正しく、今の私の脳内を正確に表せる文だ。
机の端から湯呑みを取り、少しだけ冷めてしまった梅昆布茶を冷ますことなく一気に飲み干した。
文章が頭の中でまとまっていく。文章がこぼれない様に、忘れないように。小さな丸の下のマスから右上がりの癖字で一気に書き出した。
世界を広げる。
私の作った世界の中では私が創造主であり、全ての始まりだ。だが、一旦私が筆を止めると、後はその世界が自在に広がっていく。
きっと物語の中の『彼ら』は私が書いた世界が世界の発端であり、その外側に幾つもの世界が隣接しているなんて考えもしないのだろう。
世界を綴り、広げる。なんて素晴らしい職業なのだろう。
さぁ、物語を謳おうじゃないか!
今またこの手で、幕を開けよう。
●《 受賞コメント 》
こんばんは。
今年もそろそろ終わりとなりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか…。
この作品を書いたときの感想など、といわれてコメントを考えているのですが…なにぶん過去のことであまり覚えておりません(汗
ですがこれは、今までの作品と違って自分の内の話を書いてみようと思って書いたもの、だった気がします。
盛り上がる場面もなく、ただ単調な日常風景を綴っていく…。
小道具として梅昆布茶なんぞを出してみましたが、この話は、熱い梅昆布茶がほんの少しだけ冷めるまでの、短い時間での話です。
一人称で人物像をぼかした視点人物を入れることで、私が普段考えていることを彼を通して誰かに聞いてもらえたら、と思ったのです。
ですから、他の作品ではなく、この作品がどなたかの心に残ったのであれば、それが一番嬉しいです。
ありがとうございました!
来年が、皆様にとって良いお年となるように願っております。
《Kaleidoscope―万華鏡― 望月来羅》
Mystery Circle Vol.20掲載
◎何故、ぼくが、再び書きはじめたのか。
『綴り人の思想』
著者:望月来羅
何故、私が、再び書きはじめたのか。
それは、世界を広げたくなったからに他ならない。
今、私の目の前の机には何も記していない一枚の白紙があり、その周りを膨大な量の原稿用紙の束がまるでビル群のようにそびえ立っている。
手元を見ればペンダコの出来た掌に愛用の万年筆が握られ、僅かに拉げたペン先と、すっかり黒ずんでしまったグリップ部分が使ってきた年月を物語っている。
(これもそろそろ代え時ですかねぇ)
ふと思う。
もう十数年もの間、グリップもペン先も騙し騙し使ってきた。常に側にいたこのペンは、単なる無機物ではなく、長年共に歩んできた戦友のような気持ちだ。柄の部分の、買った時に掘ってもらった『萩野』の苗字はすっかり磨り減り、今では薄い線を残すのみとなっている。
――コンコン
「先生?お茶が入りましたけど」
日本人ならではのノックと共に背後の扉が開き、肩ほどの長さの綺麗な黒髪が印象的な女性が入ってきた。目を引くような美貌というわけではなく、優しげな顔立ちの女性だった。
手には湯呑みの乗せられたお盆を抱えもち、淡い茶色のスーツに身を包んでいる。
いつもながらの気の利きように口元を緩めながら、立ち上がって彼女からお盆を受け取った。
「清水さん、いつもすみませんね。ちなみに今日のお茶は?」
「先生の好きな梅昆布茶です。ほうじ茶と迷いましたが」
「いやぁ、梅昆布茶で嬉しいです。ありがとうございます」
「いえ…小説の方はどうですか? 進み具合」
足の踏み場も無いほど紙で埋め尽くされた原稿用紙の部屋で、彼女は視線を机の上に向けた。モダンな形の机だが、今は上も回りも紙の束に占領されて見る影も無く、唯一のスペースはたった一枚の白紙と万年筆が置かれている中央部分だけだ。
彼女と私は、2年ほど前から担当と作家という関係にある。気の利いた女性で、締め切り間近になるとこうして私の家に泊まりこんでは料理などをしてくれる。
まだ二十代の後半と若いのに、その落ち着きぶりと気の利かせ方は、今は亡き妻を彷彿とさせた。
「ええ。丁度今考え付いたところです。そうだ、清水さん。ちょっと一緒に考えてくれませんか」
「え、私…ですか。はい」
戸惑いつつも協力してくれる彼女に笑いかけて、私は自分の作業机に取って返した。床も机も乱れに乱れた様子だが、その実この状態が一番良いのである。今更散らばった原稿用紙の束を一枚残らず棚に片付けてくれたところで、むしろどこに何があったのか分からなくなるだろう。なにしろ、この状態とも5年以上の付き合いなのだ。
座り心地の良い革張りの椅子に腰掛ける。机の上の白紙を手に取り、下の消しゴムの粕を払い落とすと、万年筆を取って彼女を呼んだ。
「ちょっと今考えていることなんですがね。今度は自伝でも書こうかと思いまして」
「自伝ですか。先生の?」
「はい。いや…正確には『自伝』ではないですね。自分の物語り、とでも言いましょうか。今までジャンルを問わず書いてきましたけど、今度は『荻野洋一』としての物語を書いてみたいんですよ」
「自分を外から見て、自分が主人公の小説、という意味ですか?」
「ええ。久しぶりの作品ですがね。そうですね、清水さん。あなたから見て小説というのは何ですか?」
足元の原稿用紙を出来るだけ踏まないようにと注意を払って歩いてきた彼女は、私の問いを聞いて小さく首を傾げた。黒髪がさらりと流れる。
「小説…ですか。知識を増やしてくれるもの…でしょうか」
「知識! 良いですね。そう。小説の原点は貪欲な知識を求める力です。誰しも持っている欲求…。ここに一枚の白紙が有るとして、私がここに何かを書く。すると、それはすでに『ゼロ』ではないんです。世界が紡がれる。分かりますか?」
「なんとなくは」
「例えば私が小説を書いたとしたら、その書かれた世界の中では私の書いた筋書きが一端の事実として広がりをみせ、この世界と隣接して広がっているんだと私は思うんです」
彼女の入れてくれた熱い梅昆布茶をズズと啜りながら、部屋の中を見渡した。8畳の部屋の、どこもかしこも文字の記された原稿用紙だらけ。この一枚一枚の中には、書いた私ですら与り知らぬ世界が広がっているはずだ。
「一時期文字を書くのに嫌気が差して筆を執るのを辞めた時期がありましたっけ…もう随分と経つんですねぇ」
幼い頃から、文章を書くことが好きだった。
新人賞を取ったのは、二十四歳の秋だった。
高校を卒業後、大学に行くことなくコンピュータ会社に就職。仕事の傍ら、自然と上達するタイピングで暇を見つけては物語を書いて、三作目の応募作品だった。嬉しくてはしゃぎ、自分の文章が認めてもらえるのだと次々と作品を綴った。ネタに困ることはなかった。脳裏に浮かぶ、ふとした言葉。他人との会話。夢での出来事。ほんの些細なことから瞬時に物語を生み出すことが出来た。
気がつくと、いくつもの賞を受賞していた。
過ぎる時間。山のようなファンレター。銀行預金に振り込まれる、莫大な印税。
だが、それも最初の十数年だけだった。
月日を重ねるごとに、仕事として文章を書くことが憂鬱になりだした。スランプに陥る。周りにもまして、一番困惑したのは自分だ。
焦れば焦るほど、文章が思いつかなくなる。あれほど楽しかったことが、ストレスになるほど嫌になっていた。
いつも契約を結んでいた、連載の仕事が手につかなくなったその年の秋に、置手紙だけを残して電車に飛び乗っていた。どこに行くとも当ては無く、最悪なことをしでかしたという自覚もあったが、そのときは八方塞がりの気分で、物書きという職業から逃れたいという思いだけで動いていた。
「あの時は驚きました…。私が第一に尊敬していた萩野さんが、まさか失踪されるなんて」
「あの時のことは…どんなに謝っても許されることではないですが。今から思うと恥ずかしい限りです。読んで下さっていた人達を裏切り…連載の契約会社さんにもとても失礼なことをしてしまいました…。一年くらい地方を旅しながら考えて、頭がすっきりしたんです。戻って方々に謝って…そしてまた、世界を広げたくなった」
「良かったです。本当に」
微笑む彼女に、ええ、と頷いて手元のペンに目を落とした。自分でも作家業を辞めなくて本当に良かったと思う。作家は、精神的な職業でもある。文を書くのは難しくは無いが、その状態を持続することが難しい。手元のペンを指だけでくるりとまわす。
「時々ね、思うんです。何かの話じゃありませんけど、書かれた物語が本当に広がっていたら、って。私達は外からそれを見ていたり…ある意味私達は創始者みたいなものでしょうか」
「『はてしない物語』みたいですね」
付き合いで飲んでいた自分の湯呑みに、急須からお茶を注ぎながら、目を和ませて彼女が言う。
彼女は自分で物語を書くことはしないが、大の本好きで博識だ。部屋に篭りがちの私が彼女から教わることは多い。ファンタジーが好きらしく、特に小さい頃はエンデの著書を愛読していたという。
