第二十七回 Mystery Circle
◎甲高い笑い声が細く遠く響いた
『Desire』
著者:Monica
あの女の甲高い笑い声が細く遠く響いたような気がした
あたしはあの女に負けたのだ。
修史はもう、あたしのもとへは帰らない。
欲しかったのは存在意義。
求められる事でしか
自分を確認できなくて
必要とされてる事
実感出来なくて
居場所が無くって
いつだって居場所を探してた。
家では出来のいい姉に比べられ
学校では存在感も無く
あたしなんかいても居なくても何も変わらない。
いつもそんな風に感じて生きてた。
だけど、あたしだって居場所を探し続けてた。
誰かに認めてほしかった。
修史はそんなあたしに居場所を与えてくれた。
友達には猛反対された。
あんな男に近づくべきじゃないって。
だけど、どうしようもない事わかってても
あの人にはあたしが必要だと思えてならなかった。
何ひとつ自分で出来ない人。
靴下さえあたしが履かせてあげなければ
裏表逆にはいてしまう。
それなりに恋愛してきた。
普通にデートを重ねて
普通にセックスして
そんなものだと思って生きてきた。
だけど、修史は何もかもが違った。
初めて会ったその日からうちに転がり込み
あたしの人生を彩り始めた。
修史はあたしの持つ何もかもを明け渡す代わりに
ちっぽけなあたしに存在意義を与えてくれたのだ。
誰かに必要とされている
その事実はあたしを恍惚とさせた。
なんの取柄もなく特別美しくも無い26の女。
毎日くだらない事務をこなすだけの仕事と
誰も待たない築15年のアパートの部屋との往復。
その日常を変えてくれたのは
無職の上に何一つ自分で出来ないヒモ。
利用されてると人は言う。
でも、いったい他の誰がこんなにも
あたしに生きている実感を与えてくれるだろう。
朝までゲームをしていて、さっき寝たばかりの彼を
起こさないよう、急いで目覚ましを消すと
静かに仕事の準備をする。
夕べのうちに準備しておいた食事をお皿に盛って
冷蔵庫へ入れておく。
鍋のままだと修史はめんどくさがって
食べずにあたしを待つ。
おなかが減っているとイライラして些細な事で
殴られるから、カレーのようなチンするだけで
いいものが好ましい。
ご飯くらいなら自分でよそってくれるので
タイマーで昼過ぎに炊けるようにセットして
書置きを残す。
「冷蔵庫にカレーをいれてあります。
チンして食べてください。
ご飯は1時に炊けます。
今日は残業は無いので6時前には帰ります。
何かあった時のため、いつもの場所に1万円入れてあります。」
お金を置いていくのは、盗まれるよりましだから。
一度は、おばあちゃんの形見に大事にしていた時計を
質に入れられた事がある。
当然そのお金は競馬に消えた。
それを長い事言わないので、気づかずにいたら
質流れしていて、もう、買い戻す事さえ出来なかった。
殴られても、お金を盗られても
それでも修史があたしを愛して必要としてくれていれば
あたしは幸せだった。
修史があたしを殴るのは、
本当は修史のジレンマなのを知ってた。
あたしを好きなのに
何も自分で出来ないふがいなさに
あたしを殴る事であたしより
自分が上だと誇示してるんだって。
それって、あたしへの愛だ。
男であろうとしてくれてる。
人には見えない心の中で
修史はあたしを守ろうと
必死にあがいてる。
お金や地位なんてくだらない。
あたしを幸せにするのは
必要としあう愛情のみ。
他人になんてわからなくていい。
抱きしめてくれるぬくもりが
あたしを愛してくれてる唯一の実感。
だけど、それこそが本物だわ。
なんの不純物も混じってない
純粋でひたむきな愛情を
それ以外にどうやって表せるというの。
プレゼントで愛が図れる?
生活保障をくれるからって愛があるの?
一見幸せに見える家庭だって
本当に愛し合ってるなんて限らない。
あたしたちはこんな風に見えたって
お互いに必要とし合い愛し合っていて
とても幸せだわ。
修史はあたしに出来ない事はねだらない。
あたしを破滅させようなんて思ってない。
ヒモはヒモでもあたしを借金させたり
風俗で働かせたりするようなヒモじゃない。
ちゃんとあたしへの思いやりがあって、
ただ、とても不器用で社会のルールに
自分を無理に当てはめる事が出来ないだけ。
とても素直で自分にまっすぐであるが故の事。
そんな修史をあたしは誇りにさえ思う。
誰もが仕方が無いとあきらめる事を
彼はあきらめない。
そういう彼の支えになる事が
あたしの幸せなのだから。
だけど、こんなにも幸せな日々が長く続くわけも無かった。
ある日、家に帰ると修史の姿が無かった。
パチンコにでも行ってるのかと思って
夕食を作って待っていたけど
夜の11時になっても帰ってこない。
終電が終わる頃になり
やっと帰宅した修史はせっけんの
いい香りがした。
女の勘ですぐにわかった。
だけど、あたしは何も問いたださなかった。
失うのが怖かった。
目をあわせようとしない修史に
気づかないフリをして
つとめて明るく振舞い話しかけ続けた。
「ねぇ、今日は秋刀魚の塩焼きなの。
シーズンだからすっごくおいしそうよ。」
「くってきた。おなかいっぱい。」
女に食べさせてもらったのね。と内心思う。
「そう、じゃぁ、明日のお昼にでも食べてね。
そうそう、あたし今日仕事でね、浅草橋の支店まで行かされたんだけど、そこの近所にすごくおいしい中華料理の店があるんだって、今度一緒に行こうね」
自分でもバカみたいにまくし立てる。
不安で何かしゃべっていないと落ち着かないのだ。
だけど、修史の返事は無い。
その日から女の影が消える事は無かった。
3日に一度は帰ってこないようになった。
それでもあたしは何も言わなかった。
正確にはいえなかった。
修史を失ってしまうのが怖かった。
疑問を肯定されてしまうのが怖かった。
だけど、ある日それは決定的になった。
仕事へ向かう途中、一人の女が待ち伏せしていた。
彼女は色白で大きな目が愛らしいキレイな人だった。
同い年くらいだろうか、それなりにいいものだと解る
スーツを着ていた。
あたしよりも稼いでいるんだろう。
「修史の彼女さんですよね?」
どきりとした。
人の男を呼び捨てにする事にもかちんときたが
なによりも呼びなれた響きがあって
胃が逆流するような不快感を覚えた。
何も答えずにいると表情で察したのか
彼女はかってに話し始めた。
「修史と別れてください。
あたし、修史と付き合っています。
修史は優しいから、言い出せないんです。
今まで良くしてくれた貴方に申し訳ないって
思ってるんです。」
血が頭に上っていくのが解る。
視界が歪み動悸が激しくなる。
「な、なんであなたにそんな事を言われなきゃ・・」
言葉をさえぎって女が続ける
「貴方と居たら修史はどんどんダメになる。甘やかされて、自分で生活する力をつけようとしないわ。だけど、そんなの修史だって望んでない。貴方はそうやって見えない檻の中に修史を閉じ込めて安心したいだけなんだわ」
図星だった。
見えない檻どころか、本当に檻に閉じ込めてしまいたいとさえ思っていた。修史に生活力なんてついたら困る。
あたしは存在意義を失ってしまう。
あたしは無言で足早にその場を立ち去った。
「あなたが今無視しても、遅かれ早かれ、その生活は今に壊れるのよ。自分からの方がダメージは少ないわ。修史と別れなさい。」
女は無視して走り出したあたしの背中に向かって叫んだ。
あたしはもう一度決意を改めた。
絶対に別れないと。
あんな女に絶対に修史は渡さない。絶対に。
だけど、修史のあたしを抱きしめる腕は
もう以前のものではなくなっていた。
遠くを見つめ考え事をしている事が多くなり
会話は減り3日に一度しか帰ってこなくなり
次第にそれは1週間と伸びていった。
あたしは修史がいつ帰ってきてもいいように
食事を作り続け、部屋を掃除して
新作のゲームを修史のために買い
修史の事を思い続けた。
とうとう、1ヶ月帰ってこなかった。
きっと、もう帰ってこない。
どんな風に引き止めたらいいのかさえ
解らなかった。
解っているのは責めたら逃げられるって事だけ。
何も言わず耐える事しか出来なかったあたしに
いったい何が出来たんだろう。
あたしは会社に行くのをやめた。
もう、なんのためにお金を稼ぐのかさえ解らなかったから。それに修史が少ない修史の荷物を取りにいつ帰ってくるか解らなかったから。
それでも、修史は帰ってこなかった。
会社に行くのをやめてから2週間経った頃、会社から荷物を引き取りに来るように連絡が入り出かけた。
帰りに偶然工事現場で働く修史の姿を見かけた。
あたしはあの女に負けたのだ。
甘やかして部屋に閉じこめる為に修史をダメにしたあたし。
女を守ろうとする本来の修史の姿に戻したあの女。
欲しかったのは存在意義。
修史もまた、誰かの為に戦う存在意義がほしかったのかもしれない。
あたしは思う。
人の幸せは傍から見れば解らない。
あたしの幸せも人から見れば解らなかったように
修史が幸せかどうかもあたしにはわからなかった。
だけど、一見ヒモに見えたどうしようもないその男は
あたしを幸せにする奇跡のような例外として存在していたのだ。
●《自己批評》
『ヒモはどうしても女を殴るものらしいです。
やっぱり存在意義の為にみんなあがくものだから
そういうものを書いてみたかったんです。
ヒモは一応いたことないし
自分の男に殴られた経験は無いけど
なんかそういうの書いてみたかった。
ほんとは殴られ描写も書きたかったんだけど
なんかかけなかった。残念。』
《Bitch Line Monica》
゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜
◎奇跡のような例外として存在していたのだ
『欺いた仮面』
著者:かしのきタール
Count-one 埋もれた声
『その時少女は、誰の目にも輝いているようにみえた。
奇跡のような例外として、その存在を許されたのだ。』
奥歯に苦味が走った気がして、妙子は目を伏せながら、
半ば手探りでそのページに栞をはさみ、ダイニングテーブルの上に
文庫本を置いた。頭の側面に感じるひりつくような痛みは、
手のひらでおさえてなお増すようだ。
「……奇跡のような、例外。。。。」
両手で頭全部を抱え込むようにしてテーブルに突っ伏しながら、
妙子は、そうつぶやく自分が、どれほど奇跡にすがりつきたいと
願っているかを、思い知った気がした。
物語の中で、病気の少女に起こる奇跡は、死の間際にやっとかなう願いだった。
そう、それは最後の手段に違いない。
しばらく目を閉じて、あらゆる苦痛をなじませてから、
ゆっくりと立ち上がる。
洗面台の灯りを点け、鏡の前に立つと、輪郭のはっきりしない陰気な顔が、
じろりを自分を見つめ返していた。
化粧ポーチから取り出したパウダーで顔の脂をおさえ、
別の意志を持っているかのように強い色を放つ
ローズピンクの口紅を薄い唇に塗りつける。
顔をあげてむりやり笑うと、
印象の薄い顔から日紅だけが浮き出てみえた。
「いやな顔。」
自分を嘲り、心のバリアにすりかえる。
深呼吸をしてから、洗面台の灯りを消した。
園バスの到着時刻が迫っていた。
母親たちのざわめきが耳に届かなくなったのは
いつ頃からだっただろう。
そんなことを考える気力すらとうになくした自分に
妙子は気づいていた。
公園のあちらこちらでさんざめくハイトーンの音声は、
妙子の耳に届く前に、素早く泥の塊となって砂場の底に落ち、
吐き出す吐息は、砂にぽつぽつと不気味な穴を開けていく。
ーーーせめて。
妙子はそれでも思うことがある。
音が空洞にならぬよう、努力をすべきだったのかもしれないと。
泥の塊をかきわけても、声は二度とあらわれてはこない。
妙子にとって、母親たちの音声を言葉として理解するには、
放たれるその瞬間に着地点を予想して待ち構える必要があった。
だから、考える。
せめて予想するすべさえ失っていなかったなら、と。。。。
★
「タカト、タカちゃん、ほら、ユウくんも、
そっち行っちゃダメ、道路に出ちゃうでしょ。」
真樹子は他の母親たちに体の正面を向けたまま、
両手をメガホンにして、タカトの背中に呼びかけた。
園バスから飛び降りてそのまま一目散に駆け出すのはいつものことだ。
タカトだけじゃなく、その公園を乗降場所にした園バスから降りてくる
園児のほとんどが、檻から放たれた小動物のように走り出す。
かろうじてまわれ右したタカトと、
同じく方向転換をしたユウの姿を確認して、
視線を元に戻すと、母親たちの輪の中にはいってきた
ミカが、ママに園バッグを預けながらだるそうに
体をもたれかけさせ話しかけていた。
「あのね今日ね、ようちえんでね。」
と言っているようだけれど、
園バスが到着するまでの大人たちの雑談に慣れきった耳には、
幼児の発声は唐突すぎてなかなか聞き取れない。
「……カメ? カメつくったの?」と訊き返した母親に、
ミカは「ちがうぅぅ〜っ!」とヒステリーをおこしてしまった。
「ゴメン、ゴメン、ああ、仮面ね、そうか、ハロウィンだもんね」
謝る母親の太ももを、両手の「グー」で力いっぱい叩き始めたミカに、
真樹子をはじめ、他の母親たちも揃ってひざを曲げ、
「ママ、いたいよ、かわいそうだよー」と、
親しきママ友達の、かわいい子供をなだめにかかった。
園での長い一日を無事務めてきたという子供なりの達成感と、
母親の元へ戻ってきた安堵感との狭間でもがき、
母親の関心を自分へ向けようとする子供たちの相手をするのに
苦心しながらなお母たちのおしゃべりは終わらない。
芸能情報に詳しいナオくんママの話に盛り上がり過ぎて、
今日はまだ、お茶会の計画が立っていないのだった。
「いいわ、ウチにきて。」
決して無理しているようにだけは聞こえないよう気をつけて
真樹子が言うと、
「でもほら、倉田さんとこはこの前お邪魔したばかりだし。」
ウチでもいいのよ、とユウくんママは言ってくれるが、
それなら、とお願いする訳にもいかない。
誰もが、ウチでもいいんだけど、というセリフを
すぐに口に出せる用意を整えておいて、
誰かが先に口にするのを待っている。
「いいの。ダンナ、今日も遅いし。全然平気よ。」
ーーー急いで掃除機だけはかけなくちゃ。
ジュースの買い置きあったかしら。
忙しく思いをめぐらせながら、
それだけではない気分の重さを感じて、真樹子は憂鬱になった。
高峰妙子のローズピンクの口元が、脳裏をよぎった。
★
真樹子たちママ友達は、同じ園バス乗り場を利用する
というだけでなく、同じ公団住宅に住むという共通点を持っていた。
ほぼ同じ間取りの2LDKに、似たような構成の家族が
多く入居していたその団地は、比較的家賃が安いこともあって、
母親たちは出産後慌てて働きに出ることもなく、
同じ頃に出産した母同士での付き合いを深めていった。
午前中、団地前の公園で子供を遊ばせながら立ち話をしたあと、
近くのスーパーで買い物をし、家に帰って
子供との昼食を済ませたら、午後からは、
誰かの家に集まるのが、ほぼ毎日の日課だった。
乳幼児を抱えた不自由さをまぎらわせ、
家に籠らざるを得ない孤独感を解決するために、それは、
必要不可欠なことに思えた。
子供が幼稚園にあがっても、それは自然に続いていた。
その頃になると、子供も二人に増えていたため、
上の子を幼稚園に送り出したあと、まだ歩くのも怪しい下の子を
公園で遊ばせながらおしゃべりし、お茶会の設定をしていったん別れ、
午後、幼稚園から戻ってきた子供を連れて誰かの家に上がりこむ。
ーーーこの間、ウチでお茶した時は
と、真樹子は急いで掃除機を取り出しながら思う。
園で芋堀りがあった後だったから、
みんなそれぞれに、さつまいもを使った手作りのお菓子を
持参してくれたんだった。
ユウくんママのポテトケーキは美味しかったわ。
バターの分量が難しいのよね。今日は正確なレシピを教えてもらおう。
真樹子はその日、簡単なスイートポテトを作った。
みんなおいしいと言ってくれたけれど、
もう少ししっとり感が欲しかったと、残念に思っていた。
ざっと掃除機をかけて、脱ぎ散らかした洋服だけは片づけて。
どうせ部屋の間取りも同じ。
付き合いの長いママや、生まれた時から知っている子供たちに
気兼ねや遠慮はいらない。
「ウチにきて」と口火を切らざるをえなかった時によぎった
億劫な気分はもうすっかりなくなって、真樹子は
おしゃべりの続きがしたくてたまらなくなっていた。
ナオくんの芸能情報には続きがあるはずだったし、
お菓子作りの上手なユウくんママには今日こそレシピを聞きたいし、
下の子の誕生日が近いミカちゃんのママには
保健所の検診予定を確認したい。。。。
タカトのお迎えの時間を含めてぐっすりと昼寝していたアキトが、
掃除機の音で起きてきた。午前中の公園遊びで疲れて、
ちょうど園バスのお迎えの時刻に眠ってくれるアキトには助かる、
と真樹子は思う。
ーーータカトはちっとも寝てくれない子だったから、しんどかったわ。
ママ友達に、いまだに真樹子はついこぼしてしまう。
それに比べて、2歳になったばかりのアキトは
赤ちゃんの頃から、本当に手のかからない子供だった。
声が枯れるまで泣き続ける癇癪持ちのタカトとは、
一緒に泣きたい気分で過ごした真樹子も、
教科書通りにミルクを飲んでは眠ってくれるアキトの育児には
まったくといっていいほど、苦労せずにすんだ。
ミカの弟のケンタは、アキトの一か月後に生まれた。
真樹子とは反対に、ミカには全然苦労しなかった、というママは、
駆け回っては危険なことにばかり手を出し、
昼寝したと思ってもすぐに起きてしまうケンタの激しさに
ほとほと参っているようで、
公園や団地や、ヘタをするとスーパーの中でも、
「ケンタ!!」と大声を張り上げるミカちゃんママの声が聞こえる。
タカトの一番の仲良しのユウの妹、アヤは、
アキトよりも半年遅い早生まれで、学年が違うことになる。
目がぱっちりと大きくまつげの長い、人形のような顔を見るたび
ママ達は口ぐちに「可愛いわねぇ」と眼尻を下げる。
この間は、ユウくんママから、
「最近、パパったらこの子にキスするから嫌われてんのよ。」という
暴露があって、体育会系のユウくんパパを皆一斉に思い浮かべ、
へぇあのパパさんが、という目くばせが飛び交ったものだ。
ナオには、トモという弟がいる。
二人とも男の子にしては静かだと真樹子はいつも感心する。
理知的よね、などと言うたび、ナオくんママは
「親がバカなのに理知的なワケないでしょー」と大きな声で跳ね返し、
ママたちはみな、お茶をこぼしそうになりながら笑う。
そんな時、空気の揺れのせいなのか、のけぞって笑う親の体が触れるのか、
たいてい、子供のうちの誰かが、盛大にジュースをこぼす。
そんな時も親たちは、勝手知ったる他人の家とばかりに
キッチンや洗面所を遠慮なく使って、
わいわいと掃除をし、落とした子供のプラカップをすすいで、
ジュースを注ぎ直す。
そこには、連帯感と信頼があった。
幼い子供を抱えて常に心の奥に抱え込まざるをえない、
親としての責任という漠然とした不安が、
同じ立場の者同士で共有し、おしゃべりし笑い合うことで、
絶ち消えてゆく。
いつまでも、そうであってほしいと真樹子は願う。
特に、実家が遠方にあって親の助けを借りられない真樹子は、
このママ友達だけが頼りだという気がする。
「そろそろみんな来る頃ね。」
寝起きのアキトがタカトと一緒に
ミニカーで遊び始めたのを眺める真樹子から、
ショウタくんママである高峰妙子の存在はもはや、
消え失せていた。
Count-two 凍りつく顔
公園の中央にそびえ立つ滑り台に向かって
駆けて行くショウタを呼びとめるわけにもいかず、
妙子は小さくため息をついた。
思った通り、数メートル離れた先からショウタを見つけ、
本能的に妙子を探して首を回した倉田真樹子と目が合った。
他の母親たちの輪から動かず会釈をする真樹子の表情には、
本人が意識する前に、妙子に対する困惑がにじみ出てしまっている。
真樹子の気持ちを面白がるように、
最初からその存在を知っていた妙子が
大げさな笑顔で会釈を返すと、それを見届ないうちに、
妙子には見せない顔の真樹子が輪の中へ戻った。
真樹子たちの待つ園バスよりも数分早く、
公園の向こうの大通りに着くショウタが
大好きな滑り台を独占できるのは今のうちだ。
もうすぐ、タカトたちの乗った園バスが着く。
ショウタが、あれほど仲良しだったタカトのことを
口にしないのは、いくら幼稚園が別々とはいえ
不思議な気もするが、ありがたいと妙子は思う。
★
「珍しいわね、高峰さんでしょ。」
ユウくんママが、真樹子の後ろを覗き込むようにした。
「そうね、あまり見かけないわよね。」
答えながら、真樹子はニタリと笑う濃いピンク色の
口の形が頭に巣食った気がして、軽い寒気を覚えた。
高峰妙子は、真樹子たちの前に姿は見せなくても、
いつもどこかで真樹子たち。・・・いや、真樹子だけを
見ている。そんな気がしてならなかった。
たまにはお茶に誘ってみようかしら。ーーー以前のように。
そう思う時は何度もあったが、いつもどこか人目を避け、
ママ同士のにぎやかなつきあいを避けている様子の妙子には、
つい声をかけそびれてしまう。
きっと妙子の方も、大勢集まるお茶会には
来たがらないだろうと思うと、
誰も集まらない時に声をかける機会もないままに時は過ぎ、
時おりこうして顔を合わせるたび、気まずい空気を感じるように
なってしまった。
以前は親しくしていた妙子とそんな間柄になったことは
残念ではあるけれど、妙子と一緒にいたのでは、
今度は他のママ達との交流がしにくくなってしまう。
今さら無理に拘わろうとしない方が、お互いのためかもしれない。
真樹子はそう考えることにしていた。
ーーーショウタくんとタカトを遊ばせてやれないのは
かわいそうなんだけど。
まだ乳児の頃のショウタとタカトを並んで寝かせ、
顔を見合わせ笑い合ったはずの妙子の笑顔を、
その時、真樹子はとうとう思い出せなかった。
★
タカトたちの園バスが着く前に、妙子の呼びかけに応えて
ショウタは大人しく団地に帰ってきてくれた。
真樹子たちはまたいつものように、公園から戻ってきたあと
さらにしばらく、階段の下で話し込むに違いない。
真樹子が住むのは、妙子と同じ棟の3階だから、
1階の妙子は、真樹子が使う階段の脇を通らなければ帰れない。
にぎやかに話し込む彼女たちの傍を通り抜ける時には、
拷問のような気分を味わう。
その前に、なんとしても、家に戻っていたかった。
ショウタの園服を脱がせ、靴下を脱がせる。
用意したシャツとズボンに着替えるように言いつけて、
テーブルにビスケットとジュースを置き、
ショウタの好きなプラレールをざっと並べておいて、
同じ列車の登場するプラレールのビデオをセットする。
こうしておけば、ショウタは大人しくひとりで過ごしていてくれる。
「おやつを食べる前によく手を洗うのよ。」
返事を待たずに、妙子はショウタが身に着けていたものを
ひとつひとつチェックする。
靴下についた泥汚れは、液体洗剤を擦り込んで、
手でもみ洗いをしてから、洗濯機に入れる。
一見汚れてはみえない園服も、
妙子には、際限のない種類の汚れがついていると思われて、
毎日洗濯しないではいられない。
園でかぶるベレー帽にも、毎日必ず、ブラシをかける。
洗濯ついでに、洗面台と風呂場の掃除もする。
湯垢を見つけ、「またあの人は。」とため息をつきながら、
すぐにスポンジで取り除く。
ーーー石鹸を使ったらちゃんと泡を流してって言ってるのに。
夫の照直は、酒もタバコも飲まず、毎日、判で押したように
同じ時間に出勤し、同じ時刻に帰ってくる、実直なだけが
取り柄のような男だった。
口を出さない。文句を言わない。
・・・そして何も答えない。
それはつまり、家庭にも妻にも関心がないということだ。
商家で育ち、親の干渉が強かったことと、
容姿へのコンプレックスから、恋愛には消極的なまま、
20代のほとんどを終えようとしていた妙子の前に現れた照直を、
自分の親の覚えがいいだろうと踏んで付き合い始め、
20代のうちにと結婚を急いだ。
照直には、最初から何の期待もしていなかったと、
妙子は時々、自分に確認する。
ーーー私には、ショウタがいる。
夫に似て、鉄道が好きで大人しいショウタは、
ききわけが、とてもいい。
「ママごめんなさい。ビスケットこぼしちゃった。」
テーブルにひとかけらのビスケットが落ちて、
小さな破片が砂のように広がっていた。
「いいわよ。あっちいってなさい。」
妙子は即座に微細なかけらすら残さぬようにテーブルの上を片付け、
午前中に使って片づけた掃除機を再び取り出して、
念のためにと、テーブルの下の掃除を始めた。
ーーーそろそろ洗濯が終わるだろう。
あとはアイロンがけをして、
それからショウタのおやつの分の洗い物をして。。。。
お互いの家に呼び合っていた頃の真樹子のことを
時々妙子は思い出す。
ショウタが生まれた年に、タカトを連れて越してきた真樹子とは、
ごく自然に声を掛け合い、付き合いが始まった。
くったくのない笑顔で笑うことができる彼女に、
自分もそうでありたいと思い、そう見えるようにと、
一生懸命、笑顔でこたえたつもりだった。
一歳にならない頃のショウタとタカトを見比べながら、
体重の増え方を報告し合い、離乳食の相談をした。
思い出の中の真樹子の笑顔が、さっき見た困惑顔にすりかわる。
ーーー真樹子とタカトが帰ったあとの掃除は楽だった。
取り戻せない過去にクサビを打つため、妙子は記憶もすりかえた。
賑やかな声が扉の外から響いてきた。
公園から戻ってきた真樹子たちに違いない。
心のクサビが震える音を、掃除機の音で打ち消した。
Count-three 汚れた手
「ママ、外で遊んでいい?」
言うが早いか、もう扉を開ける音がする。
小さな弟や妹の世話をしながら、おしゃべりに忙しい母親たちに
幼稚園児はどうせかまってもらえない。
おもちゃで遊ぶのに飽きると、タカトたちは
すぐに外へ出て行ってしまう。
秋の日暮は早く、ついさっきまでの昼の明るさは
すでに夕暮れのそれに気押されたようにみえる。
団地の敷地内には、多少の植え込みと、自転車置き場、
駐車場、倉庫などがあって、タカトたち幼い子供にとっては、
通り一本隔てた公園よりも、よほど刺激的な遊び場に
なっていたけれど、子供だけで遊ばせるには危険だといえたし、
子供のせいで自動車に傷がついたつかないで、
遊ばせるな、というクレームも出たこともあり、
子供が出れば、親もついて出なければならない。
「公園で遊んでくれればいいのにねぇ。」
あっという間に出ていってしまったタカトたちには
気をつけて遊ぶようにと声をかけるヒマもない。
ミカちゃんママとナオくんママが、
それぞれひざに乗せていたケンタとトモ、それに、
真樹子の横で大人しくミニカーで遊んでいたアキトと
奥の部屋でひとりでお絵かきをしていたアヤにも
声をかけ、
「じゃ、子供たち見てくるわね。」と言って、あとを追う。
幼稚園の兄と姉を見張りながら、弟妹軍にも外遊びをさせるのだ。
ママ二人と子供たち全員が出て行ったあと、
さっきまでと同じ空間だとは思えないほど静かになった部屋で、
真樹子は後片付けのために残ってくれたユウくんママと一緒に、
食器を洗い始めた。大家族のような量の洗い物が
シンクにたっぷりと運ばれる。
「ショウタくん、外にいるかしらね。」
ユウくんママに言われて、真樹子はグラスをすすぐ手が
ビクンと跳ね上がるのを感じた。
「……どうかしら。」
「さっき、高峰さん、いたじゃない?
