Mystery Circle

創造と想像が好きな人々の為に ―ようこそ、奇譚の円環へ。―

第一回 Mystery Circle 番外編 (同人誌編)

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◎なぜなら彼女の笑みは、芸能人が俺のような赤の他人に向ける顔にしては、あまりにも特別なものだったからだ

著者:Clown 


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 なぜなら彼女の笑みは、芸能人が俺のような【赤の他人】に向ける顔にしては、あまりにも特別なものだったからだ。
 それは、俺にとっては多少なりとも嬉しくはあるが、同時に非常に困った悩みの種でもあった。
 つまりそれは……



【Bladecaster −神國異聞録−】



 林立するビル街を通り抜ける風は、瘴気にも似ている。仕事を終え、帰宅するビジネスマンは熱病に喘ぐような表情で一様に下を向き、定まらぬ足下を正そうともせず、死霊のように群れを成す。
 月明かりは細いビルの隙間など照らす力もなく、人工の灯りが無機質な光の束となって歩く死体達に影を付けている。
 俺は屍達の流れに逆行するように、人工物の森をかきわけ歩いた。目印は、森の中で一際輝く一つの巨木。日本の急速な経済成長を糧として育った、日本を見下ろす大樹。
 東京タワー。
 余りに目立つ待ち合わせ場所に俺は辟易したものだが、彼女いわく「木を隠すなら森の中」なのだそうだ。その例えは間違っていると指摘してやりたかったが、言ったところで「細かいことは気にしない!」で済まされそうなので、口答えしないことにした。
 それにしても、東京タワーとは。因果なモノだと思いながら、俺は目の前にそびえ立ったそれを上から下まで眺めた。つい最近【仕事】でやってきたときはゆっくりと見る暇もなかったが、こうしてみると確かに美しい造形をしている。多少電飾が喧しいが、それとて華やかと言えば確かにそう言えるのだろう。
 時計を見、指定の時間をオーバーしていないことを確認する。彼女の仕事は9時に終わると言う話だったから、後10分は余裕がある。俺は入場券を買い、エレベーターで展望台まで向かった。
 エレベーターを下り、指定されたタワー大神宮の前に立つ。石組みと木材で作られた、それなりにそれらしいお社だが、この小さいスペースで大神宮もあったもんではない。それでも、祭神は一応【天照皇大神】であるらしい。天照と言えば伊勢神宮の内宮に祀られているはずだが、古来より神は国中を大移動するものとなっているから、別に間違いではないのだろう。つくづく便利な宗教観だ。
(ま、こんな物はただの依代(よりしろ)にしか過ぎないが)
 神に真の姿形はなく、ただ存在するのみ。つまりは、存在さえすれば、姿形など何でも良いのだ。そう、何でも。
 小さな大神宮の隅々を眺めている間に、約束の時間になった。恐らく今頃仕事を終えてこちらに向かっている頃だろう。俺のすぐ足下の階層の仕事場から。
「お待たせー!」
 案の定、5分も経たないうちに聞き慣れた高い声が聞こえてきた。手を振りながら小走りにやってくる彼女は、ピンクのワンピースをひらひらさせながら満面の笑みを浮かべている。俺は頭を抱えたくなるのをぐっと抑えて、何とかため息をつくに留まった。
「あのな……もう少し慎重に行動してくれ……」
「え? 何のこと?」
 目の前で豪快に汗を拭う彼女に、俺は今度こそ肩を落とした。どうやら自分の立場を自覚させるのには、まだまだ時間がかかるらしい。幸い、閉館時間も近いとあって、展望台にいる人の数はまばらではあるが、それでも油断は出来ない。
「取り敢えず、あまり目立たないところへ移動しよう。ここは遮る物が何もない」
「えー、まだお参り済んでないよー?」
「何のお参りだ」
 思わず突っ込んでしまってから、彼女のにへらとした顔を見て「しまった」と思った。しかし、今更言葉を取り消すことは出来ない。
「何のってぇ……えへへ……決まってるじゃない。恋・愛・成・就!」
「あのなぁ……」
 そもそも恋愛の成就どころって一体どこなんだよ、と更に突っ込みたかったが、そこはギリギリ抑制した。答えの予測できる突っ込みほど、馬鹿馬鹿しい物はない。
「そもそも、お前が【ここ】にお参りする理由はないだろう」
「何言ってるのよ。【ここ】だからこそ、よ」
 悪戯っぽく笑う彼女の真意は、俺には読み取れない。
 心なしか軽く頭痛がしてきた俺をよそ目に、彼女は小綺麗な祠に向かって手を合わせた。目を瞑って何かを一生懸命祈っているようだが、どうにも彼女の祈る姿からは煩悩とかそう言う類のオーラしか感じ取れない。
 普段の【仕事】をしている姿からは、想像もつかないのだが。
「ん! お参り完了! これで一ヶ月は大丈夫だわ!」
「短い御利益だな……」
 呟く俺の腕をとりながら、彼女は笑顔で俺を引っ張っていく。どうやら場所を移動しなければいけない事情は察してくれたらしい。既に遅きに失している気もしないでもないが。
「全く……普段は【赤の他人】を装えって言ったろ? 問題になったらどうするんだ」
「大丈夫よ。その時は、君が護ってくれるんでしょ?」
「あのなぁ……」
 ガックリとうなだれる。最早何を言ってもこの笑顔から逃れられそうにない事を知って観念すると、取り敢えず成されるがままに彼女の後に付いていった。



「で、【仕事】の方はどうなんだ?」
 公園の鉄柵に寄りかかりながら、今日の出来について尋ねる。近くの屋台で買ったたこ焼きと格闘する彼女は、踊る鰹節に苦戦しながらもそれを頬張ると、満足そうにニコニコしながら言った。
「ひょうほへっほうひょうへ……」
「いや、食ってから喋れよ。つか、質問に答えてから食えよ」
 明らかに時間差があっただろ、と突っ込むが、今の彼女はたこ焼きに脳容量の大半を裂いているらしく、全く反応がない。一度こいつのファンにこの姿を見せてやりたい。
 しばらく幸せそうにモグモグやっていたが、ややあって大きくノドを鳴らすと、恍惚とした表情で吐息をついた。
「美味しいー! やっぱり焼きたてが一番よねー! で、なんだっけ?」
「鳥か、お前は」
 仕事の話だ、と肘で脇腹を突くと、ポンと手を打って「思い出した」ポーズを取る。
「お仕事は今日も絶好調だったよ。Club333のゲストは初めてだからちょっと緊張したけど……」
 でもDJの子が凄く話し上手でねー、と嬉しそうに話す彼女に対して、俺は本日何度目かのため息を禁じ得なかった。
「いやいや、そっちじゃなく」
 力なく否定の突っ込みを入れる俺に、ようやく彼女は俺の意図することを汲み取ってくれたらしい。
「うん、そっちもバッチリ。ただ、ちょっと複雑だから時間かかっちゃうのよねー」
「おいおい、まさか前の時みたいにギリギリとかじゃないだろうな……」
「だいじょぶ、だいじょぶ。もう半分は完成済みだから」
 指でVサインを作る彼女だが、俺の不安をかき消すまでには至らない。本当にこいつは大丈夫なのだろうか。
 まぁ、こいつに頼らざるを得ないのは確かなのだが。
 最後のたこ焼きをやっつけに取りかかった彼女を横目に、俺は空を見上げてみた。
 雲一つ無い黒のキャンバスに、絵の具を筆で散らしたような星が瞬く。ビルの谷間をわたれなかった月光も、ここでは我が物顔で地上に降り注いでいる。
 ぞっとするほどに張り詰めた空は、緊張の糸を一本切ってやればそのまま硝子のように砕け散るのではないかとさえ思えた。視線を下げた先に鎮座する東京タワーは、まるでその壊れやすい空をその一点で支えているかのようにも見える。
 いや、視点を変えれば。
 目の前のソレは、この空を突き崩さんとしているようにも。
「たっこやっき、たっこやっき、おっいしっいなー♪」
 隣から、そう言った緊迫感を一掃する歌声が聞こえてくる。
 傍目に見てもかなり大型のたこ焼きを確実に平らげながら、口元に付いたソースを舌で拭い、しかも器用に歌まで歌う彼女。一つ一つの仕草を見ると可愛いと言っても良いが、総合的に見ると妖怪か何かの類にしか見えない。
 全く、これが人気急上昇中の【清楚な巫女さんアイドル】だと言うのだから、世間様の見る目の程を疑う。
 何をどう間違ったかと言えば、神社の一人娘で巫女でもある彼女に絶大なる歌唱力が備わっていたのがそもそもの間違いだったとも言える。昔からノリで生きてきた彼女にとって、それを【天職】と心に決めるまでにそう時間はかからなかった。
 地元の歌謡コンサートからとんとん拍子に上り詰め、ミコトという名で歌手デビューを果たした彼女は、今やゴールデンタイムの音楽番組にも顔を出す人気ぶりだ。確かに神社の娘だけあって巫女装束は嫌になるほど似合っているし、清楚な和風イメージが新感覚で受けるのも分からないではない。
 だが、実態はと言えば……正直、清楚とはほど遠い。普段着も洋服だし、神社の裏手にある彼女の離れ部屋はファンシーともファンタジーとも付かない小物で溢れている。更に言えば、彼女が実際に境内で巫女姿をして立っているのを、俺はこれまでに三度しか見たことがない。
(しかも、内一回は【仕事】がらみだしな)
 こうやって彼女と接していると、本当に彼女が生まれもっての巫女であるのか疑問になるときがある。年末年始のアルバイト巫女の方が余程長く境内にいる気がする。
(……こいつ、【本職】忘れてないだろうな……)
 些かどころか大いに不安だが、こればかりはいくら不安を抱いたところでどうなることではない。彼女に代わりはいないのだから。
 そうだ、代わりはいない。
 だからこそ、彼女にはあまり盛大に日の当たるところには行って欲しくなかったし、俺の手の届く範囲に留まっていて欲しかった。さもなくば、【赤の他人】を演じて欲しいと頼んだ。
 何故なら、それは。
「あら? もしかして、歌手のミコトちゃん?」
「ほえ?」
 不意にかけられた声に、たこ焼きを頬張っていた彼女は間抜けな返事を漏らす。声のする方を見ると、真っ赤なドレスを着た女が立っていた。いや、ドレス、というのは少しおかしいかも知れない。赤と黒で描かれた花の絵をあしらい、腰に帯の巻かれたその姿はどちらかと言えば着物に近い。
 女は彼女の顔を見て嬉しそうに笑うと、つややかな長い黒髪を揺らしながらこちらに近づいてきた。
「こんな所で会えるなんて、嬉しいわ。私、あなたのファンなのよ」
 清楚、と言うよりも妖艶と言った方がしっくり来る美貌の持ち主は、「握手してもらってもいいかしら」と言いながらそっと右手を差し出す。彼女はたこ焼きの舟と爪楊枝で塞がる両手をおたおたさせながら、ひとまず口の中に残っていたたこ焼きを飲み込んだ。
 そして、俺に一旦たこ焼きの舟を預け、握手に応じるために右手を差し出す。女はそれをやんわりと握ろうとして、