おっとりした彼女は、人を否定することが無い。人から変人と言われがちの私がどんな考えを漏らしてもきちんと考えて答えてくれる。
「ああ、私もファンタジーはちょっと苦手ですが、エンデさんの作品は好きですよ。…同じことが、この世界にも言えると思いますか?清水さん」
「なにがですか?」
「私はね、時々ですがこの世界が本当にあるのか疑問を持つことがあるんですよ。そうですね。例えば…どこの国、どんな状態でも…人間が集まればなんらかの集団思想が生まれますよね。宗教であったり、いろいろな集団が。私もいつしか気がつけば『神』という単語を覚えました。絶対的存在ですね。本当にいるとしたら…さながら私達のこの世界は戯れ、『神の箱庭』と言えるのでしょうか」
「よく分かりませんが…」
「小さい頃から不思議に思ったことがあるんです。宇宙の果てはどうなっているのか、私はなぜ私なのか、とか。といっても哲学のような小難しい考えではないのですが。私達のこの世界も、誰かが最初に『エデン』の話しを作って、ソレを発端に広がった世界なのではないか…この世界の外側には、また別の世界があるのではないか…とか、そういうことを考えていると、小説を書いているときに行き詰まりを感じてしまうんですよ」
私が自分の考えを微苦笑しながら告白すると、彼女はしばらく思案顔になり、それから「私には…」と続けた。
「私には文章を書く能力はありませんけど、昔から小説家の方々には憧れていました。自分がまだ知らない世界を生み出せる、新しい知識、考え方をくれる魔法使いみたいだなと…それは今も同じです。今先生が仰ったこと、私も考えたことがあります。でも…いいんじゃないでしょうか。
たとえこの世界が誰かによって造られたものだとしても、少なくとも今ここにいる私は私です。先生も先生です。たとえこの世界が誰かの書いた物語が発端だとしても、先生は新しい物語を作ることができます。それはとても凄いことだと思います」
血色の良い顔でにこりと笑う。本当に、彼女は出来た人間だと思う。完璧な人間などいないと思うが、彼女にはどことなく母性を感じる。
最近は若者の犯罪が増えていると聞く。
滅多に外には出ない私だが、世の若者が皆彼女のような気質の持ち主であったのなら、さぞかし平和な世だろうと思う。現実的にありえないことだが。
(これはなんだか…)
自然に口元が綻んだ。
癒される、というのだろうか。胸中が暖かくなった。といっても、胸を満たす感情は決して恋愛感情ではない。なにしろ、彼女と私とでは年齢が離れすぎているし、なんとなく我が子を見やる心境だった。
当の昔に一人立ちしていった息子のことを思い出す。今頃元気で暮らしているだろうか。
「清水さんは凄いですねぇ。私には出来ない考え方です」
まだ半分ほど中身の残っている湯呑みを机の隅に置く。
キィ、と音を立てて椅子を机側に回転させると、机の上の白紙をどかし、変わりに側から原稿用紙を一枚敷いた。
すっかり黒ずんだ万年筆を手に取り、薄い線のみとなった自分の名前を軽く撫でる。
「有難うございます、清水さん。おかげで大分考えがまとまってきました」
「お役に立てたのでしたら良かったです。あ、では、失礼しますね。後でお夕食を作ってきます」
担当の彼女だが、私に『頑張ってください』と言うことは無い。これは、今まで作家生活を送り、数多くの担当と会う機会があったが、他には無かった気配りだ。書こうとしている人間にとって、時に励ましの言葉は重荷にもなりかねない。彼女のこういうところにも救われる。彼女の気配が頭を下げたことを伝え、静かな衣擦れの音とともに部屋の外へと出て行った。
原稿用紙の右上、一番始めのマスに、小さく丸を書く。これには特に意味は無い。癖とでも言おうか。
この部屋に詰め込まれている小説の出だしの文には、どの物語にも最初のマスに小さな丸が付いている。ジンクスみたいなもので、なんとなく出だしの筆の滑りが良くなるのだ。
ペンを指先で回す。なんなく、先ほどの会話を脳内で反芻していた。昔、何かの本で、興味深い文章を読んだ気がする。
「『私達は、兎の毛の先に捕まっているようなものだ。そして、自分ではそのことに気がつかない。』…でしたっけ。」
正しく、今の私の脳内を正確に表せる文だ。
机の端から湯呑みを取り、少しだけ冷めてしまった梅昆布茶を冷ますことなく一気に飲み干した。
文章が頭の中でまとまっていく。文章がこぼれない様に、忘れないように。小さな丸の下のマスから右上がりの癖字で一気に書き出した。
世界を広げる。
私の作った世界の中では私が創造主であり、全ての始まりだ。だが、一旦私が筆を止めると、後はその世界が自在に広がっていく。
きっと物語の中の『彼ら』は私が書いた世界が世界の発端であり、その外側に幾つもの世界が隣接しているなんて考えもしないのだろう。
世界を綴り、広げる。なんて素晴らしい職業なのだろう。
さぁ、物語を謳おうじゃないか!
今またこの手で、幕を開けよう。
●《 受賞コメント 》
こんばんは。
今年もそろそろ終わりとなりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか…。
この作品を書いたときの感想など、といわれてコメントを考えているのですが…なにぶん過去のことであまり覚えておりません(汗
ですがこれは、今までの作品と違って自分の内の話を書いてみようと思って書いたもの、だった気がします。
盛り上がる場面もなく、ただ単調な日常風景を綴っていく…。
小道具として梅昆布茶なんぞを出してみましたが、この話は、熱い梅昆布茶がほんの少しだけ冷めるまでの、短い時間での話です。
一人称で人物像をぼかした視点人物を入れることで、私が普段考えていることを彼を通して誰かに聞いてもらえたら、と思ったのです。
ですから、他の作品ではなく、この作品がどなたかの心に残ったのであれば、それが一番嬉しいです。
ありがとうございました!
来年が、皆様にとって良いお年となるように願っております。
《Kaleidoscope―万華鏡― 望月来羅》
2004.08.05 21:02 | ――― |
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《 ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆ 星九つ作品 》
Mystery Circle Vol.22掲載
◎それは何の飾りも文字もない、ただの真っ白い封筒だった。
『淡色憧憬〜あわいろどうけい』
著者:幸坂かゆり
それは何の飾りも文字もない、ただの真っ白い封筒だった。
まだ四月だというのに、蒸し暑いその日。まだ陽も落ちていないのに、早々と届けられた夕刊を取りに玄関に出た久子が、郵便受けを見ると、それが入っていた。思わず、息が止まりそうになる。久子は急いで封筒を郵便受けから取り出すと、小走りで家の中に戻った。心を落ち着けるべく、深呼吸をしてから、封に手をかける。昼間の気温のせいで、紙は温まっていた。まるであの日のあの人の体のように。宛名も何も書いていないということは、あの人がここに直接、持ってきたのだ。一体、いつ来たのだろう。私は昼間ずっと庭にいたというのに。薄く糊付けされた封は、容易に剥がす事ができた。案の定、便箋らしきものは入っていない。久子の胸に、懐かしく甘酸っぱい想いが込みあげてくる。
あれは夏の日。今日のように蒸し暑い、こんな日だった。
その人は、久子よりもずっと年下で、久子の家の裏に住んでいた。そこはたかが一軒家、と呼んでしまうには、もったいないくらいの、お金持ちの屋敷にふさわしい、美しい洋館だった。品のあるご両親。かわいい犬。あの家では毎日夫婦で犬の散歩をしていた。その一人息子が、その人だった。しつけの行き届いた、かわいい背の高いお坊ちゃん。
久子はその頃、現在の夫、浩市と同棲生活を送っていた。共に仕事をしていたが、久子は派遣会社に登録していたので毎日仕事があるとは限らず、そんな日は、家の仕事や庭の手入れに勤しんでいた。浩市もそのことは承知で、関係には何の支障もなかった。ただ、久子は近所づきあいが苦手だった。
いつ、ご結婚なさるの。
お子さんをお作りにならないの。
派遣なんて、夜の商売ではないの。
お上品な見かけとは裏腹に、心に土足で踏み込む貧乏くさい質問を投げかける、近所のマダムとやらには、関わりたくなかったのだ。けれど、長靴を履いて、軍手をはめ、土と戯れる庭仕事が好きなので、最初はなるべく気にしないようにして庭に出ていたが、その内、マダム達の、どことなく久子に同情しているような、それでいて、見下しているような、そんな目に出会うのが嫌になり、表の庭を諦め、裏庭の方をそっといじり始めた。陽の当たらないその場所は、夏だというのにひんやりとして、久子の心も落ち着いた。
ある日、草むしりをしていると、裏庭の柵から誰かがこちらを見ていた。久子は顔を上げた。それは裏手のお屋敷の息子、和人だった。和人だけは、久子のことを「久ちゃん、久ちゃん」と言って、慕っていた。高級車やバイクの類を何台も親の金で所有し、超一流と言われるような、有名大学に通っている。
