Mystery Circle

創造と想像が好きな人々の為に ―ようこそ、奇譚の円環へ。―

第二十三回 Mystery Circle




◎「世界を難しくしないでよ。とりわけ、私たちの世界を」

『綴り人の夢想 / オギノ=ユーラルトの場合』


著者:望月来羅  


 何を書こうか迷う。だが、黙考しているうちに少しずつ考えがまとまり、静かに指を滑らせた。書く内容・・・綺麗な景色が良い。故郷を思い出した。煌めく川、溢れんばかりの緑。そして白紙も忘れてはいけない。悪戯心で木の枝に宝石でも縁取ってみようか。

 背後でカタカタと、いつもの音が聞こえる。
 その音は不規則で、時に早くなり、時にゆっくりとしたものになる。だが、いくら探そうとも、その音源を見つけることはできない。姿勢を正す。仕切りなおし。目の前の白紙、始めに丸を書く。丸く、小さく、丁寧に。
 力が入りすぎて、真さらな白地にインクの染みを作ってしまった。
 目の前の机に敷かれているのは、一枚の白紙。今、書いたばかりの少々不恰好になってしまったインクの染みを、少しだけ苦い面持ちで見つめる。出だしから鼻をくじかれた気分だ。
 丸を書くことに意味はない。物語を綴るときのジンクスのようなもので、なんとなくペンの滑りが良くなるのだ。
 さてどのような物語を綴ろう、と黙考していると、いつものように白紙が語りかけてきた。世界を難しくしないでよ、と、甘えるように言う。とりわけ、私たちの世界を。
 やれやれ。小さく息を吐く。こちらとしても、難しいものを書きたくて書いているわけではないのだが。
 気分直しに、外へ行こうと立ち上がる。部屋の中に溢れているのは膨大な紙の束だ。まとめるのが面倒で、書き終わった物語は隅の方に積み上げていたのだが、気がついたら足の踏み場もないほどの原稿が部屋中に溢れかえっていた。くすんだ印象を受ける部屋の中では、肩まである自前の銀髪もくすんで灰色になっている。
 ふと下を向いて、紙を踏んでいることに気づく。足を持ち上げると、つい先日書上げたばかりの原稿の一枚目だった。端を折り曲げてしまい、少し肩をすくめる。
 そのとき、背後から軽やかな足音が聞こえてきて、はたと動きを止めた。思った通り、その足音はこの部屋の前で止まり、少々強めのノックの後に、こちらの返事も待たずに部屋の扉が開かれた。
「オギノ!起きてる?」
 思ったとおりの相手がそこにいることに、当たり前だと思いつつも、やはり慣れなくて違和感を感じる。
 扉を開けた左手はそのままに、そこに仁王立ちしているのは、淡い水色のゆったりしたワンピースに身を包み、艶やかな腰まである黒髪、整った目鼻立ち。アーモンド型の茶色の瞳が印象的な、まだ若い少女だった。といっても、その姿が本当に彼女の元の姿なのかは知らない。
 なにしろこの空間内では全てが『無から有する』。彼女の姿形にしても、彼女がこの空間に迷い込んだ時点で頭に浮かんだ『自分像』を形にした結果にすぎない。以前この空間に迷い込んだ科学者を名乗る男は、無からの誕生に矛盾を指摘したが、そんなことはどうでもいい。すでにこの世界はあって、私はいるのだから。
 近づいてきた彼女を、私は渋い面持ちで見上げた。彼女の背が高いというわけではなく、私の背丈の問題で、彼女の胸ほどまでしかない。
 これも仕方がない。気がついたとき、私はこの体にいて、意識だけは過去から続いた記憶を持ち、すでにやるべき仕事は分かっていたのだから、別に疑問はなかった。
「・・・・何その顔。可愛いお顔が台無しー」 
 面白くない、という声音とともに、ふいにむにぃ、と両頬を引っ張られた。彼女のこの突発的な行動も最近では慣れてしまい、彼女の両腕をゆっくりと頬から離した。
 彼女の名前はサラ。顔を合わせた日に、自分からそう名乗った。
「まったく・・・君もいい加減、もといた世界に帰ってくださいね」 
「なんでそーゆーこと言うかなぁ。オギノだって一人は寂しいでしょ?」
「いえ別に」
 彼女は、もともとこの世界の人間ではない。いや、世界と主張するには狭い・・・多分狭い空間でしかないが、それでも私にとってはここが唯一の世界だ。物語を綴ることが私の仕事だが、たまにふと気づくと他の世界、空間の生き物が迷い込むことがある。それは時に動物や植物であったり、昆虫であったり、妖精や思念であったり、人間であったりする。
 彼らは大概自分の目的を見失い、無目的で過ごすうちに瞬間的にこの空間に訪れるものが多数だ。この空間には時間という概念はないから、彼らと私では時間の感じ方が違う。きっと、夢でも見たのだと思うだろう。
「・・・皮肉ではなくて、本当に早くもといた世界へ帰った方がいいですよ。この世界に長く居過ぎると、夢の坩堝にはまってしまう。私にとってはこの空間が全てでも、君たちは本来存在することのできない空間なのに」
「わかってるよぉそんなこと。でも、全然違和感ないんだよね。だって異空間なんでしょ?でもオギノだって外見人間に見えるし。おまけに」
 顔を横に向けたサラは、ひょい、と傍の机から紙とペンを取り上げた。
「なんで異空間に紙とペンがあるわけ?オギノって名前も」
 狭い部屋の中で、動くでもなく、退くでもなく、ただ好奇心に任せて質問をしてくる彼女に軽く頭を振って、私は彼女の手からペンと紙を取り返した。
「物を書く。書を読む。私が存在する上で、書くものと書かれる物は必然的に必要になってくるんですよ。あと、私の名前は気がついたらこの名前でした。オギノ。もっとも、この世界には基本的に住人は一人しかいないことになっていますから、固有名詞は必要ないはずだったんですけどねぇ。いつの間にか」
 名前が生まれるきっかけは、一人の物書きの思念がこの空間に迷い込んできた時のことだ。今思えば、変わった思念だった。私に様々なことを話しかけ、質問の回答を求めた。
 彼の世の真理、宇宙の果て、生命の理論・・・。あいにく私も新しい物語を執筆中で詳しくは語れなかったが、気づいた時にはその思念はいなくなっていた。ただ、オギノと名乗ったことだけは覚えている。以来、その名を気に入り名乗っているというわけだ。
「空間を渡り歩いて備品を調達したとか?オギノっていろんな世界に行けたり?」
「行こうと思えば行けなくもないですけど」
「便利ぃ。・・・この原稿完成したんだ」
 サラが、すぐ横に積まれていた紙の束の、一番上の紙を手にとって呟く。サラがこの空間にきたとき、最後の章を書いていた物語は、一応私の中での完結は終えることができていた。長い横髪を耳の後ろにかけて、殺人鬼の虚日、と呟くように読み上げる。
「前読んでも思ったけどさ、アウンガードも私の世界の名前だよね。しかもゴッディス=神って。宗教にも通じてるってこと?」
「ここにいると結構いろいろな知識が入ってくるんですよ。それらを参考に」
「ふぅん?・・・『綴り人の思想』・・・荻野?」
 手にしていた原稿を、元の束に戻し、そのすぐ隣の束から引き抜いた一枚の題名を読み上げ、見覚えのある名前を見たのか、サラの眉が僅かに上がった。
「そういえば、その人もオギノでしたねぇ。その話は私が書いたわけではないんですよ。気づいたらここにあったので、以前の私が書いたのか・・・おや?とすると、私の名前の持ち主は、私の書いた物語から派生した世界の人物だったと・・・」
「頭痛くなるようなこといわないでよ」
 好奇心に煌めく茶色の瞳が、わずかに曇る。サラは、あまり計算というものに通じてはいないようだった。私は、サラの渋い表情を見上げて、何故かため息をつきたくなった。どうやら、彼女と私はほぼ正反対の性質を持っているようだ。
「考えれば考えるほど不思議ですねぇ。なんで君みたいな人がこの空間に訪れたのか・・・。本来この空間を一瞬でも訪れる人は迷っていたり、出口のない考えに囚われている人が多いはずなんですが」
「失礼な。私だって気づいたら・・・迷いだってあったよ?」
「もうかなりここにいるし、この空間の異常性にも気づいたでしょう?外の生き物がこの空間に長くいることは、毒にしかならない。時間は確かに流れているのに、空腹も睡眠も必要なし。おまけにこの空間は、私より『外』の人間が何かを書いてくれないと、何も広がらない、不変の世界なわけですよ。・・・普通の生き物ならば、すぐ帰れるはずなんですけど。ここまで長くいたのはあなたが初めてですね」
「順応性あるから私。ってか、まだ帰れないよ」
 サラは、ここに来て長い。部屋の隅にある大型の木製万年時計に目を凝らす。その時計は、私が始めて時計の知識を得た日に作ったもので、一定の時間ごとに針が一周する仕組みになっている。時計は、彼女がこの世界に現れてから144もの回数回転していた。
 僅かに迷って俯く彼女を見やるが、結局何も言えずに視線をそらす。手にしていた原稿を元の束に戻すと、サラの背を出口の方へ押しやった。
 驚いたような反応があって、背を押されたままの彼女が私の方を振り向いた。
「外、行きましょう。君が帰りたくないというなら無理に追い返したりは出来ませんから。気分転換に」
 彼女の艶やかな黒髪の感触を掌に受けながら、出口まで押していく。思えば、不思議なことだ。空間、世界に違いはあれど、彼女も私も外見はほぼ同じような姿形だ。これは『私の世界』を書いているものが私をこのように描写したからだろう。もしかしたら、この空間の外で私を書いているものがいるとすれば、その存在も私達と似たような容姿なのかもしれない。

 細い廊下を渡り、いくつかの部屋を通り過ぎる。久しぶりに、部屋の外の扉を開けた。一気に人工でない光が差し込む。振り返ると部屋の中は、一気に暗くなっていた。
 眩しさのあまり手で保護しながら空を仰ぐと、眩しいばかりのスカイブルーの色合いが瞳に映った。目の前にあるサラの髪が蒼味を帯びる。
「まっぶし・・・っ!ぅっわ、何?また景色変わってない?」
「おや。本当ですね」
 同じような格好で空を仰いでいたサラが、首をぐるりと巡らせた。風で水色のワンピースの裾がふわりと靡く。背から手を離して、つられて景色を見渡し、私もサラに同意する。
 私の住む世界は、景色が定期的に様変わりをする。時に熱帯雨林のジャングルとなり、時に水の上の孤島となっていたりする。最も、私にとってはこの世界で自我を認識した時点からそんな境遇で、違和感を感じることはなかったのだが。
 ちなみに今の景色は、風光明媚、というのだろうか。風さえも色づくような、長閑な風景がそこにあった。主なニ色は緑と青で、間に見える雲の白が際立っている。
 開けた扉から伸びる、細い一本道。砂利や雑草の生えたその道は遠くまで続いており、目を細めても先の終点を確認することは出来なかった。
 道の両側に広がるのは豊かな水を湛えた水田だ。畦道に生える雑草はその瑞々しい葉にわずかに露を乗せ、光を浴びてきらめいていた。

 水田同士をつなぐ道の所々に、数本の木が生えていた。ふと視線を移した拍子に、きらりと光るものがあり、興味を引かれてすぐ側の木に歩み寄る。近くまで行って見上げ、背後でサラが息を呑むのが分かった。
「ぅっわぁ・・・天然石?」
 頭上の枝に、その光るものは『生っていた』。宝玉の枝、というやつだろうか。様々な色に光っているが、一番近いところに生っている緑色の石を取ろうと手を伸ばす。届かない。背伸びをして・・・
「・・・」
「残念。届かないねぇ。ぼく、取ってあげよっかー?」
「・・・サラ」
「はいはい。ってかもう慣れたけど、今改めてオギノって子供だなーって。外見子供なのに精神は老成してんだもんねー」
 私よりも比べるまでもなく背の高いサラは、私が背伸びしても届かなかった枝に、あっさりと手を伸ばした。届いた腕の、肘が曲がっているのを見て少々ムッとする。
 その石は、軽く触れるだけであっさりと枝からはなれた。サラの掌に乗ったその石を、二人で見下ろす。枝に生っている実は大小さまざまで、大きいものは掌ほどもあったが、今サラが持っているものは親指の爪ほどの大きさで、深い緑色をしていた。
「・・・カマリアですね。深みのある緑で、すこし白味がかった層が年輪のように線を残している・・・」
「カマリアっていうのは知らないけど孔雀石じゃないの?これ。私一つ持ってたけど」
「孔雀石?あぁ、そうともいうかも知れませんね。あなたとは別の世界の言葉ではカマリアと言います。お守りとして親しまれている石ですね」
「へぇ。私の国ではあまりそういうのはないけど。・・・で、なんで木に?」
「私に言われても」
「オギノが書いたからこうなったんじゃないの?」
「まさか。私は私の世界には干渉することはできません。私は自分で書く小説には好きな描写をすることができますが、それと同じですね。この世界もそういうふうに設定されているんでしょう」
 石を彼女の掌に戻し、改めて周囲を見回すと、水田の上を、二匹の小さな羽の生えた生き物が仲良さ気に飛び交っていた。色は薄い黄色で、心なしか燐光を放っているように見えた。知らず、心が和む。
 自分の後ろには生彩を欠いたように薄暗い部屋へと通じる扉がある。巡らせた視線を下へと移し、軽く眉を顰める。扉のすぐ側に、白紙の束が置いてあった。
 もちろんそんな所に置いた覚えはない。きっとサラではないだろう。創造主は私に外で書いて欲しい物語でもあるのだろうか。
「よくわかんないなぁー。何回も説明はしてもらってるから大体は分かるけどね?じゃぁ簡潔に言ってよ。もし私が元の世界に戻ったら、探せばオギノに会える?」
「無理でしょうね」
 即座に返答する私に、心なしサラの表情が不機嫌になる。風で乱れた長いストレートの髪を直して、なぜと視線だけで問われた。
「球根を思い浮かべてください。球根は、何層にも包まれているでしょう?私とサラは、たぶんですが違う球根の皮上にいるんです。きっと、サラの方が私より内側に。この世界の外側にも球根の皮はあって、そこの世界の人物が書いた物語がこの世界を作っていると思うんですよ。ですから、中から外への干渉は難しいと思います。ってか無理ですね」
「そこまで言われるとなんかムッとするわ。なんでオギノは自分の存在も誰かによって作られたと思うの?そういう考えってむなしくならない?誰かに作られた存在って・・・。私は向こうの世界で寝て、起きたらここにいた。オギノを見て、その仕事とこの世界を見たときあなたのことを神様だと思ったんだよ。創造主でしょ?」
 香気を含んだ風が、優しく吹いている。背後に流れるのはいつもの不規則な連続音。風によって目の前を遮られた銀髪を後ろへ払い、私は緩く微苦笑した。自分の仕事が創造主。そうかも知れないし、そうでないかもしれない。
「創造主というのはわかりませんが。まぁサラから見たら不思議かも知れませんね。でも、私は外に世界はあると思います。ここは他の世界と比べて若干『壁』が薄いですから。それとなく分かります。自分の過去の記憶も含めて。この肉体も、きっと誰かに綴られて、ここにいる。この世界で『新たな世界を綴り、広げる人』という役割で。私が自由に生きている今この瞬間の出来事も、誰かによって『綴られている出来事』なんですね、きっと」
「・・・気のせいとか」
「むしろ気のせいだったらここまでやれませんよ。この世界はご覧の通り私だけしかいません。仕事を理解していなければおかしくなっていたかもしれませんね」
 扉の側に積みあがった白紙の前までゆっくり歩く。よく見るとその原稿は、大きな紙の束が2つあり、一つは以前に完成させたもの。もうひとつの束が白紙と、その上に羽ペンとインクが置いてあった。不意に、先ほどのサラの言葉を思い出す。
「・・・あと、先ほどの話しに戻りますけど、なにもペンやインクはサラの世界の物だけではありませんよ」
 ペンと原稿を手に取ると、サラが近づいてきた気配がして、側に座り込んだ。
「他の世界にも同じものが?」
「ええ」
 首を傾げるサラに軽く頷いて、原稿を手渡す。『世界樹』と題名の書かれているその原稿はいつ書いたのかは忘れてしまったが、紙はどこも折れておらず、また、染みも付いていなかった。
 その原稿は、他のものと同じく、白い紙に縦長の癖字で書かれている。だが、インクは遠い処へ行った時にたまたま手に入れたもので綴ってある。ペンよりも滑りがよく、くすみにくいので重宝していた。
「その原稿は『ガラ』と呼ばれるインクで書かれています。あなた達とは全く異なる世界から取り寄せました。その世界では、生物の頂点に君臨しているのは人間ではありません。ですが、『綴る』という点ではペンもガラも同じこと。全く違う歴史を辿っても、必要があればその世界は似たような世界になるのですよ」
「そっかぁ・・・なんかね。最初はオギノのその説明を聞くたびにわけの分からない苛立ちが募ってさ。だってその理論で行くなら私の存在も誰かによって作られたってことでしょ?私は向こうの世界では・・・まぁ、ちょっと疲れちゃっててさ。本気で自殺とか考えるくらい悩んだこともあったわけ。なのに、そんなところまで設定されてたらって思うたびになんかイラッとね」
「それは違う!」
 違います、と少しだけ声が大きくなった。驚いたように、座り込んだ彼女の薄茶の瞳が私を見上げる。どう説明したものか、と悩みつつも、彼女の誤解は解いておきたくて自分の持論をゆっくりと口にした。
「創造主がいるとしても、手がけたのは最初だけでしょう。物語というのは自分で広がっていくんです。私も、悩んだことはありました。最初は辛かったです。でも、しばらくして違うんだと気づきました。この世界は空腹を感じることもなく、まどろむことはあっても睡眠も必要ありません。一瞬のような永遠の時間がここにはあり、たまに訪れる『あなた達』の存在だけが、私に刺激を与えてくれる。
 私は誰かによって作られた物語の登場人物かもしれません。でも、それでも私の自我はある。私も物を書く側だから分かります。物語というのは何も一方的に与えられる立場ではないんです。」
 今また背後で開始された、不規則な連続音。私はこの音が今まさにこの世界を綴っている音だと推測している。
 だが、私がこのようなことを考えたとしても、おそらく書いているものには私の考えを止めることは出来ないはずだ。あくまで物語を『綴る』のであり、制御し操作するのではない。
 おそらくこの世界の外側にいるであろう人物に想いを馳せていると、ふ、と口元に微笑みが浮かんだ。この文章も眼にしているであろう創造者は、今何を考えているだろうか。