 ──ぎちり。

 俺の手が、反射的に動いた。
 それは自分でも驚くほど滑らかな軌跡を描いて、たこ焼きの舟ごと女に向けて叩きつけられる。加速度を得たたこ焼きのソースが一瞬俺の手よりも先行し、女の着衣に付着しようとした瞬間。
 女が、目の前から消え失せた。
 行き場を失い、虚空で制止をかけられた俺の手から離れたたこ焼きとそれに付属する爪楊枝は、目一杯の推進力を得て張り詰めた空気の中をおよそ食品とは縁のない速度で滑空し、無惨にも大地に叩きつけられて分解した。デンプンで作られた外套はバラバラに砕け散り、弾力のあるタコが反発力を得て宙を舞う。
 その最後の欠片が地面に落ちると同時、張り詰めていた空気が一挙に巻き戻った。
「あー! タコー!!」
 一瞬の出来事に目をぱちくりさせていた彼女が、たこ焼きの惨状に気付いて喚く。もっと別の所に驚けよ、と突っ込みたかったが、今はそんなことを言っている場合ではない。
 俺は意識を集中すると、一瞬で十メートル以上の距離を跳躍した女を凝視した。女はその視線に気付いた物か、先程までとは違った妖しい笑みを浮かべている。
「あらあら、いきなり女性に手を出すなんて、マナー違反じゃなくて?」
「普通の女性なら、な」
 苦笑いと共に皮肉を返してやると、女は益々笑みを深めた。その額には、いつの間にか下顎の欠けた髑髏の刻印が浮かび上がっている。
「……【妖(あやかし)】」
「坊や達の言葉で言うなら、ね」
 妖。
 古来より幾度となく人間と関わってきた、人ならざる者たち。俗に妖怪と呼ばれる存在も彼らと近しい存在ではあるが、実際には更に幅広いカテゴリーとして彼らは存在する。人と同じように様々な思想によって行動する彼らは、時に人と与して悪事をはたらき、また時に人と交わり共に戦ってきた。
 目の前の女は、恐らくは前者だろう。
「良く気付いたわねぇ? なるべく気配を殺したつもりなのだけど」
「生憎、鼻は利く方でね」
「あらあら、次からは香水も必要かしら?」
 くすくすと笑う女。こちらからの挑発を余裕で受け流すほどの余裕があるらしい。上手く「誘い出す」ことには成功したが、どうやら厄介な【仕事】に当たってしまったようだ。
 俺は隣で未だにうーうー唸っている彼女を肘で小突いた。たこ焼き程度で本来の目的を忘れてもらっては困る。合図に気付いてもしばらく恨みがましい声を上げていた彼女だが、どうやら事態がそれなりに緊迫してきたことは察知したようだ。
「……【羅刹国の陣】、行けるか」
「うぅ……ちゃんと来る前に準備しておいたから、大丈夫だよぅ……」
 今ひとつ気合いが入らないが、良しとする。返事を受けて、俺はウエストバッグから五枚の符を取り出した。そのいずれにも、朱文字で一文字ずつ文字が書かれている。
 【封】【禊】【廻】【刻】【域】
 それを確認する間も惜しみ、俺は符をばらまいた。手から離れた符は、まるで操られるかのように綺麗な正五角形を描く方向へと飛び去る。女は俺の行動を阻止するでもなく笑いながら見ているが、今のところ無視しておくことにする。
 符が全て行き渡ったのを確認すると、彼女は別の符を自分のポシェットから取り出し、鍵となる言葉を読み上げた。
「【羅刹国の契り】に依りて、盟約の主に代わりて命ずる。楔に約されし【域(さかい)】を以て【禊(みそぎ)】の地とし、永劫に【廻(めぐり)】し【刻(とき)】の回廊に【封(ほう)】ずべし!」
 一瞬、視界がぶれる。それと同時に、そこにある全ての物が──雑踏も、虫の声も、空気の流れさえも──動きをやめ、永遠の静寂の中へと沈みこんだ。
 予め楔によって指定された有限の平面と、無限の鉛直軸で囲まれた半閉鎖空間を作り出し、その空間における一切の時間の流れを歪曲させる。【羅刹国】と伝わるその空間で起こった出来事は、全て現実の世界に反映されない。つまり、この空間の中にいる限りは、何をどれだけ破壊しても陣を解くだけで元通りに(正確には何ごとも起こらなかったものとして)処理される。
 施術者(俺)とその代行者(彼女)、そして術式の対象となった者(女)は、この空間から出ることは出来ない。唯一この空間を解除出来るのは、術者の意志か、術者の死をもってのみ。
「あらあら、本物の巫女さんみたいね? 羨ましいわ、こんな有名人が側にいるなんて。ねぇ、【刀鍛冶】?」
 俺の方に向けて、はっきりとそう口にした女。どうやら心配が現実になる日が来てしまったらしい。もっとも、まだ完全ではないが。
「……その言葉を知っていると言うことは、お前も【刀狩り】か」
「あら? 何の事かしら?」
 今更とぼけたことを言う。だが、むしろそっちの方が好都合だ。俺は心の隙を見せないように毅然とした態度を装うと、やや挑発の調子を交えて切り出した。
「幾つか聞きたいことがある。その返答如何によっては、俺はお前をこの国から追い出すか、さもなくば消滅させなければならない。出来ることなら穏便に行きたいんだが……」
「あらあら、物騒ね。私は、何か罪を犯したかしら」
 俺の言葉を遮り、困惑したような声を出す女。だが、その顔はちっとも困惑の色を呈していない。寧ろ、愉しんでいる。そんな感じの表情だ。
「……まず一つ。今月に入ってから今日までの二週間で十五件、謎の通り魔事件が発生している。被害者は全てが男性で、一様に裸に剥かれた上、致死量ギリギリまで血液を抜き取られていた」
「あら、怖いわねぇ」
「うち十三名はそのまま衰弱により死亡。一命を取り留めた残り二人は、譫言のようにこう繰り返していた。【赤い蛇に飲み込まれた】と。これについて、お前の見解は?」
「まぁ、きっと怖い夢でも見たのね」
 女は、艶やかな笑みを崩さずにそう答える。とぼけているようにも見えるが、その表情からは真意までは掴めない。この話題についてこれ以上掻き回しても、恐らく埒はあかないだろう。
「では、もう一つ」
 若干の間を置き、俺は次の質問を──実はこちらの方が重要なもう一つの質問を、口にする。
「……何処で【刀鍛冶】の存在を知った?」
 俺の言葉に、女は笑みを深めた。
「……さぁ、何処かしらね?」
「それは、【刀鍛冶】の存在を知っている、と言う前提での返事だな?」
 すかさず鎌をかける。女は悪戯を咎められた子供のようにちろりと舌を出すと、黒曜に濡れる髪をかき上げた。どうやら、それ以上何も答える気はないらしい。それを受けて、俺は新たな符を取り、構えた。
「ならば、打ち倒して聞き出すまで」
 強く、冷たく。
 言い放つ俺に向けて、女は、初めて声を立てて笑った。
「ふふふふふ……嫌いじゃないわよ、強引なのも」
 真っ赤な長い舌で、女は自分の指を舐める。
 それが、合図。
「雷(いかづち)纏いて来たれ、黄龍(こうりゅう)!!」
 俺との会話にまぎれて距離を取っていた彼女が、二枚の符を投げつけ言霊を放った。それに反応するように、二枚の符は各々が雷をその身に纏う龍に変化し、女の元へと殺到する。だが、女がそれを一別して掌をそちらに向けると、二匹の龍はまるで操られたかのように軌道を逸らし、明後日の方向に向けて飛んでいった。
 彼女は間髪入れず更に倍の符を擲(なげう)つと、先程にも増して大きな声を張り上げる。
「炎(ほむら)立ちて舞え、紅龍(こうりゅう)!!」
 その声の大きさに比例するかのように、紅蓮の炎を全身から吹き出した巨大な四匹の龍が、唸りをあげて女を襲う。アスファルトの舗装すら溶かす超高熱の炎。しかし、女はそれらを睥睨してにやりと笑うや、何の予備動作もなく、一呼吸の間に遙か上空へと飛び上がった。
 突如目標を見失った四匹の龍は勢いを殺せず、方向転換しようとして互いにぶつかり合い、消滅する。女はその様子を眺めると、両手を高く掲げた。その手にはそれぞれ黒い雲が宿り、やがて雷を宿す。
「うふふ……お返しするわね?」
 女の声が響くと同時、その手から発せられた雷撃が雨の如く一帯に降り注いだ。俺は咄嗟にポケットから追加の符を取り出して一枚を彼女の方に投げつけると、もう一枚を自分に重ねて叫ぶ。
「金剛鎧いて護れ、白龍!!」
 炸裂する雷が突き刺さる間一髪の所で、煌びやかに輝く白い龍が俺達を包み込んだ。雷は鏡のように滑らかな鱗に弾かれ、四方へとはじき飛ばされる。それでも、伝わってくる熱量は相当のものだ。
 雷の威力が弱まった頃を見計らい、俺は同じく白龍の下で顔をしかめている彼女の元へと駆け寄った。同時に雷撃がやみ、白龍は役目を終えたとばかりに消滅する。
「……大丈夫か?」
 宙に浮く女から目を離さずに、彼女に問いかける。焦げたニオイがしないところを見ると、何とか間に合ったらしい。彼女は片手を挙げて「びっくりした……」と漏らすと、反対の手でポシェットから八枚の符を取り出した。どうやら戦意は喪失していないようだ。
 俺はベルトのバックルとして使っていた金属片を取り外し、それを彼女の顔の前に差し出した。一瞬きょとんとしたらしい彼女は、しかしすぐにその意を察すると、符を持たない方の手でそれを受け取る。
 その金属片は──闇に翳る月を彫り込んだその円形の金属片は──これから行われる【仕事】を締めくくるための、鍵。
「頼むぞ……【照那(アキナ)】」
「うん、任せて、【冥羽(クラハ)】」
 今日、初めて呼び合うお互いの名前。それは【現名(あらわしな)】と俺達が呼ぶ、力を持つ名前。みだりに口に出すことの出来ないそれらを承認する(呼び合う)ことで、俺達の最初の戒めが解き放たれる。
「作戦会議は終わったのかしら?」
 未だ艶めかしい笑みで宙に浮く女。俺はわざと挑発するような笑みを返すと、照那の元を離れて駆けだしながら符を取り出す。その一枚を右腕に張り付けると、俺は気合いを込めて叫んだ。
「現世(うつしよ)裂きて出でよ、銀龍!!」
 それと同時に、銀色に輝く龍が俺の腕に巻き付く。形を変え、腕と一体化したそれは、現世に存在する何ものよりも鋭い刃となる。
 俺はもう一枚の符の力を使って一気に空中へと躍り出ると、まるで待っていたと言わんばかりの表情で腕を組む女と対峙した。漆黒の髪が風にたなびき、朱に縁取られた唇が弧を描く。
 改めて向き合うと、その女が如何に強大な力を持っているかが否応なく伝わってきた。【現名】を承認したことで敏感になった俺の肌に、女から漏れ出る静かな殺気がギリギリと絡みついてくる。
「お前、【名】は」
 俺の問いに、目を細めた女は唇に指を重ね、短く、囁くように言った。
「……【九蛇躯(くじゃく)】」
 その名には、聞き覚えがある。古くは【八岐大蛇(ヤマタノオロチ)】に根源を持ち、死した大蛇の腐肉から生まれた【妖】の一族。そのいずれもが大蛇に劣らぬ力を備え、末法の世(釈尊入滅後の最後期)に出でて國を喰らい尽くすと言う。
 その者たちの名は、【屍蛇羅(しだら)】、【破蛇皇(はじゃおう)】、そして【九蛇躯】。
 一瞬、後悔がよぎった。難儀どころではない。今回の【仕事】は、最悪だ。
「……いよいよ、末法世と言うことか」
「あらあら、もうとっくに、よ?」
 愉しそうに言う女。俺は刃と化した右腕を翳すと、女──九蛇躯に向けて突きつけた。
「切り開く」
「出来るのなら」
 挑発が終わると同時、俺は九蛇躯の懐へと飛び込み、右腕を一閃した。銀色の軌跡が空を斬り、一瞬景色がぶれる。彼女は直前に後方へと跳躍していたが、銀の燐光が触れたドレスがわずかに削り取られていた。
 俺は休息を与える間もなく刃を二閃、三閃と打ち込んでいく。その度に空間が歪み、銀光の軌跡上に存在する一切を【無】に帰す。
「ふふ……実存を切り取る刃ね?」
 九蛇躯は軽快に空中でステップを踏み、全ての斬撃をギリギリの所でかわしていた。躍るドレスがその度に千切れ、消滅するが、不思議なことに次の攻撃までには元の状態に戻っている。どうやら着衣自体は実体を持たないようだ。
 全て見切られている……ならば、あまりこの方法は時間稼ぎにならない。そう判断すると、俺は即座に攻撃を切り替える。
「開放せよ、銀龍!!」
 言霊に反応し、腕の刃は分解され、それぞれが光の筋となって九蛇躯の元へと飛んだ。ギュイ、と不気味な音を残し、銀の光が彼女の右腕を貫く。拡散した光がそれを更に押し広げ、彼女の腕は完全に千切れ飛んだ。
「あら、酷い事するのね」
 吹き飛んだ腕を器用に無事な方の手で掴み、困ったような顔をする九蛇躯。だが彼女が千切れた腕を切断面に押しつけると、まるで何ごともなかったかのように接合される。
「結構体力使うのよ? 腕を繋げるのって」
「言ってくれる」
 俺は内心歯がみをすると、ウエストバッグから四枚の符を取り出した。それをすぐには投げず、宙を蹴って九蛇躯から距離を取りながら、時間差で投げつける。
「万象砕きて喰らえ、紫龍!!」
 言霊が響き、紫に彩られた四匹の巨大な龍が体の中腹まで割れた口を開く。彼らはその口から発した超音波で対象を文字通り骨まで砕き、そして喰らう。
 九蛇躯は一瞬口角をつり上げたかと思うと、瞬時に後方へと跳躍する。ほんの瞬きの間に数十メートル先に出現した彼女を、しかし四匹の飢えた龍達は決して見逃さない。更にもう一度の跳躍を行った彼女の出現点を予測し、その巨躯から想像もつかない速度で先回りした彼らは、あっという間に彼女を囲い込む。次の一手まで予測されていた九蛇躯は、待ちかまえていた彼らの超音波を一手に浴び、すぐさま四肢を食い千切られた。
 いや、食い千切られたかのように見えた。
 次の瞬間、紫の龍達は一斉に爆散した。砕け散った肉片があたりに散らばり、霧となって蒸発する。しばらくして晴れた霧から出てきた九蛇躯の四肢に噛まれたような痕は一切無く、何ごともなかったかのように平然とそこに立っている。
 全くの無傷。これは、俺も予想していなかった。だが、動揺の色を見せてはならない。あくまでも堂々と振る舞わなくては……【刀鍛冶】のように。
「……次は、こっちの番かしらね?」
 言って、彼女は右手をこちらに向けて翳す。俺は咄嗟に符を取り出すと、前面に投げつけて叫んだ。
「金剛鎧いて護れ、白龍!!」
「おいでなさい、【屍喰の蛟(しぐいのみつち)】」
 ダイヤモンドの硬度に匹敵する白き龍の盾が展開されると同時、漆黒の塊がそれにぶつかって轟音を立てた。たったそれだけで、先刻の雷でもびくともしなかった白龍の体にわずかなヒビが入る。塊はもぞもぞと動き始めると、ぐっと体を伸ばした。その醜悪な姿は、恐らく永遠に俺の記憶に残るだろう。
 鋭い鉤爪の生えた四肢を持つ巨大な蛇。背には小さな八枚の翼を持ち、覆う鱗はその一枚一枚が鋭い刃物のように輝いている。顔とおぼしき場所にまともな顔はなく、ただ発達しすぎた顎と巨大な歯が立ち並ぶのみ。そして何より目立つのは……腐肉で出来た腹から覗く骨と臓物。これが一個の生物かと思うと、吐き気すら催す。
 正真正銘化け物のその後ろで、女は愉快そうにこちらを眺めていた。坊やの相手はこの程度で十分だ、そう言いたげに。
 化け物は白の防壁の向こうでうねると、再びその巨体を突っんできた。とてつもない音が響き、白い破片が飛び散る。白龍は今度も何とか持ちこたえたが、ダメージが相当酷い。後一度は支えきれないだろう。
 俺は一気に符を十枚取り出すと、それを両手に五枚ずつ構えたまま化け物の動きをじっと観察した。化け物は腐肉を散らしながら身震いすると、次の突進に向けて体をよじり始める。その力が最大限に達したと思しき瞬間、俺は白龍の盾から飛び出した。
 化け物は瞬時に標的を変える判断力は持たないらしく、そのまま白龍に体当たりをかました。限界が生じた龍は全身に亀裂が入り、粉々に砕け散る。俺はそのまま宙を蹴って全速力で化け物から距離を取ると、まず五枚の符を宙に投げた。
「金剛鎧いて護れ、白龍!!」
 今度は五匹の白龍を呼び出し、前面にすきま無く展開させる。一匹ずつの防御力は同じだが、あの体当たりの力を分散させることが出来れば防ぐ時間は格段に上がるはずだ。早くもこちらに気付いた化け物を遠目に見ながら、俺は残った五枚のうち四枚を放り投げた。
「炎立ちて舞え、紅龍!!」
 白龍の外縁を縫い、四匹の紅き龍が化け物目指して咆吼を上げる。若干の時間差を置いて化け物を攻撃するが、化け物はほとんどダメージを受けていない。それどころか、一匹、また一匹と化け物の巨大な顎に挟み込まれ、噛み砕かれていく。
 ほんのわずかな時間稼ぎの間に、俺は最後の一枚の符に最大限の力を込めた。より強力な龍を召還するには、元々符に込められていた力では足りない。
 化け物は見る間に紅龍を食い散らし、目の前に展開する白竜に向けて攻撃を開始した。その巨体が龍を叩き潰し、破壊の顎で鱗を砕く。どうやら見立ては甘かったようだ。五匹も展開した白龍は、先程とほとんど変わりない速度で破壊されている。
 いや、その若干の差は、大きい。
 最後の白龍を吹き飛ばした化け物に向けて、俺は符を撃った。
「黄昏喰らいて滅せよ、黒龍!!」
 その呼びかけに符は黒く歪み、そこから一切の光を拒絶する暗黒が生まれ出る。暗黒は燃えるように身を沸き立たせながら、漆黒の龍へと変化した。化け物はその様を見ても怯まず、歓喜とも狂気ともつかない咆吼を上げて、黒龍へと突進する。
 その腹が、一瞬のうちにえぐり取られた。
 化け物は絶叫を上げてのたうち回る。黒龍はそれに構わず化け物の体を次々と噛み千切った。黒龍の体内は、空間軸と時間軸が現世のそれと著しく解離している。そのため、黒龍に食された物は決して現世に戻ることは出来ない。例えそれが、一部であろうと全部であろうと。
 為す術もなく体を食い千切られる激痛に踊り狂う化け物は、とうとう我を忘れて破れかぶれの突進を繰り返し始めた。黒龍は直線的なその動きを難なくかわし、その度に化け物の体を抉り取っていく。
 そして何度目かになろうという突進は黒龍を通り過ぎ、あろう事か招喚者である九蛇躯に向けて放たれた。正気を欠いた化け物には、最早敵味方の区別は付いていない。
 九蛇躯は迫り来る化け物に向けて右手を伸ばした。暴走する化け物はそれが意味するところも分からず突撃し──その手に触れた瞬間、まるでそこだけ時間が静止したかのようにぴたりと動かなくなる。
「あらあら。主に向かって『おいた』するなんて、仕様のない子ね」
 僅かに落胆を含んだ笑顔が漏らす台詞が終わるか終わらないかの内に、巨躯があり得ないスピードで吹き飛んだ。物理法則を限界まで使い切って空を切るそれはそびえ立つ東京タワーにぶち当たると、異様な音を派手に撒き散らして挽肉になった。衝撃でタワーの支柱は歪み、その角度が若干変わる。
 俺はその圧倒的な力に戦慄すると共に、ほんの少しだけ安堵した。これだけの力を持て余していながら、この女は最初に俺を殺そうとはしなかった。それはつまり、彼女にとってこの戦い自体が「遊び」という程の認識であると言うこと。今まで【刀鍛冶】を狙ってきた奴らは、隙あらば首級を挙げんとする奴ばかりだった。それ故彼我の力量差が生き残る確率を左右していたが、今回は圧倒的格差がありながら勝機を見出すことが出来る。
 そして勝機を得るための【鍵】も、もうすぐ完成するはずだ。
「ごめんなさいね、出来の悪い子で」
 苦笑いのような表情を浮かべながら、九蛇躯。台詞はまるで母親のそれだが、先の行為を見た後では寒々しさすら覚える。
 俺は残り三枚となった符を取り出すと、眼前に構えた。時間稼ぎの種は、これで尽きる。何とか耐えきらなければ……俺は一瞬焦燥感に駆られた。いや、駆られてしまった。
「……あら?」
「……ッ!!」
 その一瞬を、九蛇躯は見逃してはくれなかった。
「……なるほどねぇ。あなたは【鍛冶守】だったわけね?」
 俺の焦りが、強烈に縛ったはずの意識の鎖をほんの少しゆるめた一瞬。俺は、照那の方に視線を送ってしまった。
 対【妖】戦闘史上最強の刀を創り出す、【刀鍛冶】に。
「くッ……金剛紡ぎて封ぜよ、白龍!!」
 俺は一枚を九蛇躯に向けて投げ、相手の行動を封じるための白龍を呼び出す。だが、彼女が僅かに腕を払っただけで、白龍は硝子のように弾け飛んだ。その間にもう一枚を銀の刃へと変えると、俺は九蛇躯の前に立ち塞がる。
 だが、
「ふふ、折角ここまで頑張ったのに……残念」
 目の前にいたはずの九蛇躯の声が真横から聞こえ、俺は咄嗟の防御も空しく地面に向かって吹き飛ばされた。何とか重力をコントロールし、地面すれすれで静止することに成功する。彼女の腕が接触する間際、銀の刃がその腕を切断したために直撃を免れたが、もしまともに食らっていたら俺もあの化け物と同じく地面に大穴を空けてミンチになっていたところだ。
 九蛇躯はまたしても腕を器用に繋ぐと、真っ赤な舌を覗かせて笑う。そして、「これで終わり」と言わんばかりに両腕を広げた。その間には、先程と比べものにならない程の濃度を誇る暗雲が立ちこめる。その矛先は、
「冥羽!! 出来たよ!!」
 大声でこちらに合図を送る照那。それを引き金に、九蛇躯は雷土(いかづち)を開放した。爆発的なエネルギーを秘めた光の帯が、照那に向けて疾る。
 照那の顔が、光の奥で悲痛に歪んだ。
 俺は、大声でその【名】を叫んだ。
 瞬間、目の前が真っ暗になった。

 光が、収束する。

 目を開き、俺は「それ」を手にした。握りしめた柄から、力が流れ込んでくるのが分かる。鞘のない剥き出しの刀身は微細に震え、この世に生まれ出でた喜びを体現しているかのようだ。
 握る手に力を込め、眼前に構える。その切っ先の向こう、驚きを隠せぬ顔で宙に浮く女に目標を定め、俺は高らかに言霊を掲げた。
「昏(くら)き冥府より羽衣纏いて我が前に光臨せよ、【帥冥(すいめい)】!!」
 刀身に込められていた力が、開放される。発せられる闘気は青白く揺らめき、萌え広がって俺の体を包んだ。そのエネルギーは凝縮されて物質化し、漆黒の鎧となって全身を覆っていく。
 数千年の時を、妖の殲滅に捧げ続けてきた刀──帥冥。冥府の使者であり、月の支配者でもある天津神(あまつがみ)、【月読】の化身とも言われ受け継がれてきたこの刀は、武を司り、太陽を支配する天津神、【天照】の血を引く巫女の手によってのみ鍛えられる。
「……だから、俺は照那に有名になって欲しくなかったんだが」
 しかし、その伝承は時を経て歪み、帥冥を鍛える者と使役する者は混同されて、いつしかこう呼ばれるようになった。
 すなわち、【刀鍛冶】。
「まぁ、今更言っても仕方ないか」
 独りごち、俺は刀を振り下ろした。その一降りは直線上に虚無の空間を創り出し、真っ直ぐに女を──九蛇躯の左肩から先をばっさりと切り落とす。無表情になった彼女はその腕を回収しようともせず、先程までとは打って変わった低く唸るような声で問うた。
「……どういう絡繰りかしら?」
「切り札ってのを、使っただけだ」
 そう言って、俺は持っていた「最後の一枚」の消し炭を彼女の前でばらまいた。
 温存していた最後の符。それは、対象と自身の間の空間を転移させるための、正に切り札。呼び出された双頭の龍は、瞬時にして俺と照那の位置を入れ替えた。後は、俺が刀に触れさえすれば、あの程度の雷土なら防ぐことが出来る。
 刀の執行者たる【刀使い】である俺なら。
「そう……坊や達二人で一つなわけね……?」
 九蛇躯はそう呟くと、天を仰いだ。その瞬間、爆発的に彼女の妖気が高まり、見る間に彼女を巨大な妖へと変化させた。妖艶な素顔はそのままに、体の背面が鱗で覆われ、胸と腹は強固な外骨格で鎧われる。腕は龍のそれに似た鉤爪を備え、腰より下からは九つの頭を持つ蛇が鎌首をもたげた。
 これが、九蛇躯。八岐大蛇の血を引く、旧き妖。
「それじゃあ……二人とも壊してあげるわ」
 身の毛もよだつ恐声が響き、本体を現した九蛇躯が雷土を振りまいた。九つの頭が一斉に放射する雷土は、先程の物より威力は弱いものの、数が多い故に累積するダメージが大きい。俺と転移した照那は白龍で辛うじて身を守っているが、その表情はかなりきつそうだ。
 俺は帥冥で雷土を防ぎながら、先程と同じように刀を振り下ろす。空間の断層はそのまま蛇の頭をはじき飛ばしたが、尋常ならざる再生力が働いているのか、すぐに新しい頭が生えてきた。どうやら、本体を直接叩かないことには倒せないようだ。
「なら……【帥冥】に命ず。我が身を賭して冥府の扉を開くべし!!」
 言霊を叫び、俺は自分の力と引き替えに刀の力を更なる高みへと開放した。気力が一気に刀へと流れ込み、一瞬気を失いそうになる。何とか踏みとどまり、ギリギリ限界量の力を刀に乗せると、俺は九蛇躯へと跳躍した。
「うぉぉぉッッ!!」
「……!?」
 まさか突っ込んでくるとは思わなかったらしい九蛇躯は、驚嘆の表情を浮かべる。今度は逆にこちらが笑顔を浮かべてやると、俺は膂力を最大限使って刀を振り下ろした。