けれど、和人には、純粋に人を見る眼差しがあった。わからないものは素直に訊き、至らぬことで久子に注意を受けても、消化させることのできる人間だった。なので、久子は彼だけには心を開いていた。
「あんた、学校は?」
「今日は休んだ。だるかったから、なんて言ったらまた久ちゃんに説教されそうだけど、風邪気味で本当にだるくて休んだ」
「寝てなくていいの?」
「充分寝かされたもん。親がしょっちゅう熱計りに来てさ。面倒くさくて久ちゃんを見に来た」
なんて理由だ。私は動物園の中の生きものか。
「久ちゃんって、なんで裏にばっかりいるの?」
「表だと、面倒くさいの。あんたと同じ理由」
「何が面倒くさいの?そんなに表の庭、広くないじゃん」
悪かったね。このぼんぼんが、とは思わない。彼は本当に疑問に思っているだけなのだ。
「庭の手入れのことじゃなくて。あたし、近所の奥さん連中苦手なのよ。あんまり聞いて欲しくないことばっかり聞いてくるから」
「ふうん。オレは?」
「あんたは余計なこと、聞いて来ないじゃない」
「じゃ、オレは久ちゃんの中では上位なんだね」
何が上位の基準かわからないが、何となく納得したので頷いた。和人は嬉しそうに、はにかんだ顔をした。こんな所が素直でかわいいな、と久子は思うのだ。
「うわ、でっかいミミズがいる!久ちゃん、殺虫剤とか撒かないの?」
「こんなミミズなんて、大したことないじゃない」
ほら、と久子はミミズを軍手の上から持ち上げて、和人の側に持ってきた。ミミズは、うにょうにょとその細い体を動かした。
「やめてくれよー!オレ、虫は苦手なんだよー!」
和人が大きな声で怖がるので、久子は楽しくてしばらく色んな虫を見つけては、丁寧に和人の前に、ほーら、と掲げてみせて恐怖に陥れていた。大人げない。そう思いながらも同じ目線で話ができるこの小さな、大人になりつつある、和人との時間を久子は存分に楽しんだ。
「あ、そろそろ戻んなきゃ。お袋、オレがちょっといなくなったらうるさくてさ」
「心配してるのよ。特に今日なんか風邪でしょ?病人は寝てるのが鉄則よ」
「はいはい。でも、すげえ楽しかった。何で久ちゃんと話してるとこんなに楽なんだろ」
「あ、こんな虫、知ってる?」
「うわ、もう勘弁してよ。じゃ、またな」
「早く治るといいね」
和人は笑顔で返事をして、柵から離れた。和人の走って行く恰好を見て、あいつ、パジャマじゃん、と、今頃久子は気づいて、ふと微笑みがこぼれた。かわいい奴。
本当はわかってる。和人が久子に少なからず、女性として好意を抱いていることに。けれど、この裏庭の柵のように、こちらに入ってこようとはしない。だから久子も放っておく。
陽の傾きかけた頃、久子はやっと腰を上げた。軍手を取り、結んだ髪をほどいて、風になびかせた。少しだけ、窺うようにして表に出ると、誰も歩いていなかったので安心した。
「玄関に涼しげな顔をした美人がいる、と思ったらそれは私の恋人でした」
気障な台詞と共に、ちょうど恋人の浩市が帰ってきて玄関で一緒になった。
「おかえりー。今日暑かったね。冷え冷えになる料理でも食べますかー?」
「ん?何なんだ?それは」
「冷しゃぶとか、冷やし中華とか」
「あ、そういうこと。何でも食べます。お腹ぺこぺこ。ヒサの料理は、めちゃくちゃ早いし、うまいもんな。今日も同僚から夕飯の誘いがあったけど断ってきた。なるべく寄りたくないよ。もったいないもん」
「うまい事言っちゃって、お兄さん」
「本当だって。どうせ店に行くならヒサを連れてく。その方が盛り上がって楽しいし」
こんなふうに浩市は、私を立ててくれつつも、休みの日には朝から自分で好きな料理を作り、私を無理矢理起こそうとはしない。自分で食べたいと思ったら、好きに作る。逆に、ヒサも食ってみろよ、なんて薦められる。きっと他のお宅の亭主関白ぶった男なんかが、こんな光景を見たら、顔を真っ青にするでしょうね。私は浩市をそんな男にさせないから。これだけは、自負してる。
「なあ、あの近所の奥さんグループ、何とかなんないもんかね?」
思わず、台所に立った久子の手が止まる。
「何か言われたの・・・?」
「いや、大したことじゃないんだけどさ、いつ結婚するんだ、とか、少しくらい妬かせてあげないと、刺激がなくてつまらないわよ、とかさあ。あんな化粧くせえばあさんに言われたくないんだよなあ。気を悪くしたよ。こっちは仕事で疲れて帰ってきて、すぐにヒサを抱きしめたいのにさ」
そう言って、浩市は本当に私に抱きついてきた。
「ヒサの体ってホント、気持ちいい。ふかふかしてる」
「それは、太っているということでは」
「それが何か違うんだなあ。ただの太ってるやつなんていっぱいいるだろ」
「うん、まあ、浩市がそう言うんなら信じて、いい気になってしまいますけど」
「そ。いい気になってて。ずっといい女でいてくれよ」
あの、ばばあ軍団。私の大事な浩市にまで魔の手を伸ばしやがったのか。許さん。いつか、本気で考えなくては、この家を出る事を。だから気にするもんか。久子は浩市に守られながらも、守っていく決意を新たにした。
けれど、その日、夢見が悪かった。和人の風邪がうつったのかも知れない。朝起きると、頭がずしりと重かった。ちゃんと休んでろよ、という浩市の言葉に、はーい、と返事をしつつ、また裏庭の手入れをしたい、と思ってしまう。だって、昨日中途半端なところがあったんだもん。久子は自分に言い訳して、裏庭に出たが、事もあろうにスコップを忘れた。ぼんやりしちゃって、とため息をつきながら表の物置に行くと、ちょうどマダム軍団がどこかでランチでもするのか、通りかかった。ああ、浩市の言うこと聞いとけば良かった。
「あら、こんにちは」
「こんにちは・・・」
久子は何の抑揚もなく、頭を下げた。
「旦那さまと仲がおよろしいのね。羨ましいわ」
「・・・おかげさまで」
何て言っていいのかわからず、久子はむにゃむにゃと返事をした。
「そんなに旦那さんにべったりで、お洒落をしなくても何も言われないなんて、ちょっと浮気の心配をした方がいいんじゃないかしら」
かちん。私と浩市の何を知っているというのだ。久子は明らかに自分が気分を害しているのがわかった。睨みつけてやる、と、ものすごい形相で振り返ったが、大きな背中が見えて、視界が塞がれた。
「失礼。お久し振りですね」
和人がいつの間にか、来ていたのだ。
マダムは急に口調を変え、あら、和人くん、大きくなったのねえ、と、愛想の良い声を出した。和人は、マダムの急激な反応の変化にその後が続かなくなった。何よ。かばってくれるんじゃなかったの。久子は、そのままスコップを手に取り、ぷい、とその場を去り、裏庭へと急いだ。
スコップをぐさりと土に一突きすると、止まらなくなった。何度も柔らかい土を、ぐさり、ぐさりと、久子は刺した。何よ、何が悪いのよ。私と浩市はふざけながらも、いつもきちんと会話をする。いつだって愛する相手には本気だもの。お洒落という小道具はそんな時に使うものじゃない。そっちこそダイエットでもしたらいいのに。きっとお宅の旦那の浮気相手の方が、マダムより美人だと思うよ。
「久ちゃん」
和人が背後から話しかけてきた。
「気にすんなよ、あんな言葉」
「気にしてないよ」
和人に当たるのは、お門違いだ。第一、和人はケンカになりそうなところを、あんな陳腐な挨拶一つで、マダムの気を逸らさせてしまったではないか。
「こういうこと、一緒に住んでる男は知ってるの?」
「あたしの嫌味は言ってるみたいよ。気を悪くしてた」
「オレ、久ちゃんの男の方がムカつく」
「なんでよ!?浩市だって被害者よ?」
「だって、久ちゃんがこんな目に遭ってんのに、のほほんと帰ってくるんだろ?久ちゃんを抱きしめる権利を持ってるんだろ?」
抱きしめる権利。その言葉に思わず顔が赤くなった。
そう。抱きしめる権利は、浩市にもあれば、私にもある。本当は誰にでもあるのだ。けれど私と浩市が公認されるのはなぜか。恋人同士だからだ。おまけに結婚も控えている。文句を言われる筋合いはまったくない。しかし、それが効力を発揮するのは本気の時だけだ。それはいとしいと思う時、かわいいと思った時、淋しさを感じさせたくない時などに使用できる大切な権利。だからこそ、こんなつまらないことに浩市を巻きこみたくなかった。その権利を駆使したあとには幸せになっていなければ、虚しい。
けれど何より、のほほん、という言葉、似合ってる。マダムが期待するような昼のメロドラマのように、毎日事件なんて起こらない。だからこそ、何にも負けないと思うのだ。私達には私達の話題が、きちんとある。いつも部屋の中が面白おかしいことで溢れている訳じゃない。けれども小さなことでも浩市に話したい。浩市にでなければ聞いて欲しいと思わない。だからこそ、家は私と浩市の聖域なのだと思う。誰にも触れさせないし、触れることなんかできやしない。そんな関係をゆっくりと作り上げていったのが、私と浩市なのだから。