「・・・ま、良いや!」
 私の言葉を聞いて、黙っていたかと思うと、不意に彼女が言った。表情を見るとやけに晴れ晴れとしていて、つい先ほどと同一人物の表情とは思えない。
「サラ?」
「ん。良いや、なんかもうさ。オギノの理論聞いてると頭いたくなってくるし、今はこの景色を楽しみたいっていうかさ。悩んでるのが馬鹿らしくなっちゃって」
 言うなり彼女は、私の見ているまえで立ち上がるなり駆け出した。どこまで行くのかと視線で追えば、なんと水田だったりする。
「やれやれ」
 自分で説明を請うたかと思うと、すぐに考えを翻す。好奇心の固まりのような彼女には振り回されている気がする。
 水色のワンピースを膝上までたくし上げて、水田を歩き回り、何か生き物を見つけては笑い声を上げている。私よりもよほど子供のような行動の彼女を見ていると、呆れるとともに、羨ましいなとも思う。
 だが、私は彼女がこの世界に訪れた日のことを忘れてはいない。外は叩きつけるような豪雨で、暖をとろうといつもは使わない部屋の灯りをつけた途端、部屋の隅に彼女はいた。
 蹲り、震えていた。泣いていたのかは分からない。
 『実体』が伴っていた。思念のみならず、体が伴うほど、なにかから逃げて、この世界へと飛んでしまった。未だにサラは、元の世界のことを語らない。私も聞いたことはない。
 それで良いと思う。私から誰かに干渉することはない。この世界は、他の世界の生き物にとってはいわば夢の中の逃げ道のようなものだ。
 私も時に自分の無力さを痛感することもある。一向に成長しないこの体も含め、生きるとはなんなのかと誰にともなく問うたこともある。
 創造主の存在を心の底から認めたとき、サラの言うとおり言い様のない苛立ちに襲われた。自分の考えを見つけるまでに、長い月日を要した。

 今、明るい日差しのしたで、水しぶきを上げながら一人遊びに興ずる彼女を見ていると、どこか心が温かくなる自分がいた。
 確かに私は孤独を恐れはしない。この世界に長くいるサラにしろ、いつかはいなくなってしまう存在だ。だが、こうして他の生き物と触れ合うたびに、自分が確かにこの世界にいるのだという自信が持てる。
 自分が書くからこそ広がる世界があるのだと思うたび、登場人物達のその後を思っては心が温かくなるのだ。『自分なしでは広がらない世界がある』。そう思えることは、どれだけ幸せなことだろう。少なくとも、この世で自分しかできない存在理由があるのだから。

 座りながら、側の紙とペンを拾い上げた。インク壺の蓋をあけ、羽ペンのペン先を静かに浸す。
 彼女をモデルに、物語を書こう。そう思った。
 長い髪と、好奇心旺盛な性格。口下手な言動。今の自分に、新しい世界を発見させてくれる彼女。そして、彼女も他の世界の綴り人にしよう。私の書く世界の中で、物語を進める創造主。寂しくないように、仲間も沢山書いてあげよう。
 なぜだか、想像するだけで楽しかった。白紙の一番初め、左上に丸を書く。丸く、小さく、丁寧に。

 未だに水田ではしゃぐ彼女に視線を向ける。ワンピースが汚れるのも構わずに、水田の淵に腰掛けて空を仰いでいた。
 縦に長い癖字で書き出しながら、彼女の視線を追って空を仰ぐ。  
 抜けるようなスカイブルーは、変わらぬ位置の白雲を際立たせて、その蒼さを増していた。



●《自己批評》
『ぅへあ・・・もう何を書いているのやら、自分でさっぱり・・・という状況です。そしてこれは味噌になるのでしょうか。

本当は、どこかに「『オギノ』がこちらを振りむいた」という文を入れたかったのですが。
似て非なる世界。平行世界とはまた違った、どこかで繋がっている世界を書いてみたかったのです。
球根のように、メビウスの輪のように。

綴り人シリーズ、できたらまた書いてみたいです。』


《Kaleidoscope―万華鏡― 望月来羅》 


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◎「やれやれ。彼女の好奇心に私は振り回されっぱなしだ。」

『かみ』


著者:おりえ


「やれやれ。彼女の好奇心に私は振り回されっぱなしだ」
 両手を広げて大げさなポーズをとって見せると、友人は苦笑した。
「君が彼女の願いをことごとくかなえてしまっているのも、要因の一端なのではないかな?」
 なるほどそれは一理あるかもしれない。
「君のすごいところは、彼女が『絶海の孤島から宝を手に入れて来い』と言ったら、すぐにそれを実行してしまえる所にあるのだと思うよ。僕にはとても真似できない」
「大して難しい問題じゃないさ。だろう?」
 私の穏やかな笑顔に、今度は友人が大げさに両腕を広げて肩をすくめてみせた。
「そう言ってしまえる君に賛同できたらいいんだけどね」
「君もすぐにできるさ。さ、コーヒーが冷めてしまわないうちにどうぞ」
「これはどうも」
 私がすすめたコーヒーのカップに手を伸ばす友人は、口をつける前にぐるりと周囲を見渡した。
「これらは全て彼女のために君がした功績の現われだね。来るたびに色々と増えているじゃないか」
「私には必要なものなんでね」
「なるほどねぇ」
 壁には首から上の鹿の剥製が生え、床には上質の絨毯の上に虎の皮をはぎとったものが広げられ、友人が座るソファの隣には、しっかりと地に足をつけた熊の剥製がそびえている。友人が目ざとく見つけたのは、恐らく壁にかけられている蛇の生皮であろう。彼女の頼みごとを聞いた翌日に手に入れたものだ。他にもありとあらゆる動物の剥製がこの部屋には置かれている。誰もがこの部屋へ入ると気分が悪くなるか落ち着かないとそわそわするものだが、目の前でうまそうにコーヒーをすする友人だけは、この部屋がお気に入りのようで、昆虫採集が趣味の少年のような目で彼らを眺めるのだ。
「こうたくさんあると、どれかひとつでも勝手に動き出しそうな気がするね」
「ははは。夜なんか、電気をつける前はどきりとするよ」
 彼らから発するすえた臭いが部屋中に染み付いて、妻はこの部屋に入るのを嫌がるようになった。お陰で私は思う存分この部屋で彼女とふたりきりになれる。……私はもしかしたらそれを望んでいるのかもしれない。
「さて、今度はどこへ行くつもりだい? 君がこの世界中で行ったことのない場所なんて、もうありはしないと思うのだけれど」
 友人は意地悪そうな目で私を見つめる。充血した濁った白目はまるで死体のようで正直薄気味が悪い。しかし私も恐らくは似たようなものだろう。彼女のために日々寝る間も惜しんでいる身だ。外見のことなど構ってはいられない。彼女は幸いそのことを気にするような女ではない。そんな女は、私には必要がない。
 私はどこまでも自由で、奔放で、貪欲な彼女が大好きなのだ。だから私は、彼女の望みを叶えられるだけ叶えてやりたいと思っている。
 だけどたったひとつだけ、私は彼女にしてやれないことがある。友人はそれを知っていて、わざとけしかけるような言葉を投げつけてくる。嫌なヤツだ。
「人間が立ち入れる場所は限られている。私の行動範囲の狭さは、君もよくご存知だろう」
「僕も似たようなところにいるからね」
 友人は肩をすくめた。
「しかし君のような力はないよ。どうすれば君のようになれるのか――」
「ここだよ、君」
 私は額を指差して見せた。友人は苦笑する。
「頭のデキが違う、とでも言いたいのかい?」
「結論から言えばそうだ」
 友人はコーヒーを一息で飲み干すと、ふっと笑った。何を言い出すのかと見守っていると、首を少し傾げてみせる。それから私に向かって手を挙げ、それを開いたり握ったりし始めた。
「……?」
「そこまで言われるとは思わなかったね。正直怒ってもよさそうなものだが、ここは素直に感心しておこう」
「どうしたんだい……」
 そこまで言いかけて、私はぱっと口元を押さえた。友人の姿が、透けている。彼を通して、ソファの輪郭が浮き上がってくる!
「キャラクターが暴走する、なんてよく作家の間で言われることがあるだろう」
 友人はまだ手の動きを繰り返している。私は身動き一つ取れず、ただ見ている。
「僕はそれを、作家の力量不足だと信じて疑わなかった」
「………」
「君が彼女の要求を叶えるためにここまでしでかしたとき、僕は焦ったよ。当初の予定とは随分違うんだからね」
 透けて行く友人は、興味深そうに再度部屋中を見渡した。
「君ができないこと、君が行けない場所は、ただひとつ」
 友人はこつこつとテーブルをたたく。片方の手は相変わらずの動作を繰り返している。
「紙の中だけだ」
「!」
「そこまで恋焦がれていながら何故君は僕と同じことができないんだ? 僕にはできたのに」
「なにを……」
「僕の手を離れて自我を持つようになるなんてね……はは、キーを叩く手が別人のようだ。コーヒーまで飲んじゃって。あはははは」
 私は気づいた。友人は、私にさよならを言おうとして、あんな手の動きをしているのだと。
「君はこれからもそうやってこの部屋に居続けて、彼女の望みを叶えてやればいい。大丈夫。君は僕とは頭のデキが違う。行ったことのない場所でもまるで見てきたかのように表現できる力がある。それは誇っていいことだよ」
「待ちたまえ、君は……」
 私ははっとした。その隙に友人はふっと消えうせる。
 ああ、そうだ。彼は友人でもなんでもない。何故気づかなかったのだ。
 私はこの部屋から出たことがない。だから友人だっていない。妻はいることになっているが、一度も見たことがない。だから彼の名前すら、私は知らない。
 そう、君だ。この指を動かし、文字の羅列を作って行く君。文字を目で追っている君。
 わかるかい? 私だよ。今、君に話しかけてる。君からのアクセスは嬉しかった。私はずっとここにひとりでいたから。手を振ったら私が見える? 文字だけだとイメージがつかない?
 私は今日も彼女と向き合う。君のようにパソコンを使わないから少し面倒だけれど、君がそう設定したのだから仕方がない。ああでも今度パソコンを置こうか。ここは文字だけの世界。君がいれば、私は永遠に生きていられる。この文字を読む人がひとりでもいれば、私はここにいることになる!
 さあ、私がこれからする行動を、誤字なく書き起こしてくれよ。今日も君を寝かせる気はない。
 私は剥製だらけの部屋の隅にぽつんと置いてある文机に向かう。そら、今向かっているよ。机に向かい、座る。万年筆はインク切れを起こさない。原稿用紙もなくならない。便利な世界だ。
 さて、彼女は今音楽に夢中なんだ。
 私が君を動かすように、彼女が私を動かしている。
 原稿用紙に書き出す最初の一文は、こうだ。

「いつから、ジャズは、小難しい音楽のジャンルに入ってしまったのかな、と、彼女は少し不服に思う。」
 
 さあ、ここからが私の腕の見せ所。
 君とは頭のデキが違うってことを、嫌という程教えてやるよ。



●《自己批評》
『意味わかんなかったらすいやせん。』


《あるとくぺらせす おりえ》 


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◎「いつから、ジャズは、小難しい音楽のジャンルに入ってしまったのかな、と、彼女は少し不服に思う。」

『Virtuoso』


著者:AR1


 いつからジャズは、小難しい音楽のジャンルに入ってしまったのかな、と彼女は少し不服に思う。特に日本においてはそうだ。誰もがテレビをつけてポップで耳を肥やすわりに、ジャズをウィーン・フィルハーモニーばりに背筋を正して鑑賞する上流階級の娯楽とでも思っているのだろうか――そう思わざるをえないほどに耳をする機会が少ない。この比喩でタチが悪いのは、地上波テレビ放送に限って言えばクラシックよりも意識的に接することのできる数が減ってしまったことである。そして、今の時代にラジオは優勢なメディア足りえない。
 この世の音楽好きには三種類ある。音楽に興味のない者、音楽が好きな者、辛抱たまらずに楽器に触れてしまった者。いつの時代でも変わらない方程式。この公式が成り立っている以上、素晴らしい演奏者がこの世に産み落とされていく訳だから、春日マキはその点を心配するつもりはなかった。しかし、そうした人達の才能が埋もれていくかもしれない状況を憂うことはあった。ジャズだろうがフュージョンだろうが真正のロックであろうが、既に閉鎖的になってから久しい。
 どこからか漂流してきた木屑を頬から払い落とし、明るい色合いのハード・メイプル材のネックを手に取る。指が這うべき面はこげ茶色のローズウッド材が貼り付けられており、音階を区切るためのフレットを打ち込む溝は既に刻んである。あとは金槌を行使して適当な加減で打ってやれば良い。
 ふと、このフレットを乱暴に打ったらどうなるのかを想像する。もしフレットの打ち方がいい加減であったなら、弦を押さえた際に確実なテンションを保つことができない。ピックで弦を弾いた瞬間、妙な振幅を起こして音がビビることは必至。これを手にとって操る者であれば一発で気づくだろう。初心者がオーダーメイドの代物を注文することなど、あまり考えられない。自由度が高い商品というものは、自分の望みを注文書に記したり、クラフトマンへ言葉として変換するだけの知識や経験が必要であるからだ。
 それを聴いているリスナーはどうなのか? 音楽に向ける情熱がひたむきである人ほど感づく。だが、万人がそうである訳ではない。
 自分にとって分からないことに気づいている者であれば、それは仕方がない。学というものは個人差があり、深くなるほど謎は解消されていく――実際は解消された数と同数以上の謎が生まれるのだが、それはあえて念頭から消した。
 マキの手と固定工具(クランプ)によって据えられたネックを見下ろし、金槌を作業台の上に置く。経験の浅いマキにとって、かなりの曲者になるであろう一本のベース・ギター。こんな時に、あたしはなにを考えているのだろうか?(……いらない邪念、か)
 よくないことに意識を割いている時に作業はするな――失敗を食い止める教え。人間の体は機械のように一律化された規則正しい動きを求めることはできない。だが、手作業による個人製作は滅びを見ない。なぜならば、ギターは工業製品ではないからだ。大量生産ではなくとも利益を生み出せ、巨大な製作機械を導入しなくとも商品を生み出せる。
 姿形は工業製品――フェンダーやギブソンなどの大手メーカー――に似せてあるかもしれない。しかし、その中身はまったく違う。
 エレキ・ベースの基本は四弦である。しかし、マキと格闘しているネックには五本の弦が張られることになっている。こういった代物を任せられるのは初めてではあるが、作業内容に大きな違いはない。ただ、弦の本数が問題だった。
 日本人の体格は、白人と比較すれば小さい。手の大きさも比例し、弦を増やした分だけ横幅が増した五弦仕様ネックの弾きやすさ(プレイアビリティ)を引き上げるには、天地方向にある程度薄く仕上げなければならない。弦間を詰めて横幅を薄くする案も考えたが、クライアントに丁重に断られた。曰く、チョッパーがやりづらいのは困る。
 更なる難問は、ネック自体の強度である。太いベース弦から生まれる張力は相当のもので、弦の力に負けてネックが反ってしまうのである。エレキ・ギターでも起こる問題だが、弦を追加したベースではそれ以上に頭を抱える問題である。もっとも、良い木材と補強金属棒(トラスロッド)の調整をすれば、五弦ならそれほど難しくはないので、今回は無事に切り抜けられそうだ。
 ネックが仕上がってから悩んだところが詮無いことではあるが、それでもマキは自信を持つには至らなかった。これが正解なのか? なにか妥協はしていないか?
 工業生産に正解など存在しない。クラフトマンが廃れないのは、彼らの手で作られたものは工芸品であるからだ。しかし、個人ごとの好みに合わせて作られる特注品にも正解はない。なぜなら、好みには個人差があり、それに対応している限りは絶対的に統一された基準など制定されるはずもない。
 マキは金槌右手に、アーチ状に沿ったフレットを左手に収める。とにかく、今は前に走るしかない。それに、父にアドバイスはもらっている。進言に忠実であるのだから、これが粗悪なものである訳がない……が、正しいと断言もできない。
 プロフェッショナルとは、目隠し状態のバトミントンに等しい――師匠(父)の言葉。見えないシャトルを正確に打ち返す、それができれば一人前。マキにはシャトルが宙を舞う気配は読み取れるが、ラケットを出すには躊躇いがある。不安感を拭うには、彼女はまだ若すぎる。
 さて、少々思案に暮れすぎた。仕事に戻るとしよう。音楽を耳で嗜むことがハイカルチャー寄りに移行してしまったのは悲しくもあるが、その中で楽しまれるのなら上等だ――今は、それだけで十分。

「ところでさ、以前に発注したベースのことなんだけど」
 近くの飲み屋に中年の男が二人。二人は高校の同期であり、親友だった。当時はフュージョンという名の魅惑に取り付かれ、マキの父はギターを、彼の親友はベースを担当していた。
「ウチの娘がやってるよ。あとはネックをセットして、諸々のものを取り付けて、終わり」
 つまり、最も時間のかかる塗装の乾燥工程は終了していることを示唆している。
「出来はどう?」
「悪けりゃ俺が作る」つまり、商品として出せる裏返し。
「じゃ、安心だな」
 親友は焼酎を猪口に注ぎ、快活に笑う。昔から豪快で、人の良いところは変わらない。
「そっちの子供、将来は店を継ぐのか?」
「さあ。マキ次第だな」
 素っ気ないと思われても仕方がないが、本当に分からないのだ。店を継ぐか、別の勤め先を見つけるか……しかし、なんらかの形で音楽に関わり続けるでたろう。
「あの子は……なんというか、着火しにくい代わりに、火がついたら燦々と燃え続けるタイプのような気がするなあ」
 鋭い。さすがはマキのことを幼い頃から知っているだけはある。彼女と楽器の間に結ばれた関係――好奇心は、友情をつなぎ止める絶好の絆である。



●《自己批評》
『Vol.21に続くテスト作品。年齢としては高校一年生前後を想定(つまり、Vol.21より幼い頃の小話)。タイトルはSIAM SHADEの曲「Virtuoso」から。
 ストーリーは迷わないにしても、専門用語の取捨選択って大変ですね……実際のところ、設定を決めるのに時間がかかりました。

・チョッパーするのに最適な弦間はどの程度なのか。
・平均的な日本人の手に合う弦数は何本か。
・五弦以上のベースに最適なボディ構造はデチャッタブルなのか、スルーネックなのか。
・補強用の金属バーをダブルにするか否か。
・フィンガーボードを貼るのか、ネックに直接フレットを打つのか。
・さあ、ネックの木材になにを使おうか?