 ──ズ。

 鈍い音が、辺り一面に響く。
 振り抜いた刀は、九頭の蛇を全て虚無空間に帰し、更に彼女の腰から右肩にかけて斜めに切り裂いた。切断面は即座に再生しかけたが、そこへ追い打ちをかけるように照那の放った炎の龍が仕掛ける。九蛇躯はこの世の物とは思えぬ絶叫を挙げると、先程の大きさまで縮んでいった。そして、そのまま落下して地面にぶつかる。
 俺は帥冥の任を解いて装備を解除すると、九蛇躯の横へと降り立った。向こうから、符術を放った照那も駆けつける。
 九蛇躯は傷口も再生できぬまま、そこに横たわっていた。腰から下と右腕を失い、無事だった上半身も焼けこげた状態で未だ息をしていることが驚異的だが、それでも浮かべている彼女の笑顔にまず驚く。
「……ふふ……負けちゃったわね……」
 そう言って、九蛇躯は残った左手で顔を覆った。
「遊びのつもりで手を出したのに……私も、老いたかしら……」
 その手から、白い煙が上がる。焼けこげた為ではない。妖術の一種なのだろう。
 おそらく、その煙を吸ったら彼女は死ぬのだと思った。
 何の根拠もなかったが、彼女の声から失われてしまった艶が、それを予見させた。何千・何万年と生きてきた彼女にとって、もしかしたら既に持て余した命だったのかも知れない。
「でも……久々に楽しかったわ……」
 九蛇躯の体が、崩れていく。まるで、内側から燃えていくように。ゆっくりと、ゆっくりと。
 そしていつしか、そこには一山の灰だけが残った。
「……終わった……」
「……終わったねー……」
 気が緩んだ瞬間、硝子の割れるような音と共に【羅刹国の陣】が崩れ去った。その一瞬で、何ごともなかったかのように全てが一変する。そこには歪んだ東京タワーも化け物のミンチもなく、そして九蛇躯の遺灰すらも残されていなかった。
 羅刹国の陣の中で死んだ者は、そのまま陣の中に取り残される。例え天地がひっくり返って九蛇躯が生き返ったとしても、最早この世に出てくることは出来ない。
 与えられた【仕事】が終わり、呆然とする俺達を、塔の向こうから伸びてきた光が照らしつけた。

 ──こんな俺達にも、朝は容赦ない。



●自己批評
 終わった・・・何もかも終わった・・・。
 本当は原稿用紙10枚くらいで収まる予定だったのに、気付いたら4倍なんだぜ(涙)?←最大の反省点
 今回書くにあたって課した命題は、「少年誌の読み切りっぽく」「如何にお題をスルーするか」。
 後者は最早完全なスルーッぷりだなと思ったが、前者は今ひとつ達成できていない気がする・・・願わくば、彼ら二人のこれからの道を想像して楽しんでいただければ幸い。


『道化部屋不定期報。 Clown』 


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◎おそらく煙を吸ったら彼女は死ぬのだと思った。

『Birthday Songは ラップとロック』

著者:なずな 


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─おそらく あの頃のあたしだって、
その煙を吸ったら死ぬって、本気で思っていた
・・わけではなかった・・と思うんだ。



木造の古いアパート。
廊下側にある小窓の隙間から、塔子は家の中を覗き込んでいた。
どのくらい長くそこにいたのだろう。だんだん頭がくらくらして 目の前がちかちかしてきた。
立っていられない。気分が悪くなって しゃがみこむ。
とんでもないヤツだ。家をタバコの煙だらけにしているその男、絶対にロクなもんじゃない。
このまま 死ぬのは遠慮させてくれ・・・・
新鮮な空気を求めて 塔子は口を押さえ、屈んだまま ずりずり、アパートの階段に向かった。

「何 やってんねん、学級委員」
いきなり 後ろから、聞き覚えのある関西弁。
人が生死の境でもがいているというのに 恐ろしくのんきな声。
すー、はー、すー、はー、すー・・・・
階段から上半身乗り出して 体中の空気を入れ替える。
深呼吸、シンコキュウ。
後ろで声の主、転校生の柳原健太が、腕組みして塔子を見ていた。
変な生き物でも観察するみたいな顔をして。


「だって うちのお母さん 死ぬって言ってたもん。子どもはタバコの煙吸っちゃいけないって。
 タバコ吸う人のそばにも絶対行くなって・・」
息ができるようになって 階段に座り直し、やっと話し出す。
「あほか、これっくらいの煙で死ぬわけあれへん。子どもだと思って 嘘、教えたらあかんなぁ」
胸がどきりとした。ある言葉にひどく動揺していた。
動揺をごまかすため、わざと健太に向かって 塔子は、げほげほ咳き込んだ。
「お前って母ちゃんの言うことなら何でも信じるワケ?
だいたい無理して息止め続けて、苦しくない訳ないやろ?」
肩に手をかけられ 顔を覗き込まれた。いつもふわふわ笑ってるような 能天気な顔。
こんなアップで男子を見ることなんか皆無。 塔子は酷くあせる。
「こ、これっくらいぃぃ?こ・こ・こんな部屋中 煙だらけの家、みっ、見たことないよ。
不健康だし不潔だし・・・・・っていうか あんた、いつからあたしを見てたの?」


「こっちこそ、聞きたいんやけど・・・」
健太はランドセルからぶら下がった家の鍵を片手で弄びながら 塔子の顔をじっと見た。
片方だけ肩にかけた、身体の大きさには もう不似合いな、ランドセル。
手にはスーパーのビニール袋。カップラーメンが数個、透けて見えている。
「何よ」
「お前・・・オレん家に何の用?」

玄関ドアに手をかけ、鍵が掛かってないことを確かめると
「何や オッサン起きとんのか?」
健太は 中を覗き込んで その家の人に声をかけた。
頭が混乱しまくって、どうしたらいいか解らなくなっていた。
こういう時は、逃げろ!・・・塔子はいつも こうやって何とかやってきた。


街中で見つけて後をつけた・・母の「新しいコイビト」。
─あの男、転校生の健太の家の人だった。えっと、自己紹介の時へらっとして言たっけ、アイツ。

「大阪で一緒に暮らしてる母親が、海外に長期出張なので、
 久しぶりに『元、父親』の世話になってやることにしました」
好奇心に満ちた視線を一身に集めながら、柳原健太は顔を上げてツーステップで通路を歩いた後
先生の指示に従って塔子の隣の席にストンと座ると、やや大きめの声でこう言って、ニッと笑った。
「キャリアウーマンの母親、作家志望の定職なしの父親、いかにも破綻しそうな取り合わせやろ?」



猛ダッシュで息が切れた。塔子は河原の草むらにしゃがみこむ。 
空 青い。 眩しくて 目をつぶる。ばたりと草の上に身体を倒してみる。

─最悪。
母さんの「コイビト」は平日の昼間、くしゃくしゃ頭でよれよれの短パン姿でゴロゴロしてて
家の中、タバコの煙だらけにしてた。 学校帰りの子どもにカップラーメン買わせてた。
そうじゃない、そうじゃない。
もっともっと最悪なのは、クラスメイトの「元父親」だったって事だ。


「おい」
「ひゃっつ!」
素足に履いた汚いスニーカーが 塔子の頭のそばにある。その上は擦り傷だらけのゴボウ足。
その足が、いきなりとんでもない事を言った。
「肺ガンで 壮絶な死に様だった・・・っていうの、お前の父ちゃん?」
「え・・・?」
塔子は飛び起きて 髪の毛を撫で付けた。服についた草をパパンっと払う。

「今 お前の後追っかけながら思ってたんや・・・。
お前の母ちゃんの大げさなタバコ嫌いって そのせいかなぁ・・って」
意味が分からない・・頭を一生懸命整理する。
「そうか・・あのオッサンが熱あげとる服屋の店員・・って お前の母ちゃんだったんやな」
お願いだから、ひとりで勝手に、納得しないで欲しい・・。
「着もしない服ばっかり買うてくるから、おかしいと思って問い詰めて聞いた。
 あまりに凄い身の上話やし、こんな話マジ あれへんって オレ、思いっきり笑ったんや。
  ・・・・あれって、お前の母ちゃんと父ちゃんの話やったんか」

何だか嫌な予感がした。身体がかぁっと熱くなる。
「親父がな、涙流してオレに話すんや。こんな身の上の女性と出会ってしまった。
俺にできることは何もないんだろうか・・・・」
父親の口真似か、健太はもそもそした口調でそう言って、頭をくしゅくしゅ掻き回した。
「ど・・ど・・・どんな・・どんな・・みっ・・身の上っ?」
「家柄の違いを理由に猛反対する親を押し切って 大恋愛の末の結婚。毎年誕生日にはバラの花束。
 それも何十年先までの予約がしてあって、闘病の末、死に別れた今も、花屋から届く。
 花束には、『君の幸せだけを願っている』のメッセージつき・・・」
ああ・・・脱力・・・塔子は目の前が 真っ暗になった。

「ともかく・・」
何を言い出すんだ?・・ 少し身構える。
「ともかく・・・ ごめん」健太は ぺこり 頭を下げた。
健太の頭のてっぺんのよく日に焼けたつむじを、塔子は複雑な思いで眺めていた。



「繊細なの。感受性の強い人。さすが作家のたまごって感じ」
塔子の母「加恵さん」は恋する少女のような目をして言う。
加恵さんは、気さくで人当たりがいいし、同学年の子のお母さんよりずっと若い。
美人だって言ってくれる人もいる。
ずっと紳士服専門店で仕事をしながら 塔子を一人で育てた人だ。

「別れた奥さんとの間に息子がいて、当分一緒に住むことになったって言ってたわね、そういえば」
台所の換気扇を回しながら 加恵さんはタバコを吸っている。
「同じクラスなの?その子 かっこいい?」
白い煙が銀色のレンジフードの中に、ゆらゆら吸い込まれていく様子を 塔子はずっと眺めていた。
じわじわ怒りがこみ上げてくる。気にすべきは そんなことじゃ ないだろ?
─肺がんで死んだなんて、よく言うよ。バラの花束って何だよ・・・。初耳だよ。
恥ずかしいよ。すぐバレちゃうよ。いつもバレて馬鹿にされて 笑われてたんだよ。
知らないのは母さんだけなんだから。
あそこまでいくと病気だね・・、前のコイビトはあたしに言ったんだよ
「もう つけ回す必要ないからね。さよなら、お嬢ちゃん」

違う、違う、今度はそれだけじゃないんだ。今までの人たちとは違うんだ。
言いたい事はたくさんあった。聞きたいこともたくさんあった。
でも加恵さんの笑顔が壊れてしまいそうで、今の自分の穏かな日々が消えてしまいそうで
塔子はいつも何も知らない振りをしていた。


会ったことも無い父親に対して、塔子は自分でも不思議な程、何の感情もなかった。

無責任でいい加減な男だったよって 亡くなった祖母はいつも けなした。
そんなの 塔子にしてみたら ちっとも聞きたい話じゃない。
だから加恵さんが空想で、王子様と大恋愛しても、悲劇のヒロインになってても、
そんな話を新しいコイビトができる度にぺらぺら喋っても、何人あきれて離れて行っても、
─ あたしには全然関係ない・・・塔子はそう 思おうとしていた。
─どうでもいいんだ。他の誰も迷惑しなきゃ。こんなことで警察はやって来ない。
そんな風に「学習」してきたんだ、この母親との暮らしから
・・塔子はずっと、割り切ろうと思っていた。
けれど、今度はちょっと 違う。

─だから・・・ごめん お前の母ちゃんのこと笑ったりして。 ごめん、疑って。
赤い顔して健太はあたしに言ったんだ。
泣き出しそうな顔をして、あたしに頭を下げたんだ・・。



「あのオッサンな、いつも簡単に他人に騙されて、金も無いのに借金の肩代わりしたり、
 わけ解んない物買わされたり・・・あ、お前の母ちゃんの店の服のことと、違うから・・・
 そんなんやから・・・・オフクロに早々に愛想つかされてん。‘ほな さようなら’ってな」
「あきれたオッサンやで。いっつも 騙されんの。単純で 大事なときに想像力に欠けるねん。
 あんなんじゃ、作家になんかぜーったいに、絶対に なられへんな」

塔子の休み時間の密かな楽しみ、音楽室のピアノを弾いてる時も 健太はふらふらやって来た。
作曲家の肖像に落書きしながら鼻歌歌ってたかと思うと、いきなり父親のことを話し出す。

「ほんと言うと、あのオッサンのこと、オレ ほとんど知らないんや。
 物心ついた頃には もう別れててん、うちの両親。今のはオフクロの受け売り」
いつも通りの淡々とした口調でそう言った後、健太はぺろりと舌を出して照れくさそうに笑った。
お父さんのこと、好きなんだな・・健太はひとつも褒めないけど、何となく塔子には伝わった。
弾いてるのを邪魔されるの、迷惑だったはずなのに、音楽室に健太の気配がないと物足りない・・
そんな自分に 塔子はちょっと戸惑う。




「昔、昔・・・加恵ちゃんって女の子がいました・・」
小さい頃、眠る前にいつも加恵さんが話したのは 加恵さんや塔子が主人公の夢物語。
仕事で疲れて帰ってきてもちゃんと食事を作って、一緒に食べて、一緒にお風呂に入った。
加恵さんは塔子の横に枕を並べて、眠りにつくまで色んな空想の話をしてくれた。
加恵さんの話は面白くて話し方もとても上手で、小さい塔子は眠いのに眠りたくなくていつも困った。
ふわふわきらきらした 幸せな色のついた思い出。眠る前の夢の国。
一人ベッドで眠るようになってからも 思い出すのは そんな時間の楽しかったこと。

どうしたって そんな母さんを嫌いにはなれない・・・
お皿を片付けたり、アイロンをかけたりしている加恵さんの気配に耳を澄ませながら、
塔子は布団を被って目をぎゅっと閉じた。




─もうすぐ 母さん、誕生日なんだよなぁ・・。
学校帰り 回り道して商店街へ行き、塔子はバラの値段を確かめた。
さびしい貯金箱の中身、目に浮かべる。バラの花束なんて無理、無理。

「今年は、うちのオッサンにも何かプレゼントさせよか?」
飛び上がった。振り返ると真後ろに健太がいた。
逆光で顔が真っ黒だったけど何だか妙に、真面目な顔してるのは解った。

「なな・・何を?何の話?何でアンタがここにいるわけ?
 音楽室の時といい、今度といい・・あんた、ストーカー?」
「オレはここ通学路。お前こそ、寄り道やんか。」
健太は花屋の方に顔を向け、口笛でも吹くみたいに口を尖らせながら、横目で塔子の顔を覗う。
「花かぁ・・何で女の人って花なんか欲しがるんやろ。オレなら食い物の方が絶対いいけどな」
花屋の前に立ってただけなのに、何で解っちゃったんだろう。コイツ妙に勘がいい。

「もうすぐ 母ちゃんの誕生日なんやろ?」
「べ・・別に、そんなの関係ないし・・きっ・・気分転換にちょっと帰り道変えてみただけ」
苦しい言い訳をして塔子はくるり向きを変え、黙って歩き出す。また健太がついてきた。
ついてくんな・・キッとなって振り返ると、健太の肩越し、花屋の店先に塔子の視線が止まる。
品のいい母子が大きなバラの花束買って、にこやかに去っていく。胸がちくりと痛んだ。

「こういう花とかの方がさ、オレはかっこええなぁって思うけどな。強うてたくましくて・・」
健太が ちぎった葉っぱを弄びながら、独り言のようにつぶやいた。
よく見ると、道端には小さな花のついた草が丈を伸ばし、微かな風で揺れていた。
足元に目をやると、アスファルトの隙間からは 雑草が伸びている。
立ち止まって周囲を見渡すと、見慣れた草花が何だか急に感動的に思えて 鼻の奥がツンとした。

ずんずん歩いて、公園に入った。水飲み場で顔を洗う。
情けない顔を健太に見られたくなかった。


「でも・・、お前の母ちゃんは オッサンのプレゼントなんか、受け取らんかもな。」
「え?何で?」顔を拭く手を止めて、健太に思わず聞き返した。
「知らんのか?オッサン、もう振られたんやって」
「え?母さん おじさんのこと、振ったの?」
「うん、理由もはっきり解らんのや言うて・・オッサン、すっかり落ち込んどった」

健太は足元の土をつま先でつついていた。乾いた土は固い音をたて 緩い砂埃が舞った。
「オレはさぁ・・お前の母ちゃんには悪いけど、やっぱりずっと、疑っとった。
 でもな、そんなことよりも、こんなひねた息子がいるせいで 続くもんも続かんかったのかなぁ
  ・・って思ったら オッサンちょっと可哀想でな・・」
「お前の母ちゃんには悪いけど」なんて 子供のくせに気を遣った言い回しがよけいにぐさりと来る。