いつもすぐに大森公園まで行ってるんでしょ。」
大森公園は、団地の前の公園よりも200メートルほど先にある
広い公園で、真樹子たちもたまには行くけれど、
園バスの乗降場所にもなっている団地の前の公園で
毎日遊んでいるのに、わざわざ離れた場所まで行く
必要はないと思っている。
高峰妙子は、ショウタをわざわざ
タカトたちとは別の幼稚園へ入園させ、
わざわざ遠くの公園で遊ばせる。
妙子が砂場セットのバケツを持ったショウタの手を引いて
団地から出ていく後ろ姿を、
ユウくんママと一緒に見かけたあの日の不可解な気持ちが
蘇った。
ーーー誰にも声をかけずにひとりで公園に行くなんて。
うすうす感じていた妙子との距離が
急に離れたのは、あの時ではなかっただろうか。
「ショウタくんって、誰と遊んでいるのかしらね。」
ーーーわからないわ。と答えるのは薄情な気がする。
ユウくんママは、真樹子と妙子の関係をどう思っているのだろうか。
他のみんなは。。。?
真樹子よりもあとから入居してきた3人とは、
子供が同い年ということで、すぐに打ち解けた。
もちろん妙子も交えて付き合えると思っていた。
妙子との年齢差はひとつだけ。真樹子の方が上だった。
あとの3人は、もっとずっと若かったから、
むしろ真樹子は3人との付き合いに関しても、
妙子を頼りにしていたくらいだった。
付き合い始めの頃はよかったと真樹子はため息をつきたくなる。
それぞれの子供ひとりずつを連れた5人の立ち話は
尽きることがなく、団地に笑いがこだました。
その頃から、もっぱら集まるのは真樹子の部屋が多く、
5人のママに子供も5人、お菓子を食べながら
育児情報の交換もしたものだ。
ーーーだけど。
思い出そうとするだけで、真樹子は暗い気持ちになるのを
止めることができない。
妙子は、当初から、5人が集まるとふいに黙り込むことが多かった。
真樹子と二人だった時にはあれほど笑い合ったのに、
5人になると妙子はいつもどこか上の空で、いつだったか
ナオくんママが、関西の味と関東の味の違いを熱弁して、
笑い声に包まれていた時に、ふいにユウくんママが、
「ショウタくんママはどちら?」と出身地を尋ねた時も、
妙子は何も答えずただ笑っていた。
ーーーそう。
最初から誰の話も聞いていなかったとでも言うように。
妙子の部屋に集まったこともあった。
その時の妙子の眼つきを真樹子は忘れたことがない。
妙子は、ママたちの一挙手一投足を監視していた。
その眼は、クッキーの食べかすを払うナオくんママの手を追い、
溶けかかった飴のついた子供の手に
ジュースのはいったプラカップを握らせるユウくんママの
手元を凝視していた。
ではそろそろ、という時だった。
片付けのお手伝いをするわ、と申し出たミカちゃんママに、
妙子はきっぱりと言い放った。
「いいから。そのままにしておいてくれる。」
瞬間、空気がこわばるほどの断固とした口調だった。
あの日妙子は、皆が帰ってから、
一心不乱に掃除をしたのに違いない。
「さあ、外、見にいこうか。」
ユウくんママの声で我に返ると、いつの間にか
洗い物はすっかりキレイに、おもちゃもすべて片付いていた。
ーーー高峰さんには、こういう世界は向かないのね。
けれど真樹子は、妙子の干渉嫌いが、それだけでは済まない
不吉な何かをはらんでいるように思えてならなかった。
妙子の態度は、若いママたちを簡単に失望させた。
会話の場に妙子がいても、彼女に話を向けることもなくなったし、
妙子も相変わらず上の空だった。
決定的だったのはやはり、
ママ友達の誰にも声をかけずにひとりショウタの手を引き
公園に行った妙子の姿を見た、あの日だっただろう。
あの頃、真樹子のお腹には、アキトの命が宿っていた。
そしておそらくそれは、他の3人にも同様に。。。
Last-count 欺いた仮面
「奇跡」という言葉を意識した自分を
妙子は呪いたい気持ちだった。
いつものように大森公園に行けばよかったのだ。
いつも大勢の子供がたむろしている大森公園の滑り台では、
われ先にと上っていく子供の後ろについてばかりで
ちっとも滑れないでいる引っ込み思案の我が子を
妙子は見続けてきた。
団地の前の公園ならば、タカトたちが来るまでは、
砂場で遊ぶ小さな子供しかいない。
「今日は団地の公園で遊ぼうか。」
園バスから降りてきたショウタに言うと、ぱっと顔色を輝かせ、
早く早くと妙子の手を引いた。
真樹子たちとはなるべく顔を合わせたくなかった。
けれど、ショウタはもっと同じ団地の子供と遊びたいはずだった。
「団地の公園の滑り台」で遊びたいはずだった。
そんなショウタを思えば、真樹子たちと、いや、
真樹子とだけ、以前のように付き合いたかった。
真樹子となら、いつかふいに会話ができるのではないか、
そんな期待を抱かずにはいられなかったのだ。
ーーー奇跡は起きない。
真樹子の固い顔つきに、しかし妙子は絶望するしかなかった。
真樹子との関係がすべてだった。他の3人では無理だった。
自分の経験したことのないきらめいた独身時代を経て間もない
「若いママたち」のおしゃべりのトーンは、妙子の耳にはなじまなかった。
自分を豊かにしたり、生活を愉しんだりする余裕など、
夫との会話ひとつに苦心する妙子には、到底考えられないことだった。
結婚してすぐに、夫に求めることをやめた妙子は
商家である実家で母親がいつもそうしていたように、
家を片付け清潔にすることだけを生き甲斐にしてきたのだ。
妙子の住む一階の部屋の窓から、ショウタの姿が見える。
今日は大森公園ではなく、団地前の公園で数回滑り台を
しただけだからと、外で遊ぶことを許したのだ。
もしかすると、ショウタになら、
真樹子たちの誰かが声をかけてくれるかもしれない。
奇跡を呪いながら、それでもなお、
「奇跡のような例外」に期待をかけずにはいられない自分を
妙子は認めた。
★
「タカトー、アキトー、ユウくんもミカちゃんも、
みんなおいでー。」
ハロウィンのかぼちゃの顔をした、大きな棒付きキャンディを手に
真樹子が呼びかけると、それを見つけた子どもたちが
一斉に駆け寄ってきた。
「さっすが、用意いいわね、タカくんママ。」
誰よりも先に駆け寄ってきたナオくんママに
ざっと半分の数のキャンディを手渡し、
「これでご機嫌とって早めに引き上げなきゃ。日も短くなったしね。」
と、西の空を見あげると、はやすっかり夕暮れに近づいた
ぼんやりとしたあかね色がにじんでいる。
ユウくんと、アヤちゃん。
ミカちゃんと、ケンタくん。
ナオくんと、トモくん。
そして、タカトに、アキト。
ナオくんママと二人で、いつものメンバーの他、
同じ場所で遊んでいた別の学年の子にも配る。
外では誰に出会うかわからない。
多めに用意したキャンディ。
ぬかりはないつもりだった。
「ショウタくんは、いないわね。」
きっと今日もどこかへ行っているんだろう。
★
妙子は眼を見張っていた。
真樹子たちが子供に何か配っているようだ。
学年の違う子にも渡している。
ショウタは。。。ショウタには。。。。
手頃な石を見つけたショウタは、その時ちょうど、
地面に絵を書きながら、倉庫の影になって
真樹子からは見えない位置まで移動していた。
騒ぎに気づいても、ショウタはそこから動けない。
自分からは駆け寄れない子供なのだ。
真樹子から何かを受け取った子供がこちらへひとり
やってきた。よく見るとそれはアキトだった。
ショウタの気配に吸い寄せられるように、
突然ふらふらとやってきた小さなアキトの手で
不気味なカボチャが大きな口をあけ、妙子を見て笑った。
★
力をこめてペダルをこぐ妙子の背中は汗ばんでいた。
10月も終わりとはいえ、穏やかな陽気に気温は決して低くない。
ましてや妙子がこぐ自転車の荷台では、
ナイロン製の大きな旅行バッグが重い体積を持って、
ハンドルを左右に振らせる。
数年前に妙子がバーゲンで買ったグレーの安物のバッグは、
結局一度も使われたことがない。
ーーーあの人はきっと、これがなくなっても気づかないわね。。。
頭に浮かぶ照直の顔はいつも斜め下にかしいでいて、
どんな表情をしているのか、想像ですらわからない。
ーーー今夜の晩ごはんは昨日の肉じゃががあるから
買い物は少しで大丈夫だわ。。。
ーーーショウタのお迎えには間に合うように
家に戻っていなければ。。。
今日は延長保育だから、いつもよりずっと遅い時間の
お迎えでいい。
実家までは、あと20分ほどかかるだろうか。
★
「Trick or treat.」に、「Happy Halloween」
それらしき呪文を、紙皿で作ったカボチャの仮面をつけたタカトたちが
大声でがなっている。子供にとっては、ハロウインも
園でのお楽しみ会のひとついう意味しかないだろうけれど、
それでも仮装のまねごとをしたり、お菓子をももらえたりするのは
この間の音楽発表会よりもずっと楽しいということは
真樹子にもよくわかる。
魔法使いのつもりなのだろう、厚紙を丸めて作った
細長い三角帽をかぶってるのはミカだ。
タカトたち男の子は、黒いマントを着けて気取っている。
園での興奮さめやらぬまま、バスを降りてからも、
いつもの遊び仲間だけで再びお祭りを開始するつもりなのか、
あらためて盛大にかけ声をかけはじめた。
「とりっとりりっ」「とりっこわっとっとっ」
「トリックオアトリート」とはとても聞こえないが、
覚えた呪文を叫ぶのに夢中になっているタカトに
真樹子はふと頬を緩ませ、そして思わず・・・眼を伏せた。
「どうかした?」いつものようにまっ先に気がついた
ユウくんママが、真樹子の顔を覗き込む。
「なんでもないの。ごめんね。」
答えながら真樹子は昨日の夕方のことを思い出していた。
ーーーショウタくんがいたなんて。
キャンディをすべて配り終えた時だった。
ふいに真樹子の視界に妙子がはいった。
妙子はちょうど、自分の部屋から出てきたところだった。
その向かう先には。。。ショウタがいた。
ーーー見られていた。
真樹子たちが子供にキャンディを配ったところも、
ショウタに気づかず渡さなかったところも。。。
・・・・いや、わざとショウタにだけ渡さなかったと
妙子は思ったのではないか。
ショウタを連れて部屋に戻る妙子からは、
真樹子を責める声なき叫びが聞こえた気がした。
まだ心配そうにしているユウくんママに向かって笑顔を作りながら、
真樹子は嫌な予感に吐き気を覚えた。
★
妙子が手まねきをすると、アキトはすぐにやってきた。
ハロウインにわき立つタカトたちのせいで、アキトも
興奮しているらしかった。
タカトにねだってもカボチャの仮面は貸してもらえず、
かわりに黒いマントをつけられて、それでもアキトはご機嫌だった。
真樹子に似て細面のタカトとは違い、
アキトの顔は女の子のようにふっくらと丸く色白で、
二重まぶたが黒目がちな瞳をさらに大きく見せていた。
そんなアキトに妙子は何の感情も抱くことができない。
ーーーこの子さえ産まれなければ、
真樹子と自分はずっと一緒にいられたのに。
アキトを見かけるたび苦々しい思いにかられていた妙子は
いつしかアキトの存在を認められなくなっていた。
この子が消えれば真樹子とあの3人をつなぐ糸はきれるだろう。
また以前のように、二人だけで付き合うことも
できるかもしれない。
あの日、ショウタだけがもらえなかったキャンディは
黄色い悪魔の顔をして、アキトの手から、妙子を嘲り笑っていた。
その瞬間、妙子は奇跡を起こす方法を知ったのだ。
「奇跡のような例外」を。
お菓子がもらえると信じているアキトがさしだした小さな手を
つかむ妙子の耳に、「こっちへおいで」と誘う声がした。
それは自分とはまるで違った、低く凍えるような声だった。
★
機械的にペダルをこぎ続けながら、妙子は再び
片頭痛を起こし始めた頭でとりとめもなく考え続けていた。
ぼんやりとした視界で、けれど空が青いことはわかった。
黒いマントに少し力をこめただけで動かなくなったアキトのことを、
妙子は初めて認めていた。「ききわけのいい子」だと。
ーーー照直は今日もいつもの時間に帰るだろう。
たまには顔を見ておかえりなさいと微笑んでみよう。
ーーーショウタは今頃園でお菓子を食べているかしら。
ハロウインのキャンディはもらえたかしら。
味わったことのない、不思議に穏やかな気持ちが
妙子を包み込んでいた。
あとは片付ればいいだけだ。実家の敷地は広い。
シャベルは庭の裏手の倉庫の扉にかけてある。
妙子の周囲が懐かしい景色に変わった。
実家まではもうすぐだ。
最後の交差点を曲がる時、荷台のバッグが大きくかしいだ。
●《自己批評》
『……こんなんでました。でちゃいました、というか。本音で。
「結」のお題が暗いのでどうしてもハッピーエンドにはならんし
もーどーしよー、と思って考えてたら、この話になっちゃったと。
「ヤダよヤダヤダ子殺しなんて」とあがくももはや仕方なく。
ラストに至る動機を描くのにどれだけかかるか、いやもうなるべく簡潔に、
と思ったのですが、そこはどうしても省略できず、
無事(?)殺害に至りましたと。(問題発言?)
何字、とか全然わからないのですが、なげぇよ〜〜〜、と思います。
すみません。タールにはとてもまとめて読む気力ありません。(おい。)
実際の幼児殺害事件が下敷き。でもまったくの想像です。
この事件は当時から自分の中でどう処理していいのかわからず
ずっと悶々としてました。こうしてみると、自分にとっての
「書く」という行為は、自己解決なのかな、と思います。
ただ、そうなると、17年ほど前の連続幼児誘拐殺人事件など、
いまだ当時の新聞の切り抜きなんかを持ってるワタシはいつか
猟奇的幼児殺害を書こうとでもするのかと。。。
(ぜったいヤだ。)
ごく短いものも含めた今までの書きものの中で初めて、
一人称でない書き方をしました。難しかった。
あと、あらためて、セリフが書けないということを痛感しました。
みなさんのような、性格がわかる生き生きとしたセリフまわし、
できるといいなと思います。』
●その他(私信等)
『自分の家族を丸二日ほど放置して仕上げた内容が
コレってのは、母親としてどうかと思いました。
母親としての自分は元々放棄しているに等しいのに
こういうときだけ母親ヅラする自分もどうかと。
・・・すいません普段使ってない脳細胞が
なにかに憑かれているようです。』
《酒呑み家 かしのきタール》
゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜
◎まるで違った低く凍えるような声だった
著者:真紅
゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜
◎その顔じゃあ疑う余地なしよ
著者:Jun
゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜
◎胸の芯が繰り返し痛いと悲鳴を上げる
『猫酒場』
著者:宇津木
胸の芯が繰り返し痛いと悲鳴を上げている。呼吸すらもう満足には出来ない。
ああ、しくじった!
などという台詞さえ吐けないほどに、男は疲弊していた。足取りはおぼつかず、地面をするようにしてどうにか一歩、一歩、足を前に運んでいるが、顎は前に出て、口は半開き、舌がその半開きの口からのぞいている。
ある国ではものすごく疲れたときの形容詞を「犬のように」と表現するようだが、言い得て妙だ。そんなことを、男はつい二時間ほど前に考えて納得したのだが、今となってはその余裕すらない。
男は、しくじったのだ。
うまく騙せると思った。空港に入るまでは完璧だった。いつものように整備員に成りすまして自分のセスナに近づいたまでは成功。
だが、離陸してすぐに追っ手がかかった。インターポールかと思いきや、空軍だったのが男の想定外。
そして操縦技術で負けたのは想定内。
だが、不時着が国境を越えていたのが不幸中の幸い。
でもそこが砂漠だったのはやはり泣きっ面に蜂。
砂丘が果てしなく続くだけが砂漠じゃない。岩石砂漠や、礫砂漠なんていうのも立派な砂漠で、今男が歩いているのは”枯れている”のか”生えている”のかもよくわからない褪せた色の背の低い植物が散在する礫砂漠だった。砂ほど足はとられないが、水分は容赦なく蒸発していく、やはり砂漠は死の土地なのかもしれない。
セスナが不時着したのは、中央アジアの小国の国境山脈を越えてすぐのこと。そして眼下に果てしなく広がっていた不毛の土地。
この土地の先には、確か町があるはずだと歩き始めたのだが、水も食料も持たない自殺のような行軍に未来はない。今日疲れて眠っても死にはしないだろうが、これがあと二日続けば確実に命は危なくなる。何しろ食べ物も飲み物も無いのだ。
国際的に有名な詐欺師もこうなれば形無しである。
男は整った顔と、元来の話し上手、小手先の器用さと大胆さ、そして性根の悪さから、選んだ道は詐欺師であった。はじめは結婚詐欺や、葬式詐欺にはじまり、最近は企業間の取引詐欺や銀行の貸付詐欺など、規模も金額も大きくなって国際指名手配は数十件の大物。
とはいえ、空軍に撃墜されるなんてまさか思ってもいなかった。 備えあれば憂い無し。備えよ常に。だが今、備えは無く、力も無く、気力さえもう尽きかけている。哀れ詐欺師はとぼとぼ歩く。
へぶしっ!
ついに男は顔面から倒れこんだ。
と思ったら、こけただけ。何かに足をとられたようだ。見れば足元には小さな小瓶。
水!
と思って開けてみれば残念、それは空の瓶。もし液体が入っていたのなら、それが数日放置されてばい菌の湧いた雨水であろうと、ノニジュースであろうと、青酸カリであろうと飲み干していたこと間違いない。
男はがっくりと肩を落として、ついにはそこにうつぶせに倒れてしまった。もう太陽に焼かれようが、豹に食われようが、どうでもいい。
疲れていた。
持ち前の余裕さえ失った男は人生をついには神に手渡そうとしたそのとき、神の方が天国になんか来て欲しくないと男を拒否をしたのだろうか。突然、うまそうなスープの匂いが辺りに漂った。
もう駄目だ。飯の妄想が抑えられない。嘘でもいい。そのうまそうな匂いの源は。
男が顔を上げればそこには一軒の古びた酒場。
ああ、ついに。哀れ稀代の詐欺師は発狂。かと思いきやこの男、意外とまともであった。少なくとも目の前にあるこの光景を理解しようと努力する程度には。
つねる頬。鈍い痛みと痙攣する手首。それほどまでに疲労が溜まっていながらも痛さは感じ、目の前の酒場が少なくとも夢幻では無いと実感する。迷っていてもしょうがない。入ればわかる。食えばわかる。男はよろけながらも立ち上がると、その蝶番で留めてあるだけの木の扉を押した。
カラン、という音。新参の者に振り向く客の目、目、目。
一瞬の違和感。
そして、男はようやく渇いた口で呟いた。
「猫ぉ……」
客たちは、いや、猫達はその言葉に髭でピクリと反応し、そしてすぐに口を大きくあけて笑った。もはやその笑い声がニャアニャアなのか、ワハハハなのかもわからないほどに、この詐欺師は呆然とする。
黒に茶トラにブチに三毛。縦長の目に長短様々な尻尾。ああ、これは悪い夢だ。
猫、ああ、猫。猫、猫、猫!
全てが猫だ。客も、バーテンも、カウンターでギムレットを飲んでるのも、テーブルで向かい合ってビールを飲んでるカップルも、皆猫だ。二足で立ち、椅子に座り、酒を飲む、160から200センチもある、大きな猫だ。
「こっち来て座りなよ、兄ちゃん。疲れてるみたいじゃないか。道に迷ったか?
なぁに、取って食ったりしないさ」
一匹の猫がそう言って、手招きをした。だが男は動けない。猫達の好奇心に満ちた目が、何かを探っているような目が、男を射抜いて離さない。
だが、この困惑する惨めな男は、もはや喉の渇きにも空腹にも抗えなかった。それら食に対する欲求は、驚くべきことに恐怖や不可思議への違和感さえも超越したのだ。
きっかけは、カウンターの中にいたバーテンと思わしき猫が大きなグラスになみなみと牛乳を注いだこと。
「お疲れのようだ。まあミルクでも飲んで落ち着かれるとよいでしょう」
次の瞬間にはもう男はわき目も振らずにカウンターに突進し、そのジョッキを両手で掴むや否や、口に押し当てて喉へと流し込んだ。口の端からこぼれるのなど気にしている余裕は、もはやない。
いつもは気取った詐欺師だけに、こんな惨めで浅ましい姿など決して見せないはずだったが、命の瀬戸際で男はそんなことさえ考えられずにいた。
ジョッキをおかわりして二杯の牛乳を飲み干し、男はようやく落ち着いた。
「いい飲みっぷりだな、兄ちゃん」
落ち着いてはじめて隣の猫をよく見れば、人一倍、いや猫一倍体の大きい茶トラだ。
「迷ったのかい?」
「ええ、まあ」
今になって戸惑いが戻ってくるが、恐怖はかなり軽減されていた。牛乳で命を救われたのは大きいようだ。
「驚いただろ。俺たちはめったに人間の前に出て行かねぇからな」
「あなた方は猫、ですよね?」
「ああ、猫だ猫! お猫様だよぉ!!」
どうやらすでに出来上がっているらしい。ご機嫌にそう言いながら、分厚い肉球でばしばしたたいてくる。その猫パンチたるや相当の破壊力で、男は痛みに眉をしかめるが、酔っ払い猫はお構いなし。
「兄ちゃん知らないだろぉ。猫ってのは本当は俺たちみたいにでっかいんだぜ。だけどでっかいと、それだけ生きてくのが難しいんだ。恨む訳じゃねえけど、人間ってのは自分よりでかい生き物が近くにいるのが怖いんだろ。昔は一緒に暮らしてた時期もあったがな、たいてい恐怖が虐殺に発展しちまう。だからこうして人目につかないところでこっそり住んでるってわけ」
酔っ払い猫の話に、バーテンも加わってくる。
「普段は人間の目に見えないようにしているんですけどね。こうしてたまには私たちを見つける人間もいるんですよ。まあ、人間社会に戻ってそんな話をしたって、信じてもらえるわけじゃありませんから、幸いにも存在を知られることなく過ごしてこれましたけど。……何か作りましょうか。おなか、空いていらっしゃるでしょう?」
はい、と応えたいところだが、男には残念ながら猫に通用する金など持ち合わせがあろうはずがない。だが猫バーテンはその辺のこともしっかりわかっているようで、首を振った。
「お金なんか要らないですよ。こうして出会えたのは何かの縁ですから。本当に珍しいんですよ、人間と会うのは」
金が無いのにいかに騙して食事をしようかと考えていた男だが、今回は素直にバーテン猫の好意に甘えることにして、だが猫メニューなどわかろうはずも無く、適当にお願いしますと頭を下げる。
その出てきた料理の美味しかったこと!