 こんな短い小話なのに、こんなに手間取るなんて……先が思いやられます。』


《空想Explosion AR1》 


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◎「好奇心は、友情をつなぎ止める絶好の絆である。」

『殺(さつ)』


著者:神楽崎ゆう


 好奇心は、友情をつなぎ止める絶好の絆である。
 いや、自分でもイカれた好奇心だってのはわかってるし、俺たちが果たして友情とというもので本当につながっていたのかも疑わしいところだった。


 「けっこう呆気なかったね。」
 横たわったモノを眺めながらタクヤは表情も変えずに平然と言った。
 「じゃあ早いうちに片付けよう。時間が経つほど跡が染み付く。」
 ミツルは新聞紙でひとつひとつ包んでガムテープでとめ、大きなビニール袋に入れ始めた。
 タクヤもミツルを手伝おうと壁に貼っていた新聞紙を剥がし始め、丁寧に折りたたんではビニール袋に入れ始めた。
 2人は両手にそれぞれ大きな袋を持って外に出た。遠くのほうで車が走る音が聞こえる。それ以外は辺りはとても静かで、満月の光だけが彼らを照らしていた。


 俺たちは、人間を殺した。
 「人を殺してみる」とかいうのは俺たちの好奇心の的だった。大動脈を切るとどんだけ血が吹き飛ぶのか、刺すときの感触はどんなものなのか、のこぎりで切るとどんな音がするのか、輪切りにした肉の断面はどうなっているか・・・。考えるとわからないことは山ほど出てきた。
 そんな俺たちはインターネットのあるサイトで出会った。
 俺が中二で、タクヤは小学生のときだったそうだ。最初は行列を作っている蟻を踏み潰すのが快感でしょうがなかった。そんなことをしていると日が暮れるのも忘れてしまっていたんだ。
 それからリストカットをする奴ってどんな感じなのかを知りたくて左手首も切ってみた。みんな平然とやってのけるけど、あれはさすがに痛い。
 それからは小動物にも興味が出てきて、それで今に至るのだった。


 山中でバラバラ死体が発見された。死体の身元確認を急いでいるが、死体は新聞紙に包まれビニール袋に入れられて埋められていた。
 新聞の表面はどれもそのことで持ちきりだった。その犯人というのもまだ未成年2人であって、犯罪当初は15歳だった。
 裁判の判決は死刑か終身刑に値するものである。これに対し、20人の弁護士団が未成年の死刑廃止に声を上げている。


 タクヤは今どうしているのだろう。警察が来て連れられてからまだ一度も会っていない。毎日のようにサツが俺の所へきては犯行の動機を聞かれ、タクヤとの関係とかしつこく聞いてきた。
 ぁあ、あと精神科の医者とか言ってた奴も来たな。心理テストとか言って根掘り葉掘り質問攻めだ。しまいにはぼそりと「狂ってる」とかほざいて出ていきやがった。小さいころから親がいないからだとか、タクヤに関しては学校でいじめを受けていたのが原因だとか、周りは勝手に俺たちのことを決めやがる。


 6月26日、判決は決まった。未成年ということで、精神の異常は今後の治療で治る見込みがあるとして、懲役10年とされた。


 俺はその結果を弁護士に聞いてがっくりときた。
 10年もこんな暗い部屋で過ごすなんて。未成年の死刑はなしだ?
 死刑が一番重い刑だなんて間違っている。死んだほうがはるかに楽だ。生きている限り苦痛は付きまとうし、牢から出たところでまともに生きていくことなんて無理なんだ。
 希望は、抱擁ではなく一杯のスープだ。
 スープでおなかいっぱいになることはないし、そもそも希望で何が変わるわけなんてないのだ。



●《自己批評》
『今回のお題はかなり悩ませられました。
なんとなく最初にお題の一文目を読んだときに暗いイメージしか持てなかったので、こんなわけのわからないものになってしまいました。
あと今、未成年の死刑廃止で弁護士が集まったというニュースを聞いてそれと絡ませてみました。
一応、タクヤの心境→世間のこと→タクヤの心境 といった風に書いたんだけど・・・・。
自分でも何が言いたい小説なのかよくわかりません(;^_^A アセアセ・・・』


《I’m writing NOVEL 神楽崎ゆう》 


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◎「希望の出現の手助けは、時には抱擁ではなく、一杯のスープだ。」

著者:ブラックジョーカー

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◎「それでは、泣き声に耳をすますことは、暖かさの証明になるのだろうか。」

『問答』


著者:一茶  


『それでは、泣き声に耳をすますことは、暖かさの証明になるのだろうか。』
「へ?」
『実験さ。思考実験。考えてみな。』
「泣き声に耳をすます。それが暖かさの証明……」
『命題だよ。AならばB、AだとしたらBが成り立つ。』
「うーん、暖かい人なら泣き声に耳をすますかもしれないね。」
『じゃあ、成り立つと?』
「そうとも言えないよ。私が言ったのはBならばAであって、AならばBじゃないからね。反例が挙げれる以上は正しいなんて言えないよ。」
『その反例っていうのは具体的には?』
「例えば、耳をすますことでその相手よりも優位な立場に立ちたいだけの可能性だってあるはずでしょ?」
『確かにその可能性は考えられるね。』
「でしょ。或いは、その話をブログとかのネタにするために耳をすます可能性だってあるはずよね?」
『それは……実際にありそうで怖いね。』
「で、少なくとも一つの反例が挙げられる以上は、その命題は正しくないことになるんじゃないの?」
『数学的にはね。』
「なにか、不満でも?」
『いや、無いよ。こっちの命題の立て方に問題があったね。』
「……」
『……』
「……じゃぁ、今度はこっちが命題を立てるね。」
『どうぞ。』
「じゃぁ……寂しいと感じるのは恥なのだろうか、って命題。」



●《自己批評》
『うーん、どうも会話から始めてしまうと、情景描写がいれられなくなる自分がいます。
どうしたものでしょうかねぇ……。

どうでもいいですが、この二人はすっごく暇なんでしょうね。』


《一茶の徒然なる日々 一茶》 


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◎「寂しいと感じるのは恥なのだろうか。」

著者:時雨

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◎「人間を愛するって、音楽を愛する程の自由がないのよ。」

『sound of piano』


著者:真紅


「人間を愛するって、音楽を愛する程の自由がないのよ。」

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そう呟いて、私は鍵盤に手を躍らせる。
指は、私とはあたかも別の生き物かのように揺れて、振れる。
ポロン、とピアノが笑う。
少し甲高い笑い声は、少し低い洒落た声になる。
私が鍵盤を叩く度、ハンマーは弦を叩く。
ペダルを踏み締める。
指は、妖艶に、白と黒の舞台を所狭しと舞い踊る。
足は、力強く、タップを踏み鳴らす。
テンポ良く刻む、鍵盤を叩く音。
ピアノが紡ぐ、響く囁くような透き通った声。
ff、私は鍵盤を叩く。
p、感じる窓から流れる風。
grave、ペダルを踏む。
音は広がりを見せる。
少女のような、あどけなさを見せては。
「・・・違う。」
官能的な女性の声になり。
「こんなのじゃない。」
少年のように元気が溢れた声を響かせて。
「違う。」
紳士的な男性の落ち着いた雰囲気を醸し出す。
「・・・私が、聞きたいのはこんな音じゃない。」
私は無い物強請りをする子供のように、がむしゃらに鍵盤を叩く。
気のせいか。
段々と、ピアノの声が濁って行くようだ。
それはまるで、人が痛みに呻くかのような声。
嫌だ、こんな音。
指が、激しく鍵盤を叩く。
「ダン!」
痛いまでの、複雑な和音。
伸びて、伸びる。
そして途切れる。声。
音楽は人と違い、嘘を付かない。
私が躊躇えば、音は変わる。
笑い声から、怒鳴り声にもなり、すすり泣く声にもなる。
だから私は魅せられる。
「・・・A Tempo」
風は止み、ピアノは黙り込み、指は死んだようにうな垂れていた。

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ド、レ、ミ。
街の雑踏の音ほど、五月蝿い物は無い。
大声の携帯電話での話声は、汚い音を奏でている。
私は思わず耳を塞いだ。
車のエンジン音やクラクションは、高いようで低い。
人の笑い声は、癇に障る物からまるで聞こえない物までピンからキリ。
ファ、ソ、ラ。
風の音はビルの間を駆け、人の隙間を縫って私の耳を掠めていく。
人が靴で地面を蹴る音は、正に千差万別で。
高架を電車は、規則的に音を響かせ走り去る。
シ。
何処からか聞こえる、誰かの罵声と誰かに対する怒声。
ド。
これ等の音より静かに、それ等の音より一番大きな私の鼓動の音。
私が、一番嫌いな音。
享受するべき。
享受しなければならない音が、何故か私は嫌いだ。
止めれる物ならば、止めてしまいたい。
この規則的過ぎて、変化も何も無い、秩序だらけの音を。
自分の鼓動でさえ、音でしかない。
私にとって、全ては所詮音、音、音、だ。
彼も、彼女も、私も音だ。
だからこそ、止めてしまいたい。
醜く、濁った、私自身が奏でている音を。
気持ちが昂ぶる。
「・・・D.C。」
全ては、最期から最初へと戻る。
また最初から最期へと戻る。
私も、それに則るだけ。
ただ、それだけ。
ポロン。
私が一番好きな音が聞こえた気がした。
それは、私の頬から流れた涙が地に舞い落ちる音だった。
何故私は泣いてるんだろう。
頬に残る一筋の虚しさを、私は拭って歩き出した。

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音に支配されたこの世に、私は嫌気が差した。
だから私は今宵、自分という楽器が奏でる音を止めよう。
私が愛せなかった人間より、来世はきっと唯一愛した音となろう。
そして、海岸線を辿り、ジャングルを抜け、そして、街を通り過ぎて駆け抜ける。
鍵盤に触れる。
冷たい鍵盤が、私の指先に優しく感触を残す。
指で、一つ叩く。
ポロン、とピアノが泣いた。
私にはそう聞こえている、だからこそ音を愛でた。
人は、こんな私を愚かだと言うだろうか。
音に生き、音に死ぬ私を嘲笑するのだろうか。
私は、自嘲しピアノの前に座る。
鍵盤を、一つ一つ確かめるように叩く。
ピアノは、慈しむ指に優しく触れてくれる。
ポロン、ポロン。
とても優しい音色。

それに合わせるかのように。

地が、突然激しく暴れ出す。
確かに最近、地震が多かった気がする。
昨日の夜も、弱いながら遭った。
この地震はそんな物ではない。
激しく、激しく、激しく。
私は椅子から転げ落ちる。
立ち上がれない程の揺れだ。
ギシッ、ギシッ。
ピアノが、軋んでいる。
ギシッ、ギシッ。
私は、ピアノにしがみ付く。
恐れ震える子を、慰め抱き締める母親のように。
その怒号ともいえる音に、私は恐怖を感じた。
恐怖で混乱する私の上に、ピアノが覆い被さって来るのが見える。
意識が、僅かな音を巡らせ途絶えた。

----------------------------------------------------------

ポロン。

―頭がボヤっとしている。

ポロン。

―私は、ピアノに押し潰されたのか。

ポロン。

―下半身の感覚が無い。

ポロン。

―心地良い程度の痺れる痛み。

ポロン。

―ピアノは、泣き続けている。

ポロン。

―無意識に動く、私の指によって。

ポロン。

―やっと、止まるのか。

ポロン。

―醜く、濁った、私という音。

ポロン。



ポロン。

―シにた

キ、ン。

―弦が、切れた。

----------------------------------------------------------

―――キ、ン。
短い音。
鋭く、響いた。
その音は、終わりを告げる。
私の身体に響き、外へと飛び出していった。
檻から解き放たれた、鳥のように。
自由を得た音は、大気を震わせて駆ける。
その音はどこまでも駆け抜けていった。

海岸線を辿り、ジャングルを抜け、そして、街を通り過ぎる。



●《自己批評》
『結構長めに書きました。
音楽記号はそのままの意味です。
興味のある方は御自分でお調べ下さい(笑』


《真紅 〜矛盾を愛する者〜 真紅》 


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

◎「海岸線を辿り、ジャングルを抜け、そして、街を通り過ぎる。」

『満月茶会』


著者:李九龍


 海岸線を辿り、ジャングルを抜け、そして、街を通り過ぎる。
 ここまで辿り着くのに、実に述べ十日余も掛かった。 俺が最後に立ち寄った、未開拓ながらもまだ文明の匂いのする街では、他国の者はこの先には行くなとの忠告も受けたが、それを誤魔化すように笑い、無視をし、俺は車を走らせた。
 途中にいくつかの集落は見られたが、それもすぐに車の流れの後方へと飛び去り、泥の道の十数メートル上空を、何も遮るものの無いままに、俺はほとんどフルスロットルでアクセルを踏み込み、走り抜けた。
 いよいよ最後の密林とあって、上空ですらも道たる道では無い。 だが、この道を踏み外したならば、目的地への到着は相当に困難になるだろうとは予想されていた。 いくら目的地が衛星からの通信によって場所特定が出来るからとは言え、これだけの広大なるジャングルの上においては、例えこんな最先端の車であろうとも、無力に等しかった。 いくら道のおうとつに対して何の影響も受けないとは言え、燃料が途切れたらそれでお終いな、そんな文明の利器でしかないのだ。
 四方のスピーカーから流れる、いい加減聞き飽きた曲を無造作に飛ばし、なるべく気分が高揚するような曲を選択するも、ずっと単調なるこのドライブにはあまり効果は望めなかった。
 ちらりと時計に目をやる。 目的地までは、後、時間にして一時間程。 充分に余裕の持てる到着時刻だ。
 この国の時刻では、午後の三時。 こんな場所では、どこかに車を置いて昼寝をする訳にもいかない。 流石に今日ばかりは、のんびりとした旅気分では行けそうにもなかった。
 そんな事を思いながら、次第に瞼の重くなるようなドライブの中、前方で少しだけ異変が起こった。 蛇行しながらも西へと真っ直ぐと伸びている小さな狭い道の前方で、両側の樹々の中から、沢山の鳥が飛び立ったのだ。
 俺はそれを見てもしやと思い、少しだけ道から外れて、今度は密林の樹々の上を走り出した。
 少しすると道の前方に、黒い泥を撥ねまくりながら、四足で、道のおうとつに逆らうかの如くに疾走する、一台のクラシック車が見えて来た。 俺は途端に笑が込み上げて来て、上空から車内のモニターに写るそのフォルムにカーソルを当て、通信ボタンをクリックする。
 数秒の後、モニターの中に受信許可の文字が浮かび上がり、続いて酷いノイズが流れ出して来た。
 上から見ても判るぐらいに酷いバウンドを繰り返しているその車の中では、外から見ている以上に酷い有様だった。 一年振りに見る旧友の顔は、その振動に歪んで見えた。
「よう・・・リュート、一年振り。 悪いが、積もる話は、後に、してくれ。 今しゃべると、俺は、舌を噛みそうだ」
 俺よりも七歳年上のマルコは、俺の車の中のモニターの中で、激しくあちこちに移動しながら、途切れ途切れにそう言った。
 俺は、相変わらずだなと思いながら、笑って返答をする。
「どうでもいいが、マルコ。 このままその移動で行ったら、恐らくは約束の時間には間に合わない。 帰りにここまで連れて来てやるから、こっちの車に乗り換えろ」
 するとマルコは、その必要は無いと答える。
 言い終わると同時に、彼の乗る赤い車体の4WDは、ふわりと空に浮く。 タイヤはそのまま空中でも周りっ放しで、車の下部からボタボタとこぼれ落ちる泥の雨が、なんとなく妙な感じに見えた。
「ホバーを付けたクラシック車か?」 俺は、聞く。
「逆だ。 最新型の奴に、特注でタイヤを付けた」 ようやくぶれなくなったモニターの中で、マルコは子供のような笑顔で、得意そうに言った。
「何の意味があるんだ。 いやその前に、マルコ、お前さんはここまで、そんな時代錯誤な移動で来たのか?」
「そりゃそうさ。 今回は、地べたを走って到着する予定だったんだがな」
 マルコは、笑う。 本当に、おかしな奴だと俺は思った。
 彼の車は、ようやく車輪の動きを止め、俺の車の位置まで浮き上がって来た。 そして俺の前方で軽く空気を歪ませると、彼の車は驚異的なスピードで飛び去った。
「生意気なクラシックカーだ」
 俺は一言皮肉を言うと、ギアを入れ替え、アクセルを踏み込む。 そうして俺は、彼の車を追うようにして、ジャングルの樹々の上を、風のように走り抜けた。