いつも夢物語の世界が収集つかなくなって 加恵さんの恋は終わる。
加恵さんの解り安すぎる嘘のせいで、どの恋もあっけない程 簡単に幕が降りる。
「また振られちゃった」と加恵さんはいつも笑って言うけれど、
もともと長続きさせる気なんかないんじゃないのかな・・最近 塔子は思うようになった。
これ以上加恵さんが健太のお父さんに、嘘つき続けないのは、せめてもの救いだったけど
─母さんがおじさんを「振った」って・・どういうことなんだろう。


健太が神妙な声で言った。思いもつかない事だった。
「なぁ、もしかして・・もしかしてやけど、違ってたらごめんやけど・・
 死んだ父ちゃんの代わりにメッセージまで添えて、毎年バラの花束贈ってるのって、お前?」

さすが作家の息子。素晴らしい話だよ。そんな美談なら その方がずっといい。
ずっといい・・・塔子は思う。





「あの人の言うことなんて 全部 うそだから。」

「大富豪の令嬢だったとか 政治家の隠し子だったとか 産みの親は女優の誰だとかさ・・
 実業家のお爺様の話とか ピアニストのおば様の話とか、優しかった「ばあや」の思い出話とかさ
 突っ込まれたらすぐに ぼろぼろになるような そんな嘘、つきまくる人なんだよ」
「へぇぇ・・」健太が目を丸くして絶句する。
「でも・・・・それって、何だか凄いな・・・」
怒るかな・・笑うかな・・塔子の心配をよそに、健太は感心したような言い方をした。

「新しいコイビトができる度に そんなうそ話するんだ。どこでどんなこと言ってるか心配で
 あたし、よく後を付けてこっそり覗きに行ったんだ、あの人のデート現場」
「ほぉぉ・・・お前、その実体は・・探偵だったんや。うっかりしとった、気づかんかった」

ふざけているのか真面目なのか もう一つ解らない関西弁の調子が 警戒心を解くせいか
塔子は初めてそんな話を他人に打ち明けていた。せき止められていたものが 溢れ出す。


「一人娘はピアノが得意だとか しっかり者で学級委員してるとか、あたしの話もあったりして・・」
「お前 学校でピアノ弾いてるやん、結構上手いし・・それに学級委員やし」
「後から慌てて練習始めたんだ。楽譜だってろくすっぽ読めなかったんだもん。
  学級委員だって次の学期、初めて立候補したんだよ」
「それは ご苦労様なこっちゃ・・でも 何で?」
「一つぐらい本当のことにしてやるんだって いつも思ってしまうんだ
 何もかも嘘ばっかりなんて あんまりに空しすぎるじゃん。
 嘘の中しか幸せじゃないなんて なんか悔しいじゃん。」
ばかな理屈だと思った。自分でも変だと思っていた。でも 健太は ばかにしなかった。
少しの間黙って考え、それからホップ、ステップ、ジャンプで先に行って、振り返って塔子に言った。

「そーぉだったら いいのになぁ、そーぉだったら いいのになぁ
・・・・・ってヤツなんやろなぁ・・お前の母ちゃんにしたら」
TVの幼児向けの番組で よく流れる歌だった。でも健太の歌、音程がたがたで調子っぱずれ。
「そーだったら、いいのにな、そーだったらいいのにな・・・・・だよ」
噴出しそうになるのを押さえながら 塔子が歌って、訂正した。

「そやから、そーだったら いいのになぁ・・でいいんやろ?」
「ちゃう、ちゃう そーだったら いいのになぁーやで」
「アクセント変な大阪弁 喋んな。あほ」
「えらい すんませんなぁ」
おかしくなって笑いが込み上げる。お腹抱えて、二人、笑った。
笑いながら 空がまぶしくて 塔子の目が霞んだ。ちょっぴり涙が滲んだ。



低いところまで鎖の垂れたブランコに片足を乗せて、塔子は少し揺すってみる。
「・・・・けど・・・・振り回される子どもの方は ほんと、大変だよ。」
「そうやなぁ・・・うちも大概、いい加減な親やからな、ほんまお互い苦労するなぁ。
 うちのオフクロに言わせたら、オヤジがなりたくてなれない‘作家’なんてのも ま、
 嘘つきの親玉みたいなもんらしいし・・」
健太は大口あけて がはがは笑った。

「お前の母ちゃんこそ、作家目指したらいいのにな」



夕暮れ、公園のブランコ、打ち明け話・・っていうのこそ、どっかのドラマみたいだよな・・
塔子が座るのを戸惑っていると、健太は隣のブランコの鎖をぐるぐる捻って、巻き戻らせて遊んだり、
上までよじ登って鉄棒みたいにぶら下がったり、塔子が考えもつかないような、変なことばかりした。
「お前もやってみ、意外とおもろいから。」
促されて、変わった乗り方やこぎ方を 次々編み出して遊んだ。
少し心が軽くなった。 少し心がほくほくした。


「何とか うそ話をほんとにしたろうなんて、お前案外母ちゃん思いやなぁ、ウン、感心、感心」
「そんなんでもないよ。ほとんど意地っていうか あたしにとったら、ささやかな抵抗なんだと思う」
「抵抗か・・でも、母ちゃんのうそ話のおかげでピアノ上手くなって良かったやん。

音楽室で弾いてる時 結構いい感じやで」
ぴろろろろぉん・・健太は空の鍵盤に指を滑らして見せた。

「・・でもって、バラの花束、母ちゃんの誕生日に買ってやろうとか思うんや・・・」
「うん・・そう思ってた。でも・・・・」
花屋の前の道路に立ってた時、道端で揺れてた草の花を思い出していた。
バラの花束なんかより そんな花々を集めてリボンをかけ、プレゼントしたい気がした。
「・・‘あたしの気持ち’だもんね、プレゼントってさ。・・・・だからもう少し考えてみるよ。
 それと、ちゃんと色んなこと、話してみようと思う・・・できたら・・・だけど」
「そっか、それも、いいかもな。
 んじゃ、オレはこっちにいる間、あのオッサンのいいところ探しでもしてみよっかな
 ・・できるもんなら、やけどな」
健太は初めて普通のこぎ方で 大きくブランコを揺らした。塔子も 揺らした。


行ったり来たり・・ブランコは揺れる。
小さい頃、こうしてブランコ漕ぎながら、加恵さんがベンチでタバコ吸うのを塔子は見てた。
「あっちで遊んでおいで。タバコの煙、子どもが吸ったら死んじゃうのよ」
そう言っていつも、加恵さんは纏わりつきたがる塔子を遠ざけた。
独りになった加恵さんがその後、煙と一緒に長い長いため息を吐き出していたのを塔子は知っている。

─行ったり、来たり・・行ったり、来たり。
遠ざかる母さん、近づく母さん。遠ざかる母さん。近づく母さん。
こんな風に心は揺れ続け あたしはいつも 母親への思いやりと反抗心の狭間に立っていたんだ。


「そんなに漕ぎすぎたら、お空に飛んでっちゃうよ・・・って母さん、よく言った」

「え〜何って?」
揺らすタイミングがずれて、声が聞こえないのか健太が聞き返す。

「そんな日はー 寝る前− あたしがー空に飛んでってー 
      冒険する話― せがんでーしてもらったんだー」
「な・ん・や・って〜?」
「いいのぉー。何でもないっ」塔子が大きな声で叫ぶ。


「そぉだったら いいのになぁ〜、そぉだったら、いいのになぁ〜」
ブランコを大きく大きく揺すって、健太はラップ調にして歌った。
次は 塔子が、ハードロックみたいに首振りながら歌った。


一番星、きらり光った。
 おうちにかえれ、とからすが鳴いた。
「無理したらあかんで」健太がぽそり そう言った。



●自己批評
「いい話」か「嫌な話」か・・・読み終えて釈然としないのか 何となくほっとするか・・・
自分で書きながら どう仕上がるかも解りませんでした。
事件があったり、窮地に追い込まれたり、罵り合ったり、誰かが誰かを殴ったり・・

そんな展開が必要だったのか、これでいいのか・・・悩みつつ、この子ども達にこの先を託します

文中の歌は 「そうだったらいいのにな」 作詞者 出井隆夫  作曲者 福田和禾子 です。


『STAND BY ME なずな』 


> > > > > > > > > > > > > > > 

◎母親への思いやりと反抗心の狭間に彼女は立っている。

著者:七夜実 

> > > > > > > > > > > > > > > 

◎部屋の隅で電話はしばらく鳴り続いた。

『記憶』

著者:暖房 


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 部屋の隅で電話はしばらく鳴り続いた。俺は薄っすらと感じていく冷えた朝の空気に苛立ちながらそれを無視した。やがて電話は止まり、その瞬間に俺は突如思い出して後悔した。それはきっと彼女からのモーニングコールに違いなかったからだ。だが俺の頭の中はまだ混乱していたので、続いてメッセージを吹き込む彼女の声を聴きながらもこのまま電話には出ない方がいいと判断したのだった。何を話そうとしてもきっとうまく喋れないに違いない。それ程に昨夜から今迄が繋がっていなかった。『おはよう、今日も元気出して頑張ってね』そんな彼女の明るい声を頭に右手を押し付けたまま聴いていた。そしてメッセージが終わった後、仕方無く起きる為にまず被っている布団を蹴飛ばして上半身を空気に晒した。昨夜は彼女と呑み過ぎたかも知れない。寒いが眠いぼーっとした後味の朝はこうして始まった。
 何とか起きて顔を洗いに洗面所へ行ってみると鏡の中の寝癖は酷かった。目も腫れぼったくてとても人前に出せるような状態ではなかった。だがその日は大切な朝の会議がある日だったから、余計な事は考えずにとにかく急いで顔を洗い歯を磨いた。歯車のどんな部位が寝惚けていても機械は止まれない。だから俺は歯車のひとつとして磨きをかけた。やがてネクタイを締める頃には俺はごく普通のサラリーマンになっていて、歯車としてはまあまあ合格だと言える程には準備が整った。尤も今朝の議題が予め決められていたにも拘らずそれを思い出せない程に眠気は深かったが、こういう時は動きながら考えるしか方法は無かった。そうして部屋を飛び出しながら必死で議題が何だったのかを考えた。
 慣れた通勤の道程というのは便利なもので、何かを考えながらでも辿って行ける。ぎりぎりの朝にぎりぎりの思考を繰り返している内に俺はやっと議題が『接客マナーについて』である事を思い出した。後は通勤電車の中で自分の言うべき意見を考えながら揉みくちゃに揺られていれば良かった。自力では真っ直ぐ立ってもいられない車内ではいつでも体重を誰かに持って行かれる揺れが絶えなかったが、それに耐えるのは朝の仕事の内だった。歯車は何処に居ても歯車の扱いだという事だ。
 箱から放り出されるように電車を降ろされ、そのままの勢いで改札を抜けた。大きな出勤の群れに呑まれながら程無く会社に着くと、誰の顔にも朝の会議の緊張感が満ちていた。「おはようございます」その場の皆にそう声を掛けて俺は鞄を机の上に置き会議が始まるのを待った。だが会議では準備も虚しくスポットライトが当たる事さえ無かった。平穏無事に過ぎて行く時間の中で俺は正直ほっとした。それはまるで高校の頃の授業に似ていた。名指しされなければこれ程退屈な時間も無い。こうして少なくとも給料の内の三十分程度は出席によって単位が取れたという訳だった。
 やがて会議が終わり、俺は今日一日の営業先ルートを頭の中で繰返し思い出していたが、何かしらが思い出せなかった。そんなに大きな商談では無いが会わなくてはならない相手を一社どうしても思い出せなかった。慌ててシステム手帳を開き今日のルートを書いたメモを読み返したが、やはり書かれていない。それは営業マンとしては失格と言っていい程に間の抜けた話だった。御蔭で相手から来ないという苦情の電話がくる迄は相手が誰なのかさえ分からない状況になってしまった。しかし営業は動き始めれば止まれない。止む無く俺は鞄を持って会社を出て社の車が置いてある駐車場へと急いだ。「おはよう」という声がしたと思い振り返るとそこには彼女が灰色のOL姿でシュレッダーの塵の袋を両手に提げた恰好で立っていた。「うん、じゃあ」と素っ気無く返事をすると俺は再び前進した。そう言えば今夜は彼女とレストランで食事をする予定だった。まさか思い出せない取引先が後になってその邪魔にならなければいいのだが、などと自分に都合良く考えながら俺は車に乗り込みエンジンをかけた。
 午前中の出足はまあまあだった。取れる予定だった見積りの相手からは仕事を取れたし、約束の相手に会えないような事態には陥らなかった。おまけに話のついでに見積りを二件も頼まれて正直な所このまま家に帰っても良い程に順調な滑り出しだった。だが気に掛かっている思い出せない一社が余計にプレッシャーとなってしまい、却って不安は大きくなった。突然苦情の電話が掛かってくる事を半ば恐怖し半ば期待しながら懸命に考えたのだが、どうしても思い出せなかった。
 午後になっても記憶は戻らなかった。俺はコンビニの駐車場に置いた車の中で遅い昼食のサンドイッチを食べてカフェオレを飲みながら必死で考えた。まだ販売の話じゃあない、見積りの話までもいっていない、何かこちらから提案しなくてはならない大事な取引先があった筈、とそこまでは思い出せた。だが名前が、社名も出てこない。このまま一服すればもう午後からは目一杯営業が入っていたから俺は相当に焦った。歯車の俺としては断固仕事上がりの楽しみのデートの邪魔はさせたくなかった。しかし今思い出せば無理にルートに捩じ込んでどうにかできるというのにどうしても思い出せないでいた。香山、鈴木、山浦、田所、いや違う、おかしい、何という名前だったかすら思い出せない。いや、つい顔で営業をする事もある。きっと何処かでついでに傍の誰かに何かの話を持ち掛けた時にすっと聞いたので思い出せないのだろう。だが顔は? いや、そんな筈は無い、顔を忘れるなんてそうそう無い事だ。こいつには弱った、名前どころか顔が浮かびもしないなんて営業を始めて何年も経つがちょっとあり得なかった。俺は顔の見えない誰かの事を思い出そうとしたが、そうすればする程想像上の輪郭ごと消えていくような気もした。
 午後からの営業はもうその分からない誰かが気になって仕方無く半分上の空の状態だった。移動の間も時々落ち着いて昨日あった事を思い出してみたが、話したシーンすら思い出せない。せめて先方から電話でもくれば助かるのだが何度携帯電話を確認してもそれさえも無かった。やがて午後の得意先回りも終え、帰社するだけになった。いつもならば開放感で満ちる仕事終わりの実感が今日は湧かず、むしろいらいらとした気持ちが湧いてきた。埋まるべき穴がぽっかりと開いたせいで何の充実感も起きなかった。と、そこへいつものように彼女からメールが届いた。俺は車を脇へ寄せ携帯を開いて中身を確認した。『時間、間に合う?』そうだった、約束の時間まであと少し、何とか間に合いそうだ。俺は急いで返信した。『平気、間に合うと思う』それから車を車列へ合流させて帰社を急いだ。
 やっと車が駐車場へ着くと、彼女はもう仕事を終え私服姿で駐車場の出入り口で待っていた。今日は紺色っぽいスーツ姿だった。俺は車を空いている箇所に停めると慌てて飛び降り彼女の元へ走った。
「ごめん、時間ぎりぎりだね、今報告書上げてくるから待ってて」
 そう言って社屋へ行こうとすると彼女はそれを引き止めるように大きく声を掛けてきた。
「今日だよ、パパに会って貰うの。遅れるなら電話入れなくっちゃ。どうする?」
 その時になってやっと俺の中で記憶が繋がった。そうだった、今日は初めて彼女の父に会って交際の許可を貰う日だった。その為の外食だった。昨夜はその話の後に随分と呑み過ぎたのだ。歯車に慣れてしまった俺は自分達の大切な話をすっかり忘れていたのだ。道理で顔も名前も思い出せない取引先がいる訳だった。彼女は少し怒ったような顔で俺を見詰めていた。それはそうだ、今日という日だったのに俺は余りにも素っ気無さ過ぎたのだから。仕方なく俺は彼女の右手を掴んだが、何と言っていいか咄嗟には分からなかった。そうして反省した俺は声を出せないまま、ただ彼女の手首を握り締めた。



●自己批評
 何を反省するのかという点についてとても考えさせられたんですが、電話と反省の二つに記憶を混ぜてみた所、結局こんな感じに仕上がってしまいました。少しコンパクトになっちゃいました。


『暖房の独白 暖房』 


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◎反省した俺は声を出せないまま、ただ彼女の手首を握り締めた。

4コマ風イージーリーディング
『カズヤの異常な通常 〜またはナオは如何にして心配するのを止めてカレーを食するようになったか〜』


著者:ヤグタケ 


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 それを口に含んだとき、カズヤの表情は一変した。
 反省した彼は声を出せないまま、ただナオの手首を握り締める。
「どうした?」
 すんでのところで一口目を制止され、ナオは眉根を寄せてカズヤを見据えた。だが、彼は目元に微かな涙をためたまま、それに答えようとはしない。左手に持ったコップから、満たされた水をちょびちょびとすするだけである。
「だ、騙したな、ナオ……」
 二杯ほど消費したところで、ようやく落ち着いたらしい。カズヤは動悸に合わせて強く短く呼吸を繰り返し、息も絶え絶えに言葉をつむいだ。
「この『インド屋特製・グリーンカレー』……。ものすごく、カラいじゃないか。……くそっ、甘く見た俺が、バカだった」
「そりゃあ、カレーを『甘く』見る奴は、バカか味覚障害のいずれかだろう」
「そういう意味じゃあ、ない」



 ここは、カレー専門の飲食店『インド屋』。
 駅前通りの二つ目の信号を右に曲がってすぐの場所に、小ぢんまりと、だが異彩を放って建っているのがそれである。
 中身も外見に負けず劣らず、小ぢんまりとしていて、かつ異様としか言いようがない。四メートル四方ほどの広さしかない店内には――おそらく、インドを主張したいのだろう――オレンジ、白、緑からなる横じまの国旗やら、赤を基調としたオシャレな一枚布やらが、特に規則もなく雑多に飾られている。流されているのは、独特な音色の打楽器からなるアジア系のヒーリングミュージック。
 しかしこれらは、明らかに『インド』ではなく『インドっぽさ』が主張されていた。