炊いた米になにやら黄土色の熱いスープをかけ、そこに茶色い木の皮のようなもの ―後で聞いたらそれは鰹だと言われて驚いた― をまぶしただけの簡単な料理。だが、白米にしょっぱいスープが上手く絡み合い、そこにあの乾燥鰹がいい塩味とアクセントを効かせている。この上なく美味しい食事だった。消化にも良いらしく、食べ物を渇望していた胃は瞬く間にこれを吸収し、満足感を男に伝えてくる。
仕事柄上流階級を気取り、社交界や秘密クラブで高級料理を味わってきた男でも、この料理だけは格別だ。まさにどの五つ星レストランにも負けない、グレイトな料理。
男はすっかり満足して、バーテンに礼を言った。
猫達はいつの間にか自分達の話に戻っており、今男を気にしているのは隣の茶トラと、目の前のバーテンだけ。
「それにしても珍しいなぁ、人間に会うなんて。何年ぶりだ?」
「本当に珍しいですねぇ。」
珍しいということは、ゼロではないということだ。なのに大きい猫が山奥に住んでいるという話は聞いたことがない。誰も信じてくれないからだろうか。
男が考えていることを察したように、バーテンは苦笑いで頷いた。
「まあ、私達を見る人は稀にいるわけですが、なぜか小説家の方が多いんですよ。ほら、猫を題材として扱った小説、少なく無いでしょう? ただ猫好きが高じて作品を書くだけならそれほど害は無いのですが、稀にね、私達を見てしまって、それを作品にする人がいるんですよ。これが厄介でね。きっと気にすることは無いのですが、それでも敏感になるのです。猫の文学は、なぜか売れますからねぇ」
男はすっかり和んでしまった。職業柄、人を見る目は鋭いという自負がある。その目で見て、少なくとも人間の感覚で言えば悪い猫達ではないと思ったからだ。
「へぇ、それは知りませんでした。日頃、あまり小説というものは読まないので。猫の出てくる小説といっても、ポーの『黒猫』くらいしか……」
「ああ、『黒猫』。あれは人間心理を描いているいい作品だと思いますよ。ポーも我々の仲間を見たことがあると、そう聞いております。だけど彼はそれを巧妙に作品に織り交ぜるにとどまった。もっと直接的なのは、萩原朔太郎という作家の『猫町』という作品なのですが、ご存知ですか?」
「いや……」
名前も、作品名も聞いた事のない作家だ。
「これは日本での話なのですがね、山里にあった猫の町が作家に偶然発見されてしまいました。猫も油断してたんですね。いつもなら化けてやり過ごすところですが、正体を見られてしまったのです。困ったことに、その作家はそれを小説に書いてしまいました。見事な描写でね、本当に説得力のある……。人間社会ではよい作品として評価されただけにとどまりましたが、猫の方は念には念を入れて、とその村を廃して移ってしまったのです」
「それは、ずいぶんと用心深いですね。こう言ってはなんだが、猫の小説などたいして気にする人はいないでしょう?」
「それでも、小説の舞台になったと聞けば訪れる人が増えますし、それが猫の小説ならそこにいる猫への視線も集まるというものです。危険なのですよ」
「そうそう、俺たちってば潜み隠れる存在だからよぉ!!」
茶トラのどことなく寂しい大声のなかで、男はピンと来た。
「その逃げてきた猫というのは、あなた達のことではないですか?」
バーテンは、だが男の指摘に驚くこともなく、にっこりと頷く。その笑みはまるで過去を思い出すことに麻痺したかのような、見ていたくない笑みだ。男はそんなバーテン猫の表情を見て指摘してしまったことを後悔したが、当の猫はそんな男の気持ちなど知らずに口を開いた。
「ええ、私達です。もう遠い昔ですね、日本を逃れてこの砂漠まで来ました。私たちは二度と故郷を捨てたくなかったのですよ。ここなら、そう簡単に見つからない」
「でも、そうだとしたら何故私を助けたのですか? 私は人間です。その作家のように、あなた達を危険に陥れるかもしれないというのに」
「それでも、死にかけている人間を見捨てられるほど薄情になることは、出来なかったのです。私達はみんな、一度は人間と暮らした事のある猫ですからね」
「ま、祖先は飼い主に懐きすぎて鍋島騒動なんてのも起こしたけどなぁ」
バーテン猫と酔っ払い猫が語るには、普段人間が見ている猫というのは幼少猫なのだそうだ。その小さい姿のときに人と暮らしたり、人の社会の中で生きる。だが十年を過ぎると、猫には試練の成長期が来る。猫が死期に姿を隠すというのはとんだ間違いで、本当は自身の成長を感じて隠れるのだそうだ。そうして人よりも大きくなった猫は人の世界から隠れて暮らすか、生活のほとんどを人間に化けて人間世界で暮らすのだという。
「私達が人里近くに住んでいたのは、人間のぬくもりが忘れられなかったからです。でも、四六時中人間に化けているだけの力を、持っていなかった。私達は弱い猫なのです。でも、こうして逃げてきた今でさえ、人間を見ると助けずにはいられない」
「でもそんなあなた達の人間好きのおかげで、私は救われました。私は、恥ずかしながら人間でありながら人間社会の中で逃げ隠れしなければならないような者です。でもだからこそ、私を助けたという行為がどれほど危険なことかは知っているつもりです。そんな危険を冒してまで助けてくれたあなた達のご恩は、決して忘れません」
涙さえ浮かべて男はバーテンの手を握った。大きな肉球をしっかりと握り締める。
なぜか隣では泣き上戸なのか酔っ払い猫が呑みながら涙を流して感心していた。
「兄ちゃん若そうに見えるのに苦労してるねぇ。通りで所作が洗練されてるんだなぁ。男気もあるし、あんたは悪い人間なんかじゃねぇよぉ」
バーテンも深く頷く。
「どこか様子が違うと思っていましたが、なるほどそういうわけですか。でしたらお客さん、同じ世間から隠れる者としてお願いがあります。どうか人間の世界に戻っても私達猫のことはお話にならないで頂きたいのです」
男は真剣なまなざしで二匹の猫を見つめ、そして力強く頷いた。
「もちろんです。私を助けることが、あなた達にとっては自分達の住処を失うリスクを伴うというのに、それでもこんなに良くしてくれた。私は詐欺師ですが、それでも義理と人情は忘れていないつもりです。約束しましょう、決してあなた達の住処を話したりはしないと」
猫二匹は顔を見合わせて、安堵したように深く息を吐いた。その表情は、穏やかだ。安心したのか髭が下を向く。
やがてバーテンは棚の奥からきれいな小瓶を取り出した。男がこの酒場の前で拾ったあの空瓶と同じ。だが、中には空色の液体が入っている。
「これは?」
「猫の好きな酒ですよ。どんな猫もこれなら一発で酔って朝まで起きないのです。人間の方の口に合うかどうかわかりませんが、よかったら飲んでください。あなたの人間性を信頼しての、私からのささやかなプレゼントだと思って」
「兄ちゃん飲んでおけよ、こいつは本当に美味い酒なんだ。俺たちは一年に一度くらいしか飲めない高級なものだしな」
気づけば、酒場中の猫が物欲しそうにこちらを見ている。
「それでは、ご好意に甘えて」
男は一挙手一投足を周りの猫たちが横目で気にしているのがわかった。
男は衆猫環視の中、手にすっぽりと入るほどのその小瓶を握り、もう片方の手を腰に当て、仁王立ちしながら一気に飲み干す。
「いい飲みっぷりだねぇ、兄ちゃん!」
コトリ、と空になった瓶を男はカウンターに置き、自身も椅子に座りなおした。
「美味しいですね。……あれ? 疲れてるからかな。なんだかとても眠くなってきました。もっと皆さんとお話したいのに……」
彼はそう言うなりそのままカウンターに突っ伏してしまった。
次の瞬間には、すでに男は砂の感触を頬に感じていた。しばらく目を瞑ったまま様子をうかがうが、何の音も声もしない。それどころか先ほどまで立ち込めていた上手そうなスープの匂いも、喧騒も全くなく、聞こえるのはただ風の音だけ。
ともすればあの猫酒場は夢だったのではないかと思えるが、それでも男の袖の中には空色の液体が入った小瓶の気配があった。とっさに、最初に拾った小瓶とすり替えて、飲んだように見せかけたあの空色の酒。きっと、記憶を消すような作用のあるものだろうと男は考えていた。ただの勘だが、詐欺師として研ぎ澄まされた勘に男は自信を持っている。だからこそ、一か八かで小瓶の中身を飲まなかったのだ。
彼は目を瞑ったまま、口の端を吊り上げてニヤリと笑う。
男は、生粋の詐欺師であり、そして筋金入りの悪党だった。
「もう駄目、お酒くらいでこんなになっちゃうなんて……」
今にも腰が砕けそうなほど足元のおぼつかない女を、男はどうにかホテルの一室まで連れ込んだ。外は酷い雨で、二人とも足元はびしょぬれだ。男はすぐにでもシャワーを浴びたかったが、泥酔した女を抱えていてはそういうわけにもいかない。
あの酒の効果は、恐るべきものだった。なんとか無事に帰国して一ヶ月、男は行きずりの女達の酒に一滴ずつあの液体を混ぜて反応をうかがった。そのほとんどは麻薬のような快感を感じて泥酔。稀に、そのまま精神が現実に帰ってこない者もいたほどだ。そして総じて酒を飲んだ前後の記憶をなくしている。
今目の前で泥酔している彼女は、行きずりではない。ついでに、決して酒に弱い女ではない。それどころか、男が知る限り彼女はざるだった。その彼女がこの有様なら、やはりアレは尋常ではない飲み物だ。
仕事に誘うために飲ませてみたのだが、あるいは失敗だったかもしれないと若干後悔をしていた。
「このお酒、これが今度の新しい仕事ぉ?」
彼女は男の仕事上でのパートナーでもある。酒で酔っても仕事のことが彼女の頭からはなれることはなく、男は彼女のそういうところが気に入っていた。性格は気まぐれでわがままだが、仕事ではもう長い付き合いになる有能な詐欺仲間だ。今回のヤマも彼女と組む事にしていた。この猫の酒の影響が酷くなければ……。
「これはお酒じゃないわねぇ。クスリでもなさそうだけどぉ、何これ?」
その瓶を手にした事情を、彼女には簡単に説明した。詐欺師仲間の共通認識なのか、彼女がこの話を嘘でないと見抜いたからかはしらないが、本来であれば笑い飛ばすような話を彼女は真剣に聞く。
「それで、これはそのときに猫にもらった酒さ。記憶を失う代わりに、今までにないほどの高揚感が得られる。使い道は多いと思うがね。間違いなく売れる」
「でも、作り方はわからなかったんでしょう?」
「だから、奪いに行くんだよ。化け猫の巣を襲って、あいつらに製造方法を聞くんだ」
「ふうん。じゃあ詳しいことは明日あたしがしゃきっとしてるときにもう一度話して。今は駄目。頭がぐるぐる回っちゃってまともな判断なんてできないわぁ」
やっぱり、酒に溺れても仕事のことは忘れてない。まともな判断は出来ないと言いながらも、いい判断だ。
女はふと立ち上がった瞬間にバランスを崩して男にしだれかかり、男はそれを抱きとめた。
「でもねぇ、猫は敵に回さない方がいいわよぉ。猫ってあっちこっちで抜け目なく見てるんだからさぁ」
そういえばこの女は猫好きだったなと思いながら、女の背中に手を回す。
「猫なんか怖がることないさ。ただの臆病な生き物だよ」
「臆病だから、用心深いのよぉ」
女はとろけるような声でそう呟いて、ふと男の肩の上で顔を上げた。
「きれい、くるくる星のウズができるわ」
何を言っているのかと女が見ているほうに首を捻れば、確かに男の真後ろにある窓からは無数の星が輝いている。酒に酔った女には、目が回って渦のように見えているのだろう。全く笑わせる。
だが、ふと男は止まった。
星が出ているはずなどないのだ。
何しろ酷い雨だったのだから。
それに彼女は筋金入りの詐欺師。無意味な発言など、しない。たとえ酒に酔っていたとしても、その言葉には意味があるはずだ。
女を抱いたまま振り返って、男は膠着した。さっき振り返って見たときに星のように見えたその光が、ゆらゆらと揺れながら近づいてくるのだ。
ふいに、女が信じられないほどの強さでしがみついてきた。背中に爪が突き刺さる。それは人間の爪ではなく、深く突き刺さる動物の……。
窓の外の光が、一斉に動いた。二対ずつのそれが、闇夜に光る猫の目であると気づいたときにはもう遅い。
背中の痛みに耐えながら女を引き離そうと試みるが、彼女は信じられないほどの強さで男の体を締め付けてくる。狂ったような猫の鳴き声が窓の外から聞こえる。
猫だ。ああ、猫。猫、猫、猫!
窓ガラスががたがたと音を立てるのは、風のせいだけではない。何匹もの猫たちが、その窓近くの木から、ベランダの柵から、屋根の上から部屋を覗き込み、近くにいる猫がその窓を叩いているのだ。
階下から、人の悲鳴と猫の凶暴な鳴き声が聞こえてきた。窓を叩く猫達の力も強くなってくる。
猫たちが階段を上がってくる気配。でも男は動けない。逃げようにもしがみつく女の力強さに、身動きさえ出来ないのだ。見ればしがみついている女の首筋は、いつもの柔らかい彼女のそれではなく、真っ白く艶やかな毛に覆われている。
耳元で、彼女、いやその猫は囁いた。
「ねえ、注文の多い料理店って知ってる?」
●《自己批評》
『長くてすみません。
猫が好きなんです。
猫万歳。』
《言の葉砂漠 宇津木》
゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜
◎きれい、くるくるウズができるね
『always I think of....』
著者:rudo
私はもうどこにも心を寄せたりしない・・・
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西日がまぶしくてよく見えない。
テレビの画面に窓の外が映りこむ。
私はシュンに抱かれながら
テレビを見ていた。
シュン。見て、きれい。
くるくるウズができるよ・・・
リキッドタイプのミルクのCM。
コーヒーに上からミルクを垂らす。
ミルクの白は
内側から外へと 渦をまく。
私とシュンのsexは
ご飯を食べたり
歯をみがいたり
本を読んだり
そんな風なことと同じ場所にある。
いつも 平常心のまま始まって
平常心のまま終わる。
声も立てず・・吐息ももらさず
普通におじやべりをしながら
いつまでも ただ
つながっているだけだったりする。
それは私がなるべく気持ちを平らかに
しようとしているせいだ。
不感症なわけではない。
体はちゃんと反応する。
だけど触れても触れられても
膜を通したように遠く
心にとどかない。
とどかないようにしている。
「コーヒー飲みたくなっちゃったな。
ちょっと飲んでから 続きにしない?」
うん。いいよ。
私は裸のまま お湯を沸かしに行く。
シュンはコーヒーメーカーや
サイフォンで淹れるコーヒーより
インスタントコーヒーが好きだ。
ちゃんとしたの淹れようか?
私 豆を挽くのうまいのよ。
そういったこともあるけれど
「そんな洒落た育ちじゃないんだ」
そう言って 笑う。
インスタントコーヒーをカップに入れて持っていく。
シュンはカップを受け取り
一口飲むと 私を膝にのせ
ゆっくりと中に入ってくる・・・
「あれは・・・しょうゆだよ」
しょうゆ? なにが?
「ミルクが きれいに渦をまくのは
コーヒーじゃなくて しょうゆだからなんだ」
あぁ・・さっきの話か・・と納得する。
シュンはそういう人だ。
何か話していて
その時 答えが返ってこなくても
しばらくして・・
あるいは ずいぶんたって・・
もう忘れた頃に
唐突に返事がかえってきたりする。
「りょうこ。俺・・・働くよ」
今だって、働いているじゃない。
「そうじゃなくて、ちゃんとどこか就職してさ」
・・・
「もちろん墨も消すよ」
・・・
「だからさ。 俺たちも ちゃんとしない?」
私のことなんて 何も知らないくせに・・・
「必要なことは知ってるさ。
りょうこは何を知ってほしいの?」
私はシュンのこと好きじゃない。
そっぽを向いてそう答える。
シュンは少し傷ついた顔をして
でもちっとも気にしない風に
私を抱きしめる。
「嘘だよ。りょうこ。
じゃあ どうしてここにいるんだよ」
「かんのん」がいるからよ。
「かんのん」に抱かれていたいからよ。
最初にそう言ったじゃない。
「うん、いいよ。
それでもいいよ。りょうこ」
シュンは 今度は上になり
浅く 深く
はやく ゆっくり 動く。
そして 耳元でいつまでも
「りょうこ りょうこ・・・」 とささやき続ける。
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「かんのん」
観音。
シュンは左肩から肘にかけて精緻に
彫られた観音を持っている。
「多羅尊観音」(たらそんかんのん)というのだとシュンは言った。
救済者なのだとも・・・
日本ではあまり知られていなくて
だから決まった姿はないのだそうだ。
シュンの観音は 三日月の上に立ち。
小さな炎を手にしていた。
三日月はうっすらと黄色く
お湯に浸かったり
汗をかいたりすると
色鮮やかに浮き上がる。
シュンと初めて会ったのは去年の秋祭りだ。
賑やかな音に誘われて
覗きにいってはみたけれど
家族づれや 子供たちの笑い声は
かえって私に「誰もいない」という事実をつきつけた。
あまりの孤独にしゃがみ込んだ目の前に
シュンが金魚すくいの店を出していた。
そして「かんのん」を見た。
私は観音に触れてみたいと思い。
観音の彫られた腕に抱かれたいと願った。
「その観音像の腕で私を抱いてくれませんか?」
私はシュンにそう頼んだのだった。
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夢を見ていた。
「かんのん」
小さな炎を手のした「かんのん」
炎はくらりと揺れて
「かんのん」に不思議な陰影をつける。
そして私に向かって 手をさしのべる。
私はその手にすがろうと
手を伸ばす・・・
ギュッと握られて目が覚めた。
私の手をとっているのは
シュンの暖かな手だった。
「りょうこ。仕事に行って来る」
そんな 時間?
「うん。3時過ぎた」
シュンは今、二つ先の駅にある神社の
秋祭りに出店している。
また・・金魚?
「いや、たこ焼き。
夕飯はたこ焼きにしようぜ」
青ノリとカツオ節はかけないでね。
「何だよ それ。
そんなの たこ焼きじゃねえよ」
シュンは苦笑しながらドアを開け
振り向いて 早口に言う。
「あのさ、さっきの話だけどさ・・
ちゃんと考えてみてくれないかな」
私はシュンのことを特に好きなわけじゃないの。
「観音像が気に入っているならこのままで
なんとかするよ。ずーっと長袖で通せばいいんだし」
私は誰も好きにならないのよ。
背中を向けたまま答える。
怒ってよ シュン。
怒って嫌いだって言ってよ。
そう念じる。
だけどシュンは怒らない。
「時間ないから・・行くけど
帰ってきたらもう少しちゃんと話そう」
シュンはそう言ってドアを閉めた。
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途方にくれた。
私はもう誰かを大切に想ったり
誰かを特別な位置においたり
そういうことをしたくなかった。
私が大切だと思う人・・・
私が失くしたくないと願うもの・・・
みんな どこかにいってしまうから。
まだ学生のころに両親をなくし
そのあと世話を引き受けてくれた
伯母をなくし・・・
結婚して二年もたたずに
夫をなくし・・・
その時 おなかにいた子も
流れてしまった時
あまりの事に 騙されるのを覚悟で
占い師に視てもらった事がある
私の情念は強く。激しく。
気持ちを傾けると相手を
呑みこんでしまうのだと言われた。
嘘だとか本当だとかは
もう どうでもよかった。
こんな悲しみを味わいたくない・・・
その為だけに私はこの先ずっと
どこにも 何にも 心を寄せたりしない。
そう決めた。
決めたのに・・
いつのまにかシュンは
私の大事な人になっていた。
極力考えないようにしているだけで
ずっとシュンといっしょにいたいと
思っていたのは私の方かもしれない。
そう認める事は怖かった。
認めたとたんにまた
私はシュンを失ってしまうんじゃないかと
今までがそうだったように・・・
シュンには「かんのん」がついているから
大丈夫かもしれない・・
自分の都合のいいように
そんな愚にもつかない事を思ってみる。
観音様ってそういうものだよね?
苦しむ人の声を聞き
救ってくれるんじゃなかったっけ?
帰ってきたら 話してみようかな・・
私のこと 私の思っていること
私もシュンが好きだっていうこと。
シュンに・・シュンとシュンの「かんのん」に。
そう思うとなんだか
少し 気持ちが明るくなった。
どこから どんな風に話そうかと
考えているうちにもう9時だ。
9時にはお祭りが終わる。
10時にはかた付けも済んで
みんなでちょっと 一杯飲んで・・・
たいてい 11時には
「りょうこ。たこやき」だったり
「りょうこ。 金魚」だったり
「りょうこ。やきそば」だったり・・
そんな風に言いながら帰ってくる。
今日はたこ焼きだって言ってたから・・
たこ焼きだけじゃさみしいから
サラダでも作っとこうかな。
たこ焼きは たこ焼きだけかなぁ。
だけどシュンは12時を過ぎても帰ってこなかった。
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お祭りの後のささいな喧嘩だった。
小さな冗談が 罵り合いに変わり
怒鳴りあいになり・・・
手が出て・・・・
周りを巻き込んだ小競り合いになり
その真ん中で シュンは刺された。
血が流れ出るのに時間がかかり
倒れるまでに時間がかかり
まわりが気づいた時は
手遅れになっていた。
白い布に包まれた シュン。
呆然とする私の横には
警官がいて あれこれと
シュンのことを聞いてくる。
私は何一つまともに答えられない。
私はシュンの本名さえ知らなかった。
私が大切だと思う人・・・
私が失くしたくないと願うもの・・・
みんな どこかにいってしまうから
「もうどこにも心を寄せたりしない」
そう決めたのに・・
私は何を・・・
私の隠していた想いがシュンに向かい
シュンがゆらゆらと揺れる炎の中に
呑み込まれるのが見えた気がした。
もう私には流す涙も残っていない。
私はただひたすらに
シュンの腕の「かんのん」を
撫でさする。
●《自己批評》
『ありえないね。
一貫して{BAD DAY}を聞きながら書いた。
「同じ曲ばかりかけるな!!」と家族からクレームがついた。』
《rudoのあれこれ・・ rudo》
゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜
◎ゆらゆらと揺れる炎の世界へと入っていった
著者:Glan
゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜
◎その媚びるような目や匂いだ
著者:時雨
゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜
◎ただ生きていくことにも大変なのだ
『ある閉ざされていない雪の山荘にて』
著者:松永夏馬
ただ生きていくことにも大変なのだ 。
元々さほど活動的でない毎日を過ごしてきた黛禄郎であっても、生きることは非常にエネルギーを使う。それにもかかわらず高校に進学して貴島虎雄、猫田美紀恵という常にエネルギーを発散しつづけているような二人に捕ま、……もとい、出会って1年と8ヶ月。彼らと付き合う毎日はムダにエネルギーを消費しているとは思うが、最近では慣れたのか不快ではなくなってきているのが不思議だ。
期末テストが終わり冬休みに入った。エネルギーコストが低い朝の布団のぬくもりを、充分に堪能できるはずの毎日は3日目にして早くも途切れることとなる。
けたたましく鳴る小さな機械を、禄郎は布団の隙間から手を伸ばして掴むと、ぼんやりとした視界の中でそれを開いた。小さなディスプレイに表示された名前を見て仕方なく通話ボタンを押す。
「クロ! 大変なの!」
スピーカから飛び出す跳ねるような声。禄郎は猫ッ毛で癖の強い髪と猫のような大きな目をした声の主を思い浮かべ、猫田美紀恵とはこれまた見事に名は体を現しているなぁと寝ぼけた頭で笑った。
「事件なの! 太郎が! 切り裂かれてバラバラで!」
興奮気味にわめく美紀恵をよそに、禄郎はいったん携帯を耳から離すと、布団に包まりながら体を起こし、サイドテーブルに置かれていたメガネをかける。まくし立てる美紀恵が反応の無さにようやく気付いて静かになった。
「……寝てた?」
「今、起きた」
「ごめんなさい」
ありがとうやごめんなさいが素直に言えるのが彼女の良いところだと禄郎は思う。休日の朝8時前に電話をかけてくるところは褒められないことだが。
「落ち着いたな? ……で。なんかあったのか?」
「うん事件」
「トラには連絡したのか?」
「起きないと思うからしてない」
懸命な判断。ちなみにクロというのは禄郎の、トラというのは虎雄の、美紀恵が勝手に付けたニックネームだ。ちなみに、それに対抗してクロもトラも美紀恵のことはミケと呼んでいる。彼ら3人は共に県立根庫川高校に通う2年生で、たった3人しかいないミステリ小説同好会のメンバでもある。もっとも同好会とはいえ入会動機はてんでバラバラで、したがって活動方針もなにもあったものではないが。
「えっと」
窓の隙間から滲む冷気が少しずつクロの眠気をさましていく。
「スキー行ってんじゃなかったっけ?」
たしかミケの従姉の友達の別荘だかに行くとか聞いた覚えがある。
「うん、美牛高原の近く」
「事件、と言ったな? 何があったんだ?」
一呼吸置いてミケが言った。
「太郎が殺されたの」
「警察の対応は?」
「……連絡してない」
「しろよ」
歯切れの悪い返事に呆れてものが言えない。言ってるけど。その反応にミケは思い出したように謝った。
「あ、えっと、ごめん。太郎ってのは月乃さんの飼ってる猫で」
「は、い?」
「殺猫事件」
「……なるほど」
それならば警察に連絡しづらいのもわからなくはない。わからなくはないが。ペットだからといってそのままにして良い道理はない。人に対し無力な愛玩動物ならなおさらだ。
「許せないな」
「うん」
ミケがはっきりと頷いた。『殺された』『犯人』とミケが言うのならばそれ相応の理由があるのだろう。一緒にいるミケの従姉はいちおう、あれでも、まがりなりにも、現職刑事猫田環巡査だ。それに、好奇心旺盛でいろいろなことに首を突っ込みたがる性格のミケだが、不用意に誰かを傷つけるようなことは言わない。
「わかった。聞くだけ聞く。とりあえず最初っから順序立てて説明して」
********************
事の始まりはどこにあったのだろうか。
毎年恒例になっていた2泊3日のスキー旅行直前に届いた、五木春菜が車の自損事故で左足骨折という突然の報。驚いたメンバだが、原因が彼女の単なる不注意(運転中に恋人と携帯メールをしていたらしい)であり、そのケガも入院するまでもないただの骨折ということからさっさと気持ちを切り替えることにした。今年は予定していた日程が月乃の誕生日と重なっていたため、中止にはしたくなかったのだ。
今年の幹事役がミケの従姉の猫田環。ミケがスキー旅行に行くこととなった経緯はこんな理由である。
場所はこれまた毎年恒例、美牛高原にある西城月乃の別荘。体育会系でプロスキーヤーを目指した程の父親が趣味の為10年程前に購入したのだそうだ。
別荘の外観はログハウス調ではあったが内装はシンプルかつモダンだった。玄関からまっすぐ奥へと伸びる廊下、それに平行する形で上り階段があり、廊下右手の扉を開けると大きく空間の取られた南向きのリビングスペース。ダイニングキッチンともつながっているのでかなり広い部屋だ。暖炉(もちろん形だけで中身はファンヒーターだが)まである。廊下の奥には風呂場があり、さらに廊下を進み角を折れるとトイレと納戸が並んでいる。
2階には南向きの個室が6部屋。さすがに風呂やトイレは無いがまるでホテルのようだ。
「せっかく来たのに」
リビングの窓から外を眺め、雪で濡れた髪をタオルで擦りながら樫軒トオルがぼやいた。風は強そうだが2重になった窓からは音も漏れてはこない。まるで無声映画のようだ。
「明日にゃ晴れるってさ」
面白くなさそうなトオルにテレビの天気予報を見ながら笹倉拓也が声をかける。根庫川市を早朝に出発し、トオルの運転するステップワゴンで西城家の別荘に着いたのがその日の昼過ぎ。荷物を置きウェアに着替え、意気揚々とゲレンデに向かったものの、到着と共に降り出した雪はまもなく横殴りのみぞれに。しかたなく早々と別荘に戻る羽目になってしまったのである。スポーツ万能で毎年スキーを楽しみにしているトオルは、恨めしそうに窓の外のモノクロの世界を一瞥してから長身を折りたたむようにしてソファに深く腰を降ろした。
「チャンネル変えようぜ」
ソファから首だけ仰け反らして、離れたダイニングテーブルの椅子に座る拓也に声をかけた。
「つーか拓也。……なんでそんなとこに座ってんだよ」
黙ったまま拓也は、シルバーのリングが着いた指でミケを示す。正確にはミケの膝に陣取る小動物。
「ネコ、ダメなのか?」
「ああ」
にんまりと笑うトオルに対し、拓也はぶすっとした顔のまま手にしたリモコンでチャンネルを適当にザッピングする。ミケは膝の上の小さなネコの、きれいに色分けされた背中を撫でた。この子猫が月乃のペット、三毛猫の太郎だ。
「アレルギーとかですか?」
「いや、そういうのじゃない。ただまぁ……ちょっとな」
ごにょごにょとお茶を濁す拓也。ミケの隣に座る環がくくくっと笑って言った。猫田家の特徴なのか、吊り目がちな大きな目がよく似た従姉妹だ。
「小学校の時に野良ネコに引掻かれたんだよね」
ミケを覗くメンバ全員同じ高校の同級生だが、環と拓也は小学校からの付き合い、幼馴染なのだ。
「……言うな」
恥ずかしさの混じった声でそう言葉を吐く。
「左腕がぼっこぼこに腫れてねー」
「言うなって」
大袈裟な手振りで話す環を止める拓也。派手な茶髪と鼻と耳と首と指に散りばめた銀色のアクセサリで飾り立てているのは虚勢なのかもしれない。環にいつも
「似合わないー」と笑われているそのアクセサリのほとんどは自作なのだそうだ。仕事もそのなりで老人ホームの介護職員だというから人は見た目で判断できない。
「カワイイですよ?」
ミケは両手で太郎を掲げる。笑うトオルと環。
「あー、いい。いい」
不貞腐れたように拓也は皆から離れた所でそっぽを向いてしっしっと手を払う。そしてカウンタに置かれた書店の紙袋を手にとると立ち上がった。
「部屋でマンガ読んでる」
「あー、終わったら次アタシね」
紙袋の中身は来る途中で拓也が買った週刊誌。人の物を勝手に予約する女、環。
20代半ばにもなってまだマンガ雑誌読むんだなぁとミケは思った。
「ん。どした?」
皆のいるリビングダイニングから続くキッチンスペース。丁度そこからのっそりと出てきた髭面の大男が部屋を出ようよしている拓也を呼び止めた。
「ちょっと部屋行ってるわ」
「メシまでには戻ってこいよ」
彼は加茂仁。気は優しくて力持ち、元柔道部主将の大男。某フレンチレストランで修行した後、実家の洋食屋を継ぐコックだそうだ。料理が好きらしく、この2泊3日の昼食と夕食の支度は彼が全て担っている。マイ包丁持参という気合の入りようだ。ちなみに朝食と昼・夕の後片付けは全員の持ち回りである。
「今日のディナーは何かしらシェフ?」
聞くまでもないよトオルさん。
「カレー」
匂いでわかる。
「フレンチのシェフがなんでカレーなんだよぉ。もっとこう『なんたらーのポワレなんたら風』とか」
「スキーといったらカレーだろ」
当然だろう、といった風で仁が言う。
「どんなマジカルバナナだよ」
と拓也。
「月乃の誕生日プレゼントとしてケーキも用意しているところだ。専門じゃないが期待しておけ」
「ケーキとカレーて」
「何? 楽しそうじゃん? てかミケちゃん凄いねー、太郎がすっかり懐いてる。ああ、そうだ! 加茂っちお鍋煮立ってるよ?」
仁を追ってキッチンスペースから顔を出したのは西城月乃だ。細面のお嬢様然とした見かけのわりにカラリとした彼女は、少し話しただけで環と同じように美紀恵をミケちゃんと呼ぶようになった。明るくて気持ちの良い人だ。それでいて仕事もバリバリこなすというから男女問わず人気がありそうだ。入れ替わるように慌てて仁はキッチンへ戻る。
「ウチのコ、人見知り激しいんだけどなぁ」
「ああ、まったくオレでも未だに威嚇されるのに」
トオルが大袈裟に嘆いた。
「つか、なんでネコなんて連れてきたのさ」
環が口をとがらせる。
「拓也が泣きそうよ」
「泣くかッ」
拓也が環に言い返して部屋を出て行った。ドアが勢いよく閉められる。誰かが笑った。
「いいじゃん、せっかくペット仕様の別荘なんだし、それに最近太郎がいないと眠れないのよねー」
きゃははと月乃が笑う。今朝出がけに思いたって連れて来たらしい。スキー場にほど近いログハウス調の別荘だが、各部屋および玄関の扉の下の部分にはペット用の出入り口が付けられているのだ。熱効率が悪そうではあるが床暖房が完備されているのでさほど気にならない。
「質問質問」
ミケが律儀に手を上げた。
「はい、ミケちゃん」
先生よろしく月乃が指名。
「……このコ、雌ですよね」
膝の上の太郎が身を起こし欠伸をすると、飼い主の膝へと擦り寄っていく。足元に纏わる猫をひょいと両手で抱え上げた月乃は、「え!?」と驚く顔のトオルや環を見て満足そうな笑みを浮かべた。
「そうよ」
「なんで太郎って名前なんですか?」
さきほど抱えてみてわかったのだが、なんとこの猫、雌なのだ。付いていない。月乃はにっこりと笑って答えた。
「志垣太郎の大ファンなの」
は?