ああ。昨日の浩市の言葉。疲れて帰って来た時、したいことが、私を抱きしめることだなんて。この言葉が、そして行為が泣かせるじゃないか。女にとって幸せに心を潤ませることは、マダムが使うどんな高級な化粧品なんかよりも、ずっと美しくさせる効果があるのだ。抱きしめる権利はこういう時に実力を発揮する。あんな薄っぺらな言葉しか紡げないマダムには、こんな幸せ、絶対にわからないだろう。
「久ちゃん、ドライブ行かない?」
「今日は無理よ」
「今日じゃないよ。朝から出発するの。少し遠出しようよ」
「いいね。じゃ、明後日は?」
久子の素早い切り返しに、和人は少々驚いた顔をした。
「いいの?」
「いいよ」
なぜに、即答か。明後日、浩市は出張でいないのだ。いとしい人がいない時は、かわいこちゃんと過ごしたい、という純粋なる不純な動機で、そう思ったのだ。
当日、用意をして家の前で久子は和人を待った。
しばらくすると、ぴかぴかに磨いた大きなキャンプ用の車で和人はやってきた。高級車らしいが、あいにく車種には詳しくないのだ。
「さて、どこに連れていってくれるの?」
「色々。山とか行こう。久ちゃんの好きな草花がたくさん見つかるよ」
「嬉しいわね」
若い男と恋人同士のようで、久子の心は浮き立った。そして、それとは違う心の場所で、浩市、今頃何してるかなあ、とぼんやり思うのだ。車はどんどん山の中に入っていく。陽射しも隠れてしまうような、山奥。
合い間に食事の時間も入っていたが、それでもかなりの距離を走ったと思う。午前中に出て来たのに、陽が暮れかけている。しばらくすると、川の流れる、草がふさふさと生えた場所に着いた。
「うわあ、こういうとこ大好き!すごいね、あんた。あたしの好みわかってる」
「そりゃあね。好きな女のことくらい」
そう言ってしまってから、和人は、はっとした顔をした。
「ばかね・・・」
久子は和人の真っ赤になった顔を見て、髪をくしゃりと乱した。
「・・・帰りは明日の朝になるから」
和人は思い詰めたように言う。ここに着くだけで傾いていた陽射しは、こうして話している間に、隠れてしまい、空にはうっすら星が一つ二つと見えていた。
「そうだろうな、と思ったわ」
「なんで断らなかったの」
「来たかったから」
「それは・・・」
口ごもる和人に、久子は目で話を促した。
「オレと、どうなってもいいってこと?」
「それであんたが何かから救われるんなら、何したっていいよ」
自分から誘っておいて、和人は今、困っている。
その困った顔を見て、久子は、何故このかわいい男の子は、もうすぐ結婚する、庭仕事の好きな年上の女を目に入れてしまったのかと思う。同じ大学の中に、女の子はたくさんいるだろうに。そして、すぐ久子は自分にも問いかける。接点も何もない金持ちのぼんぼんに、なぜ自分は何をされてもいいと思うのか。答は、簡単だった。恋をしたからだ。誰もが皆、幸せになりたいと願う。けれど、その願いに忠実でいると、人の心は音も立てずに行ってはいけない方向に、動いてしまうこともある。それが理不尽な恋の魔力。
「オレ、久ちゃんのこと、好きだ。久ちゃんはオレのこと、どう思ってるの」
「あたしもあんたが好きよ」
「じゃあ、結婚なんかするな。オレと一緒にどこかに行こう」
「できない」
「なんで」
「浩市がいるもの」
「じゃ、なんで今日こうしてるんだよ。女って、いや、久ちゃんてそういうことができるんだな」
「あんたは?あたしに恋人がいるって知ってて、好きだなんて言ってる。おあいこよ」
和人は唇を噛みしめた。
「おまえみたいな女、最低だよ」
久子は一瞬、ぶたれるかと思い、体を硬くして目を瞑った。しかし、予想に反して、和人は久子を慣れない手つきで抱き寄せた。
「あんただって、最悪。女の敵」
そう言い返して、やはり言葉とは裏腹に、和人の広い背中に腕を回した。ゆっくりと首筋の匂いを嗅ぐと、ほんのり香水と汗の混じった和人の匂いがした。久子はそのまま、温かい腕の中でうっとりと目を閉じる。無骨だからこそ、心地良いこともある。たった今、吐息のかかる距離にいるかわいい人からの言葉は、それが、どんなに罵倒するものであっても、すべてを甘い囁きに変える。
おまえなんか。
あんたなんか。
それは、この上ない誘惑の罵り合い。せつなく唇をこじあけ、くちづけを交わし、草の上を転がる。服と草がこすれ、ざざざざと雑音のような音を立て、互いの服をはだけさせる。草の上に敷いた服は、最高な二人の褥になる。夜の匂いが辺りに立ちこめると、湿気を含んだ風が二人の体に新たな汗を吹き出させる。もう心を痛めるような言葉は必要なかった。唇や手、夜の闇に浮かぶ野生動物のような瞳の輝きは、何よりも饒舌だ。
月も星も虫も鳥も、みんな眠っている。今はこの世の中に、たった二人だけ。
和人は、横になって乱れた久子の髪を梳いた。
久子はもっと撫でて、というように頭をずらした。
「すごくいい匂いがする。久ちゃんの体」
「和人もだよ」
「オレ、久ちゃんのこと、すごく好きだ。どうしようもない。結婚するってわかってても」
そんなの、私だって同じだ。私は結婚する。けれど、和人が好きだ。ただ、好きなのだ。
「結婚の話は、出さないで。和人とは関係がないから」
「口を出すなってこと?」
「違う。和人は和人だから」
「大人って都合のいい言い訳が得意だよな」
「和人だって、大人じゃない」
和人はどこかが痛いような顔をして、久子を見た。その痛みは、久子が和人を傷つけた痛み。もう後戻りのできない成長痛。けれど、そんな痛々しい隙のある表情を浮かべることができる和人を、久子はやはり好ましいと思う。
「オレ、久ちゃんに祝福の言葉、言えない」
「言わなくていいよ」
「その代わり、久ちゃんに手紙を出す」
「なんて書くの?」
「何にも書かない。オレが久ちゃんを誰よりも愛してるってことを証明するためだけに手紙を出すんだ。だから真っ白」
「いたずらだ、って捨てちゃうかもよ」
「久ちゃんは気づいてくれよ」
「絶対、気づくわ」
約束になりきらない約束。けれど、いい。今はこうして抱き合っているのだもの。何もかも構わない。けれど、夜が明けてくる頃、和人も久子ものろのろと服を着け始めた。
ほらね。どこかに行こう、だなんて言っても所詮、帰るべき場所に帰るのよ。忘れたいような腹立たしい時間も、切り取りたいほど宝物のように思う時間も、無差別にそのまま、夜と共に川のように流れていく。きっと今日、我慢して何もなければ、ただの青臭い思い出になっただろう。もうこんな機会、持つことはないと久子は思う。
たった一夜限りのこと。だからこそ、それは胸の中で星よりも輝く。
その後、久子と浩市は結婚をし、引っ越すことになった。
和人とは、あのドライブの日以来、久子は敢えて二人きりで会うことを避けた。その家での最後の日、トラックで荷物が運ばれていくのを晴々と久子は見ていた。最後なので、お世話になりました、と、マダム達に心の中で舌を出しながら言って回った。そこに、和人の姿はなかった。わかってる。どこにいるのか。ずっとわかっていて、行かなかっただけだ。久子は、そっと裏庭に行く。和人は柵にもたれて、ぼうっとしていたので、突然現れた久子の姿に驚いたが、すぐに懐かしいものを見る目に変わった。
「世話になった、とか言うなよ」
「言わないよ」
「ごめん」
「なんで謝るの」
「こんなに好きで、ごめん」
その目を凝視すると、和人は泣いていた。久子は思わず駆け寄り、抱きしめたい衝動に駆られた。けれど、行ってはならない。同情は、自分が一番して欲しくなかったものだ。
何も言えないまま、下を向くと、土の中から少しだけ成長した雑草が歪んで、いくつにも重なって見えた。なぜだろう、そう思いながら、顔に手をやると、いつの間にか、久子も涙を流していた。
引っ越した先の家にも、裏庭がついていた。
近所との確執がいやだという、久子の希望によるものだ。けれど、この土地には嫌味や皮肉をいう人間はいなかった。みんな久子と浩市を歓迎してくれた。だから安心して表の庭を堪能した。裏庭は、自然と放置されたままになってしまい、何年も過ぎた。
真夜中、久子は上着を着て、そっと裏玄関の靴脱ぎに腰掛け、昼間の熱を含んだ真っ白な封筒を上着のポケットから出し、鼻に当ててみる。
なぜ今の家がわかったのだろう、などとは思わない。きっと幻想を抱いたまま、探しあててしまったのだろう。あの人は、私の姿をどんなふうに見たのだろうか。幸せそうに微笑み、ひっそりとした裏庭ではなく、表の庭の草花を愛でる姿を。そして、別の人をあの人とは違う方法で愛する私を。思わず、答を仰ぎたくて、窓を見る。
けれど、そこにはただ、夜の闇に塗り込められた裏庭が、ガラス越しに広がっていた。
●《 受賞コメント 》
今回の「オススメMC」にて、
私の「淡色憧憬」に投票してくださった方、
ほんとうにありがとうございます!