 さて、このようないかにも怪しいお店を訪れる客というのは、たいてい三種類に分けることが出来る。
 物好きか、興味本位か、もしくは無知、に。

 そして今現在、カウンター寄り窓側の席を陣取っているただ二人の客は、それらのうちの『物好き』にあたった。



「ナオ、一つ質問だ」
 先に口を開いたのは、カズヤ。一見すると中学生に見えてしまうほどの童顔が、今では有無を言わせぬほどの厳しいものになっている。
「なんだ? 身長の伸ばしかた以外なら答えてやるぞ」
 一方、テーブルを挟んだ向かい側のナオは、どこ吹く風とばかりに平然としていた。長い黒髪が映えるほどに姿勢を正して座り、切れ長の目で微かに笑みを作りつつカズヤを見据えている。
「身長なんかどうでもいい……いや、よくないけど今は置いておく。それより、『レッドカレーは危険。イエローカレーは注意。グリーンカレーは安全。だから、グリーンカレーはカラくない』とかいうバカな理屈をこねて、俺を騙した奴は誰だか覚えているか?」
「なんと、そんな理屈に騙されるやつがいるのか! きっとそいつは、イチゴなども実が赤く熟す前に食べてしまう物好きなのだろうな」
 淡々としたナオの返答。カズヤは大きく息を吸い込んで。
「……お前の顔を、血で赤く染めてやろうか?」



「もう一度聞く。グリーンカレーはカラくないと、うそぶいていた奴は誰だ?」
 カズヤが左手をきつく握り、表情に険しさを増す。それでもナオは、慌てた様子もなく「むぅ」と思案し、
「私の記憶が確かならば、カズヤの目の前にいる、見目麗しい人物がそんなことを言っていた気がする」
 言い放った。
 カズヤの右頬がピクリと引きつる。
「ほほぅ。だが、俺の目の前に『見目麗しい』人物なんて、見当たらないんだが。それとも、あれか? 厨房にいる、ターバン巻いたおっさんのことを言っているのか? 確かにある意味、見目麗しいぞ? ヒゲの生え具合とか」
 互いに一歩も引かないまま、視線だけが衝突する。
 そして十秒ほど睨み合ったのち、ナオが微かに笑んだ。
「なるほど」
「……なんだよ」
「いや、カズヤという生き物はカラいものを食べると、味覚障害だけでなく『美』覚障害にも陥るのか、と思ってね。よし、忘れないうちにメモしておこう」
「な、殴りてぇ」



「なぁ、ナオ。知っての通り、俺は女を殴る趣味はない。ということで、今すぐ性転換手術を受ける気はないか? そうすれば、お前のことを思いっきり殴れるんだが」
「ならば、カズヤがその手術を受ければいいだろう。女が女を殴ったところで、世間からは何も言われん。まったく、なんでも人に頼ろうとするその思考回路は、感心できないな」
 テーブルで向かい合いながら、カップルが一緒にカレーを食べている。
 傍から見ればただそれだけの光景なのだが、その場の空気はまるで火薬のような危うさがあった。
「……お前さ、毎日思っているんだけど、夜道を一人で歩いて通り魔に襲われる気とかってない? 人払いでも何でもして、影ながら協力するからさ」
「ふむ。そして私が華麗に通り魔を倒し、警察から表彰されるというわけか。実に心ひかれる提案だな。だが、断る。大切な親友が、通り魔の仲間として逮捕されるのを見るのは、あまりにも忍びない」
 無表情のナオと、引きつった笑みのカズヤ。
 二人はそのまま、数分ほどにらみ合い――やがて、ナオが頬を少し赤らめた。
「ちなみにさっきのは、『華麗に』を『カレー』とかけてみたんだが、気づいてもらえたか?」
「……うわぁ、気づきたくなかった」



 先ほどまでの険悪さはどこへやら。カズヤはすっかり毒気を抜かれてしまったようで、力なくテーブルに突っ伏している。
 その後頭部をため息混じりに見下ろしながら、ナオは自らのグリーンカレーをすくいあげた。
 スプーンの先に盛られるのは黄緑の物体。
「しかしながら、それほどまでにカライのか?」
「カラい」
 いまだ突っ伏したまま、カズヤはただ一言だけ答える。
 ナオは一度「ふむ」と頷いて――次の瞬間には、それを口に含んでいた。
「なっ」
 上体を起こし、あんぐりと大口を開けるカズヤ。その前では、ナオがもぐもぐと食を進めている。さらに彼女は、こともなげにそれを嚥下すると、休むことなく二口目をすくいだした。
「え? あ、あの、ナオさん?」
「なんだ。カズヤが騒ぐから身構えていたが、それほどカラくはないな」
「えぇっ?」
「まぁ、たしかに多少はピリッとくるが、その後はココナッツミルクの甘さが広がって、美味いだろ、これは」
 それからも、彼女は苦もなく三口目、四口目と食事を運んでいく。
 カズヤは、ただ呆けた顔でそれを眺めていたが、やがて合点がいったように頷いた。
「えっと……お前、バカか味覚障害だろ」



 ナオの右眉がピクリと動いた。もう一度だけカレーを口にし、おどけた様子で答える。
「そうか? 私が思うに、単にカズヤがカラいの苦手なだけじゃないのか? まったく、子どもっぽいのは外見だけにしろ」
「はん。そもそもだな、カラいのを美味しいと思う人種がいるということが、俺には理解できないんだ。知ってるか? 辛味ってのは舌に刺激を与えているだけであって、味じゃないんだぞ」
「生理学的には、な。だが、文化的にも社会的にも、いまや辛味は重要な味覚の一つだ」
 間髪いれずにナオが指摘するが、カズヤはなおも皮肉気に笑う。
「悪いが、俺はナオのような頭でっかちの文化人でもなければ、そこらにいる歯車でしかない社会人でもないんでね。辛味は味として認めなくて当然なの」
「ほほぅ」
 対し、ナオの方もカズヤの表情に合わせて、皮肉に笑み返すのだった。
「つまりお前は、生理学的な人間でしかないわけだな。辛味どころか、人間味すらないとは、味気無い奴め」



「……もういい。それより、このカレー。マジでどうしよう。なんかターバンのおっさんが、残すなって視線でこっち睨んでいるんだけど……。あの手に持っている包丁は、何に使うんだろうなぁ。俺たち以外に客はいないうえに、追加注文は何もしていないんだけどなぁ……」
「あぁ。もちろんこの店は、残したら追加料金を取られるぞ。下手したら、カレーの具にされるやもしれん」
「マジかよ、やべぇな」
 ナオの話を軽く流しつつ、カズヤが適当に辺りを見回す。そして、ふと『ご自由にお取りください』と書かれた小型のタッパーが目に入った。透けて見える中身の色は褐色。おもむろにそれを引き寄せたカズヤは、蓋を開けるとその中身を次々とグリーンカレーへと投入していく。
「ぬ。それは――福神漬けか」
「あぁ、これで味をごまかしながら食うことにしようかなと」
 肯定の返事に、ナオの表情が少し曇った。
「個人的に、福神漬けは日本のカレーだから合うと思うのだがな。タイのカレーに合わないということもないが、せっかくの味が台無しだぞ」
「いいんだよ。俺の胃はボーダーレスなの。つーか、『インド屋』のくせにタイ料理のグリーンカレー出してる時点で、国境なんか存在してないだろ。それに今流れているこの音楽、ガムランじゃねーか。ガムランは、バリとかインドネシアのほうの伝統音楽だぞ? インドネシアはインドじゃねぇ!」
 力説したカズヤの視線の先には、目を丸くして驚く店主がいた。彼は慌てた様子でCDのジャケットを手にとると、裏面に書かれた説明をチェックし始めていたりする。
「……気づいてなかったのかよ」



 それから二十分ほどが経過して。
「どうした、カズヤ」
 ナオは紙ナプキンで口元を丁寧に拭きつつ、問いかけた。目の前でダウンしているカズヤへと。
「ダ、ダメだ。福神漬けごときじゃ、このカラさは打ち消せねぇ……。またもや俺は、このカレーを甘く見てしまっていたようだ……」
 ちなみに、ナオの皿はすでに空になっているが、カズヤのものは十五分前とほとんど変わっていない……というか福神漬けが盛られた分だけ量が増えている。完食には程遠い。
「だから、ぜんぜんカラくないだろうが、これは」
「味覚障害者の意見など当てになるか。――って、そうだ、ナオ!」
 何を思ったか、カズヤは急に目を輝かせて起き上がると、ナオの左手を両手でギュッと握りしめた。突然の事態に、ナオの手からナプキンがこぼれ落ちる。
「な、なんだ?」
 頬を微かに染め、少し上ずった声で問いかけるナオ。その視線の先には、無邪気な笑みを浮かべたカズヤ。
「俺のカレーを半分でいいから食べてくれないか?」
「……カズヤ。『プライド』って言葉を知っているか?」
「あぁ。頭の固い奴が、拒絶時に用いる言い訳用の文句だろ? そんなことより、お願いします。容姿端麗、才色兼備で性格もこれ以上となく素晴らしいナオ様! あぁ、ナオ様、ナオ様万歳」
 ナオは大きなため息を一つだけついて。
「そういうお世辞は、相手の目をしっかりと見て言え。……なぜ、九十度も横を向く」
「いや、ほら。いくらお世辞とはいえ、ナオを褒めるなんてさ。俺にもプライドがあるから」



 結局、手を握ったまま話そうとしない態度に折れ、ナオは力なく首を振るとスプーンを手にとった。
「まぁいい。ここで恩を売っておくのもアリだろう。食べてやる」
「おぉ、それでこそナオ。大好きだ」
「私は大嫌いだ」
 無表情のままカズヤの皿を引き寄せて、ナオはその中央部をスプーンで指し示した。
「それでは、食べる領域を決めようか。私は真ん中からこっちをもらう。カズヤは逆側だ。それでは頂くぞ」
「……ちょっと待て」
「どうした?」
「お前の側は白い陸地ばかりで、俺の側には緑色の海しか広がっていないように見えるのは気のせいか?」
「安心しろ。私の目にもそう映っている」
「安心できねぇよ! カラい目にあうの、俺だけじゃねぇか!」
 怒りが含まれたその叫びに、ナオが一瞬身じろいだ。その手が、口が、何かにおびえるかのように細かく震えている。
「カズヤ……」
「な、なんだよ」
「今のセリフはあれか? 『カラい』と『ツラい』を漢字で書くと、送り仮名も含めて同じになることをかけているのか? ……ちっ。巧いことを言ったからって、いい気になるなよ」
「なぜ、憎々しげに俺を見る」



「あぁ、もうアレだな。興がそがれてしまった。帰る」
 ナオはため息を一つだけつくと、静かに席を立った。
「え、ちょっと、素晴らしきナオ様? 一緒に食べていただけないのですか?」
「すまん、カズヤ。私はこれから録画した水戸黄門を見なければならないんだ。代金はここに置いておくから、一緒に払っておいてくれ」
「いや、ちょっと待て。録画したなら、見るのはいつでもいいだろうが」
 カズヤが横を通り過ぎようとしたナオの手をつかみ、引き止める。ナオはそれを軽くあしらうと、カズヤの頭をくしゃくしゃと撫で回した。
「そうだな。本音を言うと、私はお前を窮地に陥れたい」
「なっ!」
「では、生きていたらまた会おう。カレーと成り果てたお前と再会しないことを祈っている」
「ナオっ!」
 帰らせまいとカズヤは腕を伸ばす。
 だが、その手がナオの肩に触れようとした瞬間、カズヤの肩が逆に何者かにつかまれた。
 振り返る。
「お客さ〜ん?」
 そこにいたのは、頭に白いターバンを巻き、見目麗しいヒゲをたくわえた、店のおじさん。
 なぜか、包丁を持参。



「だ、大丈夫ですよ。食べますから。ちゃんと食べますから、そんな殺気のこもった声を出さないでくださいよ」
 作り笑いを浮かべて、おとなしく席に着くカズヤ。スプーンをカレーに差し込んでから、ちらりと横見。店主は相変わらず、険しい顔つきをしている。
「あはは〜」
 その迫力に押されるように、カズヤはカレーを口に含んだ。噛む回数を抑え、水で流し込むように食す。涙をこらえつつ、さらに口に含む。
 それを繰り返していると、なぜだか自分がとても惨めなように思えた。
「うぅ、それにしてもこの不可解な状況が、そもそもなぜ起こってしまったのかがわからない……。あいつの恨みを買った覚えは……やべぇ、死ぬほどあ――」
 意識を朦朧とさせていたカズヤが、ふと窓の方に視線を移した。するとそこには、口元をいやらしくゆがめたナオが、デジタルカメラを片手にこちらの様子を伺っている。
「てめぇ、ナオっ……」
 怒りに任せて立ち上がろうとしたその体はしかし、店主の腕によって押さえ込まれた。
「あ、店主さん。あのですね、ちょっと一度席をはずしたいんですが……」
「い・い・か・ら、さっさと食うね!」
「ぴ、ぴぎゃあぁっ!」

 その後、インド屋には、男の絶叫が響いてくるという噂が広まったとか、広まっていないとか。



●自己批評
 どうも、ヤグタケです。
 きっと今回も皆さんは力作ぞろいだと予想して、自分はコーヒーブレイク的なイージーリーディングにしてみました。深く考えず、お気楽にお読みくだされば幸いです。ただの皮肉の応酬じゃねぇか、というツッコミは聞こえません。
 『短編連作』から『掌編連作』を思いつき、そこから派生して『4コマ風小説』というものを思いついたのですが、今までそれにチャレンジする機会がありませんでした。ですので、今回はそれが達成でき、個人的には満足です。
 しかしながら、自分が思うところの4コマの特性と小説の特性をうまく利用できていないので、まだまだ掘り下げる余地がありますな。要研究。

 それでは、引き続きMCをお楽しみください。


『ヤグタケ帳 ヤグタケ』 


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◎それにしてもこの不可解な状況が、そもそもなぜ起こってしまったのかがわからない。

著者:塵子 

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◎自分の選んだことだから間違いはなかった、そう言えるほど強くなれたらいいと思う。

『似た者同士の恋愛譚(仮)』

著者:知 


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 私の選んだことだから間違いはなかった、そう言えるほど強くなれたらいいと思う。

 家に帰り着いてからそうとだけ書いたメールを彼に送った。
 この一文に込められた意味を理解してくれるのだろうか――私は理解してくれることを望んでいるのだろうか、それとも理解してくれないことを望んでいるのだろうか――そんなことを考えながら携帯を閉じた。
 明日はバイトが入っているからシャワーを浴びて寝なければいけない時間帯なのに、頭を空っぽにして少し硬めのベッドに体を横たえて目を閉じる。

 『どうしてこんな事になったのかなぁ……』

 ふと、又、そんな言葉が頭に浮かんできた。
 そんなの……理由は簡単……

 「私が弱いからでしょう?」

 そう自分に言い聞かせるように呟きながらベッドから体を起こし、シャワーを浴びる準備をし始めた。
 汗をかいているのにこのまま眠るのは気持ちが悪いし、何より化粧を落とさないと肌に悪いしね。化粧を落とさなきゃいけないのならシャワーを浴びるのは別に面倒でもないから……寝る前のスキンケアは面倒だと思うけど、もう生活の一部になっているからしないと反対に気になって寝付けなくなる。

……そしてスキンケアの仕方は亡くなった母から教わった物……私と母の繋がりでもあるから……

 化粧の仕方、スキンケアの仕方は母から教わった。スキンケアに関しては小学生のときから母に教えられていた記憶がある。
 母は綺麗な人だった。特に美人というわけではなかったんだけど、肌が凄く綺麗だった。近所の人や私の友達の母親に頼まれてスキンケアの仕方を教えていたという話はよく耳にした事がある。
 母が言うには、スキンケアの仕方は代々受け継がれてきたものとのこと。母も母に(私にとっては祖母に)教えられたと言っていた記憶がある。

 ……私も、我が子に教える日がくるのだろうか……



 寝ようと思い時間を確認すると、予定していた時間よりも一時間遅い……明日のバイトは大丈夫だろうか……家庭教師や個人指導ならいざ知らず、大人数クラスの塾や予備校で教えることは体力の消耗が激しい。お世話になった塾長に頼まれて始めたんだけど、塾長への恩返しになると思って始めたんだけど……想像していた以上に疲れるよ……
 何で私が難関国公立や医学部のクラスの授業を持ってるの? 私が通っている大学は中堅の私立大学だよ? えっ、何、これ、嫌がらせ? 授業時間の何倍を予習時間に使っていると思っているの! ……なんて口が裂けても言えないけど……
 今日は疲れていたせいか、そんな事を考えながらもベッドに入ってからすぐに寝付いていた。


 目を覚ますと7時……少し早いけどこれ以上眠れないことはわかっているからベッドから体を起こした。携帯を確認すると予想通り彼からのメールの返信はない。安心したような残念なようなそんな思いが胸の中に去来する。

 『私と彼は似ている』

 そう初めて感じたのはいつだっただろうか。
 初めて二人きりで話をしたとき? 初めてゼミで同じグループになって課題についての話し合いをしたとき?
 ……違うよね、初めて軽く言葉を交わしたときから似ているって感じてたんだよね……

 ……って、そんな事を考えている暇なんてないんだよ……

 今日は授業という名の戦争に行かなければならないのだから。しっかりと準備(予習)をしないと私の方がやられてしまう。食うか食われるかの勝負がそこ(教室)には確かに存在している……(私のアルバイト先は予備校だよね? と思ってしまうのは不自然なことではないはず、絶対に)
 実は就職活動を始める前に塾長から「家に就職しないか?」と言われたことがあるんだけど、丁重にお断りをしたということがあった。長くは続けられない仕事だと実感したからね。
 私が通っていたときある先生が辞めて、その理由を尋ねたら「体力の限界……」とだけ答えが返ってきた。何のことかわからなかったんだけど、今ならわかる。
 予備校でアルバイトをしているという人に知り合い、他の予備校もこんな感じなのかと話をしたら、顔を引きつらせ、乾いた笑いを浮かべながら「……噂には聞いていたけど、本当なんだ」という答えだけが返ってきたこともあった。やはり異常なのかと改めて感じた瞬間だった。