 つるんだまま、一時間も走っただろうか。 前方を走るマルコが、突然に感嘆の声を上げる。
 それはすぐに、俺の目にも飛び込んで来た。 密林の深緑よりも、もっと暗くて深い水が覆い尽くす、「地図には無い湖」が、眼前に広がった。
 それは、こんな広大なるジャングルの中に忽然と現れる、Tの字を書いた巨大なる湖だった。 近付けば、水の色はますます暗く、見る者を原始的に畏怖させるかのような威圧感を持ち、その存在を際立たせる。 それはまるで、俺達の操る文明をあざ笑うかのような、徹底なる否定で迎えるような、そんなエネルギーに満ち溢れた世界だった。
 俺はその湖の上空で、モニターを指先で触れながら、周辺の熱源を探した。
 すぐにそれは見付かった。 もう既にマルコの車はその方向へと走り出し、俺も一歩遅れてそれへと続く。
 一箇所だけ、湖に隣接したまま拓けている、岸辺が見付かった。 とんでもない事に、そこではしっかりと、その周辺の樹ではないであろう丸太材で、立派なログハウスが組み上げられていた。 しかもその近くには、かなりの大型のクルーザー、そして、その付近には、ボートの上から釣竿を垂れている人影までもが見受けられた。
 俺は呆れを通り越したままで、何台か止まっている車の上でホバリングをし、マルコの車が着陸するのを待っていた。
 どうやら、お茶会の最後の客は、俺達二人だったらしい。 各自銘々にくつろいだまま、手を振って俺達を迎えてくれた。
 パラソルの日陰で、チェス盤を挟んで睨み合っているのは、巨漢のウェンと、白髪の老人モーガンだった。 どうやら二人は、一年前の遺留戦の最中らしく、俺達への挨拶は、軽く手を挙げる程度のものだった。
 ログハウスの中から手を振るのは、いつもの如くに贅沢なる紅茶の品評会をしている、マダム・マーガレットと、フルコフ婦人。 そしてその奥の暗がりで、揺り椅子に揺られながら顔の上に開いた本を乗せ午睡を満喫しているのは、恐らくは、仲間内で呑気者と呼ばれているロイド氏。 そして、テラスでバーボンのボトルを片手に座っているのが、酔いどれのアンドリュー。 そして、そこから少し離れて仲良く座り話し合っているのが、ジーナスと、ラン。 恐らくはきっと、ランの書いた詩に、ジーナスが曲を付けているのだろう。 若いジーナス青年は、少しだけ頬を赤らめながらも、懸命にギターの弦を爪弾いていた。
 そうなると、ボートの上で釣りをしているのは、姿が見えないオールド・スミスと、ベア准将だろうか。 今回も、誰一人として欠席者のないままに、お茶会は開かれそうな感じだった。
 俺は車のキーを引き抜き、ドアを跳ね上げ、数時間振りに地を踏んだ。
 マルコの背中越しに、みんなに手を挙げて挨拶をしていると、突然に背後から声が聞こえた。
「お疲れ様です。 もう皆さん、お先におくつろぎですよ」
 落ち着きがあり、張りのある若い女性の声だった。
 俺は、その声だけで、その主が誰なのか判った。 いや、むしろ、今の今までこの場に姿が無い事を、変だと思っていたぐらいだ。 まさか背後から挨拶されるとは、思ってもいなかったが。
 俺は、少しだけ心の動揺を隠しながら、ゆっくりと後ろを振り向く。
 そこには、去年と・・・いや、五年前に逢った時と全く変わらないまま、美しいまま時を止めてしまったかのような、このお茶会の主催者である、長き黒髪のユナ嬢の姿があった。
 相変わらず、人間離れをした美しさだと思った。
 彼女の年齢だけは、本当に全く読めない。 最初のお茶会で彼女を見た時は、高校生だとすら思った。 だが、一旦彼女が口を開いて言葉を発すると、途端に彼女の持つオーラの全てが、彼女を一瞬にして隠してしまう。 要は、少女の如くに、幼さの残る美しさを持っていると言うだけの事だ。 若いと言う事だけは間違いのない所なのだろうが、結局は全て、謎のままでしかないのだ。
 彼女は、こんな奥地のジャングルの中で、白くふうわりと広がる夏向きのドレスを着て、長い黒髪は、流れるままのストレートだった。
 彼女には、東洋の女性の持つ、神秘的なるイメージのそのままがあった。
 俺は、少しだけ自分の動悸が早くなるのを感じつつ、笑顔のままの彼女に向かい、彼女の国の作法の通りの挨拶をした。
 すると彼女もまた、同じような女性用の礼の姿勢で、俺に毎年恒例の挨拶をくれた。
「ようこそ。 蒼き月夜の夢想の宴、《満月茶会》へ・・・」


 俺は、湖に浮かぶ巨大なクルーザーの一室で、三日振りのシャワーを浴びた。
 さっぱりと汗は流し終えたものの、どうせまた外へと出れば、不快なる湿気が体中へとまとわり付くのは目に見えていた。
 ならば、どうせ周りは長い事付き合いのある連中ばかりなのだからと、俺はジーンズパンツだけを身に付けたまま、上半身は裸のままで出て行った。
 甲板へと出ると、外はもう既に夕暮れの模様だった。
 意外にも、風がひんやりと心地良い。 俺はそのまま、甲板の手摺りにもたれ掛かり、夕暮れの風を楽しむ事にした。
 岸辺では、火を起こし、バーベキューの準備に大活躍をしているマルコの姿が見えた。 俺は可笑しくなり、一人で孤独に忍び笑いをしていると、ふいに背後から声を掛けられた。
「久し振りだね、リュート坊や。 どんな格好でいるのもいいが、虫除けは振っておきなさい。 ここでは、危険な虫も多いからね」
 そう言って、小さなスプレー缶を、ボートの上から投げて寄越したのは、最後まで釣りを楽しんでいた、ベア准将だった。
 俺は片手でそれを受け取ると、苦笑いを返しながら、准将に返事をする。
「相変わらず俺は坊やですか。 お久し振りです。 何か釣れましたか?」
 准将はただ一言、「なかなか」とだけ答えて、ゆるゆるとオールを動かしながら、岸辺へと向かう。
 俺は、准将に借りた虫除けスプレーを裸の上半身に振りながら、夕餉の煙の立ち昇り始めた岸辺を見つつ、相変わらず不思議な催しだと思い、笑みをこぼした。


「いつ来たんだね」 と、口髭の濃い、温厚そうな紳士が言う。 先程まで、揺り椅子に座って寝ていた、ロイド氏だ。
「ロイドさんが起きる、五分ほど前です」 マルコは大きな肉の塊を、肉汁をこぼしながら齧り付きつつ、笑いながら答える。
 それを聞いて、巨漢のウェン氏は、可笑しそうに腹を揺する。 だが、その大きな肉体が邪魔をしているのか、相変わらず笑い声は、搾り出すかのような声だった。
 即席で作った割に、このログハウスの中は案外と頑丈で、それなりに広かった。 屋内とテラスとに、テーブルは分かれてしまったが、それでも充分に、この人数が座れるぐらいには余裕があった。
 皆、銘々にその晩餐を楽しんでいる様子で、酔いどれのアンドリュー老は、ますます酔いが回り、オールド・スミスと、ベア准将は、ひたすら釣りの話に熱中し、ジーナスとランの若き二人は、相変わらず寄り添うようにしながら並んで座り、そろそろ出来上がりそうな曲を、ジーナスがおぼろげに奏でていた。
「ユナさん、今夜は私は、どこに寝たら良いのでしょうかね?」
 マダム・マーガレットは、心持ちほろ酔い加減で、優雅な声のトーンで聞いて来た。
 すると、カウンターの中で何かの作業をしていたユナは顔を上げ、にこやかに返答をした。
「御婦人方達は、クルーザーの中にも客室がありますので、どうぞそちらへ。 ちゃんとエアコンも効きますからね。 あ、でも、ランさんはジーナスと一緒の方がいいのかしら?」
 ユナが言うと、突然にランは顔を上げ、その言葉の意味を理解したらしく、耳まで真っ赤になった。
 それを聞いて、真っ先にはやし立てたのは、やはりマルコだった。 それに続いて、ロイド氏までもが笑いながら拍手を送る。 遅れて、その場の全員が面白がってはやし立て始めると、純情な二人は気の毒なぐらいに真っ赤になって照れた。
 相変わらず、賑やかなメンバーだと思った。
 歳が違えば、住む場所も違う。 職業だってみんな違うし、趣味や性格だって、全員が一致している訳では無い。
 だが、全員は必ず集まる。 年に一度、いつになるのかも定かではない、不定期なお茶会。 それでも、誰一人として欠席する事なく、毎年必ず全員が集まるのだ。
 それもこれも全てはきっと、ユナ嬢の場所の設定と、その雰囲気作り。 そして何より、その毎回のお茶会にで巻き起こる神秘に、全員が魅了されているのだろうと思った。
 メンバーは、元から全員、知り合いと言えば知り合いだった。 ユナの祖父に当たる、某財閥の総帥である、ジンと言う老人が、年に一度、仕事とは全く関係のない友人ばかりを選んで行うパーティーで、顔見知りになった人達ばかりなのだ。 そして、どんな人選か、もしかしたらユナ嬢がその中から選んだのか、今いる全員は、そのパーティーの中から、更に人選されて集まった人間ばかりだった。
 最初の一回は、きっと全員、ジン老人の顔があってこそ、参加だったのかも知れない。 いや、俺自身がそうだった。 いくら綺麗で可愛いからと言って、何でジン老人のご機嫌取りのように、その孫であるユナ嬢の開くお茶会に出席する為に、仕事を長期で休んでまで、スケジュールを合わせなきゃいけないんだと、不満にすら思ったものだ。
 だが、二回目以降は、きっと全員、自分の意思で参加している人達ばかりだろうと思った。
 なるほど・・・全員の共通点は、あった。 ここにいる全員は、この世で忘れ去られて久しい、「神秘」と言うものを信じて疑わない同士ばかりなのかも知れないと言う事を。
 俺は、薄く割ったウィスキーのグラスを手に取りながら、カウンターの中にいる、ユナ嬢を眺める。
 カウンターの中では、いつも彼女に付き添いながらホスト役として参加をしている、彼女専門の執事である、やたらと背の高い、エディと言う名の初老の男が、ユナを手伝っていた。
 ユナは、本当に判らない女だと思った。 大人びている少女に見える時があれば、子供っぽく振舞う大人の女性に見える時もある。
 化粧っ気など微塵もないクセに、その白い肌と長い黒髪のせいなのか、それとも彼女自身が持つオーラのせいなのか、見るものを確実に魅了するだけの魅力は、兼ね備えていた。
 自然体の美とでも言えばいいのだろうか、それこそこのお茶会においての最大の神秘は、彼女にもあると思っても差し支えないだろうと、俺は思った。
 そんな俺の思考が読まれたか、それとも俺の視線に気付いたか、ユナは顔を上げ、俺の方へと向く。
 彼女は、ちょっと怒った顔をして、俺に声を掛けた。
「いい加減、服着たらどう? 伊達男のリュートさん」