「……渋いな」
唖然とするミケ達の耳に、キッチンから仁の声が響いた。
********************
「誕生日おめでとうーッ!」
夕食のカレーとその他おつまみ多数。旅行前日から仕込んだタッパーを大量に持ち込んだ見習いコックの手料理で月乃のバースディパーティ……と銘打った宴会が始まった。環・月乃・トオル・仁・拓也ら高校のクラスメートだった気の置けない仲間達との旅行、宴会。毎日のように友達と会える学生生活真っ只中のミケからしてみたら、仲間が集まるというだけでこうも盛り上がるものなのかと唖然としてしまう。太郎も雰囲気に酔ったのか、楽しそうにビール瓶の王冠をガリガリかじって遊んでいる。乾杯の掛け声とともに、まだロクに飲んでいないのにもかかわらずアルコールを未成年に薦めてくるから困ったものだ。
完全に酔っ払ってしまう前にと順に風呂へと入ることとなって、一番風呂はミケがいただくこととなった。
宴会場となったリビングをミケが出る時に「トイレ」と言って立ち上がった仁にトオルが「ミケちゃんの風呂覗くなよ?」と笑う。むっとした顔の大男が軽薄な色男を睨みつつも黙って廊下へとのっそりと出た。ミケは高校生にしても小柄なほうだから、身長差が40センチはありそうだ。仁はミケの頭をポンとたたくと、照れたように笑った。
「アホはほっとけ」
寡黙な大男はそう言って廊下の奥へと進んで行く。熱気溢れるリビングと違い、ひんやりとした空気が廊下に漂っている。閉め切られた部屋での宴会の息苦しさと暑苦しさから開放されたミケは、着替えを取りに玄関脇にある階段を一段飛ばしで駆け上がった。
入浴を終えパジャマ代わりのスウェットに着替えたミケが宴会場、もとい、リビングに戻ると、つけっぱなしのテレビから流れるバラエティ番組をBGMに、皆はそれぞれ仕事の話で盛り上がっていた。というより愚痴大会である。嫌味な上司、うまくいかない人間関係、仕事そのものよりもその環境に対処できるかどうかが、大問題らしい。大人は大変だ。
「課長は全然下のこと考えてないんだよな。客は客でワガママ言うし、挟まれるこっちの身にもなってみろってんだ」
商社営業のトオルが愚痴れば、
「まだマシよ。コッチは女だからってやりたい仕事させてもらえないのよ」
事務職に甘んじている月乃が嘆く。
「加茂っちはいいよね、親なら文句も言えるし」
月乃に言われ、実家の洋食屋で働く仁は憮然と言い返す。
「店でも家でも四六時中顔合わせてなきゃならんのだぞ。それに、いつ潰れるかわかったもんじゃない」
「その点、老人ホームや警察は潰れないからいいよな」
軽く言ったトオルを睨んで拓也は口をとがらせる。
「馬鹿言うな、給料は安いし仕事はきついし、毎日毎日サービス残業」
「環は?」
それぞれが文句を言い合う中、名指しされた環はグラスをくいと傾けてから言った。
「うーん、まぁほら私は腰掛けみたいなもんだし。あははー」
刑事を腰掛けでやるな、とミケは言いたい。
あっけに取られるミケに座布団を譲り、立ち上がった環は「お風呂いただきまーす」と言って、いくらかふらつく足取りで部屋を出ていった。
「……あいつが刑事やってるっつーのが一番信じられねぇ」
「うん」
拓也が呟き、皆一同に頷いた。
拓也が一度自室に戻り、環に貸す週刊誌とカードゲームを持ってきたので、一同揃ってUNOを始めた。酔っ払い始めた面々は単純な子供のゲームにそれこそ童心に返って盛り上がる。風呂から戻って来た環が呆れたくらいだ。
「なげぇ風呂だな。ほれ、そこに持ってきたぞ」
「サンキュ」
拓也が男性にしてはほっそりとした指でダイニングテーブルを指し示す。銀色の指輪の示す先には分厚いマンガ雑誌。
「次、月乃入る?」
環はダイニングチェアに座り、マンガを広げながら言った。
「その前に、そろそろ、発表してもいいだろ?」
トオルがニヤニヤしながら立ち上がりかけた月乃の腕を掴む。それを受け、月乃も少し顔を赤らめて頷いた。
「えー」
トオルも立ち上がり、月乃の手をとる。わざとらしくゴホンと咳払いすると、まるで演説でもするかのように皆を見回して言った。
「オレら、結婚しようと思う」
驚きと祝福と戸惑いが混じった声が漏れた。
「思う、じゃなくて、するんでしょ?」
先ほどまでとは少し違い、柔らかい雰囲気で月乃が口を尖らせる。
「……式は来年の6月を考えてるんだけどな」
さすがのトオルも照れくさそうに笑って頭を掻いた。
高校からの気の置けない仲間。そんな関係の中で『結婚』という関係が生まれるとは環は思ってもみなかったのだろう。びっくりした顔のままで固まっている。拓也や仁も「ドッキリ」なんじゃないかというような顔。
「……おめでとう」
一瞬の間を置いて仁が静かにそう言ったのを皮切りに、環も拓也も婚約発表を済ませた二人に詰め寄る。
「なによ、結婚て。マジでー?」
「いつのまにお前ら」
そんな芸能リポーターよろしく質問を浴びせかける二人から、逃げるように月乃は風呂へと部屋を出て行った。
最近では20代半ばで結婚するのも早いほうなのだろうが、ミケは10年後の自分が誰かと結婚するなんて想像すらしていない。というか、従姉の環が結婚することすら想像できない。それに気付いて、自分はなんて子供なんだと今更ながら実感した。今のままずっといられるような気がしていたのはやはり自分が子供だからだろう。いつか、などと考えなくてもあと1年ちょっとで高校を卒業するというのに。この「今」という瞬間が急に揺れ動かされてしまう感覚だ。
ぼんやりとしていたミケの頭をぽん、と軽く叩いたのはのっそりと立ち上がった仁だった。大きな手になんとなく安心感を与えにっこりと微笑んで彼を見上げると、ほろ酔いの足取りで空いた皿をキッチンへ片付けに行く。
「悪いな」
その背中に向けてトオルが言った。
彼の言葉にピクリと肩を震わせた仁は首だけこちらにむけ、もう一度「おめでとう」と告げた。奇妙な沈黙の中、テレビのニュースではキャスターがサッカーの国際試合の祝辞を述べていた。
拓也と環の話によると、仁は月乃に対して想うところがあったらしい。もっとも寡黙な男はそれを口に出すことはなかったが。それを聞いたミケは、夕方キッチンで料理をしていた時の仁の笑顔を思い出していた。彼はどんな思いで今日のケーキを焼いたのだろう。
********************
「刑事の仕事ってどうらのさ? 殺人事件の現場とかなー」
トオルがビールのグラスを手に言った。もう何杯目かわからないが、喋り方が微妙におかしいのは気のせいだろうか。
「あー、刑事つっても3課だしね。窃盗とかそっち系だし。ドラマみたいなもんじゃないよ」
「そりゃそうだろうな」
仁が自作のケーキをつついて言った。
「あ、でも不審死の検証とかの手伝いはあるなぁ。検死……司法解剖とか見学したけどけっこうキツイよ? 最初は吐いたね。あはは」
笑いながら言うことか。なんだかげんなりして拓也が皿を置いた。マイペースな従姉だとミケは人知れずため息をつく。
それからしばらくカードゲームで盛り上がり、月乃が風呂から戻ってきたのは、丁度ニュースで純血三毛猫の競売の話題をやっていた時だった。
「すげぇな三毛猫の雄に50万ドルだってよ」
「50万ドルっつーと……5……6……7000万円?!」
指折り数えて環びっくり。こういう話題は大好きな従姉だ。
「そんなに!?」
思わず拓也の声が高くなる。この二人は似ているかもしれない。
「雄が遺伝的に希少だっていうのは知ってたけど、こんなにするのね」
あきれたように月乃は長い髪をタオルで拭きながら大きく息を吐いた。
「……そういえば太郎いないですね」
ミケが思い出したように部屋を見回した。ミケが入浴する前には月乃のひざに乗っていたのを覚えてはいるがいつのまにいなくなったのか。月乃も環も部屋を見回す。
「どっかで寝てんだら?」
ポテトチップスをつまんでトオルが言った。かなり顔が赤くなっている。婚約発表で浮かれた彼のピッチはかなり早い。
「猫は夜行性だ」
仁のツッコミが少し刺のあるように聞こえるのは気のせいだろうか。もっとも酔っ払いは気にもしていないが。
「外に出てくわけはないからどっかにいるでしょ」
月乃はそう答えてビールの缶を開ける。「こんな時間に飲んだら太るかなぁ」などと言いながらもぐびぐびと良い飲みっぷりだ。スラリとしてむしろ痩せすぎな部類の彼女が言うセリフじゃない。ミケの隣で仁特製のスペアリブをかじる従姉ならともかく。というか環は少しくらい気にしたほうがいいかもしれないとミケは思う。
「まさか太郎もあんなおっそろしい値段なのか?」
仁が眉をひそめて訊ねた。
「つーか、太郎は知り合いから貰ったコだからねー」
月乃は首を捻る。
「でも値段とかうんぬんじゃないし、値段なんてつけられないよ」
うんうん、とミケは頷く。ペットとはいえ家族の一員なのだ。最近はペットをオモチャのように扱う人もいるが、それは本当に許せないことだ。動物好きのミケは月乃に諸手を挙げて賛同する。
「うー、ちょっとトイレ行くかな」
拓也がよっこらせと腰をあげた。
「ついでに風呂も行ってくればいい」
そう言って仁が空いた皿を手に立ち上がり、キッチンへと向かう。仁の手料理もあらかた食べ尽くされてきていた。その時、突然声を挙げたのがトオルだった。
「オウッ、すまん……トイレッ!」
言うが早いがリビングを飛び出すトオル。そして閉め忘れたドアから聞こえるどたどたと荒く廊下を走る音が突然止まった。
「ぐぶッ!」
何か噴出すようなトオルの声。片手に重ねた皿を持ったままの仁と風呂へ行くと言って立ち上がった拓也がいぶかしげに顔を見合わせた。
「……どした? 吐いたか?」
環も月乃も、ミケも動きを止めた。その沈黙を再び動かしたのは、やはり廊下から響くトオルの声だった。
「大変だ! 猫が。……太郎が死んでるッ!?」
********************
「確認なんだけど、『殺された』ってのは間違いないのか?」
右手のシャープペンシルをカチカチ鳴らしながらクロは電話の向こうのミケに尋ねた。朝の寒さにぶるりと体を震わし、毛布を体に纏う。
「うん、環さんが確認した。首の骨が折れてたみたい」
「猫だけど、高いところから落ちたなんて可能性は?」
「トオルさんが太郎を見つけたのは納戸の中なの。酔ってトイレと間違えて開けたんだって。納戸といっても掃除機とダンボール箱がひとつ置いてあるだけで、落ちるような高い場所がないのよ。いくら猫でも天井に張り付いたりはしないだろうし」
「なるほど。人為的な『何か』があったのは間違いない、と」
クロはペンをサイドテーブルに転がすと、ベッドから立ち上がる。万が一環が犯人だったとしても、「殺された」とウソをつく意味はない。
「経過ってのはよくわかったんだけどさ」
クロは考えこみながらケータイを右手に持ち替え、殴り書きのメモを手にとってもう一度眺めた。眺めつつ、こんなに長い電話になるのならトイレくらい行っておくべきだと悔やんだ。
「結局のところ、太郎の姿が確実に確認されたのはミケが風呂に入る前なんだよな?」
「うん……。ペット用の扉があるから、好き勝手に出入りできるし、みんなあんまり気にしてなかったみたい」
アルコールも入りはじめたところだし、それは仕方の無いことだろう。クロはため息をついた。
「そうなると、犯行時刻はミケが風呂に入ってからトオル氏が発見するまでの間か。風呂に入る為に部屋を出た月乃さんと環さん、それから仁氏と拓也氏の4人……いや、トオル氏の早業ってことも考えられるか」
トイレに出て太郎を捕まえ、首を折ると共に発見者を装う。やってできないこともないがそうなると結局全員に犯行が可能だということである。
「飼い主の月乃さんやタマちゃんまで疑うの?」
抗議するようなミケの声がスピーカから飛び出す。耳が痛い。
「この一件の大前提はミケがウソをついていない、ということだけだ」
スッパリとそう言いきる。
「環さんはともかくとしても、月乃さんならなおさらだ。関わりが大きい分動機も生まれ……」
クロは言ってて自分でもアホらしくなった。太郎は猫なのだ。ただの三毛猫のメスだ。いくらなんでも猫自体に対して殺意を抱く人間がいるわけがない。そうなると動機は?
「殺したいほど猫の太郎を嫌いになる、わけないもんな」
拓也だっていくら猫が嫌いだからといって友人の飼い猫を殺すまでするとは思えない。
「拓也さんはむしろ、近寄りたくない、という感じだったよ」
クロの心の中を見透かしたかのようなミケの言葉。しかしこれでは犯行のタイミングも動機も絞れない。
「そうなると月乃さんへの嫌がらせとか? ……いや、でもわざわざこんな限定された時にやらなくても」
ぶつぶつとクロが呟く。
「突発的な出来事……。何かの拍子に? ……もしそれなら別に正直に……」
最後のほうはもうミケには唸り声にしか聞こえない。
「……ん? ミケ、そういや確か切り裂かれた、とか言ってなかったか? 首の骨折られたんだろ?」
「ああ、うん、まだ続きがあるの」
「なんだよ、早く言えよ」
呆れたような声を出すクロに、ミケはムッとしつつも「話を中断させたのはどっちよ」の言葉を飲み込む。
「……そんじゃ端的にいくよ。その、太郎が発見された後、月乃さんが軽くパニック起こしたのね。声揚げて泣き出しちゃって。トオルさんはもうそれで一気に酔いが冷めちゃったみたいで、月乃さんを部屋に連れてってつきっきりで寝かしつけてた。軽くて調子のいい人だけどちょっと見直しちゃった。
他のみんなでどうしたもんかって話になったの。人間だったら即警察、救急車なんだろうけど、飼い主の月乃さんはそんな感じだし、しかたないから明日月乃さんの回復を待ってから考えようということに落ち着いたわけ。拓也さんが自分の部屋からタオル持ってきて太郎にかけてあげて、パーティもそれでおしまい。
そんで今朝よ。アタシ6時前に目が冷めちゃってさ、のど渇いたからなんか飲もうと思って、上着羽織ってキッチンに降りたんだ。ついでってわけじゃないけど、太郎に手を合わせようと思ったんだけど、なんか昨日の夜とタオルの下の形が違ってるように見えて。タオル除けたら太郎の体はズタズタに切り裂かれてて。血はそんなに流れてなかったんだけど、解剖されたみたいで……思わず悲鳴挙げちゃった」
「そりゃそうだろ」
「今でも吐きそう。……で、みんな起き出してきて、月乃さんは起きたそうそう太郎見てまたパニック起こしてそのまま貧血で倒れちゃって。救急車呼んで、あ、もちろんこれは月乃さんの為ね」
「そりゃそうだ」
「今トオルさんが付き添って病院へ行ってる。さて、残された私達はどうしようか、ってのが現状」
ミケの話が終わり、しばらく沈黙が流れた。クロは目を閉じて下唇を噛んだ。
何故犯人は猫を殺したのか。何故犯人は一度殺した太郎を改めて殺したのか。あれ、なんかお腹痛い。
「……どう思う?」
痺れを切らしたミケが口を開いたのと、クロの下腹部から『ぐりゅう』とヘンな音がしたのとほぼ同時。
「う……」
「どしたの?」
「あー、えーと。と、とりあえずちょっとコーヒーでも飲んで整理するッ」
クロはこう答えて携帯電話を折りたたみ、トイレへと駆け込んだ。
********************
クロってコーヒー飲まないと思ったけど……と思いつつ電話をポケットに突っ込んだミケがリビングに戻ると仁の声が聞こえた。
「月乃が目を覚まさない限りオレらで勝手に処理するわけにもいかんだろう」
太郎の処遇である。切り裂かれた猫の死体をそのままにしておくのも気味が悪いが、飼い主の許可なく処分してしまうわけにもいくまい。
「メシ、どうする?」
拓也が小さい声でそう言った。顔色が良くないのも仕方がないだろう。
「食欲ないわよ」
当然のように環は首を振る。仁も「ああ」とだけ言ってソファの背もたれに深く沈んでテレビをつけた。休日の朝のワイドショーがやけにテンション高く見えてげんなりする。拓也も環もなんとなく顔を見合わせてから、リビングのホットカーペットに腰を降ろした。
「スキーどころじゃないな」
「……ああ」
ため息をつく拓也に仁が頷いた。
そんな3人を横目にミケはひとりキッチンへと足を運んだ。
「せめてコーヒーでも煎れるね」
そう言ったところでダイニングテーブルの椅子に置かれたアタッシュケースのような黒い鞄に目がいった。仁の持参した包丁ケースだ。
そういえば、太郎を切り刻んだ刃物はどこから調達したものだろうか。
「誕生日プレゼント、渡しそびれちゃった。とんでもないバースディね」
環が沈んだ声でぼやいた。
「オレは……ケーキを焼いたからな。いちおう間に合った」
仁が小さく笑った。
なんとなく足を忍ばせてキッチンに滑り込むと、ミケはキッチンの流しの下の戸を開けた。そこにしまってあった包丁はさび付いていて切れそうもない。ダイニングに取って返し、テーブルの上に黒い鞄をそっと置く。
リビングの3人はミケに背を向けぼんやりとテレビを見ている。
静かに。そっと。
ミケは鞄の留め金をゆっくりと外す。
ミケは考える。
太郎を連れてきたのは月乃が出発直前に突然決めたこと。それに、猫である太郎に対して殺意を持つ人間がいるとは思えない。たとえ動物を虐待することを楽しむ嗜虐的な人物だったとしても、友達のペットを殺すだろうか。そうなると考えられるのはやはり月乃に対する嫌がらせ。首を折るだけではあきたらず、体を切り刻むほどの鬱屈した陰湿な想い。
何故今? 昨日何があった?
旅行に来てスキーをやり、誕生日パーティを兼ねた宴会をやり、カードゲームに興じ、婚約発表が行なわれた。浮かれて酒を飲むトオルと嬉しそうに頬を赤らめる月乃。トオルが月乃に対して嫌がらせをやるとは思えない。
ミケは考える。
カチ。
金具の跳ねる音がミケの心臓に響く。大丈夫。皆気付いていない。
ミケはそのまま静かに鞄の蓋を開け、並んだ包丁の1本に目を留めた。自分のハンカチで右手をくるみ、そっと持ち上げる。
はらり、と何かがゆっくりと舞い落ちる。薄茶色のちいさな塊がふわりと空気抵抗によって広がり舞い散る。
机の上には、確かに短い毛が数本、落ちていた。
●《自己批評》
『【つづく】
ミステリを書きたくなったので、悩みまくって書きました。話は長いし内容浅いしプロット甘いし相変わらずキャラが記号化してるし。わかってる、いろんな意味で自己満足(満足?)
わかりやすい人から無理矢理な人まで、今回も登場人物の名前でいろいろ遊ばせていただきました。犯人役となる人ごめんなさい。』
《Missing Essayist Evolution 松永夏馬》
゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜
◎机の上には、確かに短い毛が数本、落ちていた
『家族の時間』
著者:なずな
机の上には、確かに短い毛が数本、落ちていた。
トモが、ママ、見てと 歓声を上げる。
「ほうらね、やっぱり。来たんだ、猫ちゃん」
淡い色のその毛は、午後の日差しを受けてきらきらと金色に輝き
トモが走り寄り、両手を付いて机に飛びついた拍子に、ふわりと舞い上がり 散った。
風が金木犀の香りを運んでくる。
隣の屋根の上、「猫ちゃん」と呼ばれたそいつは、ベランダでじゃれ合うトモと
母の由香里に目もくれず
その大きな身体を横たえ、うつらうつらしている。
トモは、わざとベランダの網戸を少し開けたまま学校へ行く。
その猫を自分の部屋に住み着かせたくて、トモがこっそり餌になる物を部屋の隅に置いている事は
由香里も長女のユキも、とっくに知っていた。
「大人ののら猫なんだから、そんなことでトモの猫にはならないよ、諦めな」
ユキが何度言っても、トモは譲らなかった。
「嫌だ、猫ちゃん飼うの。うちの子にするの。絶対にするの」
トモとユキの言い合う声が煩かったのか、猫は大儀そうにあくびを一つすると
おもむろに起き上がり
思いのほか身軽なしぐさで、するりと隣家の庭へ下りていった。
ユキ、トモ、歳の離れた二人の子ども、母の由香里・・・そして 下宿人一人。
親から受け継いだ二階建ての木造家屋は、三人暮らしでは部屋が余る。
ユキが物心ついた頃には祖父母はすでに亡く、誰かしら下宿人が一緒に住んでいた。
由香里の住まわせる「下宿人」は決まって、いつも男の人だった。
ユキが覚えている限りでも、数人いる。
どうやって選ぶのか、年齢はまちまちだが、どの人も上手に家族に溶け込み、気を遣わないでいられた。
聞き上手な由香里相手に、他愛のない日々の出来事を家族のように話し、
時にはユキ達が疲れて眠ってしまう程長い間、ずっと話していたこともあった。
暇な時には、ユキたち相手に良く遊んでくれた。
楽しい時間って、どうして続かないんだろう。
仕事の都合や子どもには解らない色々な事情で、その人たちも去って行ってしまうのが、ユキはいつも寂しかった。
どの人も皆好きだった。たった一人を除いては。
下宿代を少ししか取らない上、相手が望めば食事や身の回りの世話までする。
だから由香里が病院で清掃のパートを続けても、生活は慎ましいものだった。
「物騒な世の中、女三人所帯では何かと不安でしょ?
部屋も空いてるんだし、僅かな家賃収入だって、家計には大助かり」
「掃除の仕事だってね、色んな人と出会えて、結構楽しいのよ、ママ気に入ってるんだから」
由香里は屈託なく笑って言う。
─ママの理屈はそうだけど、世間はそう思ってない。
母が幼い頃から知っているという、近所の人の目がいつもそれを突きつける。
「下宿人の人・・塔岡さんだっけ?元気そうになって、見違えるようになったじゃない。
来たときは、何だか暗くって、ふらふらしてて今にも倒れそうだったのにねぇ」
「あら、何だ。ずっと居るわけじゃないの? 嫌だ、私ったら・・トモちゃんたちも懐いてるし、今度こそてっきり・・」
「ねぇ由香里ちゃん、そろそろ ユキちゃんも難しい年頃でしょ、トモちゃんも、もう小学生だし。
次の下宿人は女性にした方がいいよ。私、心当たり探してみるから、いつでも声かけて」
余計なお世話だ、噂話のネタが欲しいだけなんじゃないの?ユキは心の中、呟く。
「色々心配してくれてありがとう。考えてみるね」
由香里はそういう時でも、いつもの大らかな笑い声を立て、悪びれずお喋りに付き合うのだ。
「ねぇ、由香里 せっかく技術があるんだから、病院の掃除婦とかボランティアみたいな下宿しなくてもさ・・
あの人思い出すから 嫌なのは解るけど・・」
この間会った母の幼なじみは、そう言って髪に当てた手で挟を形作る。
が、ユキとトモの視線に気づき話を慌てて変え、わざとらしい大きなため息をついて肩をすくめた。
「本当に由香里はお母さんと一緒よね、赤の他人の世話には熱心で。そのくせ自分の事になったら全然相談もしてくれないんだから」
少し膨れた顔をしてみせる幼なじみに、由香里は愛想良く笑いながら感謝の言葉を言って、別れた。
急ぐ用事があるわけじゃないのに、トモの手を引く由香里の足は 心なし速い。
ユキは母親の過去を全く知らない。祖母がどういう人だったのかも知らない。
いつも朗らかでお喋りの好きな母が、自分の話になると全く語りたがらない事は、ユキも気づいていた。
どんな風にこの家で育ち、どういう経緯で自分たちを産んだのか、知りたいとは思う。
あの人達に聞けば喜んで教えるだろう。でも他人には教えてもらいたくない。母もきっとそれを望んでいない。
洗濯物を干し終えると、トモの開けた網戸を閉め、由香里はシャッと音を立てて
カーテンを引く。
*
ぼんやりと由香里はベランダに立っていた。
「ママ?」
ランドセルを机の脇に掛けながら、トモが声を掛けた。
「どうしたの?考え事?」
トモは時々、妙に大人びた物言いをする。由香里は振り返っていつもの笑顔を見せ、部屋に入った。
頭の中で繰り返し考えていたのは 幼なじみに言われた言葉。由香里は頭をふるんと振って、トモには別の事を答えた。
「雨になりそうだなって思って。金木犀ももう散っちゃうのかな」
見上げると天井、トモの机の上辺りに染みのようなものが広がっている。
「屋根直さないと、漏ってくるね」
「やだ、濡れちゃうと困るよ。絶対困る」
トモはそう言いながら勉強机の上にぺたりと頬を寄せ、机を抱きしめる格好をした。
白にピンクをあしらった「おひめさまの」デスク。
学習机がずらりと並ぶ家具屋の中を浮かれて走り回った挙句 トモはが気に入ったのは「白い机」だった。
「皆と同じような色じゃないって、後で嫌にならない?」
「一生使うものなのだから、しっかりした物の方がいいんじゃない?」
一緒に暮らす日が長くなり、塔岡も子ども達に自然に話しかけるようになっていた。
父親ごっこを楽しむかのように、小学校入学を控えたトモの学習机選びに 塔岡はやけに熱心に口出しし続ける。
「学習机を一生使う人なんて 見たことないよ」
塔岡に買ってもらったクッションの包みを抱いて、ユキがあきれ顔で笑って言った。
家具屋の店員は当たり前のように、塔岡に商品の説明をし、
「お父さん、優しくていいね」
かがんで目線を合わせ、飛び切りの愛想顔で、トモにに話しかけた。
トモも満更ではなさそうで、にこにこしながら塔岡と手をつないだりして甘えてみせる。
ユキのイメージの中の「父親」は もう少し細身で若かったけれど、それも単なるイメージでしかない。
母は父のことを全く話してくれない。生きているのかどうかもユキは知らない。
売り場でトモが目をつけた白いデスクは組み立て式の安っぽい品物だったのに
結局塔岡がカタログまで出してこさせて、これに決めた。
由香里は何度も断ったけれど、塔岡が強引に自分のカードで支払った。
「塔岡 正弘」
塔岡は自分の名前を躊躇なくサインした。由香里はその手元をじっと見詰める。
ずっしりと重く艶やかに輝くその家具は、日に焼けた畳敷きの狭い部屋で妙に浮いて見えた。
*
塔岡は、最近出かけがちだ。
トモはとっくに小学校に行っている。
寝巻きのまま ユキはカーテンを開け外を見た。
ひんやりした秋の空気が心地良い。
隣のトモの部屋に続くベランダには、もう乾きかけた洗濯物が風に揺れている。
この春からユキは、黙って学校を休む日が増えた。
「あの担任、嫌い」
問い正しても、ユキはそれ位しか答えない。
「家庭訪問の時は沢山お喋りして下さって、ママは楽しそうな良い先生だと思ったんだけどなぁ」
─その「楽しいお喋り」の後、うちの家族構成について、学校でねちねちと聞いてきたんだ。
だけど、それは言えない。
担任はその時 家にいた塔岡の姿を見ていた。
ユキの不登校におろおろする由香里に向かって塔岡は言う。
「人生長いんだから、ちょっと休む時間があったって大した事ないさ」
「人生の休み時間」とか「仮の時間」という言葉を使って、塔岡は話を続ける。
─心のバランスが危うくなったら、人生の一時期、自分に「別の時間」を与えることも必要なんだよ。
四人で食卓を囲みながらそんな話をしていると、何だかユキも、こんな風にずっと「家族」が続くといいのにな
・・そんな気になってしまう。
─ママ、今日は仕事、休みなんだ。
ベランダのあたりから聞こえる何だか楽しそうな笑い声に、ユキは耳を済ました。
*
塔岡が外出するのと入れ違いに若い職人が屋根の修理に来た。
「代金はジュース代くらいでいいですから・・」
数日前、近所で仕事が入ったついでに 瓦のずれを直してやると言ってきた若い男。
「ほんとにジュース代で済むの?屋根に上がって、適当なこと言って
何十万する工事の必要があるとか 言ってきたりしない?」
「実際屋根に上がって見ないと解らないこともありますけど・・」
日に焼けた顔を更に赤くして、人の良さそうな青年は、不器用な言葉で応えていた。
玄関先で由香里は 気さくに話しかけている。
セールスマンや保険の勧誘にも驚くほどフレンドリーに応対する人だ。
結局ジュースを出し、由香里はそのまま茶の間で青年と話し込んでいた。
由香里の母も田舎の感覚が抜けない人で、よく若い配達員や御用聞きを家に上げ、休憩させた。
由香里が学校から帰ると、そんな「お兄ちゃん」たちが茶の間で新聞を広げていて
「お帰り」と言ってくれることもよくあった。
配達ミスで余ったものをこっそり貰ったり、宿題を見てもらった事もある。
そんな母が、周囲からどんな目で見られているのかなんて、そのころの由香里には考えも及ばなかったことだ。
すっかり屋根屋の青年がくつろいだ様子になった頃 トモが帰って来て、男物の見慣れない靴に気づく。
青年が「お帰り」と声を掛けると、トモは酷く驚いた顔をした後、さっと表情を硬くした。
「トモの部屋の天井を見てもらったよ、瓦がずれてるんだって」
「良かったね、今度お兄さんに直してもらうから、もう机が濡れる心配もないよ」
「ほら、やっぱりジュース代だけって訳には 行かなかった」
由香里の華やいだ話し声が、帰ってきた塔岡の耳にも届いた。
「塔岡 正弘・・」
まだ 馴染まない自分の名前を、塔岡はひとり呟いてみる。
「下宿人」以上の心配りや、身の回りの世話をしてもらっているとは思う。
けれど本当のところ、由香里の周りには、それ以上踏み込めない堅いバリヤーがある。。
トモの部屋の雨漏りなんて、自分は全然気づかなかった。
もちろん 修理の相談なんてされない。
この家にとって、自分はただの通りすがりの人間なのだ。
─誰にでも愛想の良い、親切な由香里さん
塔岡は机を買った時の自分の浮かれようを思い出し 自分を哂う。
それでも酷く 寂しかった。
*
ユキは、トモの白い机を手の平で撫でた。
「デスクマット敷いた方がいいよ」
「このまま使うの。だって、白くてつるつるで綺麗なんだもん」
ユキの忠告を、トモは頑として聞きいれなかった。
「その代わり、時々拭くんだよ。でないと真っ黒になっちゃうよ」
塔岡が言うと、トモは可愛さを最大限装った声音で「はぁい」と答えた。
自分が小学校に上がるとき この家に住んでいた男をユキは忘れていない。
「どうせ勉強なんかしないだろ」
何の権利もないくせに口を出し、
「良かったな、お前、勉強机だぞ、おい 嬉しくないのか」
男が運んできたのは、潰れた近所の会社から譲りうけた事務机だった。
スチールで、色は灰色で傷がいっぱいあって、 椅子はビニールが破れ、ウレタンが覗いてた。
動かすと、きぃきぃいった。
結局別の机を近所から譲り受け、ユキは使っている。
由香里は何度かちゃんと買おうと言ったが、
「あのひとが運んで来た机でなければ、どんな机だっていい」
嫌悪感を露にして 小さいユキはそう答えた。
由香里はユキの顔を驚いた顔でじっと見つめ、哀しそうな目をして無言でユキをぎゅっと抱きしめた。
男はそれから間もなくどこかに出て行き、そのまま二度と戻らない。
*
猫ちゃん ここに寝てください。
さあ、猫ちゃん わるいところはどこですか
事故にあったんですね
今までのこと何にも覚えてないんですか?