 予習を終え、一息つくと準備をして予備校に向かわなければいけない時間になっていた。部屋着からスーツに着替える。スーツでなくてもきちんとした服装ならいいと言われているんだけど、教えるのに気合が入るからスーツを着て授業をしている。

 「さて、行きますか」

 自分を鼓舞するように呟き、私は家を出た。


……数時間後……

 つ、疲れた……

 予想通り、授業を終えると体がくたくただった。電車を降りてほっと一息つく。
 真っ直ぐ家に帰ってベッドにダイブしたいところだけとそうはいかない。今から大学に行かなきゃいけない。今日が提出期限の書類があるのを友達からのメールを見るまですっかり忘れてしまっていた。
 本当は昨日提出するつもりだったんだけど、色々あって提出できなかったんだよね。
 幸いなのは予備校に行くときのカバンにその書類を入れてあったこと。一旦、家に取りに帰ってから大学へ行くなんてとてもじゃないけど嫌だ。家が駅からすぐで大学も家から歩いて10分足らずで着くとしてもね。家に着いた瞬間に行く気をなくしてしまうのは目に見えてる。


 「ふぅ……」
 書類を提出しベンチに座り缶コーヒーを飲み一息ついた。
 時間を確認すると家で晩御飯を準備するには微妙な時間になっていた。食べてから帰るか家に帰ってから食べるか悩んでいると私を呼ぶ声がした。この声は……

 ……彼が今日の夜に講義を入れているのを忘れていたよ……

 顔を上げると彼が私の目の前に立っていた。

 「今、講義終わったとこ?」
 「Yes.今日は講義入れてない日じゃなかったか? スーツ……就活……じゃあないよな?」
 「今日までに提出しなきゃいけない書類があるのを忘れてて……で、スーツなのは予備校で授業をしてきた帰りだからだよ」
 「それはお疲れさま……」

 ……何時もどおり、でも、二人ともどことなくぎこちなく感じるのは気のせいだろうか……

 「パンツのスーツなんて持ってたんだ」
 私が飲み終わった缶を捨てようとベンチを立ったときに今、気づいたというように聞いてきた。
 「うん。就活にもゼミにも着ていったことないけどね」
 家のゼミはゼミの講義のときはスーツを着ていかなければいけないのだ。面倒だけど就活のときにスーツを着慣れていて助かったことがあったからゼミのスーツ着用義務に関しては特に文句はない。
 「何で? 確かスカートよりもパンツの方が好きって言ってたよな?」
 うっ、その質問はあまり答えたくない。
 「まぁ……色々あってね……」
 パンツのスーツを着て講義に出ると知らず知らずのうちに戦闘モードになってしまうなんて言えない。
 「そっか……」
 私のあまり答えたくないという気持ちが伝わったのだろうか、彼はそれ以上何も聞いてこなかった。


 それからどちらからとはなく、駅に向かって歩き始めた。
 「晩飯、どうするんだ?」
 「家に帰ってから作るのも面倒だから、食べて帰ろうとも思ったんだけど……二日連続だし……お金がねぇ……」
 「だよなぁ……」
 やはり、会話をしていてもどことなくぎこちない。おそらく彼もそう感じているだろう。でも、どうかしようとすればするほど余計にぎこちなくなって泥沼にはまってしまっている。

 そのうち、二人でちゃんと話し合った方がいいかもしれない。互いに立つポジションが微妙になってしまっている。このままでは良くないことははっきりしている。自然解決する前に、なるべく早く……そんな事を考えながら歩いていると
 「あれ? 先生?」
 駅前に着いたらよく知っている声が聞こえてきた。
 「珍しい……下宿先は駅の近くとは聞いてたけど、こうやって予備校の外で会うの、初めてだよなぁ」
 予備校で教えている生徒二人――優と茜――だった。予備校で一番有名なカップル。そして、私が生徒の中で一番仲良くしている二人でもある。まぁ、小さい頃からの知り合いだったからという理由があって仲良くしているんだけどね。私が中学生になったときに二人が引っ越してたんだけど、最近、予備校で再会したんだ。
 「そっちこそ、この時間はいつもなら自習室で勉強している時間でしょう? 今日のあま〜い自習(デート)の時間はお仕舞い?」
 若干のからかいを含めてそう返した。でも、流石は中学生のときから付き合い始めた幼馴染カップル、からかわれることには慣れているのか少し照れた表情をしながらも反撃してきた。
 「えぇ、今日は珍しく先生が早く帰ってしまい質問ができませんでしたから」
 そこで一旦区切り、彼の方をちらりと見る
 「なるほど……デート……デートですか。デートなんですね? 先生も受験を控えた生徒よりも好きな男性とのあま〜いひと時の方が大事なんですね……よよよ」
 私が早く帰った理由を知っているくせにわざとらしく「……よよよ」なんて語尾につけて泣き崩れた。ちらりと彼の方を見ると茜の言葉が冗談だとわかっているのか苦笑している。それを見てほっとしたのが運の尽き。私のほっとした顔を見てチャシャ猫のような笑顔を浮かべた。
 「それにしても、スーツ……ですか……」
 ……凄く嫌な予感がする。
 「今日はスーツでプレイですか? うん、わかります。男の人って女性のスーツ姿が好きな人って多いんですよね……」
 「「な……っ」」
その予想外の一言に私と彼は顔を赤くして固まってしまった。
 「優なんて最近スーツでなきゃしないって強要してきたんですよ。しかも、スカートじゃなくパンツっていう指定付き。パンツのスーツなんて持っていなかったから貯金を下ろして買いましたよ」
 「あ……茜……」
 ギギギという音をたてながら優の方を見ると顔を青ざめながらそう呟いていた。
 「それを着て行ったときのことは鮮明に覚えています。もっと熱い夜を過ごしたいと思ってHな下着で迫ったり、ナース、巫女、メイド、裸Yシャツ……と色々やってみたんですよ」
 優の顔色が青くなったり赤くなったりしている……冗談ではないようだ(何で私は冷静に観察しているのだろう)
 「その度に熱い夜を過ごせました。優は実はかなりな変態じゃないかと思ったりもしましたが、私は満足していました。でも、今まで何も口出ししなかった優がこう言ったんですよ、『今度はスーツを着てきてくれと』」
 もはやこの場は茜の独擅場だ。茜以外の3人は口を挟むことができない。というか固まっていて口が挟めない。
 「次のときその要求にこたえて、スーツで行ったんですよ。そしたらがっかりした様子で『スカートじゃなくパンツ』って言うんですよ。そして、今日はする気にならないなんて言って帰ったんですよ。私を放って。今まで何も言わなかった優が指定してきたんですよ?もう、今日はどんな熱い夜になるのかと期待していた私の高まりをどうしてくれるんですか。久しぶりに一人でしましたよ」
 茜の言葉が過激になってきている。もう、自分の言葉に酔いしれて周りが見えていないようだ。しかも、流石演劇部というべきか、よく通る声と悩ましいまでの声色・仕草のせいで人が集まってきている。頭は動いているのに体が動かないのでこの場から逃げられない。
 「次のとき普通の服装で行ったら凄くがっかりした様子でした。いえ、してくれるにはしてくれたのですが、その気になっていないというか、手抜きというか……中途半端で余計に色々溜まってしまいましたよ」
 もはや、私たちの周りには人垣ができている。体も動くようになったんだけど、逃げようにも人が多すぎてできなくなってしまっている。「これ、何かの撮影?」「カメラはどこ?」なんて声が聞こえてくるのは気のせいではない。
 「これ以上はダメだムリだと泣く泣く貯金を下ろしてパンツのスーツを買いましたよ。そしてそれを着てきた時の優のあの嬉しそうな顔、忘れられません」
 そのときを思い出しているのかうっとりとした顔で茜が話すのを止めた。「カメラなんてどこにもないぞ」「えっ、じゃあこれは……?」なんていう声が聞こえてくるのが恥ずかしい。まだ茜だけに目が行っている分、ましだけど。
 「あれを獣のようっていうんでしょうか……もう、いきなり押し倒されて……ああ、思い出すだけで体が熱くなってきますね。もう、そこにいるのは男と女ではなく雄と雌。欲望のままに……って感じで、気は付いたときにはシーツと私たちの体はお互いのでグショグショな状態で抱き締めあっていました」
 そういうと、まさに妖艶という言葉が相応しい表情でため息をついた。その隣で顔を青くしたり赤くしたりしている優とのコントラストが面白い(だから何で私は冷静に観察いるんだ?)
 「これ以上ないというぐらい熱い夜だったのですが、欲望のままにいきすぎたのか仔細を覚えていなかったんですよ。でも、すぐにあることを思い出しました。今日は撮影していたということを」
 撮影という事実を初めて聞いたのか信号のように青くなったり赤くなったりしていた顔が、一気に蒼白になった。
 「カメラは何箇所も仕掛けてましたから、アングルもばっちりでした。電気はつけたままでしますから明るさもばっちり。全てが最新機種ですから勿論、画質、音質もばっちりです。今、編集中なんですが、編集しようと思って見ているとあのときの事を思い出してしまって遅々として進まないんですよね……そうそう、最近全部を見終えてわかったのですが、何と二人とも十回以上……」
 茜はふと私の方に目を向けると急に言葉を止めた。ギャラリーの目も自然と私に向く……嫌な予感がする……
 「先生にも衣装をお貸ししましょうか? ナース、巫女、紺袴、着物、浴衣、メイド、和服メイド、裸Yシャツ、裸エプロン、ブルマー、スパッツ、スク水、白スク水等など、色々揃ってますよ」
 その言葉に一瞬、茜以外の視線が優に注がれた……衣装も色々増えてるし。
 「今までにない熱い夜が過ごせるかもしれませんよ。ああ、私と先生は身長も体型も殆ど変わりませんから大丈夫です。後、使用後はきちんとクリーニングしていますから何も変な物はついて……」
 もう、恥ずかしいやら色々な感情がないまぜになって我慢の限界がきた。

 「Be quiet!!!!!!!!!!!!!!」

 私がそう叫んだ瞬間、顔面蒼白だった優はもとより饒舌に話していた茜も黙り、背筋を伸ばし気をつけの姿勢をとる。

 「茜、あんたはねぇ、一度入ると周りが見えなくなる癖、どうかしなさいよ。後、優、こうなる前に止めなさい。止めるのはあんたの役割でしょうが」
 「「Sir, Yes Sir」」
 「誰がSirよ!」
 「「Yes Ma'am」」
 「あんた達だけ、今日の宿題2倍ね。わかった」
 「「Yes Ma'am」」
 二人は敬礼をしてそう答えた。

 ……

 …………

 …………はっ…………

 我に返って周りを見てみると、彼を含めて周りにいた全ての人が私たち3人を呆然と見つめていた。
 しまった、つい、予備校での癖が出た。



 「「「あははは……」」」


 3人して顔を赤らめながらそう乾いた笑いを浮かべると、私は優と茜の手を握り締め、この場にもう一秒たりとも長くいたくないと全力で走り去った。

 どこに向かって走っているかわからない。ただただ恥ずかしいやら色々な感情がないまぜになっていて、そして、全力で走っていることもあり頭に酸素があまり行かず上手く働いていないこともあってか、

 周囲の闇にすべて溶けてしまい、ただ握り締めた手だけが世界に存在しているように思えた。



●《自己批評》
 どうも、勢いでMC同人誌バージョンに参加してしまった知です。
 「とも」じゃないよ「さとし」だよ。間違えないでね。
 今回はMC Vol.9に書いた「似た者同士の恋愛譚」の続き(読んだことがない人はMCのサイトに行って読んでみてください)……のはずだったのですが、どこで方向を間違えたのかこんな作品に仕上がってしまいました。
 う〜ん、予備校の生徒二人が出てくるまではプロット通りだったんだけどなぁ……そこから暴走してくれました。脇役のはずの茜が主役の二人を完全に食ってます。まぁ、脇役のはずの二人に名前があって、主役の二人に名前がないんだもんなぁ(待て)
 最初のプロット通りに書き直そうと思ったんだけど、これの印象が強すぎて書き直せそうにないのでこのままにすることに。
 流石に「似た者同士の恋愛譚」というタイトルにするのは気が引けたので「似た者同士の恋愛譚(仮)」としました。もし、又、続きを書くことがあったら最後に(謎)とか(笑)とか付いているかも。今の俺には当初の路線に戻せる自信がない。


 最後に俺の普段の作風はこの作品(特に最後の方)とは違うということだけは断っておきます。


『Liar's villa 知』 


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◎周囲の闇にすべて溶けてしまい、ただ握り締めた手だけが世界に存在しているように思えた。

『ヨミザカ』

著者:李九龍 


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 周囲の闇は尚更に濃く、ただただ、握り締めた手の温もりだけが、この漆黒の世界に存在しているかのようだった。
 提灯の灯りは、灯りと呼べる程のものではなく、ただ薄ぼんやりとその周囲を照らし、自分の一歩先の足元を確認出来る程度のものでしかなかった。
 道とも呼べないような、山の中の一本道。 お社へと続く、登り道。 こんな、『カミゴト(神事)』でなければ、決して誰も通らず、歩く事もしない細い道。 両側からもたれ掛かるかのように生い茂るすすきは、この道へと分け入る時からずっと今に至るまで、二人が不愉快になる程に、両側から手を伸ばし撫で掛ける。
 後ろから聞こえる息遣いが、多少荒く、大きく聞こえる。 太一は再び自分の足が速くなっている事に気付き、少し速度を落とす。 気を付けてはいるのだが、どうにもこの状況と雰囲気だけは馴染めない。 そんな不安と臆病が、自分を急き立てている事は間違い無いと感じていた。
 男の自分でさえ・・・そう、しかも、自分は提灯を持ちながら歩いている分、後ろを歩く彼女よりは歩き易い。 そんな差を持ちながら、彼女の事を思いやる事も出来ずに歩を早める自分に少しだけ嫌悪感を持ちつつ、太一は足を緩めた。
 だが、それが仇となったか、太一の腕は大きく引っ張られ、背後では小さな悲鳴があがる。 恐らくは、太一が手を握って案内していた筈の女性が、突然の歩の緩みに動転して、躓いてしまったのだろう。 太一はその声に、今までの緊張が一瞬にして途絶えた。 沈黙の禁が、ようやく破られたのだ。 太一は考える間も無く咄嗟に振り向きながら、躊躇も無く、「大丈夫ですか」と、声を掛ける。 心の中で呟く、「しまった」は、それから数秒も後の事だった。

 暗闇の中で、「えぇ」と声を上げる女性の顔が、妙に曖昧な提灯の灯りに照らされて、浮かび上がる。
 薄布を頭からかぶったその女性は、ちょっとだけ顔をあげ、太一と視線を合わせると、軽く微笑んだ。 線の細い、整った顔立ちの、綺麗な女性である。 太一はなんとなく、蜉蝣のような儚い印象を、彼女に持った。
 やはりと言うべきか、そこにいたのは、しっかりと女性だった。 太一は内心、安堵していた。 なにしろこんな真夜中に、顔を見る事も、会話する事も許されない状況で、ただただ無言で手を引いて歩くと言うこの行為に、太一は少なからず、疑問と恐怖を持っていたのだ。
 だが、今こうして禁を破ってみると、こんな暗闇の中にいたのは自分独りでは無いと言う安心感と、引いた手の先には、ちゃんと相手が存在したと言う安心感。 そうして、全ての緊張から逃れる事の出来た太一は、ようやく笑いながら話し掛ける事が出来た。
「ごめんなさい、自分勝手に手を引いてしまって。 大丈夫ですか。 立てますか」
 太一は提灯を左手に持ち替えると、右手で彼女の手を引いて、立ち上がらせた。
 彼女が地面に突いた右の膝だけが汚れてしまい、『カミゴト(神事)』の為の白い装束に、それは目立った。
「ありがとうございます。 大丈夫ですよ、こちらこそぼんやりとしてしまっていて・・・」 そう言いながら彼女は、握った太一の右手に、空いているほうの左手をそっと添える。
 太一は、瞬時、ぞくりとする。 その瞬間に間違い無く、その女性に、異性を感じてしまった事を確信したのだ。

 再び二人は歩き始める。 今度は、相手が見えないと言う事も無く、二人でいる安心感からか、歩調は前よりもずっと緩やかになっていた。
 禁こそ破ってしまったが、一応の約束事である事は、守りながら歩いた。 二人は、しっかりと手を繋ぎながら、高い穂の茂る狭い道を、ゆっくりと登って行った。
「いや、実はずっと不安だったんですよ。 だってそうでしょう、最初から最後まで、手を引いている人の顔は見れない、声も掛けられない。 そんな状況で、真っ暗闇の山道を歩くなんて、正気の沙汰じゃあないですよ」 太一は、笑いながら言った。
 後ろで女性は、くすくすと笑いながら返事をする。
「そうですよね。 私には前を歩く後姿が見えますからいいんですが、手を引いている方は大変ですよね。 自分が引いている手の持ち主は、妖怪だったとしても判らないんですからね」
「あはははは。 実は僕も、そんな想像をしてました。 もしかしたら、こんな深夜の暗闇で、僕が引いている手は、幽霊か何かかな・・・とかね」 太一は、笑いながら振り返る。 狭い道の後ろ側では、女性が手を口にあてがいながら可笑しそうに笑っていた。
「いやね。 このお祭りの前日には、今まで、『ムカヘ』の役をやった男の人達の集まりがあるんですよ。 今年は僕の番だって言うんで、今までにその役をこなして来た人達が、脅すんですよね。 途中で相手の女の子の顔見ちゃいかんぞとか、話をすると、神さんに祟られるぞ・・・とかね」
 太一は、話を続ける。 今までの緊張は解けたせいか、普段よりも饒舌な上に、気持ちも高揚しているのが自分でも判った。
「どうせ皆、途中で顔見たり、話し掛けて歩いたに違い無いんだ。 要は、酒の肴に脅すだけの話であって、これだって大昔から伝わる肝試しにしか過ぎないんじゃないのかな」
 後ろでは、相変わらず女性は笑っていた。 話の途中で入る相槌も、実に楽しそうな笑い声に混じりながらだった。
 太一はもう一度振り返る。 色の白い、綺麗な女性がそこにいる。
 一瞬、会話の途切れた後に、太一は質問をした。
「もし、宜しかったら、お名前を聞いても宜しいですか」
 女は、少しだけ間を置いてから言葉を返す。
「真崎和泉です。 遠藤さんの隣町に住んでいます。 場所は、遠藤さんが通う会社の、すぐ傍なんですよ」
 太一は驚いた。 真崎和泉と名乗るその女性は、太一の苗字を知っていたのだ。
「そうなんですか。 いやぁ、僕も毎日自転車で通ってますが、なかなかいい町ですよね。 大きな湖もあって」 太一は、わざと大きな声で返答する。
「でも・・・どうして和泉さんは、僕の名前を知っているんです?」
 だが、彼女は質問には答えない。 ただ笑って、内緒ですと答えた。