 空には、澄んだ空気の中の、何の汚れも見当たらない満天の星空。 そして、このお茶会の主旨の一つでもある、満月が掛かっていた。
 空の風は強いらしく、小さく千切れた黒い雲が、かなりの早さで空を横切る。
 全員は、クルーザーの甲板の上にいた。
 メンバー全員は、キャンドルスタンドの立つ、計五つのテーブルに分かれ、ゆっくりと進むクルーザーの風に流されながら、ユナの淹れているお茶の香りに魅了されたかのように、誰も口を開く者はいなかった。
 砂糖もミルクもない緋色のお茶が全員の前に配り終わられると、ユナはゆっくりと言葉を発する。
「皆さん、今夜もまた、この奇妙なるお茶会に御参加下さいまして、誠にありがとうございます」
 始まった・・・と、俺は思った。
 ユナの声は、妖しい。 いつもの声もそうだが、こうやってかしこまって語りだす彼女の声は、何故かトランス状態を引き起こすかのような、独特の印象がある。
「それでは始めさせて頂きます。 ・・・皆様、ようこそ。 蒼き月夜の夢想の宴、《満月茶会》へ」
 そこまで言って、ユナは一旦、言葉を切った。
 ふいに、風が止んだ。 それと同時に、エディの操縦するクルーザーのスクリュー音も、次第に小さくなり始めた。
「今夜のお茶のお供は、この、《地図には無い湖》、マトゥピカナル湖の水竜伝説です。 もしかしたら、知っている方も居られるかも知れません。 この湖の主として普段は水奥深く眠っているのに、満月の晩になると、ひっそりと姿を現すと言う幻の恐竜の伝説です・・・」
 突然、誰かが吹いた、小さな口笛が聞こえた。
 ちょっとだけ、俺の心も躍った事は確かだった。 それは、人が原始的に恐怖を覚える水中で、しかも謎の生物と来るのだから、それもあまり不思議ではないと思った。
 更に言うと、今までのお茶会とは一風違い、まず、どう言う存在が目当てでのお茶会なのかも知らないまま、その土俵について初めて語ると言うのも、またちょっと思い切ったものだと思った。
 見渡すと、普段から少々引っ込み思案なフルコフ婦人などは、気味が悪そうに、自分の足元の甲板を見詰めている。 それはそうだろうと思う。 もしも本当にこの湖に、恐竜に近いような巨大生物がいるならば、いくらこのクルーザーが大きいとは言った所で、非常に危険な状況である事には変わりない事だろう。
 しかもここは、自分の足で立つ事もままならない、水の上だ。 しかも、数メートル下も判らない程に濁った、深夜の湖だ。 例えいきなりその水面から、巨大な水生生物の顔が浮かび上がったとしても、その直前までは何の対策も取れないだろうとは予想された。
 相変わらずこのお嬢様は、ぎりぎりのラインでのスリルを味合わせてくれるものだと感心する。 きっと誰一人としてそんな事態はないだろうとは思っていても、いざ、足元の危うい場所に放り投げられての話となると、これはちょっと意味が違って来る。
「かつてこの地方では、絶対王政の時代がありました」 ユナの話が再び始まった。
「そしてその勢力は、こんな辺鄙な場所である、マトゥピカナル湖の周辺の民族にまで及びました。 ですが、その暴君の時代はそれほど長くはありませんでした。 時の王、ミガロは、勢いで攻め込んだ隣国を二つ同時に相手にし、そして逆に追い込まれ、追い詰められ、彼はこの湖まで逃げ落ちたのです」
 クルーザーの音も完全に停止し、聞こえる音は何もなく、時折誰かの啜るお茶の音が非常に大きく聞こえ、俺はそのお茶に手を付ける事にためらいを感じた。
「そして、暴君ミガロは、この地方で取れる砂金を精製して作った、大量の金貨や貴金属を、この湖に沈めたと言います。 いつかこの国の復興の為にとでも考えたのでしょうか。 それともただ単に、敵の手に渡したくない財宝だったからなのでしょうか。 彼は、自分の身ごと、その財宝と一緒に沈んだと言います」
 目を閉じたまま語る彼女に、俺は見惚れた。
 時折吹く風が、彼女の髪を軽く巻き上げ、白いドレスの裾をなびかせ、こんな深夜の深闇の中、キャンドルの灯りだけで見る彼女の姿は、ますます神秘的に見えた。
「その後・・・そんな伝説がある湖に、人々は集まりました。 真偽の程は定かではなくとも、その財宝を求め、人は集まりました。 しかし、そうやって集まった人々の間に、変な噂が流れ始めたのです」
 ユナはまたそこで、一呼吸置く。 だが、そこへ割って入ったのは、白髪の老人モーガンだった。
「懐かしいねぇ。 私も小さい頃、何度も夜の番組で観たものですよ。 白く大きな魚がいて、財宝を守っているのでしたっけ」
「えぇ、そうです」 ユナは返す。
「湖に潜った人々は、皆、同じ事を言いました。 この濁った水を掻き分けて水底の奥まで潜ると、そこには恐ろしく大きな白い魚が横たわっていた・・・と」
「おや、私が聞いたのは、白く大きなウナギだと」
 言葉を返したのは、一見すればマフィアのボスのような風体の、オールド・スミスだった。
「そうですね。 実はそれには色んな説があります。 ある人は、大きな魚。 ある人は、大きなウナギ。 またある人は、ナマズだったり、蛇だったりと、様々なのですが・・・」
「何にしても、気味が悪いわ・・・」 フルコフ婦人は、ユナの言葉を遮って言った。
「へぇ、でも、どれにも共通するものはあるんだね。 全ては、『白い生物』で、統一されている」
 そう、独り言のように呟くのは、しゃがれた声の、巨漢のウェン。
「えぇ、そうなんです」 ユナは言う。
「この水の濁りのせいで、その得体の知れない生物の全容は判らないのでしょう。 でも、見た人は皆、同じ事を言います。 透き通る程に白かった・・・と」
 一瞬だけ、皆が押し黙った。 だが、すぐにその沈黙は破られる。
「アルビノって事かな?」 人一倍大声な、冒険家のマルコだ。
「それだけ巨大になるって事自体が変な事だとは思うが、魚のアルビノってのは、突然変異でなければ、ある状況下でもそうなる場合がある。 それは、光の差さない場所で生まれ育った場合に限るんだが・・・」
「あぁ、水中洞窟に住む魚は、どの種類も全て、アルビノだって聞きますものね」 それを受けたのは、ユナと同じで、某資産家の孫であるジーナス青年だった。
「でもそれは、完全なる暗黒の世界・・・つまりは、外界と完全にシャットアウトされた洞窟内において、何代にも続いたと言う条件が付く筈ですが」
「あ、いや、だからな、俺が言いたいのは、この湖の底のどこかに、非常に大きな洞窟があってだな・・・」
「脱線しとるぞ、マルコ」 笑いながら言うのは、紅茶にブランデーを足して飲んでいる、アンドリューだ。
「それで? 話の続きを、ユナさん」 と、ベア准将。
「はい。 ・・・それで、湖に潜り、財宝を狙う人々は、二の足を踏みました。 財宝を探すどころではなく、命の危険の方が大事だったのでしょうね」
「そしてそれ以降、この湖には謎の魚が住み着き、満月の夜にはその姿を見せると言うのですか?」 と、マダム・マーガレット。
「そうです。 この近くに住み、この湖と共に暮らしていた民族は、誰しもが良く見たそうです。 満月の夜には、その魚がクジラのダイブのように、水面から大きく跳ね上がったそうなんです。 それこそ、天にも昇るかのように大きく・・・」
「そりゃあ無いだろう。 いくらなんでも、水面からイルカのように跳ね上がるなんて真似、巨大生物には不可能な話だとしか思えんな」
 マルコは、言う。 いつもの彼の癖だ。 人一倍そう言う話が好きなクセに、何かに反論しないと気が済まない性質らしい。
「真偽の程は、見た人じゃないと判りませんよ」 ユナは笑った。
「ですが、時代が変わり・・・そうですね、さっきの話じゃないのですが、モーガンさんやスミスさんが言われたように、世界は近代化が進み、全てはアナログからデジタルに進化を遂げ、世界に限らず宇宙までもが我が手中のような時代に変わると、今度はこの湖は、財宝そのものよりも、その水中の生物の方に、興味は移りました。 未確認な生物は全て、《UMA》などと呼ばれ、科学で証明されないもの全ては、興味と娯楽の対象となりました。
 そしてとうとう、この湖も、そのターゲットとなります。 様々な機材や船が運び込まれ、この湖は探索されました。
 何十船にも及ぶ船で、ローラー作戦のように魚群探知機で調べられ、そして今度は、金属探知機を持ったダイバーやら、水中撮影用のロボットが沈められ、徹底した調査を始めました」
「そして出て来た結果は、巨大な魚の影も、小さな金属片も無いと言う結果・・・ですな」 モーガンが言う。
「そうです。 各国の色々な調査班によって、科学的に証明されてしまいました。 ここにいるのは、大きくても、バスやトラウト止まりで、それ以上はいないと断言されました」
 それを聞いて、心なしか、フルコフ婦人や、ランの顔が穏やかになった。
「そして、先程マルコさんが言われたような、どこかに開いた水中洞窟の存在もありませんでした。 この湖は、ただひたすら広大なだけで、水底の方には物凄い量の長い藻が群生しているだけです。 そしてこの、《地図には無い湖》と呼ばれる、マトゥピカナル湖は、地図だけではなく、歴史の舞台からも姿を消します。 ミガロ王の財宝も、冒険者達が見た巨大な魚も、全ては噂と言い伝え以上のものではなかった・・・と」
 また再び、沈黙が訪れた。
 しばらくすると、冷めたティーカップをお取替え致しますと、エディがやって来た。 ユナは新しい、熱いお茶を注ぎながら、再び皆の前に配り始めた。
 今度は遠慮無しに、砂糖やミルクを要求する者もいた。 ようやく平穏な空気が流れ始め、お茶の好きな婦人達は、その話を元にした談笑までが飛び交い始めた。
 見上げれば、月なお蒼く、昼の火照ったままの身体に、空の冷たそうな蒼色が、心地良く見えた。
 そう言えば・・・と、俺は思った。 みんないつも、彼女が主催するこのお茶会に、何かしらの期待をもって参加している事に気付く。
 これで五回目になるお茶会だが、毎回、世界中の不思議な場所へと連れて行かれての、満月の下でのお茶会だった。
 ある時は、何百年前から今に至るまで、たった一人で屋敷の部屋を拡張し続けていると噂される、狂人な建築家の住んだ無人の屋敷の庭でのお茶会や、またある時は、古きヨーロッパの森の奥にある、魑魅魍魎が住むと噂された、古城のテラスでのお茶会もあった。
 いずれも、精神的、道徳的にぎりぎりなラインの場所でのお茶会だった。 勿論、皆、お茶会の始めには、彼女のセンスを疑いながらのお茶会だった。
 だがしかし、彼女の話術とその話の内容が、毎回、そんな全ての雰囲気を一変させた。
 彼女の話で、表面しか見る事の出来なかったその場所の雰囲気が裏返り、その場所の持つ真の意味を裏側から見せ付けられ、人々はその話に、悲しき裏側の過去を見出し、感傷的なまでにその空想である過去に囚われる事になる。 それ程までに、いつも彼女が語る、彼女の想像の中での話は、人々を魅了するのだ。
 お茶が配り終わると、今度はユナも、席に着き、腰を下ろした。 俺の隣で熱いお茶を啜る彼女の横顔は、やはり少女のそれだった。
 ユナはカップを受け皿に置き、再び話に戻る。
「今やこの世界の中で、人々が辿り着けない場所はありません。 過去には神秘であったかも知れない、世界中の海底や、全ての空と、全ての森、全ての山。 全ては人々が知る事の出来る、現実になりました。 でも・・・不思議ですね。 我々は、今ここにいて、過去に究明されてしまった事実であっても、欲しているのはそれ以前の、神秘なる不思議の方です。 我々は皆、科学を信じ、自分の目で見たものよりも、テレヴィジョンを通して伝えられた映像の方を信じているにも拘らず、どうしても有り得ない筈の、噂だけでしか知る事の出来ない、奇想天外な過去の方に、興味が行くのです。
 皆さんにお聞きしたいのですが、どなたか、この湖で過去にあった噂を、科学で証明された嘘の話だと、完全に否定出来る方はおりますか。 自分は全く信じていない、作り上げられたお話しだと、笑えますか。 私には出来ません。 実は私自身、今こうしている事の方が恐いのです。 今、船の手摺りに寄って、水面を覗き込む事すらしたくありません。 私が見れば、そこから巨大な二つの目が覗けるような気がしてならないのです」
 再び、その場の空気が変わり始めた。
「私には、見えるような気がします。 誰にも見付からないように眠る、莫大なる財宝と、それを守護する白い番人。 そして私は思うのです。 その白き番人とは、もしかしたら、魚でも、ウナギでも、蛇でもなければ、過去に絶滅したと言われる恐竜でも無い。 もしかしたら、財宝と一緒に沈み、いつの日にか復興を遂げると夢見ている、ミガロ王そのもの。 東洋では、『龍』と呼ばれる、大いなる神話の世界の住人なのではないかと」


「では、何故にそんな考えに行き当たったのか、お話し願えますかな? ユナお嬢様」
 数分の沈黙の後、自慢の口髭を撫でながら、ロイド氏は聞いた。
 ユナは、ゆっくりと目を閉じつつ、再び、小さな声で話し始めた。
「ミガロ王は、この国に実在した、本物の人間でした。 ですが、色んな史実で見られる、『暴君』とか、『独裁』は、この国に住まう人々の中では、他の国が勝手に解釈したイメージでしかないと言います。 本物のミガロ王は、他国からの侵略に備える為に、ジャングルの中に住まう少数民族をまとめあげ、自分達の土地と文化を守る為に戦えと指揮した、偉大なる王だったのです。
 ここは、西洋の文化とは違い、全ては神に直結する思考の元で生活をする、そんな文化です。 医学は、魔術であり、統制は神託やまじないにあります。 受け入れられない文化を力で強制しようとする民族に反発するには、やはり力しかなかったのでしょう。 ミガロ王は、神の聖域と呼ばれる土地にまで足を踏み入れ、金山を荒らし、武力で民族を支配しようとする他国を退ける為に、『暴君』を買って出たのではないかと、私は思いました。
 ですが、木の槍に対するのは、鋼鉄の剣。 木の弓に対するのは、銃。 ミガロの軍勢には、地の有利以外はありませんでした。 そして次第に追い詰められ、最後の砦となったのは、背後にこの湖を背に取った、この場所ではないかと思うのです。
 そして王は、他国が狙う金たる財宝。 それらだけは絶対に渡さないとばかりに、この湖に沈めた。 でもきっと、王はその先も見越していたのではないかと思います。 彼等の科学たる文化の先には、人の息も続かないこの湖底にすら辿り着ける日が、いつか来るだろうと言う予想です」
「そして、その守護をする為に、彼は自らの姿を変え、湖底に潜った・・・と?」
 俺は思わず、彼女に話し掛けていた。
「そう。 ・・・でも、流石の私も、一人の人間が巨大な生物に姿を変えるなどと、本気で信じるつもりはありません。 でも、今尚この地には、呪術やら魔術の名残があり、そしてそれを行っている人々もおります。 そんな力が人を変えるとも言いませんが、もしもこの湖底に沈んだ人が、ミガロ王独りだけではないとしたら・・・?
 実は、ミガロ軍の最後の軍勢は、その後の史実からは、姿を消しているのです。 捕虜になったとも伝えられていませんし、全員自決したとも残されていません。 そして不思議な事に、ミガロ王がこの湖に姿を消した後、他国の軍勢がこの地を占領した事実もないのです。 他国は、戦いに勝ちながらも、この地を蹂躙する事はありませんでした。 残ったどこの少数民族にも手を出さず、無条件でこの地を去ったのです。 そしてその後、科学がこの湖の底を探索するまで、この地には、この国の住民以外は湖には滅多に近寄りませんでした。 国の人々は、この地は聖なる地、神の住まう湖として崇め、そしてその他の国々からは、禁忌の地として、地図からも抹消されたのです」
 誰も、口を挟むものはいなかった。
「ミガロとその軍勢は、自らに呪いを掛けて、この下に眠ったのではないでしょうか。 最後に行き着いた、最後の聖域で、彼等は勝利したのではないでしょうか。
 皆さんは全員、空からこの湖へと辿り着きましたね。 その時、この湖を見下ろして、どう思いましたか。 何を感じましたか。 私は、単純に恐かった。 この圧倒的なる存在は、畏怖そのもので、私と言う異文化の人間を、拒絶しているように思えました。
 そして、その直感が、私に自信を与えました。 私の考えが、真実に近付いていると言う確信を持ちました」
 そこまで言って、ユナは何かに怯えるような顔をしながら、語るのを止めた。
 不思議な感覚が訪れた。 それは、この俺にも伝わった。 何かしらの、強烈なるイメージ。 何かが起ころうとしているような、そんな予感。
 テーブルの下で、何かが触る。 俺は手を伸ばしてそれに触れると、それは、震えるユナの手の平だった。
 俺はその手を握り締める。 彼女もまた、俺の手を固く握る。
 そして彼女は、意を決したように口を開く。
「ミガロ王は、まだこの湖底に生きている筈です」
 言い切ったその次の瞬間、爆発的なる水の爆ぜる音と共に、皆の頭上に、マトゥピカナル湖の泥臭い水が、スコールのように降り注いだ。
 椅子やテーブルの倒れる音と共に、皆のあげる悲鳴が聞こえ、俺に抱き付いて来た白いドレスの少女は、誰よりも大きな声の悲鳴を轟かせた。
 俺は彼女の身体をしっかりと抱き、庇うようにして、甲板の上に倒れ込む。
 突然のスコールは容赦なく俺の身体を叩き付けるように振り注ぎ、そして次第に、小降りに、小さくなって行く。
 誰の声だったのか・・・。 上を見ろと言われ、俺は空を仰いだ。 有り得ない肢体が、そこにはあった。
 俺はユナの身体を抱き起こし、空を見ろと声を掛ける。 黒髪の少女は、放心したように口を半開きにし、顔一杯に月光を浴びながら、その神秘を見ていた。
 誰もが口を開く事なく、空を見た。
 その白い巨体は、空へ空へと昇り詰め、いつしか月の光をバックに、黒いシルエットとなって、夜空を踊った。
 彼はこうして、上空からの他人を見たことが、過去には何度あったのだろうか。 満月の夜だけ、その呪縛から解き放たれるその身は、まるで人間だった頃の楽しみを辿るかのような、楽しげなダンスだった。


 雨が止み、風が、濡れた身体を冷やそうとするかのように吹き始めた頃、俺の近くで、小さく高い、金属の奏でる音が聞こえた。
 それは何度か弾むような音を立て、少しだけ傾斜している甲板の上を、滑るように転がって来る。
 俺の上に覆い被さるようにしていたユナは、手を伸ばして、転がるそれを拾い上げた。
 それは、どこかの誰かを肖像として象った、見た事も無い小さな金貨。 俺は目を凝らし、そこに刻まれた文字を読む。 そこには、かつてこの地に存在し、国を治めた、古い都市の名前だった。
「きっと君へのプレゼントだよ」 俺が言うと、ユナは軽く微笑みながら、手の平でそのコインを握り締めた。
 そしてユナは、突然思い出したように、上半身裸の俺に覆い被さっていた事を恥じるかのように飛びすさると、今度は少女を通り越し、女の子のように顔を真っ赤にして照れた。 本当に判らない女性だと、俺はつくづく思った。
 周りを見渡すと、皆、何も無かったかのように振る舞いながら、椅子やテーブルを元に戻し始めている所だった。
 毎年の事ながら、最後はいつも大騒ぎなお茶会だなと思いながら、俺は苦笑した。
 背後では、操縦室から出て来て、事の次第を何も知らない執事のエディが、珍しくも大きな声を上げ、ずぶ濡れになった皆を見ながら驚いていた。
 それを聞いて、ユナは、少女のような笑い声を上げた。
 それに釣られた皆の笑い声が満月の下で響くのは、それから数秒の後の事。
 俺も大きな声で笑い、再び空を仰いだ頃には、もう既に奇跡の姿は消えていた。
 そこにあるのは、世界中どこにいても同じに見える、蒼い蒼い、寒そうな月夜の空だけだった。



●《自己批評》
『色々と御迷惑をお掛けした。 でも、俺はあんまり悪くないとか思った。
独り言・・・独り言・・・』


《魔城九龍 李九龍》 


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◎「彼は、こうして他人を見たことが、かつてあったのだろうか。」

『せんちめんたるまんほーる。』


著者:空蝉八尋

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 彼は、こうして他人を見たことが、かつてあったのだろうか。
 私のような人間を、こうして遥か下から見上げたことくらいはあったのだろうか。
 小さな存在の私よりももっと、豆粒のように小さな存在が居るものだと噛みしめてみたい。
 一種のサディストだ。私は自分に軽く毒づいた。
 そうして自分の醜さを縛りあげたいサディストだ。 

 そんなことを考えながら、腕に這い上がってくる真っ黒なアリを見つめていた。
 よじ登っては吹きかける私の息で吹き飛ばされベンチの上へ落ち、そしてまた暫くすれば登ってくる。
 私のたったひとつの吐息で、その努力はまた無に返される。
 その様子を表情一つ変えずに眺めている自分の姿を想像して、小さな笑みが漏れた。 