困りましたねぇ。たいへん困りますねぇ
トモせんせいがなおしてあげましょう。
手術しますからね。
その前に、ここの毛、少ぉし 切りますよ。
痛くないよ。
痛くないからね。
はい、ここ、切りますよ。
切りますよ。
─だけど・・・
トモは机の上に乗った猫を、くいと押さえたまま考える。
思い出さなくっても、いいこともあるかもしれない・・
思い出さずに 「今のまま」を続けられないかなぁ・・。
*
「何してるの?」
トモの部屋から悲鳴みたいな猫の声がした。
「何にもしてないよ、ママ」
慌てた様子で何かを引き出しに隠し、トモが振り向く。
「今日はお仕事お休みしたの?」
「うん、朝、屋根の修理の人来てたからね」
「塔岡のおじさんは?」
「さあ・・・出かけたみたいだけど?」
トモの目がベランダの方に向き、隣の屋根の向こうに走り去る猫の姿を追った。
「ねぇ、ママ?」
「何?」
「塔岡のおじさん 好き?」
「トモは好き?」
「ずっと一緒に暮らさないの?」
急なトモの質問に由香里は口ごもり、少し間を置いてからトモに向き直って言った。
「そうね、それは・・きっと、できないと思う。でも、また元通りになるだけよ。リセット。
部屋が空くのが寂しかったら、また次の人探そう。そういうのトモは嫌?」
トモは俯いて白い机をじっと見据える。
「塔岡のおじさん、トモのこと本当は嫌いかな」
思いつめたような顔。トモってこんな顔をする子だったろうか。
「ママ、おねえちゃんが中学ずっと行かなくて、トモもほんとのほんとはもっと悪い子だったら・・リセットしちゃう?」
「馬鹿ね、こどもをリセットなんて出来るわけないじゃない」
強い調子で即答し、一息ついてトモの腕にそっと手を伸ばす。意外な力で振り払われた。
日ごろのトモの無邪気な様子に酷くそぐわないものを感じ、由香里は戸惑う。
「じゃあ、大人だったら?もっと大きくなったら?
ママと喧嘩しておねえちゃんとかトモとか・・、出てっちゃったら、ねえ、ママ、
今まで居たことなんか、なかったみたいにして、忘れちゃう?」
「何で、そんな・・」
「ママは本当は・・トモのことリセットしたい?」
トモの頬をぽろぽろと涙が伝って落ちた。
そんな素振りを見せたことはないはずだ。
トモの顔を由香里は呆然と見つる。足元からずるりと沈んでいくような感覚に囚われた。
トモが生まれたとき、「父親」そっくりだと思った。最近ますます目元が似てきた。
トモへの愛情とは別に、何かの拍子にあの男の面影をトモの中に認め、背筋が凍りつく自分に気づく。
視線を感じて振り向くと、寝巻き姿のままのユキがドアのところに寄りかかって立ち、
酷く冷めた目で、二人を見つめていた。
*
最近 塔岡が出かける先は解っている。
外傷はすっかり綺麗になったし、体調も回復した。きっともう、記憶も戻っている。
由香里の勤める病院に、転落事故で運ばれてきた塔岡は、頭を強く打っていた。
奇跡的に助かったが、事故以前の記憶を失っていた。
医師は一時的なものだろうと言う。
病院に駆けつけた「奥さん」は、短い髪のよく似合う綺麗な人だった。
恋愛感情なんて、もう誰にも持たない。
ただ一緒に家にいてくれる男の人が欲しかった。
過ぎた日々は全部「別の時間」。
泣いたり悔やんだり、みっともなく縋ったり、そういうものは無縁。
あいつが万が一戻ってきても、居場所はない・・下宿人で部屋を埋めるのは、それが一番の理由かもしれない。
あの男・・父親らしいことなんかせず、ただ、だらだらと家にいたり
ふらりと出たきり帰らなかったりの繰り返しだった。
たまたまユキの入学準備の頃、少しの間、家にいた。
恩着せがましく古びた事務机を運んできたあの嫌な男が、自分の「父親」だとユキは知らない。
そして、私にトモを身篭らせて、またどこかへ行ってしまったことも。
あいつが帰ってきたって、一歩だってこの家には入れない。
もう私には絶対に触れさせない。
由香里はトモの机の引き出しをそっと開け、トモがこの前慌てて隠したものを探した。
きらりと光って見えたのは、細身のシルエットのカット鋏。
「どこから、こんな・・」
言葉を失った。
美容師を始めた若い頃、由香里が大事に使っていた宝物。
夫婦で店を持とうというあの男との、夢を信じた頃の思い出の品だ。
押入れの奥のどこかに追いやったまま忘れたつもりでいた。
思い出すこともなく心に封をしたはずの過去の時間が、大きな波となってうねりながら押し寄せる。
由香里は立っている事さえできず、ぺたりと床に崩れた。
*
病院のベッドで目覚めた時、塔岡は自分が誰なのか解らなかった。
大きな事故に遭ったということは 痛む身体が教えてくれる。
身元は所持品から辿れ、呼ばれた「家族」が病院に来た。
しかし、それもただ徒に混乱を招いただけ。
「自分」というものが何なのか考えようとする度、頭が割れるように痛かった。
事故の前にあったはずの「愛情」すら思い出せない。
ベッドサイドで自分の手を握り涙する「妻」を見ても、懐かしい気持ちさえ浮かんではこなかった。
本当に自分はこの人と幸せな家庭生活を送っていたのだろうか、疑念が頭の中を占める。
「このまま帰れない、少し時間が欲しい」
疲れ果てて氷のような表情になった「妻」はこくりと肯いた。
病室の掃除をしながら話を聞いてくれた由香里に、塔岡は寄りかかり、甘えた。
今時こんな風に、何の縁もない者の話を聞いてくれる人がいるのか・・
彼女は聞き上手で、その距離の置き方が心地よく温かい。包み込むような優しさを感じた。
「母が田舎の感覚が抜けない人で、他人を放って置けない質だったの」
─そんな親を見て育ったからかな?もともとおせっかいな家系なんだよね、
由香里はくすくす笑って言い、今丁度下宿人を募集していたところだと、自分の家に塔岡を招き入れた。
由香里の傍だけ、不思議な時間が流れ、落ち着く。二人の子どもも可愛かった。
白い机はせめてものお礼。
トモの喜ぶ顔が見たかった。束の間 塔岡は家族になった夢を見た。
それでも、由香里は塔岡に言ったのだ。
屋根の直った後の強い雨の日。落ちた金木犀の花がアスファルト一面をオレンジ色にしていた。
「何もして頂く理由はないわ。机代はきちんと返させて」
─本当の家族と本当の時間をもう一度進めなさい。どんな結果が先に待っているとしても。
由香里は塔岡に言う、柔らかな笑顔のまま。
「奥さんのところに帰りなさいね」
─ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから、ちゃんと過去と向き合って。
あなたの今まで来た道は、あなたのこれからに繋がっているはずだから。
そう言って、もう一度くしゃくしゃな笑顔を見せた後、由香里は視線を逸らし、
宙を見据えて唇をかんだ。
気詰まりな沈黙。雨音が一層激しくなる。
空気がピンと張り詰めて、何かの拍子に周囲全てがカタカタと崩壊しそうな気がした。
*
トモが学校から帰ってくると、僅かばかりの塔岡の荷物がなくなっていた。
「ママ、塔岡のおじさん いなくなっちゃったの?」
トモが泣きそうな顔で息を弾ませながら駆け込んできて言う。
勢い余って壁にぶつかりそうになるトモを 由香里はしっかり抱き止めると
膝に乗せて 髪を撫でた。
「塔岡さんは元気になったから、家族の待っているおうちに、ちゃあんと帰ったの」
トモは身体を捩って、由香里の顔を見上げ 責めるような口調で問う。
「次は誰?あの屋根屋さん?ママもう決めちゃったの?」
階段で立ち止まって、ユキも同じ気持ちで聞いている。
「決めてないよ、そんなの」
由香里は大きく息を吸い込んだ。
「あのね、ママ、下宿はもう止めようかな と思ってる」
由香里は少し目を瞑って沈黙した後顔を上げ、すっきりした笑顔を見せて言った。
─え? 何で? それ本当?
ユキもトモも何か言いかけて上手く声が出せない。
「三人で暮らす。家族で暮らす」
「どうして?」「お金困らないの?」
ユキとトモがまだ、もごもごと上手く言葉にできないまま 問いかける。
「ひとに言われたからそうするんじゃなわよ、ママもそろそろ考え時だな、と思ってた」
─自分が助言したからだって、誰かさんが嬉しがのも悔しいしね・・
ユキは由香里の肩に手を掛ける。トモは由香里の腕をしっかり握った。
由香里は二人の頭を引き寄せて、おでこを引っ付けると、囁いた。
「ユキもトモも髪、伸びっぱなしだね。ママ、格好良くカットしてあげる」
突然のことにユキもトモも戸惑う。由香里がカットしてくれるなんて言うの、初めてのことだ。
これが大事な打ち明け話?
「大丈夫、心配は無用。随分ブランク開いちゃったけど、実はママは、プロの美容師さんなんです」
由香里はちょっと大げさに 胸を張って言った。
*
「ユキ、ベランダにシート敷いて」
「トモ、タオル持ってきて。ねぇやるよ、今すぐだよ」
お風呂場の方がシャワー使えて便利だよ、とユキが言うのも取り合わず
急な事で驚くばかりの二人の子どもに、由香里はてきぱきと指示を与える。
洗濯物を除けベランダに椅子を出し、その思いつきにうきうきした様子で、由香里は準備を進めた。
黒いエプロンを掛け、袖をまくり、髪を後ろに一つに束ねる。
「ママ ほんとに大丈夫なのかな」
トモが小声でユキに言う。
「解んない・・解んないけど」
ちょっと 素敵じゃん、今のママ。
「お客様、お席へどうぞ」
由香里が声を掛け、トモを椅子に座るよう促した。
「それから・・この大事なママのカット鋏・・」
トモの机の引き出しから 由香里が挟を取り出すと、トモはみるみる真っ赤になって俯いた。
「ごめんなさい。ママの大事なものって知らなくて。押し入れで見つけて、凄く綺麗で、カッコよくって・・」
泣きそうなトモの肩にビニール袋を広げたケープを掛けると、由香里は飛び切りの笑顔で二人を見、
シャカシャカと鋏を鳴らしてみせた。
ユキが以前トモの引き出しで見た時より、艶やかに光っている。
丁寧に手入れされた輝きだった。
小気味良い鋏の音、カットに集中する由香里の目。
こんな目をした母を初めて見た気がする・・ユキは由香里の手元を目で追う。
「下宿の人置いたり清掃のパートするのを止めて、ママはもう一度美容師さんになろうと決めました」
カットの手を休めずに、二人が予想もしなかったことを由香里は切り出し、ふふっと笑った。
「だから勉強するの。最近の技術も覚えなきゃね」
「そう、だから『仮の時間』は終わり。あ、ううん『仮の時間』にして逃げるのはもう終わり・・って方が正しいな」
そして 小さな声で付け足した
「ずっとユキとトモと過ごしてきた時間だものね。『仮』なんかじゃなく、大事な本当の時間だわ」
ユキが顔を上げ、由香里を振り向いて見ようとしたら、
「お客様、少しだけ真っ直ぐしていてくださいね」
由香里はユキの頭を軽く抑えて、シャキンと鋏を鳴らした。
いい音だ。
「わぁ、見て、すっごい夕焼け」
カットを先に終えて いい感じのショートカットになったトモが、
ベランダの柵から半身を乗り出して叫んだ。
「特等席だね」
「そう、VIP席でございます」
ユキが肩を揺すって笑い、由香里がもう一度ユキの頭を真っ直ぐになるよう押さえ直す。
夕焼け色を映した鋏は シャキリと鳴り魔法のように皇かな動きを見せた。
この間の雨に負けずに残って、花を咲かせた金木犀が微かに香る。
「おーい、猫ぉ」
「のらの、猫ぉ」
トモが叫ぶと、いつもの猫が隣の屋根の上で首をもたげ、じっとこちらを見て、
「何もかも知ってますよ」という顔で一声、「にゃあ」と、鳴いた。
●《自己批評》
『当初の作品と全然違うものになりました。
「誰の(何の)毛」か解らないまま、皆が何か疑いあうダークでドロドロな話だったんですが・・(書けなかったものをいくら言っても・・・)
結局「家族万歳」・・・ってことで。はい。』
《STAND BY ME なずな》
゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜
◎仮の時間を与えられただけだったのだ
『Time is...』
著者:櫻朔夜
Time is...
『仮の時間を与えられただけだったのだ』
静かに瞼を落とすと、元から遮られていた視界は、完全な闇となる…
小木(オギ)は壁に埋め込まれている小さなモニターを眺める。1人の男が、目を瞑ったままじっと座っているそのモニターを。映し出されているその殺風景な一室を、ただ見つめているだけが、小木の今日の仕事だった。
男は、先程から微動だにせず簡易ベッドに座り続けている。既に朝食を終えてから1時間余。つまり、小木も同じく1時間余を、ただぼんやりとモニターを眺めていることになる。何かをしようにも、目を離してはいけないのだ。場慣れしている同僚には、デスクワークと並行させる者も居るが、この仕事に関しては、一時でも目を離すのは憚られる…小木はそう思っていた。
男に、少し動きがある。小木は画面に食い入るようにそれを見る。どうやら排泄のようだ。そればかりは何度見ても慣れることは無かったし、どちらかというとそれを覗き見る嫌悪すらあったが、それでも目は離さない。何せ、“見ている”ことが仕事なのだ。それに、好奇心が全く無いわけではない。男は立ち上がり、部屋の隅にある便器へと向かう。数秒の後、着衣を整え、また同じようにベッドへと腰を降ろす。そして目を瞑る。
小木は画面へ乗り出すようにしていた体を、折畳み式の椅子へと落ち着ける。
『それにしても堅い椅子だ…』就業後何度目かの感想。どうせ長時間座らせておくのなら、もっと座り心地のいい椅子を用意してくれても良いものだが。これでは、あの簡易ベッドと変わらない。それとも、こうやって監視される側の人間と同調させたいのだろうか…自分の居るこの狭い部屋にも、同じようにカメラがあるのではないか…と、一瞬背筋が凍りつく。こうしている今、自分も誰かに監視されているのではないか…そんな考えは寄寓に過ぎないのだが、この待遇の悪さでは仕方が無い。身の緊張を解き、既に見開き続けて疲労を覚える眼を軽く擦ると、小木は再び身を入れて何も変わらないと解っているモニターへと集中した。
小木にとってこの時間は、好奇心を満たし、同調から他人へと成り代わる、仮想の時間だった。
菅井(スガイ)は、長く伸びたリノウムの床を鳴らしながら、特に何を考えるでもなく歩いていた。このフロアに、菅井が責任を持つべき部屋は1つしかない。
その前を定刻通りに往復するだけが、今日の彼の仕事だった。床から壁まで真っ白なその廊下は、菅井には永遠に続くもののように感じる。たった、数十メートルの距離を歩くには、ゆっくりと往復しても2分とかからない。一応、ただ歩くわけではなく、その部屋の中をチラリと覗くことにはなっている。いや、実際はきちんと様子を確認しなければならないのだが、責任を持つべき部屋の住人は、先程の定刻確認の時と相変わらず、眼を閉じて簡易ベッドに腰掛け続けている。
2、3日前にこの仕事をした時もそうだった。
むしろ、ここ半年の間ずっと変わらないのだから、ある意味大したものである。
そのせいで、定刻確認とは言いつつ、この仕事は実の無い一辺通りの反復作業と化していた。それに菅井が確認するまでもなく、今日であれば今頃、小木が穴の空くほどモニターを見ているのだろう。それでも、“歩き、確認する”のが菅井の仕事なのだ。ただ黙々と、実際よりも長く感じられる廊下を往復し、往きと帰りの2回、部屋の中をチラリと覗き、詰め所へと戻る。
『今回も異常無し…か』いつもと同じ結果。戻りながら菅井は思う。これだけ静かで穏やかな空気は、他でもなく、あの男から発せられている。それはこの廊下を歩くたびに肌で感じていた。男にこれと言って感謝するわけでもないが、“何も無い時間”が、日々を辛く感じる菅井にとって、何物にも変え難い時間になっていた。通常勤務で表に出ているよりも、余程平常心を保てるのは、実はあの男のお陰なのかもしれない。菅井は事務机に向かい、いつもと同じ“異常無し”の文句を書き付ける為に日誌を広げた。
菅井にとってこの時間は、何も起こらないという保証付きの、癒しの時間だった。
田上(タガミ)は、窓を背にした大きな背もたれのついた革張り椅子に深く座り、提出されている日誌や報告書に目を通していた。
どれも1日に行われた作業や、時刻に沿った活動が記入され、整然とした事務的な文字が並んでいる。ごくたまに、多少問題ある仕事中の喧嘩や違反などの報告も見受けられたが、特に取り上げるほどのものでもない。このくらいの事なら、ここでは当たり前の事なのだ。
次に田上は朝刊を広げた。新聞は毎日、早朝勤務の者によって田上の机上に届けられている。先程まで読んでいた報告書に併せて、読売・朝日・毎日の三大紙と地元紙1部に、毎朝夕必ず目を通すのが田上の仕事…いや、日課でもある。
それらの新聞全てを、一言一句逃がすまいと、田上は紙面に顔を近づけて隅々まで目をやる。このところ老眼にでもなったのだろうか、少し見え辛くなった気もしていた。しかし、紙上はそんな田上の視力事情にお構い無く、世間を騒がす強盗事件から地域の放火と見られる小火情報、議員の違法計上、イベント情報まで、小さな活字で実に様々に書き立てていた。
『そういえば、もうあの事件は触れられてはいないのだな…』田上は読み終えた新聞を雑に折り畳んで少し離れたソファの上に投げる。次の新聞を手に取りながら、つい数ヶ月前まで新聞に限らずメディアを賑わせていた事件に思いを巡らせた。
−−【復讐劇】・【仇討ち】−−
昨今、最早時代遅れとなるようなキャッチコピーが、ずらりとメディアに勢揃いした、あの事件……確か、今年の初めだったはずだ。それから犯人が逮捕され、裁判が開かれ…今年はもう終わろうとしている。あれほど世間が大騒ぎした被害者10余名にものぼる事件が、今や過去の1頁だ。それほど時代が流れるのは早い。まだまだここでは若手と呼ばれる小木や菅井でさえ、着任してから既に2,3年は経つのだ。当たり前の事なのかもしれない。
いつも通りに全ての新聞を読み終えると、田上はいつも1番最後に目を通している、先程まで読んでいたものとは別の報告ファイルを取り上げた。
それは、広げても特に何の意味も持たない。何故なら、『何も無い』のが当たり前の日誌であるからだ。いや、当たり前でなくてはならない。勿論今日も、何も無かった。あの男が来てからというもの、自分はこの仕事の責任をまっとうできている…田上は安堵し、ファイルをそっと机上に戻すと、やっと一息とばかりに、煙草へと火をつけた。ここの始業時間は案外に早い。田上の朝の業務は、9時前に終了した。
田上にとってこの時間は、自分の地位や立場を安泰にしておく為の、再確認の時間だった。
加賀屋(カガヤ)は雪の中、数人の男と車に揺られていた。後部座席に深々と座り、口を堅く結んだまま一言も発さぬまま目的地は迫っていた。それは同乗の男も同じで、車内は重苦しい雰囲気に包まれていた。
もともと陽気な性格の加賀屋だったが、この仕事が入る日は必ず、見る影も無いほどに陰鬱な表情を漂わせるのが常だった。とは言え、人生にそう何度もある仕事ではない。もう既に引退している先輩にはこう言われた。
『この仕事が入った日には、派遣にでも行くつもりで…』
それを思い出し、加賀屋は更に両の肩が重くなり、座席に埋められるような錯覚を起こし、焦りを隠すように思わず咳払いをした。同乗の男がピクリと眉を上げたが、相変わらずの車内には、エンジンとエアコンの入り混じる音だけが響いていた。
と、車が速度を落とした。どうやら到着らしい。運転手が窓を開けると、車内に雪が舞い込む。寒冷地仕様の車内に降り立つ雪は、接地するそばからその輪郭を消して行った。
ふと気がつくと、建物の入り口に立っていた職員が目的を尋ねようと近付いてきていたが、面倒くさそうに運転手が見せた書類にハッとし、無言で屋内の別な職員に開門するよう合図を送る。目当ての“屋敷”は、沈黙と威嚇の表情で加賀屋を迎えた。
『今日の勤務は…小木と菅井か…』加賀屋は、勤務に当たっている職員の札を一瞥した後、ある一室へ向かう。無機質な扉の並ぶ廊下に対し、目指す部屋の扉は木造であった。加賀屋はその扉を一応ノックしたものの、返事も待たずに押し開け、滑り込むように入室した。
突然の事に驚いているこの部屋の主……田上は、加賀屋の姿を認めると、驚きで見開いていた目をゆっくりと伏せ、「来たのか…」と、誰にともなく一言呟いた。
「ええ」加賀屋は短く答える。「お願いします…」
たったこれだけの会話。たったこれだけの仕事。服装を整え始めた田上を眺めながら、加賀屋は別世界にでも居るような感覚に囚われていた。その加賀屋の目の前で、田上は小木と菅井、それから2人ばかりを電話で呼びつけた。その面々に、加賀屋が同行してきた男達の中から数人が加わる。どれも屈強そうな男ばかりだ。
数分で、全員が揃った。まるで映画でも観ているかのように、加賀屋の意識はこの事実に対応しきれずにいた。今からこの男達は、急遽与えられた仕事をこなす為に、加賀屋の居るこの部屋を出て行く。持参した封書を田上に手渡した時点で加賀屋の仕事は終わった。規定通りに田上による短い確認が行われ、その存在を忘れたかのように、彼らは加賀屋に目もくれずに去って行った。残された加賀屋はじっと息を潜める。発端は何にせよ、加賀屋の到着によって引き金は引かれた。
加賀屋にとってこの時間は、認めたくない事実を無かったことにする為の、逃避の時間だった。
男は、自分を取り巻く空気の違いを敏感に感じ取っていた。いつものように瞑想を始めてからすでに2,3時間は経ったはずだ。静かな、少々緊張感を伴う他人の視線はどこにもなく、どこか鋭い空気の流れを感じる。
尻の下にある堅い簡易ベッドの感触は、初日こそ痛みはしたが、既に麻痺して感覚など無いも同然となっていた。目は閉じたままであったが、もうだいぶ前から外界を見ることに興味など無くなっていた。世俗の喧騒を目にするくらいなら、盲である方が幸せ…とは誰の言葉であっただろうか。
監視されるという、ここでの仕事も甘んじて受け入れた。むしろそれは男にとって気にも止まらない、些細な事だったのだが。
細く目を開けると、塞がれて小さくなった窓から僅かに見える白い光景が、無感動に男の目の隙間を刺した。それは始まるでも終わるでもなく、どこまでも続く男の空(カラ)の心と同じだった。
突然、部屋の扉が開錠される音が室内に響いた。特に驚くでもなく男は立ち上がると、入ってきた男達を出迎えるように扉へと身体を向けた。田上をはじめ、小木、菅井、加賀屋とやって来た者…もちろん男が彼らの名前を知る由もないが、ただ、自分を連れて行こうとしていることだけは知っていた。静かに一歩、踏み出す。男のここでの仕事は、終わろうとしていた。
連れて行かれた部屋で、男は紙とペンとを手渡され、机を使うよう指示された。言うなればこの仕事を終える為の誓約書への署名であり、兼ねてから男が希望していた事でもあった。寒さで鈍った神経をどれだけ集中させても、久しぶりに握るペンはなかなか言う事を聞かなかったが、それでも男はしっかりとペンを握り、立ったまま机に向かって一字一字を丁寧に書き込んだ。
それが済むと、田上が男の前に立った。男は、先程の作業以外は何も希望しなかった為、全ての手順は省かれていた。
加賀屋の運んできた書類の封を切り、田上は重々しく抑制した声で、男に言い聞かせるようにその文面を読み上げる。
「死刑執行指揮書−……」
拘置所長の田上は、長い陳述を読み終えると小木と菅井を顎で促した。他数人の刑務官達によって、男は壇上の椅子に座らされ、素早く手足を拘束された。そして、黒い布を頭にかぶせられ、最後に首にロープをかけられる。
視界を遮られるのと同時に、布の内側の黒い闇をスクリーンに、悲痛な叫びを上げ、恐怖で顔を歪ませながら死んで逝った者達の顔が浮かんでは消えて行った。
その回想に過ぎない映像は、過去へ過去へと遡っていく。全部で13人…その死に様のどれをも鮮明に思い出すことができた。
そして、唯一愛した女、マリ…彼女だけは、その映像の中で美しく笑っていた。
殺された13人の一時の快楽と引き換えに、男はマリという己の存在理由を永遠に失った。それでも、マリは微笑んでくれていた。
作業を終えた刑務官達が階段を降りていく気配がする。
−−『仮の時間を与えられただけだったのだ』
闇に包まれ、男は再びそう思った。
『Desire』
著者:Monica
あの女の甲高い笑い声が細く遠く響いたような気がした
あたしはあの女に負けたのだ。
修史はもう、あたしのもとへは帰らない。
欲しかったのは存在意義。
求められる事でしか
自分を確認できなくて
必要とされてる事
実感出来なくて
居場所が無くって
いつだって居場所を探してた。
家では出来のいい姉に比べられ
学校では存在感も無く
あたしなんかいても居なくても何も変わらない。
いつもそんな風に感じて生きてた。
だけど、あたしだって居場所を探し続けてた。
誰かに認めてほしかった。
修史はそんなあたしに居場所を与えてくれた。
友達には猛反対された。
あんな男に近づくべきじゃないって。
だけど、どうしようもない事わかってても
あの人にはあたしが必要だと思えてならなかった。
何ひとつ自分で出来ない人。
靴下さえあたしが履かせてあげなければ
裏表逆にはいてしまう。
それなりに恋愛してきた。
普通にデートを重ねて
普通にセックスして
そんなものだと思って生きてきた。
だけど、修史は何もかもが違った。
初めて会ったその日からうちに転がり込み
あたしの人生を彩り始めた。
修史はあたしの持つ何もかもを明け渡す代わりに
ちっぽけなあたしに存在意義を与えてくれたのだ。
誰かに必要とされている
その事実はあたしを恍惚とさせた。
なんの取柄もなく特別美しくも無い26の女。
毎日くだらない事務をこなすだけの仕事と
誰も待たない築15年のアパートの部屋との往復。
その日常を変えてくれたのは
無職の上に何一つ自分で出来ないヒモ。
利用されてると人は言う。
でも、いったい他の誰がこんなにも
あたしに生きている実感を与えてくれるだろう。
朝までゲームをしていて、さっき寝たばかりの彼を
起こさないよう、急いで目覚ましを消すと
静かに仕事の準備をする。
夕べのうちに準備しておいた食事をお皿に盛って
冷蔵庫へ入れておく。
鍋のままだと修史はめんどくさがって
食べずにあたしを待つ。
おなかが減っているとイライラして些細な事で
殴られるから、カレーのようなチンするだけで
いいものが好ましい。
ご飯くらいなら自分でよそってくれるので
タイマーで昼過ぎに炊けるようにセットして
書置きを残す。
「冷蔵庫にカレーをいれてあります。
チンして食べてください。
ご飯は1時に炊けます。
今日は残業は無いので6時前には帰ります。
何かあった時のため、いつもの場所に1万円入れてあります。」
お金を置いていくのは、盗まれるよりましだから。
一度は、おばあちゃんの形見に大事にしていた時計を
質に入れられた事がある。
当然そのお金は競馬に消えた。
それを長い事言わないので、気づかずにいたら
質流れしていて、もう、買い戻す事さえ出来なかった。
殴られても、お金を盗られても
それでも修史があたしを愛して必要としてくれていれば
あたしは幸せだった。
修史があたしを殴るのは、
本当は修史のジレンマなのを知ってた。
あたしを好きなのに
何も自分で出来ないふがいなさに
あたしを殴る事であたしより
自分が上だと誇示してるんだって。
それって、あたしへの愛だ。
男であろうとしてくれてる。
人には見えない心の中で
修史はあたしを守ろうと
必死にあがいてる。
お金や地位なんてくだらない。
あたしを幸せにするのは
必要としあう愛情のみ。
他人になんてわからなくていい。
抱きしめてくれるぬくもりが
あたしを愛してくれてる唯一の実感。
だけど、それこそが本物だわ。
なんの不純物も混じってない
純粋でひたむきな愛情を
それ以外にどうやって表せるというの。
プレゼントで愛が図れる?