ちょこちょこ参加させていただいては、
難しさにうんうん唸っているのですが、
こういったご褒美をいただけると、
悩んだ甲斐がある、とつい思ってしまいます。
ちょうどこの作品は、いつもの私の書くものにつきもののような、
カウンターバーやら、少し大人めいた設定の多い中、
私にとって「ありふれた情景」、つまり、
一番私の日常に近い状況なので(庭いじりとか・笑)
つまらなく感じてしまうかも、と送るのに戸惑いがありました。
けれど私に割り当てられたお題は、その文章のみで既に美しく、
そこを是が非でも使ってみたいという欲望が勝ちました。
この作品を書いたのは4月。
あの頃、私は恋への幸せと不幸せと、どうにもならないものを、
胸の中に感じ取っていた時期でした。
そして「どうにもならない」部分を自分なりに消化させたかった。
それがこの物語を私に書かせたのだと思います。生意気ですが。
読んでいない方には少々、ネタばれになりますが、
最初と最後の場面に、その答を私なりに見出せたと思います。
毎回そうですが、その時書かなければならないもの、
というものがあって、それは書け、とどこかから指示されているようで、
そんな時、不思議と書ける状況が整います。
この回でも、そんなふうに完成できたこともあり、
腑に落ちなかった自分の中のジレンマが、
すとん、と心に収まった感じです。
推敲は、その時散々したので今回は手を加えません。
間違っていてもそれはそれで、その時の私だと思って(笑)
最後になりますが、投票をしてくれた方、今一度、
読んでくださって、選んでくださって、
ほんとうにどうもありがとうございました。
そしてお題をくれた作者さま、
書く機会を下さったMCの方々、
心より感謝しております。
愛してやまないのですよ、毎回。うん、ホント。
2007/12/29 幸坂かゆり
《First Kiss 幸坂かゆり》
Mystery Circle Vol.22掲載
◎それは何の飾りも文字もない、ただの真っ白い封筒だった。
『淡色憧憬〜あわいろどうけい』
著者:幸坂かゆり
それは何の飾りも文字もない、ただの真っ白い封筒だった。
まだ四月だというのに、蒸し暑いその日。まだ陽も落ちていないのに、早々と届けられた夕刊を取りに玄関に出た久子が、郵便受けを見ると、それが入っていた。思わず、息が止まりそうになる。久子は急いで封筒を郵便受けから取り出すと、小走りで家の中に戻った。心を落ち着けるべく、深呼吸をしてから、封に手をかける。昼間の気温のせいで、紙は温まっていた。まるであの日のあの人の体のように。宛名も何も書いていないということは、あの人がここに直接、持ってきたのだ。一体、いつ来たのだろう。私は昼間ずっと庭にいたというのに。薄く糊付けされた封は、容易に剥がす事ができた。案の定、便箋らしきものは入っていない。久子の胸に、懐かしく甘酸っぱい想いが込みあげてくる。
あれは夏の日。今日のように蒸し暑い、こんな日だった。
その人は、久子よりもずっと年下で、久子の家の裏に住んでいた。そこはたかが一軒家、と呼んでしまうには、もったいないくらいの、お金持ちの屋敷にふさわしい、美しい洋館だった。品のあるご両親。かわいい犬。あの家では毎日夫婦で犬の散歩をしていた。その一人息子が、その人だった。しつけの行き届いた、かわいい背の高いお坊ちゃん。
久子はその頃、現在の夫、浩市と同棲生活を送っていた。共に仕事をしていたが、久子は派遣会社に登録していたので毎日仕事があるとは限らず、そんな日は、家の仕事や庭の手入れに勤しんでいた。浩市もそのことは承知で、関係には何の支障もなかった。ただ、久子は近所づきあいが苦手だった。
いつ、ご結婚なさるの。
お子さんをお作りにならないの。
派遣なんて、夜の商売ではないの。
お上品な見かけとは裏腹に、心に土足で踏み込む貧乏くさい質問を投げかける、近所のマダムとやらには、関わりたくなかったのだ。けれど、長靴を履いて、軍手をはめ、土と戯れる庭仕事が好きなので、最初はなるべく気にしないようにして庭に出ていたが、その内、マダム達の、どことなく久子に同情しているような、それでいて、見下しているような、そんな目に出会うのが嫌になり、表の庭を諦め、裏庭の方をそっといじり始めた。陽の当たらないその場所は、夏だというのにひんやりとして、久子の心も落ち着いた。
ある日、草むしりをしていると、裏庭の柵から誰かがこちらを見ていた。久子は顔を上げた。それは裏手のお屋敷の息子、和人だった。和人だけは、久子のことを「久ちゃん、久ちゃん」と言って、慕っていた。高級車やバイクの類を何台も親の金で所有し、超一流と言われるような、有名大学に通っている。
けれど、和人には、純粋に人を見る眼差しがあった。わからないものは素直に訊き、至らぬことで久子に注意を受けても、消化させることのできる人間だった。なので、久子は彼だけには心を開いていた。
「あんた、学校は?」
「今日は休んだ。だるかったから、なんて言ったらまた久ちゃんに説教されそうだけど、風邪気味で本当にだるくて休んだ」
「寝てなくていいの?」
「充分寝かされたもん。親がしょっちゅう熱計りに来てさ。面倒くさくて久ちゃんを見に来た」
なんて理由だ。私は動物園の中の生きものか。
「久ちゃんって、なんで裏にばっかりいるの?」
「表だと、面倒くさいの。あんたと同じ理由」
「何が面倒くさいの?そんなに表の庭、広くないじゃん」
悪かったね。このぼんぼんが、とは思わない。彼は本当に疑問に思っているだけなのだ。
「庭の手入れのことじゃなくて。あたし、近所の奥さん連中苦手なのよ。あんまり聞いて欲しくないことばっかり聞いてくるから」
「ふうん。オレは?」
「あんたは余計なこと、聞いて来ないじゃない」
「じゃ、オレは久ちゃんの中では上位なんだね」
何が上位の基準かわからないが、何となく納得したので頷いた。和人は嬉しそうに、はにかんだ顔をした。こんな所が素直でかわいいな、と久子は思うのだ。
「うわ、でっかいミミズがいる!久ちゃん、殺虫剤とか撒かないの?」
「こんなミミズなんて、大したことないじゃない」
ほら、と久子はミミズを軍手の上から持ち上げて、和人の側に持ってきた。ミミズは、うにょうにょとその細い体を動かした。
「やめてくれよー!オレ、虫は苦手なんだよー!」
和人が大きな声で怖がるので、久子は楽しくてしばらく色んな虫を見つけては、丁寧に和人の前に、ほーら、と掲げてみせて恐怖に陥れていた。大人げない。そう思いながらも同じ目線で話ができるこの小さな、大人になりつつある、和人との時間を久子は存分に楽しんだ。
「あ、そろそろ戻んなきゃ。お袋、オレがちょっといなくなったらうるさくてさ」
「心配してるのよ。特に今日なんか風邪でしょ?病人は寝てるのが鉄則よ」
「はいはい。でも、すげえ楽しかった。何で久ちゃんと話してるとこんなに楽なんだろ」
「あ、こんな虫、知ってる?」
「うわ、もう勘弁してよ。じゃ、またな」
「早く治るといいね」
和人は笑顔で返事をして、柵から離れた。和人の走って行く恰好を見て、あいつ、パジャマじゃん、と、今頃久子は気づいて、ふと微笑みがこぼれた。かわいい奴。
本当はわかってる。和人が久子に少なからず、女性として好意を抱いていることに。けれど、この裏庭の柵のように、こちらに入ってこようとはしない。だから久子も放っておく。
陽の傾きかけた頃、久子はやっと腰を上げた。軍手を取り、結んだ髪をほどいて、風になびかせた。少しだけ、窺うようにして表に出ると、誰も歩いていなかったので安心した。