 ふと我に返った瞬間、小さな足が視界に入ってきた。
 そのまま顔をあげると、私が腰かけていたすぐ前に、小さな女の子が立っていた。
 だれか同僚の娘だろうか。可愛らしい大きな瞳で私を凝視している。
 ふいに周りを見渡す。昼休みも終わりかけの時間、屋上には誰も居なかった。
 もとい、夏の季節は日差しがキツ過ぎるこの屋上には、ほとんど人影は無いのだ。
 また視線を返すと、少女はまだこちらを見続けている。
 私の黒縁眼鏡が珍しいのか、それともこのネクタイなのかネクタイピンなのか。
  
「ねぇ。アリさんはどうしてこんな屋上まで来れるか、貴方知ってる?」

 ふいに少女は尋ねてきた。
 私はあまりにも年齢に似つかわしくない声と口調に少し戸惑ったが、すぐに答えた。
「そんなもの。登って来ていなきゃ来れないよ」
「ふーん……登ってるんだ。すごいね、こんなに高いのに」
 少女は届かない身長を懸命に伸ばして、フェンスに手をかける。
「おい、あまりそっちに行くと危ないぞ」
 私の忠告を聞き入れたのか、少女は素早く身を翻すと唐突に呟いた。

「どうして一生懸命登ってくるのかな」

 何故だか。何故に。何故なんだろうか。何故だか分からず。
 私は木槌で脳天をかち割られたような気分になった。
 それでも無意味な言葉だけは、簡単に吐き出てくる。
「さぁね、私にはアリの考えていることなんて分からないな」
「どうして自分のこと私って言うの? おんなのこみたい」 
「丁寧に聞こえるだろう。それに私はこれが好きなんだ」
「すきなの? じゃあいいね」
 少女は無邪気に笑った。ひまわりの花が咲いたような笑いを見ているのに、自分の顔がどうなっているのかばかりが気にかかってしょうがない。
「きっとアリさんはねぇ、自分がどうして登っているかなんてわからないんだよ」
 少女は笑うのを止め、私に囁くようにしてそう言った。
「ただ、貴方の腕があったから登ったんだよ。きっとそれだけ」
 私はなんの言葉も返さぬまま、あのアリを探した。しかし何所にも居なかった。
 ただ私の腕が目の前に立ちはだかったから。
 この腕はどこに伸びているのだろうかとか、この先には何があるのだろうかとか、落とし穴はないだろうかとか。
 そんなことは一切考えてないんだろう。

 なんて愚かで羨ましいのだろうか。

「泣くの、格好悪い」

 そう言われてはじめて、自分の両目から涙が滴っているのに気がついた。
 慌てて袖口で拭おうとし、この背広は一番良いものだと気づき、ハンカチを探したが見つからずに。
 私は深く俯いて、流れる涙を焼けたコンクリートの地面に落した。
 次々と落ちる雫はみるみるうちに蒸発し、私はただ瞬きを繰り返す。
「格好悪いか。そうか、そうか……私は、なにをやっているんだろうね」
 肺に思い切り風を吸い込むと、一気に叫ぶ。

「俺は! こんなところで! 何をやってやがんだ!」

 会社の熱い屋上で。自分が知ってるもっとも空に近い場所で。小さな少女の前で。ベンチに座って。
 動きの遅いエレベーターで。書類が山積みのデスクで。気づけば頭を下げているあの人の前で。

「あああああ!」
 
 一心の力を込めて声を搾りあげた。掠れて喉を突き破っった嗚咽は、行きどころもなく暫時空気にうごめいた。

「泣くのって格好悪いけど、貴方の泣き顔は好きよ」
「…………私だって人の泣き顔を見るのは好きだ」
「へぇ、なんで?」
「快感じゃないか。自分も、同じように泣いてみたいと思うから」
「あははっ。そりゃ結構なマゾヒストだね」
 そう言われた瞬間、私の頬はカッと熱を帯びる。泣きはらした眼球よりも熱い。
 どうして幼い少女がこんな単語を知っているのかなどという詮索は、余計なことに等しかった。
「私はサディストだ」
「うっそばっかり。貴方が自分の事をサディストだって勘違いしてるのはね、自分の願望だから」
「願望……?」
「そ。貴方がそうされたいと願ってることを、他の誰かに置き換えているだけ」
 意味が分からないまま、俺はおぼつかない足取りで立ち上がった。
 少女はスカートのすそをひらめかせ、子供らしい柔らかな笑みを浮かべている。
「じゃあ、君が私の髪を引っ張り上げて地面に平伏させたら、私は喜べるとでも言うのか?」
「そうゆうこと言ってんじゃないよ。だってそれは貴方がされたいことじゃないでしょう」
「されたいことだと言ったら」
 屋上に、再び沈黙が訪れた。

「そしたら喜んでやってあげるよ」

 ふと自分の足元を見ると、アリが革靴にすがり付いていた。
 踏みつぶしてしまおうか。そう考えて止める。少女の言葉が脳裏に張り付いて離れないからだ。
「ほら、ね。ヒトってみんないつだって、自分が受け止める側に居たいの」
 ただ思いをぶつけても、結局はその答えを受け止めたい。
 愛を上げても、その分の愛を返されたい。
 他人を褒めれば、褒め返されたい、とでも言いたいのか?
「おなじ」
 
 
 吹き戻されたい のか?  


「ね、おんなじ」

 彼女は美しく微笑んで、そしてもう一度繰り返した。
 脳裏の奥深くに刻み込むように。

「わたしと貴方はおんなじ」
 
 ああ。
 同じ。

 近過ぎる太陽の日差しは、人の思考を狂わせる。
 本当に? 
 
 本当にそうだろうか。彼女と私は、同じ種類なのだろうか。
 私の沸騰した脳内で、いつまでも言葉が渦巻いては砕けていた。



●《自己批評》
『テストなんてヤーダヤーダ評定なんてバーカバーカ(殴)
そんなわけで一気に書いたのでおかしいです。
見逃してやって下さい。 
見逃し……デオキシリボヌクレイク核酸ー♪
せんちめんたる=S まんほーる=M (笑)
お粗末さまでした。』


《片翼てふてふ。 空蝉八尋》 


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

◎「本当にそうだろうか。彼女と私は、同じ種類なのだろうか。」

『決戦、前日』


著者:知


「本当にそうだろうか。彼女と俺は、同じ種類なのだろうか」
 ベッドに寝転がり、そう呟いた。

 あの日から、決して答えの出る事のない疑問が頭の中を駆け巡っている。
 気が付くといつも同じことばかり考えている。

 枕元に置いていた携帯を取り、受信メールを見る。

「明日、時間大丈夫?」

 今日届いた、彼女らしい何のかざりっけのないシンプルなメール。だけど、このメールを見た瞬間に頭が真っ白になった。

「今日は時間がないから次に話すね。何故、ぼくが、再び書きはじめたのかを」

 互いに色々と忙しく時間が作れなかったため、彼女がそう言ってから数週間が経っていた。
 このまま何もないままになるのでは、そう思っていた。しかし、遂にこの日が来た、そう思うと何も考えられなくなってしまった。


 実は俺は大学に入る前から彼女の事を知っていた。その事を彼女は知らないようだ。
 俺も彼女も1浪しているのだが、同じ予備校に通っていて、同じ教室で授業を受けていた。大きな予備校だったので同じ教室で授業を受けていても互いの事を知らない、そんな事は当たり前だった。実際に彼女と予備校でコミュニケーションをとったことは覚えている限りでは1回しかない。彼女がその事を知らないのは当たり前なのだ。
 でも、その1回が凄く印象に残っていた。
 印象に残っていたと言っても何も特別な事があったわけではなく、教室変更があったことを知らず、1人教室にいた彼女に教室変更があった事を言っただけ。
 でも、その日から気が付けば彼女を見ている自分がいた。恋心からではなく純粋に興味から彼女を見ていた。
 彼女は誰も寄せ付けないような雰囲気を身に纏い、気だるそうに授業を受けていた。授業を受けるのが面倒でサボる奴は結構いた。でも、彼女はサボることなく授業を受けていた。
 傍目に見ると成績が良く真面目な生徒。でも、授業はただ受けているだけのように見えた。成績にも関心が全くなかったみたいだった。模試の結果を全く見ずにカバンの中に仕舞っているのを見た事があった。

 予備校に通っている人には大学に合格するという目標があるはずだ。よく授業をサボっている奴も、だ。
 そうでなかったとしても、少なくとも未来に向かっている。滑稽無燈な物であったとしても、それを大きな声で誇らしげに、自分はやればできるのだ、そう語る。
 しかし、彼女は現在をただ歩いているという感じがした。未来に向かうということを、あらかじめ諦めていたようだった。

 彼女と同じ大学の同じ学部に入ったのに、同じゼミになるまで一度も会うことはなかった。彼女と始めてゼミで会ったとき、別人と思うほど変わっていた。
 一体、何があったのか、彼女に対する興味はますます深まった。彼女と触れ合ううちに、興味が恋心に変わりつつあるのは自覚している。いや、もしかしたら既に変わっているのかもしれない。
 彼女の心がわからず、考えても仕方がないことばかり考えているのだから。



●《自己批評》
『最初の文章が上手く生かせていないような気がする……orz
 MC vol.20の続きの話ですね。
 これで、この話はvol.20、vol.21に続き3作品目……MCで続き物みたいにするのはどうかと思うんだけどね。
 楽なんだよね。新しい設定を考えなくてすむから(ぉぃ)

 色々、書こうと思っていたことをわざと省いてみた。
 本当は、お題の終わりの文以降の部分も書かないでおこうと思っていた部分を含んでいるんだけど、書かなきゃ上手く締まらなかったので書いてみた。』


《Liar's villa 知》 


゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜

◎「未来に向かうということを、あらかじめ諦めていたようだった。」

『砂迷宮』


著者:松永夏馬  


「未来に向かうということを、あらかじめ諦めているのだろう」

 そう言われて榊ユカリはここに足を踏み入れた時のことを思い出しながら納得した。さすが聖職者、言うことが違う。
 見渡す限りの砂。砂砂砂。
 まるで真夏のように照りつける太陽はやけに高く、砂から立ち上る熱気が身を包む。砂漠の真ん中にいるような風景と、その目の前に立つ男のミスマッチが非現実感をますます高めていた。

 暑苦しい黒い袈裟、手甲、脚半、半球状の笠。貫井団坊となんだかやけに暑苦しい名前を名乗ったその僧侶は、難しい顔をした老人だった。
「だからこそこの砂におぬしは喰われつつあるのじゃ」

「……喰われるって」
 じりじりとした暑さに額の汗を拭きながらユカリは苦笑した。この汗では化粧も日焼け止めも流れてしまう。

「ならばなぜこの地で彷徨い続けておるのだ」
 
 坊主の問いにユカリは目を伏せた。足元に佇む影が砂から放射される熱でゆがんで見える。いくつの砂山を越えただろう。どれだけ歩き続けただろう。いくら歩いても、砂に軌跡を残しても、未だ海へとたどりつかない。
 
 大神楽砂丘、太平洋を望む美しい砂の世界。初めての逢瀬で来たこの地を、ユカリは別れの地と定めたのだ。そうして彼を呼び出した。彼は来ないかもしれない。来なければそれでもいい、そのまま海へと歩き去ろう。いや、本当は来てほしい。もう一度私の腕を掴んで安心させて欲しい。本当は来て欲しくない。宿った命を告げたら彼を苦しむだろう。逢いたい。でも逢いたくない。

「お主は今を見失った。だから砂の奴に飲み込まれた」
「飲み込まれたって、だからそういう抽象的な」
「別にたとえ話をしておるわけでもないぞ。この地の砂は生きておる」
「生きてる?」
 ユカリは足元の砂を蹴った。砂埃がキラキラと太陽の光を弾いて舞う。
「砂一粒一粒ではなく、砂丘は砂丘として一個の生物のようだと思わぬか? 砂は常にその姿を移ろわせておる。同じ姿に見えて違う。その違和感が砂の罠じゃ。そうして知らず知らずのうちに砂に惑わされ迷い、いずれ呑み込まれる」
 奇妙な砂の世界。感じつづけてきた違和感の正体を告げられ、ユカリは改めて周囲の砂の山々を見上げた。襲い掛からんばかりに伸び上がる砂の波。その砂はゆっくりと、しかし間違いなく自分に牙を向けて。
「砂は迷うべき人間を狙い惑わす。呑み込まれつつあるのならば……やはりお主には先へと進む意思が無いのじゃろう」

 暑さではない汗が背筋を這った。黄色い魔物に四方から包み込まれる恐怖に眩暈がする。

「わかんないわよ」
 ユカリは吐くようにそう言った。まっすぐに自分を見つめる黒衣の僧侶に視線を向けず、足元から伸びる自らの轍の先を見上げた。砂の丘に消えていく自分の足跡。いままで歩いてきた道。
「それが正しいのかなんてわかるわけないじゃない」
 黄色い砂と雲ひとつない青い空。そしてこれでもかと自分の存在を示す太陽。熱せられた空気がまるで淀んだ澱のように砂漠に沈殿し、自分の行く手を阻む。前にも後ろにも、進めない。
「正しいかどうかなどわからぬ。それもまた答え」
「禅問答には興味ないわ」
 額から流れる汗が視界を滲ませた。手についた砂をパンツの後ろで払い、ユカリは目を擦る。
「わからないの」
 顔を伏せる。

「わからない」

「共に考える相手がいるのではないか?」
 僧侶は淡々と言った。すべてを知っているかのようなその口ぶりに、ユカリは不気味さよりもむしろ怒りを覚えた。
「彼のこと?」
 黒衣の男は頷いた。笠に隠れてその表情は見えない。自分の下腹部に手を当て、ユカリは苦しそうに唸った。
「ダメ。言えない」
「ならば」

 僧侶はあくまでも淡々と。砂の上の陽炎のようにおぼろげな存在感。

「そこで待つ男はなんだ」

 砂が蠢く。大きく波がうねるかのように。

「この地に惑わされずにまっすぐにお主に会いに来た男はなんだ」

 生暖かい風が吹いた。砂を巻き上げ、旋風が踊る。

「正しいか正しくないか、問題はそんなことではない」

 やけに耳に残る言葉だけを残して、砂混じりの風と共にその黒い人影は消えていた。

 海が見える。

 波打ち際で所在なさげに立つなで肩の男の姿が、ユカリの目に映った。

 彼は不器用で、それだけいつもまっすぐな人だった。人目を忍ぶ愛なのに、優しく柔らかく包み込んでくれた。
 彼は優しすぎる。
 別れの言葉を告げても、ひどく彼を罵っても、彼は優しい。

 どれだけ言葉を荒げても、彼は彼のままだった。挑発に乗るということは、それと同レベルまで、自分の価値を下げることだと彼女は知っていた。

 彼と私は違う。彼は降りてきてくれない。彼は優しすぎる。優しさが時に人を傷つけることを知らない。

 彼は迷うことなく私を愛し続けるだろう。それが悔しい。そのまっすぐな思いが、まっすぐな光が私の闇をくっきりと映し出すのだから。

 わからない。

 今はまだわからない。



●《自己批評》
『気が抜けている様子。
なんかすんません。』


《Missing Essayist Evolution 松永夏馬》 


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◎「挑発に乗るということは、それと同レベルまで、自分の価値を下げることだと彼女は知っていた。」

『わたしたちの好きな場所』


著者:なずな


挑発に乗るということは、それと同レベルまで自分の価値を下げることだ。

*

堀木芙紗。
ウェーブのある艶やかな黒髪、彫りの深い目鼻立ち。
ある篤志家にその聡明さを認められ、資金援助を受け、この学園に来たという。
南国の花を思わせる華やかな外見に似合わず、口数が少なく感情を外に出さない、
そういった様子が 一層彼女を神秘的に見せていた。

平和な日々にいつも退屈している学園の生徒たちは、どこからか巧みに得てきた情報を持ち寄り
自分たちの「常識」に照らして様々な感想を付け、大げさな「同情」のため息をつく。

─芙紗さんの「足長おじさん」って どんな方なの?素敵な方なのでしょうね、
物語みたいに。
─ねぇ、ねぇ、芙紗さん、お手紙とかは届くのでしょう?
─芙紗さんにも内緒なの?どんな方なのか、まさかご存知ないとか?