生活保障をくれるからって愛があるの?
一見幸せに見える家庭だって
本当に愛し合ってるなんて限らない。
あたしたちはこんな風に見えたって
お互いに必要とし合い愛し合っていて
とても幸せだわ。
修史はあたしに出来ない事はねだらない。
あたしを破滅させようなんて思ってない。
ヒモはヒモでもあたしを借金させたり
風俗で働かせたりするようなヒモじゃない。
ちゃんとあたしへの思いやりがあって、
ただ、とても不器用で社会のルールに
自分を無理に当てはめる事が出来ないだけ。
とても素直で自分にまっすぐであるが故の事。
そんな修史をあたしは誇りにさえ思う。
誰もが仕方が無いとあきらめる事を
彼はあきらめない。
そういう彼の支えになる事が
あたしの幸せなのだから。
だけど、こんなにも幸せな日々が長く続くわけも無かった。
ある日、家に帰ると修史の姿が無かった。
パチンコにでも行ってるのかと思って
夕食を作って待っていたけど
夜の11時になっても帰ってこない。
終電が終わる頃になり
やっと帰宅した修史はせっけんの
いい香りがした。
女の勘ですぐにわかった。
だけど、あたしは何も問いたださなかった。
失うのが怖かった。
目をあわせようとしない修史に
気づかないフリをして
つとめて明るく振舞い話しかけ続けた。
「ねぇ、今日は秋刀魚の塩焼きなの。
シーズンだからすっごくおいしそうよ。」
「くってきた。おなかいっぱい。」
女に食べさせてもらったのね。と内心思う。
「そう、じゃぁ、明日のお昼にでも食べてね。
そうそう、あたし今日仕事でね、浅草橋の支店まで行かされたんだけど、そこの近所にすごくおいしい中華料理の店があるんだって、今度一緒に行こうね」
自分でもバカみたいにまくし立てる。
不安で何かしゃべっていないと落ち着かないのだ。
だけど、修史の返事は無い。
その日から女の影が消える事は無かった。
3日に一度は帰ってこないようになった。
それでもあたしは何も言わなかった。
正確にはいえなかった。
修史を失ってしまうのが怖かった。
疑問を肯定されてしまうのが怖かった。
だけど、ある日それは決定的になった。
仕事へ向かう途中、一人の女が待ち伏せしていた。
彼女は色白で大きな目が愛らしいキレイな人だった。
同い年くらいだろうか、それなりにいいものだと解る
スーツを着ていた。
あたしよりも稼いでいるんだろう。
「修史の彼女さんですよね?」
どきりとした。
人の男を呼び捨てにする事にもかちんときたが
なによりも呼びなれた響きがあって
胃が逆流するような不快感を覚えた。
何も答えずにいると表情で察したのか
彼女はかってに話し始めた。
「修史と別れてください。
あたし、修史と付き合っています。
修史は優しいから、言い出せないんです。
今まで良くしてくれた貴方に申し訳ないって
思ってるんです。」
血が頭に上っていくのが解る。
視界が歪み動悸が激しくなる。
「な、なんであなたにそんな事を言われなきゃ・・」
言葉をさえぎって女が続ける
「貴方と居たら修史はどんどんダメになる。甘やかされて、自分で生活する力をつけようとしないわ。だけど、そんなの修史だって望んでない。貴方はそうやって見えない檻の中に修史を閉じ込めて安心したいだけなんだわ」
図星だった。
見えない檻どころか、本当に檻に閉じ込めてしまいたいとさえ思っていた。修史に生活力なんてついたら困る。
あたしは存在意義を失ってしまう。
あたしは無言で足早にその場を立ち去った。
「あなたが今無視しても、遅かれ早かれ、その生活は今に壊れるのよ。自分からの方がダメージは少ないわ。修史と別れなさい。」
女は無視して走り出したあたしの背中に向かって叫んだ。
あたしはもう一度決意を改めた。
絶対に別れないと。
あんな女に絶対に修史は渡さない。絶対に。
だけど、修史のあたしを抱きしめる腕は
もう以前のものではなくなっていた。
遠くを見つめ考え事をしている事が多くなり
会話は減り3日に一度しか帰ってこなくなり
次第にそれは1週間と伸びていった。
あたしは修史がいつ帰ってきてもいいように
食事を作り続け、部屋を掃除して
新作のゲームを修史のために買い
修史の事を思い続けた。
とうとう、1ヶ月帰ってこなかった。
きっと、もう帰ってこない。
どんな風に引き止めたらいいのかさえ
解らなかった。
解っているのは責めたら逃げられるって事だけ。
何も言わず耐える事しか出来なかったあたしに
いったい何が出来たんだろう。
あたしは会社に行くのをやめた。
もう、なんのためにお金を稼ぐのかさえ解らなかったから。それに修史が少ない修史の荷物を取りにいつ帰ってくるか解らなかったから。
それでも、修史は帰ってこなかった。
会社に行くのをやめてから2週間経った頃、会社から荷物を引き取りに来るように連絡が入り出かけた。
帰りに偶然工事現場で働く修史の姿を見かけた。
あたしはあの女に負けたのだ。
甘やかして部屋に閉じこめる為に修史をダメにしたあたし。
女を守ろうとする本来の修史の姿に戻したあの女。
欲しかったのは存在意義。
修史もまた、誰かの為に戦う存在意義がほしかったのかもしれない。
あたしは思う。
人の幸せは傍から見れば解らない。
あたしの幸せも人から見れば解らなかったように
修史が幸せかどうかもあたしにはわからなかった。
だけど、一見ヒモに見えたどうしようもないその男は
あたしを幸せにする奇跡のような例外として存在していたのだ。
●《自己批評》
『ヒモはどうしても女を殴るものらしいです。
やっぱり存在意義の為にみんなあがくものだから
そういうものを書いてみたかったんです。
ヒモは一応いたことないし
自分の男に殴られた経験は無いけど
なんかそういうの書いてみたかった。
ほんとは殴られ描写も書きたかったんだけど
なんかかけなかった。残念。』
《Bitch Line Monica》
゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜
◎奇跡のような例外として存在していたのだ
『欺いた仮面』
著者:かしのきタール
Count-one 埋もれた声
『その時少女は、誰の目にも輝いているようにみえた。
奇跡のような例外として、その存在を許されたのだ。』
奥歯に苦味が走った気がして、妙子は目を伏せながら、
半ば手探りでそのページに栞をはさみ、ダイニングテーブルの上に
文庫本を置いた。頭の側面に感じるひりつくような痛みは、
手のひらでおさえてなお増すようだ。
「……奇跡のような、例外。。。。」
両手で頭全部を抱え込むようにしてテーブルに突っ伏しながら、
妙子は、そうつぶやく自分が、どれほど奇跡にすがりつきたいと
願っているかを、思い知った気がした。
物語の中で、病気の少女に起こる奇跡は、死の間際にやっとかなう願いだった。
そう、それは最後の手段に違いない。
しばらく目を閉じて、あらゆる苦痛をなじませてから、
ゆっくりと立ち上がる。
洗面台の灯りを点け、鏡の前に立つと、輪郭のはっきりしない陰気な顔が、
じろりを自分を見つめ返していた。
化粧ポーチから取り出したパウダーで顔の脂をおさえ、
別の意志を持っているかのように強い色を放つ
ローズピンクの口紅を薄い唇に塗りつける。
顔をあげてむりやり笑うと、
印象の薄い顔から日紅だけが浮き出てみえた。
「いやな顔。」
自分を嘲り、心のバリアにすりかえる。
深呼吸をしてから、洗面台の灯りを消した。
園バスの到着時刻が迫っていた。
母親たちのざわめきが耳に届かなくなったのは
いつ頃からだっただろう。
そんなことを考える気力すらとうになくした自分に
妙子は気づいていた。
公園のあちらこちらでさんざめくハイトーンの音声は、
妙子の耳に届く前に、素早く泥の塊となって砂場の底に落ち、
吐き出す吐息は、砂にぽつぽつと不気味な穴を開けていく。
ーーーせめて。
妙子はそれでも思うことがある。
音が空洞にならぬよう、努力をすべきだったのかもしれないと。
泥の塊をかきわけても、声は二度とあらわれてはこない。
妙子にとって、母親たちの音声を言葉として理解するには、
放たれるその瞬間に着地点を予想して待ち構える必要があった。
だから、考える。
せめて予想するすべさえ失っていなかったなら、と。。。。
★
「タカト、タカちゃん、ほら、ユウくんも、
そっち行っちゃダメ、道路に出ちゃうでしょ。」
真樹子は他の母親たちに体の正面を向けたまま、
両手をメガホンにして、タカトの背中に呼びかけた。
園バスから飛び降りてそのまま一目散に駆け出すのはいつものことだ。
タカトだけじゃなく、その公園を乗降場所にした園バスから降りてくる
園児のほとんどが、檻から放たれた小動物のように走り出す。
かろうじてまわれ右したタカトと、
同じく方向転換をしたユウの姿を確認して、
視線を元に戻すと、母親たちの輪の中にはいってきた
ミカが、ママに園バッグを預けながらだるそうに
体をもたれかけさせ話しかけていた。
「あのね今日ね、ようちえんでね。」
と言っているようだけれど、
園バスが到着するまでの大人たちの雑談に慣れきった耳には、
幼児の発声は唐突すぎてなかなか聞き取れない。
「……カメ? カメつくったの?」と訊き返した母親に、
ミカは「ちがうぅぅ〜っ!」とヒステリーをおこしてしまった。
「ゴメン、ゴメン、ああ、仮面ね、そうか、ハロウィンだもんね」
謝る母親の太ももを、両手の「グー」で力いっぱい叩き始めたミカに、
真樹子をはじめ、他の母親たちも揃ってひざを曲げ、
「ママ、いたいよ、かわいそうだよー」と、
親しきママ友達の、かわいい子供をなだめにかかった。
園での長い一日を無事務めてきたという子供なりの達成感と、
母親の元へ戻ってきた安堵感との狭間でもがき、
母親の関心を自分へ向けようとする子供たちの相手をするのに
苦心しながらなお母たちのおしゃべりは終わらない。
芸能情報に詳しいナオくんママの話に盛り上がり過ぎて、
今日はまだ、お茶会の計画が立っていないのだった。
「いいわ、ウチにきて。」
決して無理しているようにだけは聞こえないよう気をつけて
真樹子が言うと、
「でもほら、倉田さんとこはこの前お邪魔したばかりだし。」
ウチでもいいのよ、とユウくんママは言ってくれるが、
それなら、とお願いする訳にもいかない。
誰もが、ウチでもいいんだけど、というセリフを
すぐに口に出せる用意を整えておいて、
誰かが先に口にするのを待っている。
「いいの。ダンナ、今日も遅いし。全然平気よ。」
ーーー急いで掃除機だけはかけなくちゃ。
ジュースの買い置きあったかしら。
忙しく思いをめぐらせながら、
それだけではない気分の重さを感じて、真樹子は憂鬱になった。
高峰妙子のローズピンクの口元が、脳裏をよぎった。
★
真樹子たちママ友達は、同じ園バス乗り場を利用する
というだけでなく、同じ公団住宅に住むという共通点を持っていた。
ほぼ同じ間取りの2LDKに、似たような構成の家族が
多く入居していたその団地は、比較的家賃が安いこともあって、
母親たちは出産後慌てて働きに出ることもなく、
同じ頃に出産した母同士での付き合いを深めていった。
午前中、団地前の公園で子供を遊ばせながら立ち話をしたあと、
近くのスーパーで買い物をし、家に帰って
子供との昼食を済ませたら、午後からは、
誰かの家に集まるのが、ほぼ毎日の日課だった。
乳幼児を抱えた不自由さをまぎらわせ、
家に籠らざるを得ない孤独感を解決するために、それは、
必要不可欠なことに思えた。
子供が幼稚園にあがっても、それは自然に続いていた。
その頃になると、子供も二人に増えていたため、
上の子を幼稚園に送り出したあと、まだ歩くのも怪しい下の子を
公園で遊ばせながらおしゃべりし、お茶会の設定をしていったん別れ、
午後、幼稚園から戻ってきた子供を連れて誰かの家に上がりこむ。
ーーーこの間、ウチでお茶した時は
と、真樹子は急いで掃除機を取り出しながら思う。
園で芋堀りがあった後だったから、
みんなそれぞれに、さつまいもを使った手作りのお菓子を
持参してくれたんだった。
ユウくんママのポテトケーキは美味しかったわ。
バターの分量が難しいのよね。今日は正確なレシピを教えてもらおう。
真樹子はその日、簡単なスイートポテトを作った。
みんなおいしいと言ってくれたけれど、
もう少ししっとり感が欲しかったと、残念に思っていた。
ざっと掃除機をかけて、脱ぎ散らかした洋服だけは片づけて。
どうせ部屋の間取りも同じ。
付き合いの長いママや、生まれた時から知っている子供たちに
気兼ねや遠慮はいらない。
「ウチにきて」と口火を切らざるをえなかった時によぎった
億劫な気分はもうすっかりなくなって、真樹子は
おしゃべりの続きがしたくてたまらなくなっていた。
ナオくんの芸能情報には続きがあるはずだったし、
お菓子作りの上手なユウくんママには今日こそレシピを聞きたいし、
下の子の誕生日が近いミカちゃんのママには
保健所の検診予定を確認したい。。。。
タカトのお迎えの時間を含めてぐっすりと昼寝していたアキトが、
掃除機の音で起きてきた。午前中の公園遊びで疲れて、
ちょうど園バスのお迎えの時刻に眠ってくれるアキトには助かる、
と真樹子は思う。
ーーータカトはちっとも寝てくれない子だったから、しんどかったわ。
ママ友達に、いまだに真樹子はついこぼしてしまう。
それに比べて、2歳になったばかりのアキトは
赤ちゃんの頃から、本当に手のかからない子供だった。
声が枯れるまで泣き続ける癇癪持ちのタカトとは、
一緒に泣きたい気分で過ごした真樹子も、
教科書通りにミルクを飲んでは眠ってくれるアキトの育児には
まったくといっていいほど、苦労せずにすんだ。
ミカの弟のケンタは、アキトの一か月後に生まれた。
真樹子とは反対に、ミカには全然苦労しなかった、というママは、
駆け回っては危険なことにばかり手を出し、
昼寝したと思ってもすぐに起きてしまうケンタの激しさに
ほとほと参っているようで、
公園や団地や、ヘタをするとスーパーの中でも、
「ケンタ!!」と大声を張り上げるミカちゃんママの声が聞こえる。
タカトの一番の仲良しのユウの妹、アヤは、
アキトよりも半年遅い早生まれで、学年が違うことになる。
目がぱっちりと大きくまつげの長い、人形のような顔を見るたび
ママ達は口ぐちに「可愛いわねぇ」と眼尻を下げる。
この間は、ユウくんママから、
「最近、パパったらこの子にキスするから嫌われてんのよ。」という
暴露があって、体育会系のユウくんパパを皆一斉に思い浮かべ、
へぇあのパパさんが、という目くばせが飛び交ったものだ。
ナオには、トモという弟がいる。
二人とも男の子にしては静かだと真樹子はいつも感心する。
理知的よね、などと言うたび、ナオくんママは
「親がバカなのに理知的なワケないでしょー」と大きな声で跳ね返し、
ママたちはみな、お茶をこぼしそうになりながら笑う。
そんな時、空気の揺れのせいなのか、のけぞって笑う親の体が触れるのか、
たいてい、子供のうちの誰かが、盛大にジュースをこぼす。
そんな時も親たちは、勝手知ったる他人の家とばかりに
キッチンや洗面所を遠慮なく使って、
わいわいと掃除をし、落とした子供のプラカップをすすいで、
ジュースを注ぎ直す。
そこには、連帯感と信頼があった。
幼い子供を抱えて常に心の奥に抱え込まざるをえない、
親としての責任という漠然とした不安が、
同じ立場の者同士で共有し、おしゃべりし笑い合うことで、
絶ち消えてゆく。
いつまでも、そうであってほしいと真樹子は願う。
特に、実家が遠方にあって親の助けを借りられない真樹子は、
このママ友達だけが頼りだという気がする。
「そろそろみんな来る頃ね。」
寝起きのアキトがタカトと一緒に
ミニカーで遊び始めたのを眺める真樹子から、
ショウタくんママである高峰妙子の存在はもはや、
消え失せていた。
Count-two 凍りつく顔
公園の中央にそびえ立つ滑り台に向かって
駆けて行くショウタを呼びとめるわけにもいかず、
妙子は小さくため息をついた。
思った通り、数メートル離れた先からショウタを見つけ、
本能的に妙子を探して首を回した倉田真樹子と目が合った。
他の母親たちの輪から動かず会釈をする真樹子の表情には、
本人が意識する前に、妙子に対する困惑がにじみ出てしまっている。
真樹子の気持ちを面白がるように、
最初からその存在を知っていた妙子が
大げさな笑顔で会釈を返すと、それを見届ないうちに、
妙子には見せない顔の真樹子が輪の中へ戻った。
真樹子たちの待つ園バスよりも数分早く、
公園の向こうの大通りに着くショウタが
大好きな滑り台を独占できるのは今のうちだ。
もうすぐ、タカトたちの乗った園バスが着く。
ショウタが、あれほど仲良しだったタカトのことを
口にしないのは、いくら幼稚園が別々とはいえ
不思議な気もするが、ありがたいと妙子は思う。
★
「珍しいわね、高峰さんでしょ。」
ユウくんママが、真樹子の後ろを覗き込むようにした。
「そうね、あまり見かけないわよね。」
答えながら、真樹子はニタリと笑う濃いピンク色の
口の形が頭に巣食った気がして、軽い寒気を覚えた。
高峰妙子は、真樹子たちの前に姿は見せなくても、
いつもどこかで真樹子たち。・・・いや、真樹子だけを
見ている。そんな気がしてならなかった。
たまにはお茶に誘ってみようかしら。ーーー以前のように。
そう思う時は何度もあったが、いつもどこか人目を避け、
ママ同士のにぎやかなつきあいを避けている様子の妙子には、
つい声をかけそびれてしまう。
きっと妙子の方も、大勢集まるお茶会には
来たがらないだろうと思うと、
誰も集まらない時に声をかける機会もないままに時は過ぎ、
時おりこうして顔を合わせるたび、気まずい空気を感じるように
なってしまった。
以前は親しくしていた妙子とそんな間柄になったことは
残念ではあるけれど、妙子と一緒にいたのでは、
今度は他のママ達との交流がしにくくなってしまう。
今さら無理に拘わろうとしない方が、お互いのためかもしれない。
真樹子はそう考えることにしていた。
ーーーショウタくんとタカトを遊ばせてやれないのは
かわいそうなんだけど。
まだ乳児の頃のショウタとタカトを並んで寝かせ、
顔を見合わせ笑い合ったはずの妙子の笑顔を、
その時、真樹子はとうとう思い出せなかった。
★
タカトたちの園バスが着く前に、妙子の呼びかけに応えて
ショウタは大人しく団地に帰ってきてくれた。
真樹子たちはまたいつものように、公園から戻ってきたあと
さらにしばらく、階段の下で話し込むに違いない。
真樹子が住むのは、妙子と同じ棟の3階だから、
1階の妙子は、真樹子が使う階段の脇を通らなければ帰れない。
にぎやかに話し込む彼女たちの傍を通り抜ける時には、
拷問のような気分を味わう。
その前に、なんとしても、家に戻っていたかった。
ショウタの園服を脱がせ、靴下を脱がせる。
用意したシャツとズボンに着替えるように言いつけて、
テーブルにビスケットとジュースを置き、
ショウタの好きなプラレールをざっと並べておいて、
同じ列車の登場するプラレールのビデオをセットする。
こうしておけば、ショウタは大人しくひとりで過ごしていてくれる。
「おやつを食べる前によく手を洗うのよ。」
返事を待たずに、妙子はショウタが身に着けていたものを
ひとつひとつチェックする。
靴下についた泥汚れは、液体洗剤を擦り込んで、
手でもみ洗いをしてから、洗濯機に入れる。
一見汚れてはみえない園服も、
妙子には、際限のない種類の汚れがついていると思われて、
毎日洗濯しないではいられない。
園でかぶるベレー帽にも、毎日必ず、ブラシをかける。
洗濯ついでに、洗面台と風呂場の掃除もする。
湯垢を見つけ、「またあの人は。」とため息をつきながら、
すぐにスポンジで取り除く。
ーーー石鹸を使ったらちゃんと泡を流してって言ってるのに。
夫の照直は、酒もタバコも飲まず、毎日、判で押したように
同じ時間に出勤し、同じ時刻に帰ってくる、実直なだけが
取り柄のような男だった。
口を出さない。文句を言わない。
・・・そして何も答えない。
それはつまり、家庭にも妻にも関心がないということだ。
商家で育ち、親の干渉が強かったことと、
容姿へのコンプレックスから、恋愛には消極的なまま、
20代のほとんどを終えようとしていた妙子の前に現れた照直を、
自分の親の覚えがいいだろうと踏んで付き合い始め、
20代のうちにと結婚を急いだ。
照直には、最初から何の期待もしていなかったと、
妙子は時々、自分に確認する。
ーーー私には、ショウタがいる。
夫に似て、鉄道が好きで大人しいショウタは、
ききわけが、とてもいい。
「ママごめんなさい。ビスケットこぼしちゃった。」
テーブルにひとかけらのビスケットが落ちて、
小さな破片が砂のように広がっていた。
「いいわよ。あっちいってなさい。」
妙子は即座に微細なかけらすら残さぬようにテーブルの上を片付け、
午前中に使って片づけた掃除機を再び取り出して、
念のためにと、テーブルの下の掃除を始めた。
ーーーそろそろ洗濯が終わるだろう。
あとはアイロンがけをして、
それからショウタのおやつの分の洗い物をして。。。。
お互いの家に呼び合っていた頃の真樹子のことを
時々妙子は思い出す。
ショウタが生まれた年に、タカトを連れて越してきた真樹子とは、
ごく自然に声を掛け合い、付き合いが始まった。
くったくのない笑顔で笑うことができる彼女に、
自分もそうでありたいと思い、そう見えるようにと、
一生懸命、笑顔でこたえたつもりだった。
一歳にならない頃のショウタとタカトを見比べながら、
体重の増え方を報告し合い、離乳食の相談をした。
思い出の中の真樹子の笑顔が、さっき見た困惑顔にすりかわる。
ーーー真樹子とタカトが帰ったあとの掃除は楽だった。
取り戻せない過去にクサビを打つため、妙子は記憶もすりかえた。
賑やかな声が扉の外から響いてきた。
公園から戻ってきた真樹子たちに違いない。
心のクサビが震える音を、掃除機の音で打ち消した。
Count-three 汚れた手
「ママ、外で遊んでいい?」
言うが早いか、もう扉を開ける音がする。
小さな弟や妹の世話をしながら、おしゃべりに忙しい母親たちに
幼稚園児はどうせかまってもらえない。
おもちゃで遊ぶのに飽きると、タカトたちは
すぐに外へ出て行ってしまう。
秋の日暮は早く、ついさっきまでの昼の明るさは
すでに夕暮れのそれに気押されたようにみえる。
団地の敷地内には、多少の植え込みと、自転車置き場、
駐車場、倉庫などがあって、タカトたち幼い子供にとっては、
通り一本隔てた公園よりも、よほど刺激的な遊び場に
なっていたけれど、子供だけで遊ばせるには危険だといえたし、
子供のせいで自動車に傷がついたつかないで、
遊ばせるな、というクレームも出たこともあり、
子供が出れば、親もついて出なければならない。
「公園で遊んでくれればいいのにねぇ。」
あっという間に出ていってしまったタカトたちには
気をつけて遊ぶようにと声をかけるヒマもない。
ミカちゃんママとナオくんママが、
それぞれひざに乗せていたケンタとトモ、それに、
真樹子の横で大人しくミニカーで遊んでいたアキトと
奥の部屋でひとりでお絵かきをしていたアヤにも
声をかけ、
「じゃ、子供たち見てくるわね。」と言って、あとを追う。
幼稚園の兄と姉を見張りながら、弟妹軍にも外遊びをさせるのだ。
ママ二人と子供たち全員が出て行ったあと、
さっきまでと同じ空間だとは思えないほど静かになった部屋で、
真樹子は後片付けのために残ってくれたユウくんママと一緒に、
食器を洗い始めた。大家族のような量の洗い物が
シンクにたっぷりと運ばれる。
「ショウタくん、外にいるかしらね。」
ユウくんママに言われて、真樹子はグラスをすすぐ手が
ビクンと跳ね上がるのを感じた。
「……どうかしら。」
「さっき、高峰さん、いたじゃない?