 話は弾んだ。 ただ一方的に太一が語り掛けるだけだったが、和泉の反応は凄く良かった。
 和泉は良く笑った。 太一が何を話しても、凄く楽しそうに笑いながら相槌を打った。
 太一は、『神事(カミゴト)』の話題を中心に話をした。 先達者の体験談やら、どうしてこんな古い祭りが、今尚残っているのか等、和泉に話し掛けた。
「・・・らしいんですよ。 だからその人は、最初から最後まで、『ムカヒ』を努めた女性とは、顔を合わせていない。 結局今日に至るまで、その、『ムカヒ』として相手をした女性を知らないって言うんですから」
「へぇ、何か不思議な話ですね。 じゃあそのお二人は、結局最後まで、禁を破らずに登り切ったんですね」
「そうでしょうね。 凄い精神力と、勇気です。 まさしく、イザナギとイザナミですよ」 太一は笑う。
「でも、彼は言ってましたよ。 本当に俺は、存在した女性と登り切ったのかなって。 そりゃあそうですよね。 全く最後まで顔を合わせる事も無かったんですから」
 言っておいて太一は、少し後悔する。 こんな状況で言うには、少々気味の悪い話だった。
 秋風に、すすきの穂が揺れる。 少し風も強くなって来た気がした。
「遠藤さんの、『オマモリ』は、腕時計ですね?」 和泉は聞いた。 ふいに太一は、右腕に嵌った、止め金を掛けずに緩く腕を通したままの女性用の腕時計に気を止めた。
「えぇ、そうです。 恋人・・・いえ、婚約者に借りて来ました。 女性用ですので、僕の腕には嵌らないのですよ。 お陰で、ただ腕に掛けているだけ。 いつ落とすか気が気ではないですね」
 太一はそう言って笑った。
「和泉さんは、誰にどんな、『オマモリ』を借りて来たのですか?」
「えぇ・・・お友達にね、ちょっと。 遠藤さんの、『オマモリ』に、似たような物ですよ」

 行く手の先に、三の丸の神社が見えて来た。 ようやくそこで、三分の一を経過すると言う事だ。
「そう言えばね・・・」 太一は再び、話始める。
「『ムカヘ』の先達者の中に、一人凄い人がいたらしんですよね。 何でもその二人が本丸へと到着した時には、いつもよりもずっと遅く掛かったらしい。 でも二人共、何故遅くなったか全く言わなかったらしいんですね」
「えぇ」
「でも、その内何故だか判ってしまう。 その、『ムカヒ』の相手役が、しばらくして妊娠していた事が判った。 どうやら二人は、禁を破る所か、どこかで何かがあったみたいですね」
 和泉は笑う。 太一も、自分で言っておいて、照れ隠しに笑う。
「でも・・・不思議ではないかも知れませんね」 和泉は言う。
「え? どうしてですか」
「『ムカヘ』の男性方はどうなのか知りませんが、『ムカヒ』の女性は大抵、相手となる男性が誰なのかをあらかじめ聞いて、そうして、その男性と一緒に登りたいと願う女性が立候補して、その年の、『カミゴトヤク(神事役)』が決まるのですよ」
「え・・・そうなんですか。 僕はそれは初耳でした。 なるほど、じゃあ、『カミゴトヤク(神事役)』の二人が結婚する確率が大きいって言うのは、案外嘘でも無いんですね」
「そうですね。 昔なんかは、『カミゴト(神事)』にかこつけた、女性からの求愛だった事もあったらしいですから」 そう言って、和泉は笑った。
「それじゃあ・・・」
 太一は言い出して、ちょっとだけ言葉に詰まる。
「そうですよ。 私は遠藤さんだと聞いて、私から立候補したんですよ」
 少しだけ、握る和泉の手に力がこもった。

「誤解しないで下さいね」 しばらくして、和泉はぽつりと話し掛けて来た。
「決して婚約者のいる人に、横恋慕したくて立候補したんじゃないんですよ。 頼まれたんです、友人に」
「友人?」 太一は聞き返した。
「えぇ、友人に。 私は立候補出来ないから、あなたが代わりに彼と一緒に登って・・・って」
 風に木の枝が靡く。 ざわざわとした音が、静寂の中に響く。
「彼女は・・・身体が病弱だったんです。 山道を登るどころか、普通に道を歩くにも厳しいぐらいに弱かった・・・」 和泉は、過去形のままに言葉を続ける。
「本当は彼女も、自由に歩き回りたかったに違いありません。 毎朝窓から見下ろしながら、自転車で風を切って走る貴方のように・・・ね」
 毎朝僕を見ていた? 太一はそう聞き返そうとして、やめた。
「健気な人でしたよ。 遠くから見る事しか出来ない貴方に憧れて、いくらも立って歩けない程に病弱だったにもかかわらず、何とかして貴方の名前だけでも知りたいと願って・・・」
「それで・・・どうしたんです?」
「もう、末期だったんですよ。 運命を受け入れていたからこそ、最後に何かが欲しかったのでしょうね」
 太一は、無言だった。
「婚約者の方は・・・素敵な方ですか? 愛していますか?」 和泉は聞く。
「・・・はい」 太一は、ゆっくりと、そして確実に、そう答えた。
 和泉は、太一の背後で、悲しげな微笑みで顔を伏せた。

 秋の月が、冷ややかに光を投げ掛けていた。
 そこには、静寂があった。 勿論、耳をすます事をせずとも、四方から虫の音やら木々、草のざわめきなどが聞こえて来たが、それらは一層に、「音」ではなく、「静寂」の為の存在のような気がした。
 やがて、二の丸が見えて来た。 そこに至るまでは、二人はずっと無言だった。
 ただ、お互いの手を握り締めながら、ひたすらに歩いて来ただけだった。
 二の丸の手前で、和泉が足を止めた。 引いている手が止まり、太一はその場で振り向いた。
 先に沈黙を破ったのは、和泉の方だった。
「一度だけでいいのです」 和泉は、言った。
「一度だけでいいのです。 婚約者の事を忘れて、今のひとときだけ、私を愛しては頂けませんか」
 驚いて太一は振り返る。 だが決して、和泉の顔は笑ってはいなかった。
 太一は、その言葉の意味ははっきりと判っていた。 そして和泉が、二の丸の境内の前で立ち止まった意味も判った。 恐らく今夜は、お社の扉も開放されているだろう。
 太一は迷っていた。 和泉の顔を見た瞬間から、少なからず、彼女に性的な意識は持っていたからだ。
 和泉は、そっと太一に寄り添い、腰から抱きつくようにして、背の高い太一の胸元に、顔を埋めた。
「一度だけで良いのです。 一度だけで良いのです」 和泉は繰り返す。
「それで諦められるのです。 彼女はそれで諦められる。 どうか、彼女が可哀想だと同情されるならば、一度でいいのです。 私をその彼女だと思いながら、抱いては下さいませんか」
 自然に太一も、和泉の身体を抱き締めていた。 顔を寄せると、和泉の身体から立ち昇る、性的なる香りが鼻腔をくすぐった。
 自制心と欲望がせめぎあった。 理性と欲情が拮抗した。 葛藤で、太一の身体は熱くなった。
「それで諦められるのです」
 和泉はもう一度いい、太一の身体を強く抱き締める。
 強い風が、和泉の髪をなびかせ、抱き締めた太一の腕を撫でる。 そのまましばらくはそうしていただろうか、太一は腕の力を弱めると、小声で和泉に言った。
「・・・ごめんなさい。 僕には婚約者がいる」 そう言って、太一は和泉から身体を離す。
 太一の腕に通された、『オマモリ』の、緩く嵌った腕時計がするりと滑り、止め金が軽い金属音を立てた。
「僕には彼女を、裏切れそうにない」

 気まずい時間は、ほんの少しだけだった。
 すぐに二人は一時前に戻り、それからしばらくは、二人共に他愛も無い世間話などをしながら、夜の道を歩いた。
 太一は、会社の帰りに立ち寄る居酒屋で見掛けた変な客の話をしたり、和泉は、家の窓から見える湖の一年の移り変わりなどを語った。
 意外にも、その会話は不思議と楽しく、太一も和泉も、良く笑った。 まるで先程の葛藤の一場面など、無かったかのような雰囲気なのだが、恐らくはその前提があるからこその気の許しがどこかにあったのだろう。
 月夜の光が、怪しい魔力を持ちながら、風に揺らめく。
 太一も、もう少しこうして話していたい・・・そう思った頃、遥か向こうに本丸の篝火が見えて来た。
 終点の灯りに安堵しながらも、この一夜の冒険譚も、終わりに近付きつつあると言うのが事実だった。
 恐らく、あの篝火の下に、婚約者が待っている。 そう思った瞬間、背後から和泉が、背中から抱きついて来た。
「せめて・・・せめて何か、一夜の想い出を頂く訳には参りませんか」
 太一は、和泉の手をほどきながら振り返る。 少し濡れた目で、和泉が見つめていた。
 何と言う美しい女性だと、太一は改めて思った。 最初に彼女を見た時に蜉蝣のようだと思ったのも、それ程的外れでは無いと感じた。
 朝に生まれ出て、一夜にしてその命を全うする。 そんな儚さを、間違い無く、彼女は持っていた。
 それは、ごく自然な動作だった。 太一の右手と和泉の左手が自然に絡まり、太一は和泉の頭を抱くように引き寄せると、まるで当たり前のような動作で、唇を重ねていた。
 一度、軽い接吻を交わすと、今度は二人は強く抱き合いながら、何度も何度も、飽きる術を知らないかのように激しく唇を重ね合わす。 太一は、一夜限りの過ちと言う甘美なる誘惑に、完全に没頭している自分を感じた。
 太一は和泉の身体を強く抱き、そしてお互いの舌と舌を、強く絡ませる。 欲望はとどまる事を知らないかのように、太一の身体を熱くさせた。
 もっと深く愛したいという欲望のままに唇を吸い、風に煽られ、頬に絡みつく和泉の髪の感触までもが、果てしなく欲望へと結び付いた。
 先程に通り過ぎて来た二の丸の事を太一は思い出し、太一は逃した情事を脳裏の片隅で後悔をした頃に、二人は自然に身体を離す。 改める程に、目の前にいるその女性は美しかった。
 和泉は太一の胸に顔を埋めつつ、愛おしそうに、太一の身体をまさぐる。
 手は背中から二の腕に。 そして袖の間から手を滑り込ませ、直に太一の腕を撫でる。 その動作の一つ一つが、陰に籠もって性を昂ぶらせる。
 太一が大きく呼吸を漏らしたその時に、和泉の手は、婚約者から、「生の証」として預かった、『オマモリ』に触れた。 和泉は一つ大きくびくりとするが、その次の瞬間には、そのままするりとその腕時計を、太一の腕から抜き取っていた。
「あ・・・」 太一が驚き、身体を離した。
 瞬間、目に強烈な痛みが走る。 風で煽られた木の枝が、大きく撓りながら、太一の両目を打ったのだった。
「大丈夫ですか」
 痛みのあまりうずくまった太一の真横で、和泉の声が聞こえる。
「えぇ。 でも、痛みで目が開けられません」 太一は痛みのあまり、溢れ出て来る涙を拭いながらそう言った。
「もう少しで着くと言うのに・・・。 目が開けられない」
 その時、また一つ大きな風が、ざっと鳴って通り過ぎた。 その風の中に、耳には聞こえずも、何故か和泉の微笑んだ声が聞こえたような気がした。

「あぁ、ありましたよ」 和泉は言う。
「ごめんなさい、私がうっかり触って落としてしまって」
 そう言って、和泉は目の見えない太一に代わり、落とした腕時計を腕に嵌める。 再び太一の腕に、冷たい金属の感触が甦る。
「さぁ、参りましょう。 本丸の手前までは、私が先導いたします。 その頃にはきっと、目の痛みの方も回復すると思いますよ」
 和泉は太一の腕を取り、引っ張る。 儚げな印象とは裏腹に、引っ張ろうとするその力は、意外にも強い。
 途端、軽い違和感を感じた。 それが何なのかは判らないまま、すぐに消えてしまう違和感だったのだが。
 太一は、全く視力が当てにならない状況で、足元の不安定なる場所で立ち上がった。 不安は残るが、この目の痛みではとてもではないが回復は見込めそうに無い気がした。 そんな状況で目的地へと辿り付くには、確かに、和泉に手を引いてもらうしか方法は無さそうだった。
「和泉さんは大丈夫なのですか?」 太一は心配そうに聞く。
「平気ですよ。 必ず連れて参りますから・・・」 和泉はそう言いながら、太一の手を引き、歩き始めた。
「今度は、大事な、『オマモリ』、落とさないで下さいね」
 太一は、片方の手で、痛む目を押さえながら、もう片方の腕で、前を歩く和泉の手を握る。
 先程にも増しての暗闇だった。 今度は、提灯の灯りすらも届かない、真の暗闇の中で、太一は心細くも、和泉の引く手だけだ、唯一の頼りだった。
 和泉は、前を歩きながら、先程よりもずっと饒舌になりながら話を続けていた。
 不思議な事に、息を切らす事も無く、次第になだらかになりつつある上り坂を休む事無く歩き続け、そして話し掛けた。
 和泉が呼ぶ太一の名前は、前よりも親しみを籠り、そして愛情すらも感じ取れた。 だが不思議と、太一には何かしらの疑問が大きくなって行った。
 太一は真の暗闇の中、転ばず歩く事だけに神経が行き、あまり和泉の話す言葉の内容には、気が回らなかった。 先程よりも激しくなる目の痛みに苦悶の表情を浮かべながらも、相槌程度の返答を返していた。
「そう言えば太一さん。 太一さんの会社の近くで、入水自殺があったのは知っています?」
「あぁ・・・ありましたね。 何でも、冷たい湖に浮かんでいる溺死体を、早朝に誰かが見付けたとかね・・・」
「えぇ、何でもまだ若い女性だったらしいですよ。 何でも、不治の病と、叶わない恋の為に身を投げたとか聞きましたけどね」
 和泉は、そんな暗い話題を話しながらも、口調は淡々としたままだった。
 なんとは無しに、太一の中には、和泉への疑問が大きくなって行く。
「あぁ、そう言えば太一さん、私の、『オマモリ』、何だったか知りたがっていましたよね」 和泉は突然に話題を変える。 太一はただ、「えぇ」と返しただけだった。
「私のも、腕時計なんです。 友人から借りた腕時計。 尤も、借りたと言っても、もう返せないんですけどね」
 太一は、何となくその言葉を聞きながら、漠然とした不安が押し寄せてくるのを感じた。
「『オマモリ』は、唯一、『ムカヘ(迎え)』と、『ムカヒ(向い)』が、『カミゴト(神事)』の装束以外に付ける事を許された、生者からの預かりものなんですよね。
唯一、生者の物を身に着けて、それを頼りに、生きる人の所へと戻る。 大事な大事な御守り。 人が生きていると言う、生命力の込められたオマモリ・・・」
 太一は、再び、軽い違和感を感じた。 それは先程、和泉に腕時計を嵌めてもらった直後に感じた違和感そのままだった。
 何とはなく、婚約者に借りた腕時計が、しっくり嵌っていないような・・・。
「和泉さん・・・一つ聞いて良いですか」 太一は、搾り出すように声を掛ける。
「なんでしょう?」 和泉の声が返る。
「亡くなった・・・あなたのお友達の名前は、何て言うんですか?」
 突風が吹き抜けた。 目の開かない太一は、かなり平衡感覚が鈍くなっているようで、たかが風に、煽られてよろける。
 風の音と共に、和泉が呟いた名前は、「イヅミ」と聞こえた気がした。

 太一は、前につんのめりそうになりながらも、不安定なる道を歩く。
 和泉は時折、「大丈夫ですか」と声を掛けるも、歩調は全く緩まない。
 相変わらずの静寂な道だった。 前にも増して、静寂な印象は強くなる。
 それは、目の見えない事による不安から来るものなのか、気が付くと、先程から全く聞こえなくなっている虫の音がそう思わせるものか。
 ただ一つ確かなのは、『オマモリ』が入れ替わっていると言う確信のみ。
 きっと自分は、彼女の、亡くなった友人から借りて来た腕時計を嵌めているいうことで、自分の腕時計は・・・それと入れ替わりに、さっきの場所に置いて来たたままだということだ。

 静寂の中、自分一人分だけの、枯れた落ち葉を踏み締める足音が聞こえる。
「大丈夫ですか」 再び、和泉は聞く。
「えぇ・・・それより、先程の突風で、提灯の灯は平気だったのですか?」 太一は答える。
「提灯ですか? そんなもの、最初から持ってなかったんじゃありません?」
 太一は、無言を返した。 和泉は、その無言の後悔に返事をした。
「だからあの時・・・・・アキラメサセテクレレバ ヨカッタノデスヨ・・・・・」

 遥か遠くに、人の声がしたような気がした。 懐かしくも、愛おしい人の声だったような気がした。
 そろそろ本丸には着いても良さそうなぐらい歩いたのに、和泉の引く手は、一向に終着点を迎えない。
「大丈夫ですか」 和泉は聞く。
「まだ・・・痛みますか?」 和泉は、殊更心配そうに聞く。
 和泉の冷えた手の平が、繋いだ太一の手を、大事そうに撫でた。

「太一さん。 もうすぐですから・・・」


「もうすぐ・・・くだりきりますからね・・・・・」



●自己批評
某県へと、ドライブがてらに遊びに行った時の事。 そこは、湖の街だった。
夕焼けの空が、揺れる水面に映り、茜の空が世界を覆っているかのようだった。 そして同時に、いつかこの街を書きたいな・・・と思った。
まさかこんな風になるとは思わなかったが、峠に跨る二つの県と、大きな湖。 それは、俺が見た世界のそのままの一シーンである。