「玄関に涼しげな顔をした美人がいる、と思ったらそれは私の恋人でした」
気障な台詞と共に、ちょうど恋人の浩市が帰ってきて玄関で一緒になった。
「おかえりー。今日暑かったね。冷え冷えになる料理でも食べますかー?」
「ん?何なんだ?それは」
「冷しゃぶとか、冷やし中華とか」
「あ、そういうこと。何でも食べます。お腹ぺこぺこ。ヒサの料理は、めちゃくちゃ早いし、うまいもんな。今日も同僚から夕飯の誘いがあったけど断ってきた。なるべく寄りたくないよ。もったいないもん」
「うまい事言っちゃって、お兄さん」
「本当だって。どうせ店に行くならヒサを連れてく。その方が盛り上がって楽しいし」
こんなふうに浩市は、私を立ててくれつつも、休みの日には朝から自分で好きな料理を作り、私を無理矢理起こそうとはしない。自分で食べたいと思ったら、好きに作る。逆に、ヒサも食ってみろよ、なんて薦められる。きっと他のお宅の亭主関白ぶった男なんかが、こんな光景を見たら、顔を真っ青にするでしょうね。私は浩市をそんな男にさせないから。これだけは、自負してる。
「なあ、あの近所の奥さんグループ、何とかなんないもんかね?」
思わず、台所に立った久子の手が止まる。
「何か言われたの・・・?」
「いや、大したことじゃないんだけどさ、いつ結婚するんだ、とか、少しくらい妬かせてあげないと、刺激がなくてつまらないわよ、とかさあ。あんな化粧くせえばあさんに言われたくないんだよなあ。気を悪くしたよ。こっちは仕事で疲れて帰ってきて、すぐにヒサを抱きしめたいのにさ」
そう言って、浩市は本当に私に抱きついてきた。
「ヒサの体ってホント、気持ちいい。ふかふかしてる」
「それは、太っているということでは」
「それが何か違うんだなあ。ただの太ってるやつなんていっぱいいるだろ」
「うん、まあ、浩市がそう言うんなら信じて、いい気になってしまいますけど」
「そ。いい気になってて。ずっといい女でいてくれよ」
あの、ばばあ軍団。私の大事な浩市にまで魔の手を伸ばしやがったのか。許さん。いつか、本気で考えなくては、この家を出る事を。だから気にするもんか。久子は浩市に守られながらも、守っていく決意を新たにした。
けれど、その日、夢見が悪かった。和人の風邪がうつったのかも知れない。朝起きると、頭がずしりと重かった。ちゃんと休んでろよ、という浩市の言葉に、はーい、と返事をしつつ、また裏庭の手入れをしたい、と思ってしまう。だって、昨日中途半端なところがあったんだもん。久子は自分に言い訳して、裏庭に出たが、事もあろうにスコップを忘れた。ぼんやりしちゃって、とため息をつきながら表の物置に行くと、ちょうどマダム軍団がどこかでランチでもするのか、通りかかった。ああ、浩市の言うこと聞いとけば良かった。
「あら、こんにちは」
「こんにちは・・・」
久子は何の抑揚もなく、頭を下げた。
「旦那さまと仲がおよろしいのね。羨ましいわ」
「・・・おかげさまで」
何て言っていいのかわからず、久子はむにゃむにゃと返事をした。
「そんなに旦那さんにべったりで、お洒落をしなくても何も言われないなんて、ちょっと浮気の心配をした方がいいんじゃないかしら」
かちん。私と浩市の何を知っているというのだ。久子は明らかに自分が気分を害しているのがわかった。睨みつけてやる、と、ものすごい形相で振り返ったが、大きな背中が見えて、視界が塞がれた。
「失礼。お久し振りですね」
和人がいつの間にか、来ていたのだ。
マダムは急に口調を変え、あら、和人くん、大きくなったのねえ、と、愛想の良い声を出した。和人は、マダムの急激な反応の変化にその後が続かなくなった。何よ。かばってくれるんじゃなかったの。久子は、そのままスコップを手に取り、ぷい、とその場を去り、裏庭へと急いだ。
スコップをぐさりと土に一突きすると、止まらなくなった。何度も柔らかい土を、ぐさり、ぐさりと、久子は刺した。何よ、何が悪いのよ。私と浩市はふざけながらも、いつもきちんと会話をする。いつだって愛する相手には本気だもの。お洒落という小道具はそんな時に使うものじゃない。そっちこそダイエットでもしたらいいのに。きっとお宅の旦那の浮気相手の方が、マダムより美人だと思うよ。
「久ちゃん」
和人が背後から話しかけてきた。
「気にすんなよ、あんな言葉」
「気にしてないよ」
和人に当たるのは、お門違いだ。第一、和人はケンカになりそうなところを、あんな陳腐な挨拶一つで、マダムの気を逸らさせてしまったではないか。
「こういうこと、一緒に住んでる男は知ってるの?」
「あたしの嫌味は言ってるみたいよ。気を悪くしてた」
「オレ、久ちゃんの男の方がムカつく」
「なんでよ!?浩市だって被害者よ?」
「だって、久ちゃんがこんな目に遭ってんのに、のほほんと帰ってくるんだろ?久ちゃんを抱きしめる権利を持ってるんだろ?」
抱きしめる権利。その言葉に思わず顔が赤くなった。
そう。抱きしめる権利は、浩市にもあれば、私にもある。本当は誰にでもあるのだ。けれど私と浩市が公認されるのはなぜか。恋人同士だからだ。おまけに結婚も控えている。文句を言われる筋合いはまったくない。しかし、それが効力を発揮するのは本気の時だけだ。それはいとしいと思う時、かわいいと思った時、淋しさを感じさせたくない時などに使用できる大切な権利。だからこそ、こんなつまらないことに浩市を巻きこみたくなかった。その権利を駆使したあとには幸せになっていなければ、虚しい。
けれど何より、のほほん、という言葉、似合ってる。マダムが期待するような昼のメロドラマのように、毎日事件なんて起こらない。だからこそ、何にも負けないと思うのだ。私達には私達の話題が、きちんとある。いつも部屋の中が面白おかしいことで溢れている訳じゃない。けれども小さなことでも浩市に話したい。浩市にでなければ聞いて欲しいと思わない。だからこそ、家は私と浩市の聖域なのだと思う。誰にも触れさせないし、触れることなんかできやしない。そんな関係をゆっくりと作り上げていったのが、私と浩市なのだから。
ああ。昨日の浩市の言葉。疲れて帰って来た時、したいことが、私を抱きしめることだなんて。この言葉が、そして行為が泣かせるじゃないか。女にとって幸せに心を潤ませることは、マダムが使うどんな高級な化粧品なんかよりも、ずっと美しくさせる効果があるのだ。抱きしめる権利はこういう時に実力を発揮する。あんな薄っぺらな言葉しか紡げないマダムには、こんな幸せ、絶対にわからないだろう。
「久ちゃん、ドライブ行かない?」
「今日は無理よ」
「今日じゃないよ。朝から出発するの。少し遠出しようよ」
「いいね。じゃ、明後日は?」
久子の素早い切り返しに、和人は少々驚いた顔をした。
「いいの?」
「いいよ」
なぜに、即答か。明後日、浩市は出張でいないのだ。いとしい人がいない時は、かわいこちゃんと過ごしたい、という純粋なる不純な動機で、そう思ったのだ。
当日、用意をして家の前で久子は和人を待った。
しばらくすると、ぴかぴかに磨いた大きなキャンプ用の車で和人はやってきた。高級車らしいが、あいにく車種には詳しくないのだ。
「さて、どこに連れていってくれるの?」
「色々。山とか行こう。久ちゃんの好きな草花がたくさん見つかるよ」
「嬉しいわね」
若い男と恋人同士のようで、久子の心は浮き立った。そして、それとは違う心の場所で、浩市、今頃何してるかなあ、とぼんやり思うのだ。車はどんどん山の中に入っていく。陽射しも隠れてしまうような、山奥。