いつもすぐに大森公園まで行ってるんでしょ。」
大森公園は、団地の前の公園よりも200メートルほど先にある
広い公園で、真樹子たちもたまには行くけれど、
園バスの乗降場所にもなっている団地の前の公園で
毎日遊んでいるのに、わざわざ離れた場所まで行く
必要はないと思っている。
高峰妙子は、ショウタをわざわざ
タカトたちとは別の幼稚園へ入園させ、
わざわざ遠くの公園で遊ばせる。
妙子が砂場セットのバケツを持ったショウタの手を引いて
団地から出ていく後ろ姿を、
ユウくんママと一緒に見かけたあの日の不可解な気持ちが
蘇った。
ーーー誰にも声をかけずにひとりで公園に行くなんて。
うすうす感じていた妙子との距離が
急に離れたのは、あの時ではなかっただろうか。
「ショウタくんって、誰と遊んでいるのかしらね。」
ーーーわからないわ。と答えるのは薄情な気がする。
ユウくんママは、真樹子と妙子の関係をどう思っているのだろうか。
他のみんなは。。。?
真樹子よりもあとから入居してきた3人とは、
子供が同い年ということで、すぐに打ち解けた。
もちろん妙子も交えて付き合えると思っていた。
妙子との年齢差はひとつだけ。真樹子の方が上だった。
あとの3人は、もっとずっと若かったから、
むしろ真樹子は3人との付き合いに関しても、
妙子を頼りにしていたくらいだった。
付き合い始めの頃はよかったと真樹子はため息をつきたくなる。
それぞれの子供ひとりずつを連れた5人の立ち話は
尽きることがなく、団地に笑いがこだました。
その頃から、もっぱら集まるのは真樹子の部屋が多く、
5人のママに子供も5人、お菓子を食べながら
育児情報の交換もしたものだ。
ーーーだけど。
思い出そうとするだけで、真樹子は暗い気持ちになるのを
止めることができない。
妙子は、当初から、5人が集まるとふいに黙り込むことが多かった。
真樹子と二人だった時にはあれほど笑い合ったのに、
5人になると妙子はいつもどこか上の空で、いつだったか
ナオくんママが、関西の味と関東の味の違いを熱弁して、
笑い声に包まれていた時に、ふいにユウくんママが、
「ショウタくんママはどちら?」と出身地を尋ねた時も、
妙子は何も答えずただ笑っていた。
ーーーそう。
最初から誰の話も聞いていなかったとでも言うように。
妙子の部屋に集まったこともあった。
その時の妙子の眼つきを真樹子は忘れたことがない。
妙子は、ママたちの一挙手一投足を監視していた。
その眼は、クッキーの食べかすを払うナオくんママの手を追い、
溶けかかった飴のついた子供の手に
ジュースのはいったプラカップを握らせるユウくんママの
手元を凝視していた。
ではそろそろ、という時だった。
片付けのお手伝いをするわ、と申し出たミカちゃんママに、
妙子はきっぱりと言い放った。
「いいから。そのままにしておいてくれる。」
瞬間、空気がこわばるほどの断固とした口調だった。
あの日妙子は、皆が帰ってから、
一心不乱に掃除をしたのに違いない。
「さあ、外、見にいこうか。」
ユウくんママの声で我に返ると、いつの間にか
洗い物はすっかりキレイに、おもちゃもすべて片付いていた。
ーーー高峰さんには、こういう世界は向かないのね。
けれど真樹子は、妙子の干渉嫌いが、それだけでは済まない
不吉な何かをはらんでいるように思えてならなかった。
妙子の態度は、若いママたちを簡単に失望させた。
会話の場に妙子がいても、彼女に話を向けることもなくなったし、
妙子も相変わらず上の空だった。
決定的だったのはやはり、
ママ友達の誰にも声をかけずにひとりショウタの手を引き
公園に行った妙子の姿を見た、あの日だっただろう。
あの頃、真樹子のお腹には、アキトの命が宿っていた。
そしておそらくそれは、他の3人にも同様に。。。
Last-count 欺いた仮面
「奇跡」という言葉を意識した自分を
妙子は呪いたい気持ちだった。
いつものように大森公園に行けばよかったのだ。
いつも大勢の子供がたむろしている大森公園の滑り台では、
われ先にと上っていく子供の後ろについてばかりで
ちっとも滑れないでいる引っ込み思案の我が子を
妙子は見続けてきた。
団地の前の公園ならば、タカトたちが来るまでは、
砂場で遊ぶ小さな子供しかいない。
「今日は団地の公園で遊ぼうか。」
園バスから降りてきたショウタに言うと、ぱっと顔色を輝かせ、
早く早くと妙子の手を引いた。
真樹子たちとはなるべく顔を合わせたくなかった。
けれど、ショウタはもっと同じ団地の子供と遊びたいはずだった。
「団地の公園の滑り台」で遊びたいはずだった。
そんなショウタを思えば、真樹子たちと、いや、
真樹子とだけ、以前のように付き合いたかった。
真樹子となら、いつかふいに会話ができるのではないか、
そんな期待を抱かずにはいられなかったのだ。
ーーー奇跡は起きない。
真樹子の固い顔つきに、しかし妙子は絶望するしかなかった。
真樹子との関係がすべてだった。他の3人では無理だった。
自分の経験したことのないきらめいた独身時代を経て間もない
「若いママたち」のおしゃべりのトーンは、妙子の耳にはなじまなかった。
自分を豊かにしたり、生活を愉しんだりする余裕など、
夫との会話ひとつに苦心する妙子には、到底考えられないことだった。
結婚してすぐに、夫に求めることをやめた妙子は
商家である実家で母親がいつもそうしていたように、
家を片付け清潔にすることだけを生き甲斐にしてきたのだ。
妙子の住む一階の部屋の窓から、ショウタの姿が見える。
今日は大森公園ではなく、団地前の公園で数回滑り台を
しただけだからと、外で遊ぶことを許したのだ。
もしかすると、ショウタになら、
真樹子たちの誰かが声をかけてくれるかもしれない。
奇跡を呪いながら、それでもなお、
「奇跡のような例外」に期待をかけずにはいられない自分を
妙子は認めた。
★
「タカトー、アキトー、ユウくんもミカちゃんも、
みんなおいでー。」
ハロウィンのかぼちゃの顔をした、大きな棒付きキャンディを手に
真樹子が呼びかけると、それを見つけた子どもたちが
一斉に駆け寄ってきた。
「さっすが、用意いいわね、タカくんママ。」
誰よりも先に駆け寄ってきたナオくんママに
ざっと半分の数のキャンディを手渡し、
「これでご機嫌とって早めに引き上げなきゃ。日も短くなったしね。」
と、西の空を見あげると、はやすっかり夕暮れに近づいた
ぼんやりとしたあかね色がにじんでいる。
ユウくんと、アヤちゃん。
ミカちゃんと、ケンタくん。
ナオくんと、トモくん。
そして、タカトに、アキト。
ナオくんママと二人で、いつものメンバーの他、
同じ場所で遊んでいた別の学年の子にも配る。
外では誰に出会うかわからない。
多めに用意したキャンディ。
ぬかりはないつもりだった。
「ショウタくんは、いないわね。」
きっと今日もどこかへ行っているんだろう。
★
妙子は眼を見張っていた。
真樹子たちが子供に何か配っているようだ。
学年の違う子にも渡している。
ショウタは。。。ショウタには。。。。
手頃な石を見つけたショウタは、その時ちょうど、
地面に絵を書きながら、倉庫の影になって
真樹子からは見えない位置まで移動していた。
騒ぎに気づいても、ショウタはそこから動けない。
自分からは駆け寄れない子供なのだ。
真樹子から何かを受け取った子供がこちらへひとり
やってきた。よく見るとそれはアキトだった。
ショウタの気配に吸い寄せられるように、
突然ふらふらとやってきた小さなアキトの手で
不気味なカボチャが大きな口をあけ、妙子を見て笑った。
★
力をこめてペダルをこぐ妙子の背中は汗ばんでいた。
10月も終わりとはいえ、穏やかな陽気に気温は決して低くない。
ましてや妙子がこぐ自転車の荷台では、
ナイロン製の大きな旅行バッグが重い体積を持って、
ハンドルを左右に振らせる。
数年前に妙子がバーゲンで買ったグレーの安物のバッグは、
結局一度も使われたことがない。
ーーーあの人はきっと、これがなくなっても気づかないわね。。。
頭に浮かぶ照直の顔はいつも斜め下にかしいでいて、
どんな表情をしているのか、想像ですらわからない。
ーーー今夜の晩ごはんは昨日の肉じゃががあるから
買い物は少しで大丈夫だわ。。。
ーーーショウタのお迎えには間に合うように
家に戻っていなければ。。。
今日は延長保育だから、いつもよりずっと遅い時間の
お迎えでいい。
実家までは、あと20分ほどかかるだろうか。
★
「Trick or treat.」に、「Happy Halloween」
それらしき呪文を、紙皿で作ったカボチャの仮面をつけたタカトたちが
大声でがなっている。子供にとっては、ハロウインも
園でのお楽しみ会のひとついう意味しかないだろうけれど、
それでも仮装のまねごとをしたり、お菓子をももらえたりするのは
この間の音楽発表会よりもずっと楽しいということは
真樹子にもよくわかる。
魔法使いのつもりなのだろう、厚紙を丸めて作った
細長い三角帽をかぶってるのはミカだ。
タカトたち男の子は、黒いマントを着けて気取っている。
園での興奮さめやらぬまま、バスを降りてからも、
いつもの遊び仲間だけで再びお祭りを開始するつもりなのか、
あらためて盛大にかけ声をかけはじめた。
「とりっとりりっ」「とりっこわっとっとっ」
「トリックオアトリート」とはとても聞こえないが、
覚えた呪文を叫ぶのに夢中になっているタカトに
真樹子はふと頬を緩ませ、そして思わず・・・眼を伏せた。
「どうかした?」いつものようにまっ先に気がついた
ユウくんママが、真樹子の顔を覗き込む。
「なんでもないの。ごめんね。」
答えながら真樹子は昨日の夕方のことを思い出していた。
ーーーショウタくんがいたなんて。
キャンディをすべて配り終えた時だった。
ふいに真樹子の視界に妙子がはいった。
妙子はちょうど、自分の部屋から出てきたところだった。
その向かう先には。。。ショウタがいた。
ーーー見られていた。
真樹子たちが子供にキャンディを配ったところも、
ショウタに気づかず渡さなかったところも。。。
・・・・いや、わざとショウタにだけ渡さなかったと
妙子は思ったのではないか。
ショウタを連れて部屋に戻る妙子からは、
真樹子を責める声なき叫びが聞こえた気がした。
まだ心配そうにしているユウくんママに向かって笑顔を作りながら、
真樹子は嫌な予感に吐き気を覚えた。
★
妙子が手まねきをすると、アキトはすぐにやってきた。
ハロウインにわき立つタカトたちのせいで、アキトも
興奮しているらしかった。
タカトにねだってもカボチャの仮面は貸してもらえず、
かわりに黒いマントをつけられて、それでもアキトはご機嫌だった。
真樹子に似て細面のタカトとは違い、
アキトの顔は女の子のようにふっくらと丸く色白で、
二重まぶたが黒目がちな瞳をさらに大きく見せていた。
そんなアキトに妙子は何の感情も抱くことができない。
ーーーこの子さえ産まれなければ、
真樹子と自分はずっと一緒にいられたのに。
アキトを見かけるたび苦々しい思いにかられていた妙子は
いつしかアキトの存在を認められなくなっていた。
この子が消えれば真樹子とあの3人をつなぐ糸はきれるだろう。
また以前のように、二人だけで付き合うことも
できるかもしれない。
あの日、ショウタだけがもらえなかったキャンディは
黄色い悪魔の顔をして、アキトの手から、妙子を嘲り笑っていた。
その瞬間、妙子は奇跡を起こす方法を知ったのだ。
「奇跡のような例外」を。
お菓子がもらえると信じているアキトがさしだした小さな手を
つかむ妙子の耳に、「こっちへおいで」と誘う声がした。
それは自分とはまるで違った、低く凍えるような声だった。
★
機械的にペダルをこぎ続けながら、妙子は再び
片頭痛を起こし始めた頭でとりとめもなく考え続けていた。
ぼんやりとした視界で、けれど空が青いことはわかった。
黒いマントに少し力をこめただけで動かなくなったアキトのことを、
妙子は初めて認めていた。「ききわけのいい子」だと。
ーーー照直は今日もいつもの時間に帰るだろう。
たまには顔を見ておかえりなさいと微笑んでみよう。
ーーーショウタは今頃園でお菓子を食べているかしら。
ハロウインのキャンディはもらえたかしら。
味わったことのない、不思議に穏やかな気持ちが
妙子を包み込んでいた。
あとは片付ればいいだけだ。実家の敷地は広い。
シャベルは庭の裏手の倉庫の扉にかけてある。
妙子の周囲が懐かしい景色に変わった。
実家まではもうすぐだ。
最後の交差点を曲がる時、荷台のバッグが大きくかしいだ。
●《自己批評》
『……こんなんでました。でちゃいました、というか。本音で。
「結」のお題が暗いのでどうしてもハッピーエンドにはならんし
もーどーしよー、と思って考えてたら、この話になっちゃったと。
「ヤダよヤダヤダ子殺しなんて」とあがくももはや仕方なく。
ラストに至る動機を描くのにどれだけかかるか、いやもうなるべく簡潔に、
と思ったのですが、そこはどうしても省略できず、
無事(?)殺害に至りましたと。(問題発言?)
何字、とか全然わからないのですが、なげぇよ〜〜〜、と思います。
すみません。タールにはとてもまとめて読む気力ありません。(おい。)
実際の幼児殺害事件が下敷き。でもまったくの想像です。
この事件は当時から自分の中でどう処理していいのかわからず
ずっと悶々としてました。こうしてみると、自分にとっての
「書く」という行為は、自己解決なのかな、と思います。
ただ、そうなると、17年ほど前の連続幼児誘拐殺人事件など、
いまだ当時の新聞の切り抜きなんかを持ってるワタシはいつか
猟奇的幼児殺害を書こうとでもするのかと。。。
(ぜったいヤだ。)
ごく短いものも含めた今までの書きものの中で初めて、
一人称でない書き方をしました。難しかった。
あと、あらためて、セリフが書けないということを痛感しました。
みなさんのような、性格がわかる生き生きとしたセリフまわし、
できるといいなと思います。』
●その他(私信等)
『自分の家族を丸二日ほど放置して仕上げた内容が
コレってのは、母親としてどうかと思いました。
母親としての自分は元々放棄しているに等しいのに
こういうときだけ母親ヅラする自分もどうかと。
・・・すいません普段使ってない脳細胞が
なにかに憑かれているようです。』
《酒呑み家 かしのきタール》
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◎まるで違った低く凍えるような声だった
著者:真紅
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◎その顔じゃあ疑う余地なしよ
著者:Jun
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◎胸の芯が繰り返し痛いと悲鳴を上げる
『猫酒場』
著者:宇津木
胸の芯が繰り返し痛いと悲鳴を上げている。呼吸すらもう満足には出来ない。
ああ、しくじった!
などという台詞さえ吐けないほどに、男は疲弊していた。足取りはおぼつかず、地面をするようにしてどうにか一歩、一歩、足を前に運んでいるが、顎は前に出て、口は半開き、舌がその半開きの口からのぞいている。
ある国ではものすごく疲れたときの形容詞を「犬のように」と表現するようだが、言い得て妙だ。そんなことを、男はつい二時間ほど前に考えて納得したのだが、今となってはその余裕すらない。
男は、しくじったのだ。
うまく騙せると思った。空港に入るまでは完璧だった。いつものように整備員に成りすまして自分のセスナに近づいたまでは成功。
だが、離陸してすぐに追っ手がかかった。インターポールかと思いきや、空軍だったのが男の想定外。
そして操縦技術で負けたのは想定内。
だが、不時着が国境を越えていたのが不幸中の幸い。
でもそこが砂漠だったのはやはり泣きっ面に蜂。
砂丘が果てしなく続くだけが砂漠じゃない。岩石砂漠や、礫砂漠なんていうのも立派な砂漠で、今男が歩いているのは”枯れている”のか”生えている”のかもよくわからない褪せた色の背の低い植物が散在する礫砂漠だった。砂ほど足はとられないが、水分は容赦なく蒸発していく、やはり砂漠は死の土地なのかもしれない。
セスナが不時着したのは、中央アジアの小国の国境山脈を越えてすぐのこと。そして眼下に果てしなく広がっていた不毛の土地。
この土地の先には、確か町があるはずだと歩き始めたのだが、水も食料も持たない自殺のような行軍に未来はない。今日疲れて眠っても死にはしないだろうが、これがあと二日続けば確実に命は危なくなる。何しろ食べ物も飲み物も無いのだ。
国際的に有名な詐欺師もこうなれば形無しである。
男は整った顔と、元来の話し上手、小手先の器用さと大胆さ、そして性根の悪さから、選んだ道は詐欺師であった。はじめは結婚詐欺や、葬式詐欺にはじまり、最近は企業間の取引詐欺や銀行の貸付詐欺など、規模も金額も大きくなって国際指名手配は数十件の大物。
とはいえ、空軍に撃墜されるなんてまさか思ってもいなかった。 備えあれば憂い無し。備えよ常に。だが今、備えは無く、力も無く、気力さえもう尽きかけている。哀れ詐欺師はとぼとぼ歩く。
へぶしっ!
ついに男は顔面から倒れこんだ。
と思ったら、こけただけ。何かに足をとられたようだ。見れば足元には小さな小瓶。
水!
と思って開けてみれば残念、それは空の瓶。もし液体が入っていたのなら、それが数日放置されてばい菌の湧いた雨水であろうと、ノニジュースであろうと、青酸カリであろうと飲み干していたこと間違いない。
男はがっくりと肩を落として、ついにはそこにうつぶせに倒れてしまった。もう太陽に焼かれようが、豹に食われようが、どうでもいい。
疲れていた。
持ち前の余裕さえ失った男は人生をついには神に手渡そうとしたそのとき、神の方が天国になんか来て欲しくないと男を拒否をしたのだろうか。突然、うまそうなスープの匂いが辺りに漂った。
もう駄目だ。飯の妄想が抑えられない。嘘でもいい。そのうまそうな匂いの源は。
男が顔を上げればそこには一軒の古びた酒場。
ああ、ついに。哀れ稀代の詐欺師は発狂。かと思いきやこの男、意外とまともであった。少なくとも目の前にあるこの光景を理解しようと努力する程度には。
つねる頬。鈍い痛みと痙攣する手首。それほどまでに疲労が溜まっていながらも痛さは感じ、目の前の酒場が少なくとも夢幻では無いと実感する。迷っていてもしょうがない。入ればわかる。食えばわかる。男はよろけながらも立ち上がると、その蝶番で留めてあるだけの木の扉を押した。
カラン、という音。新参の者に振り向く客の目、目、目。
一瞬の違和感。
そして、男はようやく渇いた口で呟いた。
「猫ぉ……」
客たちは、いや、猫達はその言葉に髭でピクリと反応し、そしてすぐに口を大きくあけて笑った。もはやその笑い声がニャアニャアなのか、ワハハハなのかもわからないほどに、この詐欺師は呆然とする。
黒に茶トラにブチに三毛。縦長の目に長短様々な尻尾。ああ、これは悪い夢だ。
猫、ああ、猫。猫、猫、猫!
全てが猫だ。客も、バーテンも、カウンターでギムレットを飲んでるのも、テーブルで向かい合ってビールを飲んでるカップルも、皆猫だ。二足で立ち、椅子に座り、酒を飲む、160から200センチもある、大きな猫だ。
「こっち来て座りなよ、兄ちゃん。疲れてるみたいじゃないか。道に迷ったか?
なぁに、取って食ったりしないさ」
一匹の猫がそう言って、手招きをした。だが男は動けない。猫達の好奇心に満ちた目が、何かを探っているような目が、男を射抜いて離さない。
だが、この困惑する惨めな男は、もはや喉の渇きにも空腹にも抗えなかった。それら食に対する欲求は、驚くべきことに恐怖や不可思議への違和感さえも超越したのだ。
きっかけは、カウンターの中にいたバーテンと思わしき猫が大きなグラスになみなみと牛乳を注いだこと。
「お疲れのようだ。まあミルクでも飲んで落ち着かれるとよいでしょう」
次の瞬間にはもう男はわき目も振らずにカウンターに突進し、そのジョッキを両手で掴むや否や、口に押し当てて喉へと流し込んだ。口の端からこぼれるのなど気にしている余裕は、もはやない。
いつもは気取った詐欺師だけに、こんな惨めで浅ましい姿など決して見せないはずだったが、命の瀬戸際で男はそんなことさえ考えられずにいた。
ジョッキをおかわりして二杯の牛乳を飲み干し、男はようやく落ち着いた。
「いい飲みっぷりだな、兄ちゃん」
落ち着いてはじめて隣の猫をよく見れば、人一倍、いや猫一倍体の大きい茶トラだ。
「迷ったのかい?」
「ええ、まあ」
今になって戸惑いが戻ってくるが、恐怖はかなり軽減されていた。牛乳で命を救われたのは大きいようだ。
「驚いただろ。俺たちはめったに人間の前に出て行かねぇからな」
「あなた方は猫、ですよね?」
「ああ、猫だ猫! お猫様だよぉ!!」
どうやらすでに出来上がっているらしい。ご機嫌にそう言いながら、分厚い肉球でばしばしたたいてくる。その猫パンチたるや相当の破壊力で、男は痛みに眉をしかめるが、酔っ払い猫はお構いなし。
「兄ちゃん知らないだろぉ。猫ってのは本当は俺たちみたいにでっかいんだぜ。だけどでっかいと、それだけ生きてくのが難しいんだ。恨む訳じゃねえけど、人間ってのは自分よりでかい生き物が近くにいるのが怖いんだろ。昔は一緒に暮らしてた時期もあったがな、たいてい恐怖が虐殺に発展しちまう。だからこうして人目につかないところでこっそり住んでるってわけ」
酔っ払い猫の話に、バーテンも加わってくる。
「普段は人間の目に見えないようにしているんですけどね。こうしてたまには私たちを見つける人間もいるんですよ。まあ、人間社会に戻ってそんな話をしたって、信じてもらえるわけじゃありませんから、幸いにも存在を知られることなく過ごしてこれましたけど。……何か作りましょうか。おなか、空いていらっしゃるでしょう?」
はい、と応えたいところだが、男には残念ながら猫に通用する金など持ち合わせがあろうはずがない。だが猫バーテンはその辺のこともしっかりわかっているようで、首を振った。
「お金なんか要らないですよ。こうして出会えたのは何かの縁ですから。本当に珍しいんですよ、人間と会うのは」
金が無いのにいかに騙して食事をしようかと考えていた男だが、今回は素直にバーテン猫の好意に甘えることにして、だが猫メニューなどわかろうはずも無く、適当にお願いしますと頭を下げる。
その出てきた料理の美味しかったこと!