ガタン
机は思った以上に大きな音をたてた。
無責任で無礼な雑音が耳に入ってくることに我慢しきれず、伽耶はわざと乱暴に立ち上がる。
教科書を鞄に仕舞う手を止め、芙紗は斜め後ろの席の伽耶を振り返って見た。
落ち着いた芙紗の態度。真っ直ぐに伽耶を見るその表情に息を呑む。
怒りもない、卑屈さなどはかけらもない。
─『慈愛』?
南国風の顔立ちの聖母像があるならば、きっと彼女そっくりだろうと思う。
言い放ちかけた非難の言葉は伽耶の喉元で留まり、
激しい怒りの感情さえもしゅるしゅる勢いを失った。
芙紗はつっと立ち上がり、静かな微笑みを彼女らに向けた。
「雲行きがあやしくなってきたので私、急いで帰ります。ほら、雨雲」

芙紗の指差した空には黒い雲。
─あら嫌だ、雨。早めに迎えの車が来るわ。
くだらないおしゃべりをやっと止めて彼女たちは教室を去り
くすぶった感情を持て余した伽耶がひとり、取り残された。

ぱらぱらと雨が降り出したのは、靴を履き替えた頃。
雨もまた楽し・・さほど冷たくもない春の雨、とりわけ急ぎもせず伽耶は歩き出す。


「濡れます」
ついと後ろから差し出された傘。振り返ると先に帰ったはずの芙紗が立っていた。
「持って帰って。こんな傘でよかったら」
丁寧に使い込まれた感じのする小花柄の傘。
─堀木さんは?
「私はモリオの傘に入れてもらうから」

作業着のようなくすんだ色の服を着た少し背の曲がった少年が、大きな黒い傘を差し、
覚束ない足取りで先を歩いている。
片足が悪いのだろうか 大きく外へ弧を描くように足を出す。
一定のリズムを持った独特の歩き方。
見入っていた伽耶に背を見せたまま、芙紗はつぶやくように付け足した。
「墓守のモリオ」

「私の唯一の友人。これも噂になってますよね?」
そう言って 芙紗は会釈し歩き出す。追って、傘を押し返す。
「『噂』なんて聞きません。あの人たちと一緒にしないで」
芙紗は振り返らず、彼に合わせたゆっくりとした足取りで寮の方に帰って行った。
傘は伽耶の手に残された。
雨脚が強くなる。

*

「神父様から学園に届け物でも頼まれたの?モリオ」
「う・・」
モリオはほとんどしゃべらない。
学園に隣接した小さな教会の その向こうに広がる森の奥にひっそりと墓地はある。
近隣の中学を卒業してから、モリオは毎日墓地の掃除や教会の雑用などを仕事として働いている。
華奢で小さな森男。黒い傘一つで二人は十分だった。


「怒っていたわよね、伽耶さん」
─解っている。あの人は他の人たちと違うのよ、モリオ。
お父様は一代で会社を大きくなさった社長さん。
『確かに鼻にかけられるような「お家柄」じゃあないわよ。でも 馬鹿にして欲しくないわね、
 私は父を尊敬してる』
そんな風にきっぱりと言い放ち、誰にも臆せず立ち向かうことの出来る人。
私がいつも言われっ放しなのが きっと歯がゆかったのでしょうね。
庇おうとしてくれたのに 流してしまった。
解っていたのに気に障るような言い方をしてしまった。
「悪かったな・・」
芙紗はモリオ相手にぽつりぽつり そんな話をした。

─でも・・いいんだ。私は。
他人の慈善の心に縋って、こんな立派な学園の寮に住み、勉強させて貰っている。
勉強するのは好きだ。幸せなことだと思う。
この学園に入るという話が来た時、母の喜びようは大変なものだった。
よい成績を取り、主席で卒業し、更に上に行く。誰にも負けない「自慢の娘」であること・・
母の強い思いがどこから来るのか 芙紗は薄々気づいている。
─皆が幸せになる方法が、ここで見つかるのなら・・。
決して居心地のいいとは言えない学園と寮の行き来を繰り返しながら 芙紗の日々は過ぎていく。

*

寮は学園の北の端にある。
少し前までは地方の良家の子女がここで生活し、一日の全てを、厳しい上下関係と規律の中で過ごしていたという。
今では多少遠くとも車で送り迎えされ、あるいは近くに立派な住まいを用意してもらい、
優雅で気ままなお嬢様暮らしを続ける生徒ばかり。
寮は閑散としていて 幽霊でも出てきそうな静けさに包まれていた。

訪ねて行ったが、部屋に芙紗はいなかった。
途方に暮れ、廊下の高い窓から伽耶は外を見下ろす。
「墓守のモリオ・・」
ふと思い出し、伸び上がって、墓地の方を見る。うっそうとした木々の隙間から
白い十字架や彫刻を施された墓石の並ぶ様子が僅かに見えた。


木漏れ日の中、柵を越えてさらに行くと 意外に明るくて美しい風景が急に開ける。
緑の芝、ゆったりと間隔を開けて幾つもの墓が並ぶその先、
片隅の小さな焼却炉から一筋の煙がのぼり、そこに芙紗とモリオはいた。

「堀木さん」
ふたりが伽耶に気づく。
「傘を返しにきたの。この間はどうもありがとう」
芙紗は眩しそうに伽耶を見上げて微笑み、モリオはのそり立ち上がって傍を離れる。
「いいのよ、モリオ。お友達だから、この人は」
芙紗はゆっくりと小さな子供に話すように語り掛ける。
「こちらこそ、わざわざ来てくださって ありがとう」

「綺麗なところなんだ。初めて来た」
「モリオがね、毎日それは熱心に草を取り落ち葉を掃き 花を育てているから」
「堀木さんは?堀木さんも毎日?」
「モリオのやり方があるから、手は出せないの。だからこうしていつも傍でひとり
 しゃべってるだけ」

「『大 ガラス いわく、永遠に なし と』」
モリオが急にはっきりとした発音で言葉を発する。
「エドガー・アラン・ポー・・」芙紗が応じる。
不思議そうに見つめる伽耶に、芙紗は笑いながら言った。
「墓碑銘。これ一つじゃないのよ。モリオは何でも知ってるの」

ここにあるお墓にも墓碑銘がある・・
伽耶は芙紗に促され、ひとつひとつ見て回った。
無名の人たちの墓にも このような言葉が添えてあるとは知らなかった・・
死者を悼みその生き様を記すもの、死者の人生を例えるひとつの言葉、
詩の一節のような美しい文、敬虔な祈りの言葉など様々なものが彫られていた。

ざっざっざっ
モリオは掃いた落ち葉を炉に入れる。
立ち上る煙の行方を見つめて立ち尽くすモリオに、芙紗が声を掛ける。
「どんな墓碑銘?」
モリオはしばし沈黙し、ゆるゆる首を横に振る。
「いつもこうして二人で 色んなものの墓碑銘を考えるの。
死んでしまった小さな生き物たちを埋めてやる時だけじゃなく、
神父さまから頼まれた書類とか、古くて色あせた布類とか
焼却炉に消えていくそんなものたちの墓碑銘」

*

墓地で話した日から、伽耶と芙紗は急速に親しくなった。
といっても 学園では相変わらず芙紗は言葉少ない。
お嬢様たちの暇つぶしが芙紗へ向かう時、伽耶はなるべく傍にいて、
聞き流せないことがあれば、いつでも相手になるつもりでいた。

「お勉強する時間が十分おありでいいわよね、あの方は」
「お忙しいものね、あなたは。いっそお付き合いやお稽古事を減らされたら?」
「あら、そういうあなたの方がお稽古の数、多かったんじゃない?」
聞こえよがしの会話。ご自分の学力を棚に上げて なんて言い草。
かっと熱くなる伽耶の横で、芙紗は静かに微笑んでいる。

*

「いつもね、それぞれの墓碑銘を考えるの」
さわさわと吹く風に豊かな黒髪を靡かせながら 芙紗が言う。
「嫌だ、変な顔しないで。あの人たちならきっとご家族に大切にされて幸せな生涯を閉じる。
 もちろんずっとずっと、ずうっと先のことよ。
 その時に例えばどんな美しい言葉が刻まれるのかしらって・・あ、やっぱり変だと思ってる」
「・・・何だか 酷く屈折してる」
「そうかな・・その人のために刻まれる最も美しい言葉、愛されつづける証。
 何年も何十年も先に、知らない誰かが読んで その人に思いを馳せるなんて素敵だと思う」
「あんな人たち・・」厳しい言葉をやっとのことで、伽耶は飲み込む。

「私はね、伽耶さん、あの人たち幸せで良かったな・・と思うの。
 あんな風に、自分の揺ぎ無い居場所を持てたら・・毎日の幸せを空気のように思えたら・・
 ・・妬んだり憎く思うというよりも 何だか祝福したい、そんな気持ちになる
 
 そういうのって、解る?」
 

どんな境遇からこの学園に来たのだろう。芙紗の家のことは聞いていない。
この整った横顔に邪なものが影を作らないのを、それこそ神に感謝したいものだ。
神様なんて信じちゃいないけれど、この人が一番幸せになるのなら 少し信じてあげてもいい。
私があの人たちの「墓碑銘」を考えるとしたら、それは全然違った意味だわ。
・・伽耶は芝生にことんと身体を倒し、空を見上げる。

*

墓碑銘をひとつひとつ読みながら芙紗と過ごす時間は 伽耶にとって大事な時間になった。
モリオはいつも決まった手順を踏んで、墓地の隅々まで丁寧に掃除している。

「真」
「愛しきわが娘、ここに眠る」
「貴方の全てを忘れない。我が最愛の妻・・良き母・・」
芙紗の言うとおり、墓碑銘は亡くなった人の生き様を、残った人の悲しみと祈りを伝えていた。
「今までなら 見知らぬ人のお墓なんて 何の感慨も持たずに見たけれど・・」
伽耶はモリオの規則正しい働きぶりを 心地よく眺めながら言う。
「ここは特別な気がする。大切なもので繋がっているような感じよね。
 亡くなった人 墓碑銘を刻んだ人、モリオさん、そして芙紗さん・・」
「伽耶さん、あなたも・・ね」

伽耶は少し照れながら 森の空気をいっぱいに吸い込む。
雨続きでしっとり湿った地面。草の匂い。
やがて梅雨も終わり、蝉の声が大きく森に響くようになる。


*

「理事長先生がお呼びです」
芙紗に呼び出しがあったのは 夏休みも間近になった頃。
担任が小声で言ったのにも拘わらず、教室のあちこちから芙紗に視線が集中する。
ほらね、という目配せ。囁き。
聞くつもりのない伽耶でさえ、新たな噂は耳に入っている。
『理事長の不遇の孫娘』

─もともと理事長先生が気に入らない相手、結婚も認めなかったお相手の子・・
理事長の跡継ぎとなるべき令息は、若くして亡くなっている。
夫人との間に残された子は病弱で、入退院を繰り返しているという。
─では、芙紗さんが次期「理事長先生」ってことも?
─あら、本当に血がつながってるのかだって怪しいらしいわよ。
今までの伽耶なら聞き流しはしなかったが、今はこんな話しかできない彼女たちを
可愛そうに思う。


その日の放課後 墓地を訪ねると芙紗は手紙を焼いていた。
「母からの手紙はいつも同じことばかり。封を開ける前から解っちゃうくらい」
苦笑しながら芙紗が手渡し モリオが火にくべる。神聖な儀式のように重々しく
 慎重に。
「墓碑銘は・・?」
モリオが問う。
「『母娘を縛りしもの ここに灰とす。母よ、呪縛より解き放たれよ。清き思い出はその胸の内に』・・ってとこかな」
ちらとモリオが芙紗を見る。
このところ元気のない芙紗をモリオが気遣っているのが解る。

「伽耶さんは将来のこと、考えてる?」
「うん。私は父の事業を手伝いたい。兄に継がすから、私は自由だって言われてるけどね」
「伽耶さんなら出来そう」
「兄は画家になりたいの。まだ父には内緒だけどね。こういう事ってなかなか思うようにいかないものね」
芙紗さんは?と伽耶が聞く。芙紗は当惑の表情で伽耶を見、そして唇をきゅっと噛む。

「私は教師になりたい。でも・・このままでいるのは違うんじゃないか、最近そう思えてきたの
 あなたの影響かもしれない」
一筋の煙が空に立ち上る。細かな灰が緩い風に乗って いつまでもひらひらと付き纏う。

*

夏が来る前に、学園に二つ 事件がおきた。

一つは芙紗の言う「幸せな方たち」のひとりの親が、贈賄の罪を問われ失脚したこと。
無関心を装う者、同情を口にする者、翻って陰口を言う者。
潮が引くようにその方の周りから華やぎが消える。
夏休みが始まるのを待たず、肩を落とし目を伏せたまま、 その人は学園を去った。
色々な噂が飛び交う中、かつて静かに学園を離れて行った人たちにまでも話は及び、
芙紗の信じた「幸せな方たち」の像も容赦なく陰りを帯びる。
そんな落ち着かない雰囲気の中、芙紗がいつも以上に物思いに沈んでいるのが伽耶には気になった。

もう一つ。
朝のミサでの連日の祈りも空しく、学園の後継者、理事長の孫息子が亡くなったと報じられたこと。
熱心に祈る芙紗の横顔は悲愴で、伽耶は声も掛けられない。
学園全体が重苦しい空気に包まれた日々だった。

*

理事長からの呼び出しが度々あり、寮や墓地を訪ねても芙紗のいない時が増えた。
かつて無い険しい表情で帰ってくる芙紗は、ますます無口になり、母からの手紙をまた 焼いた。
こんな時、事情をさりげなく聞くことができる性格だったら良かったのに・・
言いたくないことは聞かない・・自分の主義が本当に正しいのか伽耶は戸惑う。

「理事長先生の息子さんやお孫さんのお墓は ここではないのね・・」
ふと、気がついて伽耶が言う。
わざとらしく話を持ち出したように聞こえただろうか・・伽耶はひやりとする。
そんなつもりは全くない・・と言えば嘘になる。
「著名人の墓碑銘あて」にも最近はずっと上の空の様子の芙紗。
モリオも幾分寂しげに箒を動かしている。

「そうよね・・ここにせめてお墓があって、墓碑銘でも読めたら・・」
芙紗の声が震える。
「一度も会ったことのないお父さんと弟に・・思いを馳せることもできたのにね」
静かな森に鳥の声が響く。遠くで時計台の鐘が鳴る。

「モリオみたいになりたかった。モリオはね、自分の居場所、自分を必要とするこの場所を、自分で見つけたの」
自ら始めた墓地の掃除。そのままモリオはここに居る。
ここの鳥も木々も草花も眠る人への想いも モリオが守り、モリオはここに抱かれている。
「何一つ 自分で選ばない人生なんて間違っていると 伽耶さんなら思うわよね」
制服のスカートの裾を直しながら立ちあがり 芙紗は体中の空気を入れ替えるような深呼吸をした。


*

芙紗が突然 学園を去ったことを正式に知らされたのは 2学期が始まってからだった。
夏休みに帰郷した芙紗は お母さんと何を話したのだろうか。
理事長は芙紗に何を要求し、何を捨てろと言ったのか。

モリオに託された日記からは 芙紗の静かな決意が伝わってきた。
芙紗がこのページだけは伽耶に読んで貰ってから、焼いて欲しいと告げたらしい。
日記の中身を私が読むことはない、と芙紗は思ったのだろう・・
伽耶は苦笑する。



突然の退学で吃驚されていることでしょうね。
ごめんなさいね、伽耶さん、相談もしないで。

もうこの学園には帰りません。
教科書の束と制服、この学園に纏わる一切の燃えるものを火にくべて終わりにします。
あとの始末はモリオに頼みました。

立ち上る煙に、飛びまわる灰に、どのような墓碑銘を付けるべきかモリオは悩むことでしょうね。
その時は伽耶さん、モリオの傍にいてください。
伽耶さんは モリオの仕事ぶりを美しいと思ってくれた。
モリオの作るこの居場所の心地よさを、解ってくれた。


あの方は「お祖父様」と一度だって呼ばせてはくれませんでした。
温かな気持ちの通い合う日までお傍にいようと思ったけれど、それも難しかった。
あの方の守りたいのはご自身が築き上げた物。
けれど、ただ血にだけ拘って守ったとしても何の意味があるのでしょうか?

モリオが私たちの好きなあの場所を思うような気持ちが、あの方にもあるのならば、
私にできるだけのことはしようと思っていた。
そして私たちがあの場所で安らげるように、学園という場所が皆の安らげる場所であったなら。
でも それも少し 違っていた。

そして何よりもあの人は モリオのことを酷く言った。
私から遠ざけるため、モリオからあの場所を取り上げようとした。
私は生まれて初めて、他人の前で声を荒げた。

さようなら。「幸せな」お嬢様たち。私の憧れたもの。
その「幸せな居場所」でさえ不確かなものだと知りました。
私の迷いはそこで消えた。

伽耶さん、あなたとモリオと一緒に過ごした時間は宝物です。
墓碑銘なんかつけないでずっと生かしておきたい。

きっと また会える。モリオがずっとあの場所を守ってくれるから。



「『彼のあらゆる企ては不成功に終わった』」
伽耶が日記を閉じると、モリオがぽつり、言った。

「・・ヨゼフ2世・・だったよね、モリオ?」
伽耶もいつの間にか、かなりの墓碑銘を覚えていた。


*

モリオと二人 昇り行く煙を見送った。
制服、教科書、日記、お母さんからの驚くほどの数の手紙に加え
留学の手続きの用紙や様々な習い事の予定表、理事長直筆と思われる生活上の諸注意。
火勢は強く、灰は風に煽られて飛び、降りかかった。

「墓碑銘は『訣別』・・ううん 『前進』かな・・」
伽耶が言うと、モリオは目をつぶり長い間考えた後、ゆっくり首を振り、
「『希望』」
と 厳かに呟いた。
「いいね、モリオ。それがいい」
伽耶はモリオに笑いかける。モリオはこくんと頷いて満足そうに目を細める。


風が木の葉を揺らして森を抜ける。 
陽の当たる墓地。わたしたちの大切な居場所。

空が 高い。



●《自己批評》
『初めて 前に使ったキャラを使ってみました。
時代設定をきちんとして、学校制度について調べてみようと思ったのですが 難しすぎて挫折。
墓碑銘については検索でhitする「欧米の墓碑銘」の記述にお世話になりました。
(セレモニー会社さんのHP「お葬式プラザ」、なかなか深ーいHPでした)』


《STAND BY ME なずな》 


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◎「彼は、もしかしたら、飛びまわる灰に、どのような墓碑銘を付けるべきか、悩むかもしれない。」

『ジャスミンの愛』


著者:国見弥一


 彼は、もしかしたら、飛びまわる灰に、どのような墓碑銘を付けるべきか、悩むかもしれない。そんな自分になるかもしれないとは夢にも思わなかった。

――所詮は人間なんてこんなもんじゃないか。あの輝きがこんなにも呆気なく潰え去り、骨と灰と煙に成り果ててしまう。

 そんな捨てゼリフのような述懐も何の役にもなりはしないのだった。

――いっそのこと、欧米みたいに土葬にすればいい。棺に納めて穴を掘って、地中に埋めてしまう。そうすりゃ、あの人が死んだってことをオレだって事実として受け入れられるに違いないんだ。

 彼は、脳裏に教科書で見た「九相詩絵巻」の図柄を思い浮かべていた。絶世の美女と呼ばれている小野小町だって、死ねばあんなふうな無残な姿を曝け出す。平凡な人間なら、なおのこと…。そう思いたかったのだろう。

 彼は火葬場から遺灰を一掴み奪って、一人、抜け出してきたのだった。
 彼と彼女とのことを知るものは誰もいない。大方は、若い彼の気まぐれが始まったと思うばかりだった。
 彼がどんなに安美(やすみ)という名の彼女のことを愛していたか!
 まして、彼女が彼をどんなに愛していたかなど、誰も知る由もなかったのである。

 否、そのはずだった……。

――墓碑銘を刻むんだ。オレだけの墓碑銘だ。保美に捧げる墓碑銘なんだ!