合い間に食事の時間も入っていたが、それでもかなりの距離を走ったと思う。午前中に出て来たのに、陽が暮れかけている。しばらくすると、川の流れる、草がふさふさと生えた場所に着いた。
「うわあ、こういうとこ大好き!すごいね、あんた。あたしの好みわかってる」
「そりゃあね。好きな女のことくらい」
そう言ってしまってから、和人は、はっとした顔をした。
「ばかね・・・」
久子は和人の真っ赤になった顔を見て、髪をくしゃりと乱した。
「・・・帰りは明日の朝になるから」
和人は思い詰めたように言う。ここに着くだけで傾いていた陽射しは、こうして話している間に、隠れてしまい、空にはうっすら星が一つ二つと見えていた。
「そうだろうな、と思ったわ」
「なんで断らなかったの」
「来たかったから」
「それは・・・」
口ごもる和人に、久子は目で話を促した。
「オレと、どうなってもいいってこと?」
「それであんたが何かから救われるんなら、何したっていいよ」
自分から誘っておいて、和人は今、困っている。
その困った顔を見て、久子は、何故このかわいい男の子は、もうすぐ結婚する、庭仕事の好きな年上の女を目に入れてしまったのかと思う。同じ大学の中に、女の子はたくさんいるだろうに。そして、すぐ久子は自分にも問いかける。接点も何もない金持ちのぼんぼんに、なぜ自分は何をされてもいいと思うのか。答は、簡単だった。恋をしたからだ。誰もが皆、幸せになりたいと願う。けれど、その願いに忠実でいると、人の心は音も立てずに行ってはいけない方向に、動いてしまうこともある。それが理不尽な恋の魔力。
「オレ、久ちゃんのこと、好きだ。久ちゃんはオレのこと、どう思ってるの」
「あたしもあんたが好きよ」
「じゃあ、結婚なんかするな。オレと一緒にどこかに行こう」
「できない」
「なんで」
「浩市がいるもの」
「じゃ、なんで今日こうしてるんだよ。女って、いや、久ちゃんてそういうことができるんだな」
「あんたは?あたしに恋人がいるって知ってて、好きだなんて言ってる。おあいこよ」
和人は唇を噛みしめた。
「おまえみたいな女、最低だよ」
久子は一瞬、ぶたれるかと思い、体を硬くして目を瞑った。しかし、予想に反して、和人は久子を慣れない手つきで抱き寄せた。
「あんただって、最悪。女の敵」
そう言い返して、やはり言葉とは裏腹に、和人の広い背中に腕を回した。ゆっくりと首筋の匂いを嗅ぐと、ほんのり香水と汗の混じった和人の匂いがした。久子はそのまま、温かい腕の中でうっとりと目を閉じる。無骨だからこそ、心地良いこともある。たった今、吐息のかかる距離にいるかわいい人からの言葉は、それが、どんなに罵倒するものであっても、すべてを甘い囁きに変える。
おまえなんか。
あんたなんか。
それは、この上ない誘惑の罵り合い。せつなく唇をこじあけ、くちづけを交わし、草の上を転がる。服と草がこすれ、ざざざざと雑音のような音を立て、互いの服をはだけさせる。草の上に敷いた服は、最高な二人の褥になる。夜の匂いが辺りに立ちこめると、湿気を含んだ風が二人の体に新たな汗を吹き出させる。もう心を痛めるような言葉は必要なかった。唇や手、夜の闇に浮かぶ野生動物のような瞳の輝きは、何よりも饒舌だ。
月も星も虫も鳥も、みんな眠っている。今はこの世の中に、たった二人だけ。
和人は、横になって乱れた久子の髪を梳いた。
久子はもっと撫でて、というように頭をずらした。
「すごくいい匂いがする。久ちゃんの体」
「和人もだよ」
「オレ、久ちゃんのこと、すごく好きだ。どうしようもない。結婚するってわかってても」
そんなの、私だって同じだ。私は結婚する。けれど、和人が好きだ。ただ、好きなのだ。
「結婚の話は、出さないで。和人とは関係がないから」
「口を出すなってこと?」
「違う。和人は和人だから」
「大人って都合のいい言い訳が得意だよな」
「和人だって、大人じゃない」
和人はどこかが痛いような顔をして、久子を見た。その痛みは、久子が和人を傷つけた痛み。もう後戻りのできない成長痛。けれど、そんな痛々しい隙のある表情を浮かべることができる和人を、久子はやはり好ましいと思う。
「オレ、久ちゃんに祝福の言葉、言えない」
「言わなくていいよ」
「その代わり、久ちゃんに手紙を出す」
「なんて書くの?」
「何にも書かない。オレが久ちゃんを誰よりも愛してるってことを証明するためだけに手紙を出すんだ。だから真っ白」
「いたずらだ、って捨てちゃうかもよ」
「久ちゃんは気づいてくれよ」
「絶対、気づくわ」
約束になりきらない約束。けれど、いい。今はこうして抱き合っているのだもの。何もかも構わない。けれど、夜が明けてくる頃、和人も久子ものろのろと服を着け始めた。
ほらね。どこかに行こう、だなんて言っても所詮、帰るべき場所に帰るのよ。忘れたいような腹立たしい時間も、切り取りたいほど宝物のように思う時間も、無差別にそのまま、夜と共に川のように流れていく。きっと今日、我慢して何もなければ、ただの青臭い思い出になっただろう。もうこんな機会、持つことはないと久子は思う。
たった一夜限りのこと。だからこそ、それは胸の中で星よりも輝く。
その後、久子と浩市は結婚をし、引っ越すことになった。
和人とは、あのドライブの日以来、久子は敢えて二人きりで会うことを避けた。その家での最後の日、トラックで荷物が運ばれていくのを晴々と久子は見ていた。最後なので、お世話になりました、と、マダム達に心の中で舌を出しながら言って回った。そこに、和人の姿はなかった。わかってる。どこにいるのか。ずっとわかっていて、行かなかっただけだ。久子は、そっと裏庭に行く。和人は柵にもたれて、ぼうっとしていたので、突然現れた久子の姿に驚いたが、すぐに懐かしいものを見る目に変わった。
「世話になった、とか言うなよ」
「言わないよ」
「ごめん」
「なんで謝るの」
「こんなに好きで、ごめん」
その目を凝視すると、和人は泣いていた。久子は思わず駆け寄り、抱きしめたい衝動に駆られた。けれど、行ってはならない。同情は、自分が一番して欲しくなかったものだ。
何も言えないまま、下を向くと、土の中から少しだけ成長した雑草が歪んで、いくつにも重なって見えた。なぜだろう、そう思いながら、顔に手をやると、いつの間にか、久子も涙を流していた。
引っ越した先の家にも、裏庭がついていた。
近所との確執がいやだという、久子の希望によるものだ。けれど、この土地には嫌味や皮肉をいう人間はいなかった。みんな久子と浩市を歓迎してくれた。だから安心して表の庭を堪能した。裏庭は、自然と放置されたままになってしまい、何年も過ぎた。
真夜中、久子は上着を着て、そっと裏玄関の靴脱ぎに腰掛け、昼間の熱を含んだ真っ白な封筒を上着のポケットから出し、鼻に当ててみる。
なぜ今の家がわかったのだろう、などとは思わない。きっと幻想を抱いたまま、探しあててしまったのだろう。あの人は、私の姿をどんなふうに見たのだろうか。幸せそうに微笑み、ひっそりとした裏庭ではなく、表の庭の草花を愛でる姿を。そして、別の人をあの人とは違う方法で愛する私を。思わず、答を仰ぎたくて、窓を見る。
けれど、そこにはただ、夜の闇に塗り込められた裏庭が、ガラス越しに広がっていた。
●《 受賞コメント 》
今回の「オススメMC」にて、
私の「淡色憧憬」に投票してくださった方、
ほんとうにありがとうございます!