『魔城 九龍 李九龍』 


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◎ということはつまり、彼女の腕時計を俺は持ってきてしまったということで、俺の腕時計はそれと入れ替わりにあそこへ置いたままだということだ。

『愛のかたち』

著者:フトン 


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彼女の腕時計を俺は持ってきてしまったということは、俺の腕時計はそれと入れ替わりにあそこへ置いたままだということだ。
女性用のその時計を眺めながら、ため息をついた。
結婚記念にペアで買った時計。
あの時はこうなるなんて思っても見なかった。
ただ、幸せでそれだけで充実していた。
結婚指輪だけでなく記念に残るものが欲しいと、俺に強請ったあの顔が、時計越しにちらちらと浮かぶ。
月明かりが綺麗なあの公園で、微笑んでいる妻の優しい顔が・・・・
・・・・何故・・こんな事になったのだろう・・・・どうすれば・・いいんだ・・・
重く冷たい空気が部屋の中に充満している気がした・・・
まるで俺を取り囲み世界中から隔離しているように・・・・


妻が倒れたと聞かされ、飛び乗るようにタクシーに乗り込み病院までやって来た俺に、医師が重い空気をまといながら、静かにこう告げた。
「奥様の病気はかなり進行しています。」
一瞬で、頭の中が真っ白になった。
・・・・妻が病気??・・・・・
今朝まであんなに元気にしていた妻が・・病気だと???
ごく普通の朝だった、いつものように子供達を保育園に送りながら出勤した。
妻はいつもの笑顔でそれを見送ってくれた。
本当にいつもの朝だった・・・
「あの・・治るのでしょうか?」
俺の言葉に医師は重く頭を擡げ、首を横に振った。
「手術をしても治る見込みは少ないでしょう・・・」
ナ・オ・ラ・ナ・イ・・・・・・
「どのくらい・・あと!どのくらい生きられるのですか?!」
「もって、半年です。」
誰かに頭を殴られた気分だった。
妻がこの世から居なくなる・・・
自分で言うのも変な話だが、仲の良い夫婦だったと思う。
いつも一緒にいたし、何かにつけ一緒に行動をした・・・
子宝にも恵まれて・・・幸せだった・・・
その生活が・・・・なくなるというのか?
その後の医師の説明は空中でくるくる回っているようで、俺の耳まで上手く届かなかった・・・
ただ、自分の身に起きた出来事を必死に受け入れようと・・・・ただそれだけでいっぱいだった・・そのときの俺には・・・


病室の扉を開けると、朝と同じ笑顔が俺を迎え入れた。
「ごめんね。ビックリしたでしょ?先生なんて言ってた?」
妻はニコニコと俺の顔を覗き込む。
「ああ、暫く入院だけどたいした事はないそうだ・・」
一瞬、妻の顔が真顔になった気がしたが・・笑顔のまま「そう」と答えて、妻が俺の手を取った。
「私が居なくても大丈夫?」
その言葉に、胸を掴まれる・・・
妻が居ない・・・・居なくなる・・・・!!!
「何日も入院なら、子供達の事とか大変でしょ?」
「あ・・ああ。実家に帰るよ。そのほうが静菜も安心だろ?」
妻はうんうんと、頷いて安心したようにまた、布団に潜った。
「お母さんに電話しなきゃね。」
「いいよ。俺が自分で言うから、静菜はしっかり休め。早く良くなってもらわないと俺が困る。」
「もう!しょうがないなぁ。」
いつもの明るい笑顔が俺を居た堪れなくする。
「取り合えず、一旦家に戻って、着替えとか持ってくるよ。何か欲しい物あるか?」
「う〜〜ん。朝からあんまり食べてないから・・何か食べ物が欲しい!!」
「はいはい・・じゃ!いい子に寝てろよ!!」
俺はそう言って妻に背を向けた・・・
これ以上妻の顔を見ていられなかった・・・


日に日にやつれていく妻を見るのは、耐えるに忍びなかった。
健康的な笑顔が、消えていくのにそう時間はかからなかった。
俺の手を握る力も段々弱くなってきている・・・
日曜日で天気もいいのに病院に拘束されている妻は、ただ寂しそうに窓を眺めていた。
子供達が妻に思いっきり甘えている。
いつも一緒に居た母親がそばに居ない寂しさが、そうさせていた。
妻は子供達の頭を一人一人優しく撫でながら、何か歌を歌っている。
そんな光景が優しく俺に写るのに・・・胸が締め付けられるように痛かった・・・


妻が寝ているベットを占領して子供達が寝息を立てているのを愛しむように見ている妻が、静かに口を開いた。
「晃ちゃん。ありがとうね。」
俺は突然の言葉に顔を上げた。
「何言ってんだ?当たり前の事だろ?」
妻はゆっくり首を振った。
「違うの・・・私ね。分かってるの・・・・・もう長くないって・・・」
弾かれる様に妻の顔を見た。
笑顔の奥に寂しさが滲んでいる。
「な・・何言ってるんだ?そんなわけないだろ!!」
妻は俺の言葉に首を振った。
「最初にここに来た時、晃ちゃんの顔を見たときから・・・分かっていたの・・だって、晃ちゃん嘘つけないんだもん。」
そう言って、俺の手をとった。
俺は妻から視線を外した。見ていられなかった。
「私、この子達に何もしてあげられなかったね。晃ちゃんにも迷惑掛けてばかりだし・・・だめな奥さんだったね。」
「そんなこと・・・」
「晃ちゃん。優しいから甘えてばかりだったね。でも、私幸せだったよ。晃ちゃんと結婚して本当に良かった。」
「静菜・・・」
妻が俺の手を離すと、立ち上がった。
「ああ!くやしいな!!この子達の成長・・見れないなんて!」
力のない歩みで窓際まで歩いていく妻の背中を見ながら、涙が溢れていくのを感じた。
「晃ちゃんともっと喧嘩したかったな。」
ふふふと、笑い声が聞こえるのに泣いているようで・・・俺は立ち上がり妻を背後から抱きしめた。
「ごめん。守ってあげられなくて・・・」
涙が溢れて止まらない・・・
妻の前では泣かないって決めていたのに、どうしても止める事が出来ない。
妻が俺の手首にしている時計を優しく触った。
「晃ちゃんの奥さんになれて、本当に良かった。」
抱きしめている手に力を入れる・・・
このまま消えてしまいそうで・・・怖くて・・・
重なった影がカーテンに映し出された。
・・・・神は居ないのだろうか?・・どうして俺から奪っていくのだろうか・・・誰か教えてくれ・・・


夜中に病院に来るのは初めてだった。
誰も居ないロビーは暗くて、静か過ぎて・・・・不安を掻き立てていく。
夕方妻が、俺に電話をよこした。
『晃ちゃん。12時になったら、病院に来て!!お願いよ!!』
突然の我儘は付き合っていたときからの妻の得意技だった。
俺はそれを何時も聞かされてきた。
その我儘に答える事が出来るのは俺だけだと知っていたからだ。
その我儘が好きだった。二人の繋がりのようで・・・・
病室に着くと小さな灯りが漏れて俺を誘った。
「いらっしゃい」
いつもの笑顔が俺を出迎え、細くなった腕が俺を抱きしめた。
「どうした?こんな夜中に呼び出して・・・」
「あ〜!晃ちゃん忘れてるな!今日は8回目の結婚記念日でしょ?いつもは私のほうが忘れてるのに!!ひどいなw!」
病気のことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていた・・・
毎年、妻は結婚記念日を忘れていた。
俺が、何かをして思い出すのが当たり前だった。
記念日を覚えているのは女の方が常なのに、静菜はあまりそういった事を覚えていてくれなかった。
『だってw。晃ちゃんが覚えててくれてるでしょ?私忙しいもん!』
そう言って、いつもはぐらかされてしまう。
子供みたいに表情がころころ変る妻が、いつも明るくて人を振り回すのが上手な妻が・・・今は痛々しいほど細く儚げになっている。
「ずっと、病院に居るからプレゼントは何にも無いんだけど・・・お願いがあるの・・」
もともと小さい体系の妻が、俺の胸の辺りで恥ずかしそうにそう言った。
「最後に・・私のことを覚えて欲しいの。私の全部を・・・・」
ゆっくりと俺から離れ、着ているパジャマのボタンを外す・・
ベットに備え付けられている小さなライトと、カーテンの隙間から見える月明かりに照らされ・・白く浮き上がる体に息を呑む。
「ふふふ。何か痩せちゃって、あんまり綺麗じゃないね。」
そう言った妻を抱きしめた。
このまま、俺の前から居なくなってしまいそうで・・・・あまりにも綺麗過ぎて・・・・
「綺麗だよ・・・」
お互いを確かめるように・・・ただ壊さないように・・・・大切に大切に・・・思いを重ねた・・・
最後の・・・・思いを・・・・



あの時に妻を傷つけないために外した時計が、入れ替わってここにある。
儚く壊れそうな妻を傷つけないよう・・・
隣に妻がいない寂しさに身をよじりながら、俺は声にならない涙を流した。
たった一つ願いが叶うなら・・・妻を治せるのなら・・・
でも、それは叶わない願い・・・・
ならせめて、幸せなまま・・・・
そして、決意をした。
妻が望んだ最後の我儘を聞く・・・決意を・・・・・



妻の最後の我儘を聞く日は、思いのほか早くやって来た。
俺は担当医の部屋を訪ねた。
妻の最後の我儘を伝えるため・・・
しかし、担当医の答えはNOだった。
無理な願いだと突っぱねられた。
でも、俺は聞かなければいけない。
俺しか妻の我儘を聞いてあげられないのだから・・・・
そして、その日はやって来た・・・・


「ママ!!」
子供達が、妻を見て嬉しそうに抱きついてくる。
妻もそれを嬉しそうに素直に受け止めるが、それには力が足りずよろよろと後ろに倒れる。
妻を抱きとめ、子供達を諌める。
「ママは病気なんだから、優しくしないとな。」
子供達もこの数ヶ月大人達に諭され、母親の状態を幼いながらに感じていた。
素直に俺の言葉に従い、今度は優しく妻に触れた。
「ママ?体痛くない?大丈夫?」
妻のお腹をさすりながら、長女がそう言った。
「大丈夫よ。ありがとう。大好きよ。」
妻が子供達を抱きしめる。
「さぁ、もう遅い。皆で寝ような。」
俺の言葉に皆は頷き、子供達が妻の手を引き寝室へと誘った。
寝室で家族で手を繋ぎ布団に横になる。
寝る間際子供達が誰かママの隣で寝るかで喧嘩をしてたのに今は嘘のように、静かな寝息を立てていた。
「晃ちゃん。我儘聞いてくれてありがとうね。」
「本当だな。明日大騒ぎだぞ。病院」
妻がいたずらっ子のように笑う。
「私ね。晃ちゃんと結婚して本当に良かった。この子達が産まれてきてくれて本当に良かった。とっても幸せだったよ。」
繋いだ手を強く握り締める。
「何言ってんだよ。静菜はこれからも俺の奥さんだし、この子達の母親だろ?」
「それは・・・だめよ。晃ちゃん一応若いんだから、恋愛しなきゃ。」
「一応って何だよ・・」
いたずらっ子の笑い声が耳を優しく通り過ぎる。
「最後に皆と居れて幸せだったよ・・・ありがとう・・」
「静菜?」
繋いでいた手の力が少しずつ弱くなっていく。
妻から規則正しい寝息が聞こえる。
眠れない夜が・・・始まった・・・


何度か鳴り響いた電話を無視し、眠っている家族の顔を交互に見つめる。
電話は病院からだろう・・・何の許可もなく妻を連れ出したのだ・・・今頃大騒ぎになっているはずだ・・・
静か過ぎる夜が、俺の胸を不安で締め付ける。
「晃ちゃん?」
突然妻が目を開けた。
「ん?」
「まだ起きてたの?」
「ああ、」
「晃ちゃん。よく聞いてね。」
俺は無言で頷いた。
「子供達のことお願いね。私が死んだら、私のこと忘れないでね。あ!でも、他の誰かと結婚してもいいよ。」
「何言ってんだ..」
「いいから、私の人生とっても幸せだった、ちょっと短かったけど他の人より何倍も幸せだったよ。だって、晃ちゃんと結婚できたんだもん。だから後悔はしてないの。十分満足してるよ。子供達の事は気になるけど・・いつも傍で見守ってるから・・・だから安心してね。私の分も、子供達を愛してあげてね。」
「ああ。」
「晃ちゃん。ありがとう。愛してるよ。誰よりも。」
「俺も・・愛してるよ」
繋いだ手が・・・温もりが・・・消えかけていく・・
「幸せをありがとう・・・」
月が・・・・妻を連れて行った・・・・・・


妻が息を引き取った後、俺はまだ寝ている子供達を別の部屋へ移した。
台所に行き、コーヒーを煎れる。
まだ薄暗い部屋に遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
病人を許可もなく連れ出し、死なせた事実は・・・犯罪だろうか・・・
そんなことを考えながら、外を見やる。
失ったものの大きさに潰されない様・・・・気持ちを奮い立たせながら二つ並んだ腕時計を手で転がす。
留守電に残っていた慌てふためいた声が、異世界のように感じながら・・・・
一睡もせずに病院からの連絡で警察が来るのを待っていたが、そのうちに朝が訪れた。
俺は幸せだった。妻の最後の我儘を・・・俺は聞く事が出来たのだから・・・・
それが・・・・・俺の愛のかたちだから・・・・・



●自己批評
悩みに悩んでいた時に、突然浮かんできたお話です。
最初はミステリー物にしようと考えていたのですが・・・・ていうか!このお題でミステリーにならない私って・・・・^^;
しかも最後は、どうしても締められなくて、思いっ切り書き足してますね^^;
ダメだこりゃ・・・
結局フトンらしいから抜けられない作品になりました。
かなり実話が入り込んでますが・・・気にしないで〜〜〜て感じです。
冒険どころは、ちょこっとピンク色が入っているとこ!!かな?
想像力不足に悩むこの頃でした。


『プリンセスドリーム フトン』 


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◎一睡もせずに警察が来るのを待っていたが、そのうちに朝が訪れた。

『僕はそれに口付けを……』

著者:一茶 


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 一睡もせずに警察が来るのを待っていたが、そのうちに朝が訪れた。
ぼんやりと、天井を見上げる。
「…来るわけ……無いか。」
そう、来るはずなど無い。
今時、未成年が飲酒したところで現行犯でも無い限り警察が動くはずが無い。
何を恐れていたのだろうか。
何に怯えていたのだろうか。
一睡もしなかった頭では、よく考えられなかった。
「……目、覚ますか。」
呟いて、眠りにつきたがる身体をむりやり起こす。
ユニットバスの洗面に向かい、水道水で一気に眠気を取り払う。
「頭…いてぇ…」
これが、二日酔いってやつか。
そう認識したら、更に痛くなった。
顔を洗うついでに、コップ一杯の水を飲み干す。
「……うまい。」
初めて水道水をうまく感じた。
部屋に戻って、壁掛け時計を見る。
 ―7時45分―
そういえば、今日から学校が始まるんだっけか。
よりによって、休みの最終日に飲み会に呼ばれるとは。
「どうして、行ったんだっけか……。」
確か、何か嫌なことがあって、その腹いせに…。
嫌なことって、なんだ?
「ウッ…いたっ。」
考えることを拒むかのように頭痛がひどくなった。
とりあえず、着替えて学校に行く準備をしなくては。
睡魔を払いながら、準備をする。

 ―ウルサイ。
「…え?」
少し、寝かけてしまったようだ。
時間は……マズイ。
アパートの鍵と自転車の鍵、かばんを持ち、急いで学校に向かう。
「……やっぱり、行くんじゃなかった。」
まだ、行った理由が思い出せなかった。


 学校、それは集団生活の場。
そんなことを誰かが言っていたような気がする。
確かに、高校まではその言葉も理解できる。ただ、その言葉は高校までだ。
大学となると、もうその集団生活なんて無い。
皆が皆、自分のことしかかまってはいない。
決まったクラスなども無い。固定された座席なども存在しない。
それのどこに集団生活を見出せと言う?
ほら、まただ。こっちが避けると思ってか避ける気が一切無い。
で、ぶつかったら全部相手のせいだ。一言もしゃべらず、ただ嫌な視線だけを投げてくる。
これのどこに集団生活があると言えるのだ?
…まさか、大学は学校ではないとでも言うのか?
これが、本来の学校なのか?自然状態だと言うのか?
「はぁ……こんなものだったか。」
思わず、独り言が出てしまった。
これも最近の風潮なのかもしれない。仕方の無いことなのかもしれない。
人間の生活が変わってしまったのだろう。少なくとも、僕の高校の頃の担任の時代から。
でも、あんまりだ。
僕はただ、そんなことを考えながらも身体を教室へと運ぶ。
「はぁ……」

 一コマ九十分のだるい講義を二コマ分、受け終わった。
よりによって、初日から講義を始めるとは思わなかった。
「飯、か…」
なんとか、二日酔いも治まってきてくれたようだ。
「よっ、来てたのか。」
高校の頃からの連れ合いが僕に向かって手を上げて言った。
「これから飯だろ?一緒にどうだ?」
僕はその彼へ向け、無言で頷いた。
「じゃぁ、行くか。」
僕は無言で彼の隣についていく。
 食堂につき、開いている席を選んで座る。
「珍しい混みようだな。」
「あぁ…学期の始めだからじゃないのか?」
「そっか。」
てきとうに返事をする。
上辺だけの関係。
相手の懐深くに入っての話はこいつとしたことがない。
思い起こせば、僕はいつだって相手の懐に入っての話をしてこなかった。
親と話すにしろ、友人と話すにしろ、どんな時でも。
僕はうまいか下手かは分からないが、仮面を使い分けていた。
たまに仮面の着け間違いぐらいはした。尤も、誰もがやっていることだろう。
ただ、一度たりとも仮面の下の顔を見せた相手はいない。
もしかしたら、自分にさえ見せていないのかもしれない。
僕が知っている、僕自身の姿すら仮面なのかもしれない。
彼との会話の中で、彼は僕がこんな無関係なことを考えていると想像するだろうか。
いや、しないだろう。
「…ぃ、おいってば!」
彼が僕の肩を叩く。