 そう、彼はまさにたった今、火葬場で灰と骨とになり、煙となって空へと飛び去っていった彼女に愛されたのだった。
 十五になったばかりの彼には、死んだと言われても、まるで現実感がなかった。
 ウソなのに違いないと思った。
 彼と彼女との仲を引き裂くための、大人たちの芝居に違いないとさえ思った。
 彼女に誘われ、受験勉強の最中、家族の目を盗んで彼女の元へ走った日々。
 叔母さんだけれど、彼には優しいお姉さんだった。ずっと年上の年上の恋人だった。
 結婚はしているのだけれど、子供は居なかった。旦那さんも優しくしてくれる、なんて彼にのろけ話を言って聞かせる。
 若い彼には、<優しくしてくれる>という彼女の言葉が耳に残り、ついには腰を疼かせるようになった。
 何故なら、彼女は、<あっちのほう以外はね>という余計な一言を付け加え、意味深な目を彼に投げかけたからだ。
 それからは、もう、彼は彼女の虜だった。朝な夕なに彼女の姿が現れた。教科書のまっさらなはずの余白にも彼女の顔が、髪が、眩しいほどに白い胸元が浮かび上がってくるのだった。
<あっちのほう以外はね>などと彼女に言われたのは、彼が中学三年生になったばかりの頃だった。

 けれど、それだって、少年の儚い思い出に過ぎないはずだった。ちょっとした切っ掛けが彼を翻弄することになろうとは、中学三年生に成り立てで、受験のことで頭が一杯の彼には思いも寄らないことだった。
 身近な年上の女(ひと)への切ない恋で終わるはずだったのだ。

 部活が嫌いな彼は、内申書の査定が違ってくるからという担任の勧めや友人らの楽しげな活動ぶりにも無関心を装っていた。
 集団行動は嫌いなのだ。まして体育系など、うんざりなのだった。

 そんな帰宅部の彼は、東京の下町にある学校をチャイムと共に逃げ出すように立ち去ると、隅田川の土手へ向うのが常だった。ある橋の下が彼の縄張りだった。下水道のパイプが通っていて、立ち入り禁止になっているのだが、彼は構わず入り込んでは、鉄柵の檻に囲まれた一角に陣取って、川の流れを眺め、雲の形の変わり行くのを飽くことなく見惚れていた。

 自由。自然。憧れ。山の彼方。

 そんな彼の秘密基地の存在は、学校の仲間の誰も知らなかった。家族にはなおさら秘密だった。
 塾へ通うのも時にサボって、この秘密の空間で彼だけの夢を追っていた。
 ここで彼を邪魔するのは、ハトたちがたまにウンチすることくらいだった。
 
――ここだったのね。

 振り返ってみると、塾の先生だった。それとも彼の叔母さんと言うべきか。

 そう、彼の叔母さんの家が塾だったのだ。
 塾の先生とたった一人の生徒。

 彼女は、その名を知らないものはいない大学の院生になっていた。そこで今の旦那様と出会ったのだった。
 経済的な事情などもあって、彼女は学業を断念し、家庭に入った。
 今では、子供も生まれる見込みがなくなったので、時間的なゆとりもあるし、昔取った杵柄で、塾を開いて、学問ならぬ受験勉強のお手伝いなのだった。
 彼は中学三年になった時からの保美の最初の、そして、たった一人の塾生になったというわけだった。
 
――ここで何をしてるの。

 彼は、不意を突かれて言葉が出なかった。
 サボったという後ろめたさもあって、頭の中が真っ白になった。
 自分の子供っぽい思いが見透かされたような気さえした。

――大丈夫。サボっていることは誰にも言ってないから。

 その日から、塾の日が増えた。休日や土曜日を利用しての個人授業を橋の下の檻の中ですることになったのである。その代わり、普段は、保美の家で勉強するという約束になったのだ。

 青空の下での授業は自然の勉強だった。自由という気侭な感覚を堪能しつくすという心身の鍛錬だった。
 五月の連休の間は、特訓の日々が続いた。
 朝から晩になるまで愛を学び続けた。
 寵愛とは何かを彼は知った。
 保美は激発する欲望をからかい、弄り、挑発し、夢路へと誘っていった。
 愛される一人の男であることの誇り。女を霧や夢想の彼方で想い描くのではなく、指と足と腰と腹とお尻と鼠蹊(そけい)と髪と唇とを重ね合い、奪い合い、与え合うことで知っていった。
 女は飽くことのない泉だった。熱い迸りだった。男の本能など呆気なく飲み乾すアリ地獄だった。砂の穴へ誘い込むサソリだった。その毒の甘さは一端、知ったなら誰も逃げることはできない。

 彼は、今や、保美の舌の先に息衝く一匹の獣だった。保美は舌と指先で彼の体中を毒という名の愛を塗りたくっていた。

――保美! ジャスミン! 

 ジャスミンというのは、保美の母が好きな花で、女の子ならジャスミンを語感で連想させる保美にしようと言い張ったのは彼女の母だったという。

 毒は体中を駆け巡る。しかも、愛の毒は魂を干すまでは体から抜け出すすべがない。
 愛の虜は逃げないどころか、獲物のほうから穴へと飛び込んでいく。深みに嵌まっていく。
 嵌めているのに、嵌められて、二進も三進もいかない。
 目の前に肉の壁があり、唇は蕩ける愛の河に塞がれ息も絶え絶えになった。
 二匹の蛇は互いの尻尾を追っては食いつき食い破り、食い尽くし、蕩ける唾液は愛液と相俟って蜂蜜よりも甘く濃く、橋の下の寝屋を満たした。
 彼は精根尽き果てて倒れ伏してしまう。なのに、時間が経つと、女は猶も男を駆り立てた。
 カラカラに干からびた井戸の底へと飛び込ませ、素手で井戸の底の石の透き間を掻き削らせ、女という満足ということを知らない大地を湿らせ潤すことを命じられた。

 彼女は彼女の旦那との夜を語った。結婚した当初の激しい性愛の日々。でも、旦那は彼女と結婚したことを後悔していた。彼女と知り合って間もなく、教授と親しくなり教授の家庭に招かれ、適齢期の娘さんがいることを知ってしまったのである。
 あと、半年、いや、三ヶ月だけでも早く教授と親しくなっていたら今頃は助手になっていて、万年博士浪人という生活から抜け出せていたに違いないという思いが、彼の悔恨の念の始まりだった。
 そして夫婦の破綻の始まりでもあった。

 歯車は狂っていくばかり。
 結婚して一年も経たないうちに、仮面の夫婦になってしまった。
 旦那には彼女が疎ましいばかりだった。ほとんど毛嫌い同然だった。
 彼は保美をシカトするばかりだった。そこに居るのに居ない。保美の肉の心が今にも開かれるのを待ち受けているのに、その上を乾いた風が吹き抜けていく。

 でも、彼女は彼を愛していた。
 彼の心も体も愛(いと)しいと思う気持ちに変わりはなかった。
 でも、何年も経つうちに疲れ果てた。

 そんな家庭の事情を知るものは親族にも学校関係者にも誰一人いなかった。二人は完璧な理想の夫婦像を演じていたのだ。

 寝物語を聞いていても、彼には夫婦の機微の微妙なところは理解し切れなかったが、叔母さん夫婦の内情の血の吹き出るほどに冷め切っていることを日々思い知らされた。
 それも、熱く激しく飽くことなく。

 そんな或る日、彼女が病気で倒れた。
 病気と言いながら、実は家庭内暴力(DV)で殴り倒されたという噂が飛び交っていた。
 DVでは、外聞が悪いということで、主に彼女の旦那の関係者を中心に真相の揉み消しが図られていた。 まして、浮気がどうしたとか、近親何とかという噂は、表沙汰にはできないことだった。
 そんな無責任な噂の中には、HIVがどうしたという話さえ流れていたことを知ったのは、荼毘に付される数日前だったろうか。

 病院へは、彼女の家族しかお見舞いにいけなかった。旦那も旦那の親族らも来なかった。
 個人授業を受けていた彼も面会謝絶で会えなかった。
 というより、密かに彼は遠ざけられていたのだった。

 彼は自分のせいだったのかと悩んだ。
 でも、誘われたのは自分のほうではなかったのか。
 誘惑したのはジャスミンのほうなのだ。

 でも、彼女を愛したのも事実だった。世界が彼女の肉の色一色に染まるほどに彼女を愛したのだ。そして、愛された。
 この貧相な自分があれほどの寵愛を受ける存在であるということ。女に欲せられ追われ、駆り立てられる存在であるということ。

 彼女の葬式は夢のように現実感なく終わった。汗と愛液と涎(よだれ)と吐息と叫びしかない現実からはあまりに遠かった。
  
 彼は、また、一人きりの檻で静かに過ごしていた或る日、流れゆく雲を見ていた。
 いつだったか、彼女の家の書棚でたまたま手にした本の中で、「死骸を火葬にして灰を川に投ぜよ」という言葉を見出したことをふと思い出した。
 彼女の本か旦那の蔵書なのか忘れてしまった。
 エンゲルスの遺言だとあった。
 
――そうだ、川だ。保美を川に流すんだ!

 そう思い立ったのは、火葬場で燃え尽きた彼女の骨と灰とを見た瞬間だった。
 オレたちは、あの場所で愛を交わしたんだ。幾度、保美を引き裂きたいと思ったことか。
 愛は惜しみなく奪う。肉を引き裂くほどに。
 保美の体は彼には無間地獄のようだった。何処まで辿っても行き着く果てはない。そこに保美はいる。でも、自分が一体、保美の何を愛しているのか分からなかった。

――ああ、オレたちの愛が流れていく。流れていく前に、墓碑銘を刻まなくちゃいけない。

 彼は、保美が死んでくれて助かったという思いが脳裏を駆け巡っているのを感じていた。
 それどころか、自分が彼女を死に追いやったという思いさえ、沸々と湧きあがってくるのをどうしようもなかった。血が濁らされたという怨念のような、根拠のない直感が彼を苦しめていた。

――あのまま続いていたら、オレ、何を仕出かしたか知れやしない。本当に保美を…。…まさか、そんなオレの思いに気付いて保美は…。奴にも疎まれ、オレは愛に目が眩み…。

――ボク、分からないよ。
――何が?
――どうやって愛したらいいのか。
――私たちの世界を難しくしないでよ。とりわけ、私たちの世界を。今は、愛が全てなの。欲するがままに愛したらいいのよ。

……じゃ、貴方を引き裂いてもいい?

 到底、口にすることのできない言葉だった。
 彼は、流れる川に向って遺灰を投げた。灰は空中を飛び交い川面に落ち、紛れ、流れ去っていった。

――墓碑銘は……。墓碑銘は風に任せればいいんだ。……復讐は終わったのだ!



●《自己批評》
『題を本文に溶け込ませるのは、難しかった。
それ以外は、楽しんで書けたけど。』


《無精庵方丈記 国見弥一》 


∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞

◎「世界を難しくしないでよ。とりわけ、私たちの世界を」

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―


出題者:幸坂かゆりさん  
作品名:『アニマル・ロジック』 著:山田詠美
正解者:無し

遅れ馳せながら提出しました。
ちょいと持病の五月病です。

2007.05.28 18:25 URL | 松永 夏みそ #- [ 編集 ]

お疲れ様だよっ!

良かった〜。
実は、闇センセの原稿無い事で、結構真剣に落ち込んだりしたんだよね。

五月でも、六月でも、淋しい病気でも何でもいいよっ!
次の、「オススメMC」までは、皆勤賞は守ってねっ!!!(7pss)

2007.05.28 22:28 URL | night_stalker #NN0jmGmk [ 編集 ]

お疲れ様でした。
ごめんなさい。初修正依頼。

>君が私を動かすように、彼女が私を動かしている。

最後の方のこれ、「君が私を」じゃなくて「私が君を」の間違いです。
ああああああ恥ずかしい。
絶対こういうことしないと何故か誓っていたのにやっちまったよ。

今回のMCでは一茶さんをイチオシします。
この見事な会話の流れっぷりには脱帽ものです。すとんと落とされました。短い会話の流れの中でこうもお題にそって書ける手腕はすごすぎです。

2007.05.29 00:47 URL | おりえ #- [ 編集 ]

はじめまして。
少し前にあった『いっぺん』とは違うコンセプトでやられているんですね。これはこれで、面白い試みだと思います。時間があるときにゆっくり読んでみたいと思います。

2007.05.29 02:33 URL | Jun #wsMmrKTY [ 編集 ]

編集お疲れ様です。毎度恒例の訂正に参りました・・・・シクシク。

「夫人との間に残された子は病弱で、成人した今も入退院を繰り返しているという。」
の、「成人した今も」をカット。

「一度も会ったことのないお父さんとお兄さんに・・思いを馳せることもできたのにね」
の「お兄さん」を「弟」にしてください。

「夏休みが始まるのを待たず、肩を落とし目を伏せたまま、 学園を去った。」
の 「学園を去った」の前に、「その人は」
を入れてください。

以上3つ(だと思う)です。
これから皆さんのゆっくり読みます。
楽しみっ。

2007.05.29 07:26 URL | なずな #mQop/nM. [ 編集 ]

うひょーい、お疲れさまです!
望月さんのは予想通り最初っから読みふけさせてくれましたね(日本語変)

修正お願いします;
最後から14行目、「愛を上げても、その分を愛を返されたい。」

その分を愛を⇒その分の愛を
(完璧な誤字…!)

もうほんと誤字多いな私の文は。

2007.05.29 21:54 URL | 空蝉八尋 #- [ 編集 ]

『奇妙な砂の世界。感じつづけてきた違和感の正体を告げられ、ユカリは改めて周囲の砂の山々を見上げた。襲い掛からんばかりに伸び上がる砂の波。その砂はゆっくりと、しかし間違いなく自分に牙を向けて。』

というのが連続重複してました。_| ̄|○
コピペって便利ですよね。

2007.05.29 22:53 URL | 松永 夏みそ #- [ 編集 ]

お疲れ様でした!

・・・すみません!
私も訂正をお願いしても良いでしょうか・・・?見過ごそうかとも思ったのですが、文的に繋がらなくなるので・・・(汗

●区切れがないので分かりづらいと思うのですが、『綴り人の思想』について触れているところで
『その話は私が書いたわけではないんですよ。気づいたらここにあったので、の私が書いたのか・・・』

下線を『以前の私が』に。

●最後の文の『抜けるようなスカイブルーは、変わらぬ位置の白雲とともに、その蒼さを増していた。』

下線を『白雲を際立たせて』に訂正をお願いしますっ!(汗

・・・改行なしですごく見づらくてすみません。
空八さん、有難うございます(^^

2007.05.30 18:03 URL | 来羅 #J8sWLEBQ [ 編集 ]

コメントに入れてくださった分を修正しました。
寸評、いましばらくお持ちくださいませ。初号機ただいま奮闘中(のはず;)

2007.05.30 22:25 URL | 七号機 #G/R0oQrY [ 編集 ]

・・・。

数年前の戯言から始まった企画が、いまやこぉんなハイレベルな世界になっちゃってることに改めて、よい意味でのため息が出ます。

書き手の進化、MCの存在の進化どこまで進んでいくのでしょう。。。

2007.06.02 10:07 URL | kazumi #G/R0oQrY [ 編集 ]

やっとランダムに大半読み終えました(^^)
夏馬さんの白砂の背景黒衣の僧、禅問答風な会話がゲイジュツ映画みたいで、九龍さんのは外国の短編小説みたいな雰囲気で、それぞれカッコよかったです。

2007.06.05 15:12 URL | なずな #- [ 編集 ]













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MC Vol.23五行感想
僕が時々参加してるMystery Circleという企画。そこで発表された作品についての感想を書いてみます。五行以内のときもあるし、五行を超えるときもありますのでそこのところはご了承くださいませ。前もやったけ

2007.06.20 20:55 | グランブルーの夢