ちょこちょこ参加させていただいては、
難しさにうんうん唸っているのですが、
こういったご褒美をいただけると、
悩んだ甲斐がある、とつい思ってしまいます。
ちょうどこの作品は、いつもの私の書くものにつきもののような、
カウンターバーやら、少し大人めいた設定の多い中、
私にとって「ありふれた情景」、つまり、
一番私の日常に近い状況なので(庭いじりとか・笑)
つまらなく感じてしまうかも、と送るのに戸惑いがありました。
けれど私に割り当てられたお題は、その文章のみで既に美しく、
そこを是が非でも使ってみたいという欲望が勝ちました。
この作品を書いたのは4月。
あの頃、私は恋への幸せと不幸せと、どうにもならないものを、
胸の中に感じ取っていた時期でした。
そして「どうにもならない」部分を自分なりに消化させたかった。
それがこの物語を私に書かせたのだと思います。生意気ですが。
読んでいない方には少々、ネタばれになりますが、
最初と最後の場面に、その答を私なりに見出せたと思います。
毎回そうですが、その時書かなければならないもの、
というものがあって、それは書け、とどこかから指示されているようで、
そんな時、不思議と書ける状況が整います。
この回でも、そんなふうに完成できたこともあり、
腑に落ちなかった自分の中のジレンマが、
すとん、と心に収まった感じです。
推敲は、その時散々したので今回は手を加えません。
間違っていてもそれはそれで、その時の私だと思って(笑)
最後になりますが、投票をしてくれた方、今一度、
読んでくださって、選んでくださって、
ほんとうにどうもありがとうございました。
そしてお題をくれた作者さま、
書く機会を下さったMCの方々、
心より感謝しております。
愛してやまないのですよ、毎回。うん、ホント。
2007/12/29 幸坂かゆり
《First Kiss 幸坂かゆり》
2004.08.05 20:59 | ――― |
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《 ☆☆☆☆☆ ☆☆ 星七つ作品 》
Mystery Circle Vol.21掲載
◎「私を本当の姉だと思っていてくれていいわ」
『葬られた供述』
著者:おりえ
「私を本当の姉だと思っていてくれていいわ」
そう言って、わたくしに微笑みかけるマダムはとても美しくて、わたくしは目頭が熱くなるのを抑えることができませんでした。
わたくしは貧しい平民の出でございました。
ええ、世の中、わたくしのような卑しい身分の者は、それこそ掃いて捨てるほどおります。
何も食べるものがなくなると、時には木の皮を削って口に放り込み、それをいつまでも咀嚼しては飢えたこの身を慰めるという、とてもマダムには聞かせられない毎日を送ってまいりました。
それでも、神様は見ておられる。そう気づかせてくれた目の前のマダムの存在は――ああ!
今でも思い出すたびに、この胸が狂おしく騒ぎ出すのでございます。
それは、寒い日のことでございました。
わたくしがいつものように道端に座りこんで物乞いをしておりますと、そこに一台の馬車がやってきたのでございます。
馬車は手前で止まりますと、中から立派な服を着込んだ貴族の御仁が、あろうことか、わたくしの前でぴたりと止まり、かがんで顔を覗き込んでくるではありませんか!
わたくしは、嗅いだことのない香水の匂いをめいいっぱい吸い込んで、それからぴかぴかに光った皮の靴を、飽きることなく見つめていたのでございます。
御仁は優しくわたくしに口を開きます。
「寒いだろう、中へお入り。暖かい毛布とスープをあげようね」
わたくしのひび割れた醜い手を、御仁は真っ白な手袋をはめた手でやさしく包み込んでくださいますと、呆然としているわたくしを、丁寧に丁寧に――まるで大切な本の中へ挟む押し花入りのしおりのように――ふうわりと、馬車の中へ引き入れてくださったのでございます。
馬車の中でも御仁は親切でございました。わたくしの手を離すことなく、何事か話しかけてくるのですが、わたくしはとてもとても、顔をあげることなどできません。御仁の顔を見上げてしまったら――、わたくしは恐らくこの世から消えてしまう。そんな恐れがあったのでございます。……ええ、そんなことがあるはずがないことは、承知しております。けれどもわたくしはその時、光に触れたことのない闇のような気持ちでいっぱいだったのでございます。闇は光に触れると消えてしまう……そんな幼稚なことを、頑なに信じていたのでございます。
馬車はごとごとと進んで、終には立派なお屋敷の前で止まりました。
御仁はわたくしをまた丁寧に丁寧に馬車から降ろして下さいますと、わたくしを気遣いながらも歩みを進めるのです。わたくしは恐る恐る、ただそれについていくことしかできませんでした。
御仁とわたくしは、無言で扉の前まで歩き、御仁が誰かに扉を開けるよう命じます。
素晴らしい装飾が施された立派な扉――
その扉が左右に開け放たれますと、中は別世界が広がっておりました。わたくしは眩暈を覚えてふらついてしまい、御仁はそんなわたくしの肩を、優しく抱いてくださったのでございます。
まばゆいシャンデリアの輝きは、わたくしの瞳を射ち――、見たこともない美しい絵画の数々は、私の胸を、心をたやすく打ち砕き――、どうして立っていられるでしょうか。磨き上げられた床の上は、わたくしの素足につんと突き刺さり、それでもわたくしは、目の前に広がる圧倒的な数々を前に、屈することしかできなかったのでございます。
御仁はそれから、わたくしを何故ここへ連れ来たのかを話してくださいました。
「君はあんな場所にいるような人間ではない。一目で気に入ってしまった。君は今日からわたしのものだよ。いいね?」
わたくしは、何を言われているのかわかりませんでした。ただこくりとうなずくばかりで、御仁のおっしゃる本当の意味が、わからなかったのでございます。
御仁は満足げにうなずきますと、使用人たちに、わたくしを綺麗にするよう命じました。その使用人たちは仮面でもつけているように無表情のままでハイとうなずき、わたくしの手を引いて歩き出すのです。
わたくしはこれから何をされるのかと、怖くて御仁を振り返りますが、御仁はただ、優しく微笑むばかりでありました
Mystery Circle Vol.21掲載
◎「私を本当の姉だと思っていてくれていいわ」
『葬られた供述』
著者:おりえ
「私を本当の姉だと思っていてくれていいわ」
そう言って、わたくしに微笑みかけるマダムはとても美しくて、わたくしは目頭が熱くなるのを抑えることができませんでした。
わたくしは貧しい平民の出でございました。
ええ、世の中、わたくしのような卑しい身分の者は、それこそ掃いて捨てるほどおります。
何も食べるものがなくなると、時には木の皮を削って口に放り込み、それをいつまでも咀嚼しては飢えたこの身を慰めるという、とてもマダムには聞かせられない毎日を送ってまいりました。
それでも、神様は見ておられる。そう気づかせてくれた目の前のマダムの存在は――ああ!
今でも思い出すたびに、この胸が狂おしく騒ぎ出すのでございます。
それは、寒い日のことでございました。
わたくしがいつものように道端に座りこんで物乞いをしておりますと、そこに一台の馬車がやってきたのでございます。
馬車は手前で止まりますと、中から立派な服を着込んだ貴族の御仁が、あろうことか、わたくしの前でぴたりと止まり、かがんで顔を覗き込んでくるではありませんか!
わたくしは、嗅いだことのない香水の匂いをめいいっぱい吸い込んで、それからぴかぴかに光った皮の靴を、飽きることなく見つめていたのでございます。
御仁は優しくわたくしに口を開きます。
「寒いだろう、中へお入り。暖かい毛布とスープをあげようね」
わたくしのひび割れた醜い手を、御仁は真っ白な手袋をはめた手でやさしく包み込んでくださいますと、呆然としているわたくしを、丁寧に丁寧に――まるで大切な本の中へ挟む押し花入りのしおりのように――ふうわりと、馬車の中へ引き入れてくださったのでございます。
馬車の中でも御仁は親切でございました。わたくしの手を離すことなく、何事か話しかけてくるのですが、わたくしはとてもとても、顔をあげることなどできません。御仁の顔を見上げてしまったら――、わたくしは恐らくこの世から消えてしまう。そんな恐れがあったのでございます。……ええ、そんなことがあるはずがないことは、承知しております。けれどもわたくしはその時、光に触れたことのない闇のような気持ちでいっぱいだったのでございます。闇は光に触れると消えてしまう……そんな幼稚なことを、頑なに信じていたのでございます。
馬車はごとごとと進んで、終には立派なお屋敷の前で止まりました。
御仁はわたくしをまた丁寧に丁寧に馬車から降ろして下さいますと、わたくしを気遣いながらも歩みを進めるのです。わたくしは恐る恐る、ただそれについていくことしかできませんでした。
御仁とわたくしは、無言で扉の前まで歩き、御仁が誰かに扉を開けるよう命じます。
素晴らしい装飾が施された立派な扉――
その扉が左右に開け放たれますと、中は別世界が広がっておりました。わたくしは眩暈を覚えてふらついてしまい、御仁はそんなわたくしの肩を、優しく抱いてくださったのでございます。
まばゆいシャンデリアの輝きは、わたくしの瞳を射ち――、見たこともない美しい絵画の数々は、私の胸を、心をたやすく打ち砕き――、どうして立っていられるでしょうか。磨き上げられた床の上は、わたくしの素足につんと突き刺さり、それでもわたくしは、目の前に広がる圧倒的な数々を前に、屈することしかできなかったのでございます。
御仁はそれから、わたくしを何故ここへ連れ来たのかを話してくださいました。
「君はあんな場所にいるような人間ではない。一目で気に入ってしまった。君は今日からわたしのものだよ。いいね?」
わたくしは、何を言われているのかわかりませんでした。ただこくりとうなずくばかりで、御仁のおっしゃる本当の意味が、わからなかったのでございます。
御仁は満足げにうなずきますと、使用人たちに、わたくしを綺麗にするよう命じました。その使用人たちは仮面でもつけているように無表情のままでハイとうなずき、わたくしの手を引いて歩き出すのです。
わたくしはこれから何をされるのかと、怖くて御仁を振り返りますが、御仁はただ、優しく微笑むばかりでありました