炊いた米になにやら黄土色の熱いスープをかけ、そこに茶色い木の皮のようなもの ―後で聞いたらそれは鰹だと言われて驚いた― をまぶしただけの簡単な料理。だが、白米にしょっぱいスープが上手く絡み合い、そこにあの乾燥鰹がいい塩味とアクセントを効かせている。この上なく美味しい食事だった。消化にも良いらしく、食べ物を渇望していた胃は瞬く間にこれを吸収し、満足感を男に伝えてくる。
仕事柄上流階級を気取り、社交界や秘密クラブで高級料理を味わってきた男でも、この料理だけは格別だ。まさにどの五つ星レストランにも負けない、グレイトな料理。
男はすっかり満足して、バーテンに礼を言った。
猫達はいつの間にか自分達の話に戻っており、今男を気にしているのは隣の茶トラと、目の前のバーテンだけ。
「それにしても珍しいなぁ、人間に会うなんて。何年ぶりだ?」
「本当に珍しいですねぇ。」
珍しいということは、ゼロではないということだ。なのに大きい猫が山奥に住んでいるという話は聞いたことがない。誰も信じてくれないからだろうか。
男が考えていることを察したように、バーテンは苦笑いで頷いた。
「まあ、私達を見る人は稀にいるわけですが、なぜか小説家の方が多いんですよ。ほら、猫を題材として扱った小説、少なく無いでしょう? ただ猫好きが高じて作品を書くだけならそれほど害は無いのですが、稀にね、私達を見てしまって、それを作品にする人がいるんですよ。これが厄介でね。きっと気にすることは無いのですが、それでも敏感になるのです。猫の文学は、なぜか売れますからねぇ」
男はすっかり和んでしまった。職業柄、人を見る目は鋭いという自負がある。その目で見て、少なくとも人間の感覚で言えば悪い猫達ではないと思ったからだ。
「へぇ、それは知りませんでした。日頃、あまり小説というものは読まないので。猫の出てくる小説といっても、ポーの『黒猫』くらいしか……」
「ああ、『黒猫』。あれは人間心理を描いているいい作品だと思いますよ。ポーも我々の仲間を見たことがあると、そう聞いております。だけど彼はそれを巧妙に作品に織り交ぜるにとどまった。もっと直接的なのは、萩原朔太郎という作家の『猫町』という作品なのですが、ご存知ですか?」
「いや……」
名前も、作品名も聞いた事のない作家だ。
「これは日本での話なのですがね、山里にあった猫の町が作家に偶然発見されてしまいました。猫も油断してたんですね。いつもなら化けてやり過ごすところですが、正体を見られてしまったのです。困ったことに、その作家はそれを小説に書いてしまいました。見事な描写でね、本当に説得力のある……。人間社会ではよい作品として評価されただけにとどまりましたが、猫の方は念には念を入れて、とその村を廃して移ってしまったのです」
「それは、ずいぶんと用心深いですね。こう言ってはなんだが、猫の小説などたいして気にする人はいないでしょう?」
「それでも、小説の舞台になったと聞けば訪れる人が増えますし、それが猫の小説ならそこにいる猫への視線も集まるというものです。危険なのですよ」
「そうそう、俺たちってば潜み隠れる存在だからよぉ!!」
茶トラのどことなく寂しい大声のなかで、男はピンと来た。
「その逃げてきた猫というのは、あなた達のことではないですか?」
バーテンは、だが男の指摘に驚くこともなく、にっこりと頷く。その笑みはまるで過去を思い出すことに麻痺したかのような、見ていたくない笑みだ。男はそんなバーテン猫の表情を見て指摘してしまったことを後悔したが、当の猫はそんな男の気持ちなど知らずに口を開いた。
「ええ、私達です。もう遠い昔ですね、日本を逃れてこの砂漠まで来ました。私たちは二度と故郷を捨てたくなかったのですよ。ここなら、そう簡単に見つからない」
「でも、そうだとしたら何故私を助けたのですか? 私は人間です。その作家のように、あなた達を危険に陥れるかもしれないというのに」
「それでも、死にかけている人間を見捨てられるほど薄情になることは、出来なかったのです。私達はみんな、一度は人間と暮らした事のある猫ですからね」
「ま、祖先は飼い主に懐きすぎて鍋島騒動なんてのも起こしたけどなぁ」
バーテン猫と酔っ払い猫が語るには、普段人間が見ている猫というのは幼少猫なのだそうだ。その小さい姿のときに人と暮らしたり、人の社会の中で生きる。だが十年を過ぎると、猫には試練の成長期が来る。猫が死期に姿を隠すというのはとんだ間違いで、本当は自身の成長を感じて隠れるのだそうだ。そうして人よりも大きくなった猫は人の世界から隠れて暮らすか、生活のほとんどを人間に化けて人間世界で暮らすのだという。
「私達が人里近くに住んでいたのは、人間のぬくもりが忘れられなかったからです。でも、四六時中人間に化けているだけの力を、持っていなかった。私達は弱い猫なのです。でも、こうして逃げてきた今でさえ、人間を見ると助けずにはいられない」
「でもそんなあなた達の人間好きのおかげで、私は救われました。私は、恥ずかしながら人間でありながら人間社会の中で逃げ隠れしなければならないような者です。でもだからこそ、私を助けたという行為がどれほど危険なことかは知っているつもりです。そんな危険を冒してまで助けてくれたあなた達のご恩は、決して忘れません」
涙さえ浮かべて男はバーテンの手を握った。大きな肉球をしっかりと握り締める。
なぜか隣では泣き上戸なのか酔っ払い猫が呑みながら涙を流して感心していた。
「兄ちゃん若そうに見えるのに苦労してるねぇ。通りで所作が洗練されてるんだなぁ。男気もあるし、あんたは悪い人間なんかじゃねぇよぉ」
バーテンも深く頷く。
「どこか様子が違うと思っていましたが、なるほどそういうわけですか。でしたらお客さん、同じ世間から隠れる者としてお願いがあります。どうか人間の世界に戻っても私達猫のことはお話にならないで頂きたいのです」
男は真剣なまなざしで二匹の猫を見つめ、そして力強く頷いた。
「もちろんです。私を助けることが、あなた達にとっては自分達の住処を失うリスクを伴うというのに、それでもこんなに良くしてくれた。私は詐欺師ですが、それでも義理と人情は忘れていないつもりです。約束しましょう、決してあなた達の住処を話したりはしないと」
猫二匹は顔を見合わせて、安堵したように深く息を吐いた。その表情は、穏やかだ。安心したのか髭が下を向く。
やがてバーテンは棚の奥からきれいな小瓶を取り出した。男がこの酒場の前で拾ったあの空瓶と同じ。だが、中には空色の液体が入っている。
「これは?」
「猫の好きな酒ですよ。どんな猫もこれなら一発で酔って朝まで起きないのです。人間の方の口に合うかどうかわかりませんが、よかったら飲んでください。あなたの人間性を信頼しての、私からのささやかなプレゼントだと思って」
「兄ちゃん飲んでおけよ、こいつは本当に美味い酒なんだ。俺たちは一年に一度くらいしか飲めない高級なものだしな」
気づけば、酒場中の猫が物欲しそうにこちらを見ている。
「それでは、ご好意に甘えて」
男は一挙手一投足を周りの猫たちが横目で気にしているのがわかった。
男は衆猫環視の中、手にすっぽりと入るほどのその小瓶を握り、もう片方の手を腰に当て、仁王立ちしながら一気に飲み干す。
「いい飲みっぷりだねぇ、兄ちゃん!」
コトリ、と空になった瓶を男はカウンターに置き、自身も椅子に座りなおした。
「美味しいですね。……あれ? 疲れてるからかな。なんだかとても眠くなってきました。もっと皆さんとお話したいのに……」
彼はそう言うなりそのままカウンターに突っ伏してしまった。
次の瞬間には、すでに男は砂の感触を頬に感じていた。しばらく目を瞑ったまま様子をうかがうが、何の音も声もしない。それどころか先ほどまで立ち込めていた上手そうなスープの匂いも、喧騒も全くなく、聞こえるのはただ風の音だけ。
ともすればあの猫酒場は夢だったのではないかと思えるが、それでも男の袖の中には空色の液体が入った小瓶の気配があった。とっさに、最初に拾った小瓶とすり替えて、飲んだように見せかけたあの空色の酒。きっと、記憶を消すような作用のあるものだろうと男は考えていた。ただの勘だが、詐欺師として研ぎ澄まされた勘に男は自信を持っている。だからこそ、一か八かで小瓶の中身を飲まなかったのだ。
彼は目を瞑ったまま、口の端を吊り上げてニヤリと笑う。
男は、生粋の詐欺師であり、そして筋金入りの悪党だった。
「もう駄目、お酒くらいでこんなになっちゃうなんて……」
今にも腰が砕けそうなほど足元のおぼつかない女を、男はどうにかホテルの一室まで連れ込んだ。外は酷い雨で、二人とも足元はびしょぬれだ。男はすぐにでもシャワーを浴びたかったが、泥酔した女を抱えていてはそういうわけにもいかない。
あの酒の効果は、恐るべきものだった。なんとか無事に帰国して一ヶ月、男は行きずりの女達の酒に一滴ずつあの液体を混ぜて反応をうかがった。そのほとんどは麻薬のような快感を感じて泥酔。稀に、そのまま精神が現実に帰ってこない者もいたほどだ。そして総じて酒を飲んだ前後の記憶をなくしている。
今目の前で泥酔している彼女は、行きずりではない。ついでに、決して酒に弱い女ではない。それどころか、男が知る限り彼女はざるだった。その彼女がこの有様なら、やはりアレは尋常ではない飲み物だ。
仕事に誘うために飲ませてみたのだが、あるいは失敗だったかもしれないと若干後悔をしていた。
「このお酒、これが今度の新しい仕事ぉ?」
彼女は男の仕事上でのパートナーでもある。酒で酔っても仕事のことが彼女の頭からはなれることはなく、男は彼女のそういうところが気に入っていた。性格は気まぐれでわがままだが、仕事ではもう長い付き合いになる有能な詐欺仲間だ。今回のヤマも彼女と組む事にしていた。この猫の酒の影響が酷くなければ……。
「これはお酒じゃないわねぇ。クスリでもなさそうだけどぉ、何これ?」
その瓶を手にした事情を、彼女には簡単に説明した。詐欺師仲間の共通認識なのか、彼女がこの話を嘘でないと見抜いたからかはしらないが、本来であれば笑い飛ばすような話を彼女は真剣に聞く。
「それで、これはそのときに猫にもらった酒さ。記憶を失う代わりに、今までにないほどの高揚感が得られる。使い道は多いと思うがね。間違いなく売れる」
「でも、作り方はわからなかったんでしょう?」
「だから、奪いに行くんだよ。化け猫の巣を襲って、あいつらに製造方法を聞くんだ」
「ふうん。じゃあ詳しいことは明日あたしがしゃきっとしてるときにもう一度話して。今は駄目。頭がぐるぐる回っちゃってまともな判断なんてできないわぁ」
やっぱり、酒に溺れても仕事のことは忘れてない。まともな判断は出来ないと言いながらも、いい判断だ。
女はふと立ち上がった瞬間にバランスを崩して男にしだれかかり、男はそれを抱きとめた。
「でもねぇ、猫は敵に回さない方がいいわよぉ。猫ってあっちこっちで抜け目なく見てるんだからさぁ」
そういえばこの女は猫好きだったなと思いながら、女の背中に手を回す。
「猫なんか怖がることないさ。ただの臆病な生き物だよ」
「臆病だから、用心深いのよぉ」
女はとろけるような声でそう呟いて、ふと男の肩の上で顔を上げた。
「きれい、くるくる星のウズができるわ」
何を言っているのかと女が見ているほうに首を捻れば、確かに男の真後ろにある窓からは無数の星が輝いている。酒に酔った女には、目が回って渦のように見えているのだろう。全く笑わせる。
だが、ふと男は止まった。
星が出ているはずなどないのだ。
何しろ酷い雨だったのだから。
それに彼女は筋金入りの詐欺師。無意味な発言など、しない。たとえ酒に酔っていたとしても、その言葉には意味があるはずだ。
女を抱いたまま振り返って、男は膠着した。さっき振り返って見たときに星のように見えたその光が、ゆらゆらと揺れながら近づいてくるのだ。
ふいに、女が信じられないほどの強さでしがみついてきた。背中に爪が突き刺さる。それは人間の爪ではなく、深く突き刺さる動物の……。
窓の外の光が、一斉に動いた。二対ずつのそれが、闇夜に光る猫の目であると気づいたときにはもう遅い。
背中の痛みに耐えながら女を引き離そうと試みるが、彼女は信じられないほどの強さで男の体を締め付けてくる。狂ったような猫の鳴き声が窓の外から聞こえる。
猫だ。ああ、猫。猫、猫、猫!
窓ガラスががたがたと音を立てるのは、風のせいだけではない。何匹もの猫たちが、その窓近くの木から、ベランダの柵から、屋根の上から部屋を覗き込み、近くにいる猫がその窓を叩いているのだ。
階下から、人の悲鳴と猫の凶暴な鳴き声が聞こえてきた。窓を叩く猫達の力も強くなってくる。
猫たちが階段を上がってくる気配。でも男は動けない。逃げようにもしがみつく女の力強さに、身動きさえ出来ないのだ。見ればしがみついている女の首筋は、いつもの柔らかい彼女のそれではなく、真っ白く艶やかな毛に覆われている。
耳元で、彼女、いやその猫は囁いた。
「ねえ、注文の多い料理店って知ってる?」
●《自己批評》
『長くてすみません。
猫が好きなんです。
猫万歳。』
《言の葉砂漠 宇津木》
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◎きれい、くるくるウズができるね
『always I think of....』
著者:rudo
私はもうどこにも心を寄せたりしない・・・
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西日がまぶしくてよく見えない。
テレビの画面に窓の外が映りこむ。
私はシュンに抱かれながら
テレビを見ていた。
シュン。見て、きれい。
くるくるウズができるよ・・・
リキッドタイプのミルクのCM。
コーヒーに上からミルクを垂らす。
ミルクの白は
内側から外へと 渦をまく。
私とシュンのsexは
ご飯を食べたり
歯をみがいたり
本を読んだり
そんな風なことと同じ場所にある。
いつも 平常心のまま始まって
平常心のまま終わる。
声も立てず・・吐息ももらさず
普通におじやべりをしながら
いつまでも ただ
つながっているだけだったりする。
それは私がなるべく気持ちを平らかに
しようとしているせいだ。
不感症なわけではない。
体はちゃんと反応する。
だけど触れても触れられても
膜を通したように遠く
心にとどかない。
とどかないようにしている。
「コーヒー飲みたくなっちゃったな。
ちょっと飲んでから 続きにしない?」
うん。いいよ。
私は裸のまま お湯を沸かしに行く。
シュンはコーヒーメーカーや
サイフォンで淹れるコーヒーより
インスタントコーヒーが好きだ。
ちゃんとしたの淹れようか?
私 豆を挽くのうまいのよ。
そういったこともあるけれど
「そんな洒落た育ちじゃないんだ」
そう言って 笑う。
インスタントコーヒーをカップに入れて持っていく。
シュンはカップを受け取り
一口飲むと 私を膝にのせ
ゆっくりと中に入ってくる・・・
「あれは・・・しょうゆだよ」
しょうゆ? なにが?
「ミルクが きれいに渦をまくのは
コーヒーじゃなくて しょうゆだからなんだ」
あぁ・・さっきの話か・・と納得する。
シュンはそういう人だ。
何か話していて
その時 答えが返ってこなくても
しばらくして・・
あるいは ずいぶんたって・・
もう忘れた頃に
唐突に返事がかえってきたりする。
「りょうこ。俺・・・働くよ」
今だって、働いているじゃない。
「そうじゃなくて、ちゃんとどこか就職してさ」
・・・
「もちろん墨も消すよ」
・・・
「だからさ。 俺たちも ちゃんとしない?」
私のことなんて 何も知らないくせに・・・
「必要なことは知ってるさ。
りょうこは何を知ってほしいの?」
私はシュンのこと好きじゃない。
そっぽを向いてそう答える。
シュンは少し傷ついた顔をして
でもちっとも気にしない風に
私を抱きしめる。
「嘘だよ。りょうこ。
じゃあ どうしてここにいるんだよ」
「かんのん」がいるからよ。
「かんのん」に抱かれていたいからよ。
最初にそう言ったじゃない。
「うん、いいよ。
それでもいいよ。りょうこ」
シュンは 今度は上になり
浅く 深く
はやく ゆっくり 動く。
そして 耳元でいつまでも
「りょうこ りょうこ・・・」 とささやき続ける。
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「かんのん」
観音。
シュンは左肩から肘にかけて精緻に
彫られた観音を持っている。
「多羅尊観音」(たらそんかんのん)というのだとシュンは言った。
救済者なのだとも・・・
日本ではあまり知られていなくて
だから決まった姿はないのだそうだ。
シュンの観音は 三日月の上に立ち。
小さな炎を手にしていた。
三日月はうっすらと黄色く
お湯に浸かったり
汗をかいたりすると
色鮮やかに浮き上がる。
シュンと初めて会ったのは去年の秋祭りだ。
賑やかな音に誘われて
覗きにいってはみたけれど
家族づれや 子供たちの笑い声は
かえって私に「誰もいない」という事実をつきつけた。
あまりの孤独にしゃがみ込んだ目の前に
シュンが金魚すくいの店を出していた。
そして「かんのん」を見た。
私は観音に触れてみたいと思い。
観音の彫られた腕に抱かれたいと願った。
「その観音像の腕で私を抱いてくれませんか?」
私はシュンにそう頼んだのだった。
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夢を見ていた。
「かんのん」
小さな炎を手のした「かんのん」
炎はくらりと揺れて
「かんのん」に不思議な陰影をつける。
そして私に向かって 手をさしのべる。
私はその手にすがろうと
手を伸ばす・・・
ギュッと握られて目が覚めた。
私の手をとっているのは
シュンの暖かな手だった。
「りょうこ。仕事に行って来る」
そんな 時間?
「うん。3時過ぎた」
シュンは今、二つ先の駅にある神社の
秋祭りに出店している。
また・・金魚?
「いや、たこ焼き。
夕飯はたこ焼きにしようぜ」
青ノリとカツオ節はかけないでね。
「何だよ それ。
そんなの たこ焼きじゃねえよ」
シュンは苦笑しながらドアを開け
振り向いて 早口に言う。
「あのさ、さっきの話だけどさ・・
ちゃんと考えてみてくれないかな」
私はシュンのことを特に好きなわけじゃないの。
「観音像が気に入っているならこのままで
なんとかするよ。ずーっと長袖で通せばいいんだし」
私は誰も好きにならないのよ。
背中を向けたまま答える。
怒ってよ シュン。
怒って嫌いだって言ってよ。
そう念じる。
だけどシュンは怒らない。
「時間ないから・・行くけど
帰ってきたらもう少しちゃんと話そう」
シュンはそう言ってドアを閉めた。
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途方にくれた。
私はもう誰かを大切に想ったり
誰かを特別な位置においたり
そういうことをしたくなかった。
私が大切だと思う人・・・
私が失くしたくないと願うもの・・・
みんな どこかにいってしまうから。
まだ学生のころに両親をなくし
そのあと世話を引き受けてくれた
伯母をなくし・・・
結婚して二年もたたずに
夫をなくし・・・
その時 おなかにいた子も
流れてしまった時
あまりの事に 騙されるのを覚悟で
占い師に視てもらった事がある
私の情念は強く。激しく。
気持ちを傾けると相手を
呑みこんでしまうのだと言われた。
嘘だとか本当だとかは
もう どうでもよかった。
こんな悲しみを味わいたくない・・・
その為だけに私はこの先ずっと
どこにも 何にも 心を寄せたりしない。
そう決めた。
決めたのに・・
いつのまにかシュンは
私の大事な人になっていた。
極力考えないようにしているだけで
ずっとシュンといっしょにいたいと
思っていたのは私の方かもしれない。
そう認める事は怖かった。
認めたとたんにまた
私はシュンを失ってしまうんじゃないかと
今までがそうだったように・・・
シュンには「かんのん」がついているから
大丈夫かもしれない・・
自分の都合のいいように
そんな愚にもつかない事を思ってみる。
観音様ってそういうものだよね?
苦しむ人の声を聞き
救ってくれるんじゃなかったっけ?
帰ってきたら 話してみようかな・・
私のこと 私の思っていること
私もシュンが好きだっていうこと。
シュンに・・シュンとシュンの「かんのん」に。
そう思うとなんだか
少し 気持ちが明るくなった。
どこから どんな風に話そうかと
考えているうちにもう9時だ。
9時にはお祭りが終わる。
10時にはかた付けも済んで
みんなでちょっと 一杯飲んで・・・
たいてい 11時には
「りょうこ。たこやき」だったり
「りょうこ。 金魚」だったり
「りょうこ。やきそば」だったり・・
そんな風に言いながら帰ってくる。
今日はたこ焼きだって言ってたから・・
たこ焼きだけじゃさみしいから
サラダでも作っとこうかな。
たこ焼きは たこ焼きだけかなぁ。
だけどシュンは12時を過ぎても帰ってこなかった。
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お祭りの後のささいな喧嘩だった。
小さな冗談が 罵り合いに変わり
怒鳴りあいになり・・・
手が出て・・・・
周りを巻き込んだ小競り合いになり
その真ん中で シュンは刺された。
血が流れ出るのに時間がかかり
倒れるまでに時間がかかり
まわりが気づいた時は
手遅れになっていた。
白い布に包まれた シュン。
呆然とする私の横には
警官がいて あれこれと
シュンのことを聞いてくる。
私は何一つまともに答えられない。
私はシュンの本名さえ知らなかった。
私が大切だと思う人・・・
私が失くしたくないと願うもの・・・
みんな どこかにいってしまうから
「もうどこにも心を寄せたりしない」
そう決めたのに・・
私は何を・・・
私の隠していた想いがシュンに向かい
シュンがゆらゆらと揺れる炎の中に
呑み込まれるのが見えた気がした。
もう私には流す涙も残っていない。
私はただひたすらに
シュンの腕の「かんのん」を
撫でさする。
●《自己批評》
『ありえないね。
一貫して{BAD DAY}を聞きながら書いた。
「同じ曲ばかりかけるな!!」と家族からクレームがついた。』
《rudoのあれこれ・・ rudo》
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◎ゆらゆらと揺れる炎の世界へと入っていった
著者:Glan
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◎その媚びるような目や匂いだ
著者:時雨
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◎ただ生きていくことにも大変なのだ
『ある閉ざされていない雪の山荘にて』
著者:松永夏馬
ただ生きていくことにも大変なのだ 。
元々さほど活動的でない毎日を過ごしてきた黛禄郎であっても、生きることは非常にエネルギーを使う。それにもかかわらず高校に進学して貴島虎雄、猫田美紀恵という常にエネルギーを発散しつづけているような二人に捕ま、……もとい、出会って1年と8ヶ月。彼らと付き合う毎日はムダにエネルギーを消費しているとは思うが、最近では慣れたのか不快ではなくなってきているのが不思議だ。
期末テストが終わり冬休みに入った。エネルギーコストが低い朝の布団のぬくもりを、充分に堪能できるはずの毎日は3日目にして早くも途切れることとなる。
けたたましく鳴る小さな機械を、禄郎は布団の隙間から手を伸ばして掴むと、ぼんやりとした視界の中でそれを開いた。小さなディスプレイに表示された名前を見て仕方なく通話ボタンを押す。
「クロ! 大変なの!」
スピーカから飛び出す跳ねるような声。禄郎は猫ッ毛で癖の強い髪と猫のような大きな目をした声の主を思い浮かべ、猫田美紀恵とはこれまた見事に名は体を現しているなぁと寝ぼけた頭で笑った。
「事件なの! 太郎が! 切り裂かれてバラバラで!」
興奮気味にわめく美紀恵をよそに、禄郎はいったん携帯を耳から離すと、布団に包まりながら体を起こし、サイドテーブルに置かれていたメガネをかける。まくし立てる美紀恵が反応の無さにようやく気付いて静かになった。
「……寝てた?」
「今、起きた」
「ごめんなさい」
ありがとうやごめんなさいが素直に言えるのが彼女の良いところだと禄郎は思う。休日の朝8時前に電話をかけてくるところは褒められないことだが。
「落ち着いたな? ……で。なんかあったのか?」
「うん事件」
「トラには連絡したのか?」
「起きないと思うからしてない」
懸命な判断。ちなみにクロというのは禄郎の、トラというのは虎雄の、美紀恵が勝手に付けたニックネームだ。ちなみに、それに対抗してクロもトラも美紀恵のことはミケと呼んでいる。彼ら3人は共に県立根庫川高校に通う2年生で、たった3人しかいないミステリ小説同好会のメンバでもある。もっとも同好会とはいえ入会動機はてんでバラバラで、したがって活動方針もなにもあったものではないが。
「えっと」
窓の隙間から滲む冷気が少しずつクロの眠気をさましていく。
「スキー行ってんじゃなかったっけ?」
たしかミケの従姉の友達の別荘だかに行くとか聞いた覚えがある。
「うん、美牛高原の近く」
「事件、と言ったな? 何があったんだ?」
一呼吸置いてミケが言った。
「太郎が殺されたの」
「警察の対応は?」
「……連絡してない」
「しろよ」
歯切れの悪い返事に呆れてものが言えない。言ってるけど。その反応にミケは思い出したように謝った。
「あ、えっと、ごめん。太郎ってのは月乃さんの飼ってる猫で」
「は、い?」
「殺猫事件」
「……なるほど」
それならば警察に連絡しづらいのもわからなくはない。わからなくはないが。ペットだからといってそのままにして良い道理はない。人に対し無力な愛玩動物ならなおさらだ。
「許せないな」
「うん」
ミケがはっきりと頷いた。『殺された』『犯人』とミケが言うのならばそれ相応の理由があるのだろう。一緒にいるミケの従姉はいちおう、あれでも、まがりなりにも、現職刑事猫田環巡査だ。それに、好奇心旺盛でいろいろなことに首を突っ込みたがる性格のミケだが、不用意に誰かを傷つけるようなことは言わない。
「わかった。聞くだけ聞く。とりあえず最初っから順序立てて説明して」
********************
事の始まりはどこにあったのだろうか。
毎年恒例になっていた2泊3日のスキー旅行直前に届いた、五木春菜が車の自損事故で左足骨折という突然の報。驚いたメンバだが、原因が彼女の単なる不注意(運転中に恋人と携帯メールをしていたらしい)であり、そのケガも入院するまでもないただの骨折ということからさっさと気持ちを切り替えることにした。今年は予定していた日程が月乃の誕生日と重なっていたため、中止にはしたくなかったのだ。
今年の幹事役がミケの従姉の猫田環。ミケがスキー旅行に行くこととなった経緯はこんな理由である。
場所はこれまた毎年恒例、美牛高原にある西城月乃の別荘。体育会系でプロスキーヤーを目指した程の父親が趣味の為10年程前に購入したのだそうだ。
別荘の外観はログハウス調ではあったが内装はシンプルかつモダンだった。玄関からまっすぐ奥へと伸びる廊下、それに平行する形で上り階段があり、廊下右手の扉を開けると大きく空間の取られた南向きのリビングスペース。ダイニングキッチンともつながっているのでかなり広い部屋だ。暖炉(もちろん形だけで中身はファンヒーターだが)まである。廊下の奥には風呂場があり、さらに廊下を進み角を折れるとトイレと納戸が並んでいる。
2階には南向きの個室が6部屋。さすがに風呂やトイレは無いがまるでホテルのようだ。
「せっかく来たのに」
リビングの窓から外を眺め、雪で濡れた髪をタオルで擦りながら樫軒トオルがぼやいた。風は強そうだが2重になった窓からは音も漏れてはこない。まるで無声映画のようだ。
「明日にゃ晴れるってさ」
面白くなさそうなトオルにテレビの天気予報を見ながら笹倉拓也が声をかける。根庫川市を早朝に出発し、トオルの運転するステップワゴンで西城家の別荘に着いたのがその日の昼過ぎ。荷物を置きウェアに着替え、意気揚々とゲレンデに向かったものの、到着と共に降り出した雪はまもなく横殴りのみぞれに。しかたなく早々と別荘に戻る羽目になってしまったのである。スポーツ万能で毎年スキーを楽しみにしているトオルは、恨めしそうに窓の外のモノクロの世界を一瞥してから長身を折りたたむようにしてソファに深く腰を降ろした。
「チャンネル変えようぜ」
ソファから首だけ仰け反らして、離れたダイニングテーブルの椅子に座る拓也に声をかけた。
「つーか拓也。……なんでそんなとこに座ってんだよ」
黙ったまま拓也は、シルバーのリングが着いた指でミケを示す。正確にはミケの膝に陣取る小動物。
「ネコ、ダメなのか?」
「ああ」
にんまりと笑うトオルに対し、拓也はぶすっとした顔のまま手にしたリモコンでチャンネルを適当にザッピングする。ミケは膝の上の小さなネコの、きれいに色分けされた背中を撫でた。この子猫が月乃のペット、三毛猫の太郎だ。
「アレルギーとかですか?」
「いや、そういうのじゃない。ただまぁ……ちょっとな」
ごにょごにょとお茶を濁す拓也。ミケの隣に座る環がくくくっと笑って言った。猫田家の特徴なのか、吊り目がちな大きな目がよく似た従姉妹だ。
「小学校の時に野良ネコに引掻かれたんだよね」
ミケを覗くメンバ全員同じ高校の同級生だが、環と拓也は小学校からの付き合い、幼馴染なのだ。
「……言うな」
恥ずかしさの混じった声でそう言葉を吐く。
「左腕がぼっこぼこに腫れてねー」
「言うなって」
大袈裟な手振りで話す環を止める拓也。派手な茶髪と鼻と耳と首と指に散りばめた銀色のアクセサリで飾り立てているのは虚勢なのかもしれない。環にいつも
「似合わないー」と笑われているそのアクセサリのほとんどは自作なのだそうだ。仕事もそのなりで老人ホームの介護職員だというから人は見た目で判断できない。
「カワイイですよ?」
ミケは両手で太郎を掲げる。笑うトオルと環。
「あー、いい。いい」
不貞腐れたように拓也は皆から離れた所でそっぽを向いてしっしっと手を払う。そしてカウンタに置かれた書店の紙袋を手にとると立ち上がった。
「部屋でマンガ読んでる」
「あー、終わったら次アタシね」
紙袋の中身は来る途中で拓也が買った週刊誌。人の物を勝手に予約する女、環。
20代半ばにもなってまだマンガ雑誌読むんだなぁとミケは思った。
「ん。どした?」
皆のいるリビングダイニングから続くキッチンスペース。丁度そこからのっそりと出てきた髭面の大男が部屋を出ようよしている拓也を呼び止めた。
「ちょっと部屋行ってるわ」
「メシまでには戻ってこいよ」
彼は加茂仁。気は優しくて力持ち、元柔道部主将の大男。某フレンチレストランで修行した後、実家の洋食屋を継ぐコックだそうだ。料理が好きらしく、この2泊3日の昼食と夕食の支度は彼が全て担っている。マイ包丁持参という気合の入りようだ。ちなみに朝食と昼・夕の後片付けは全員の持ち回りである。
「今日のディナーは何かしらシェフ?」
聞くまでもないよトオルさん。
「カレー」
匂いでわかる。
「フレンチのシェフがなんでカレーなんだよぉ。もっとこう『なんたらーのポワレなんたら風』とか」
「スキーといったらカレーだろ」
当然だろう、といった風で仁が言う。
「どんなマジカルバナナだよ」
と拓也。
「月乃の誕生日プレゼントとしてケーキも用意しているところだ。専門じゃないが期待しておけ」
「ケーキとカレーて」
「何? 楽しそうじゃん? てかミケちゃん凄いねー、太郎がすっかり懐いてる。ああ、そうだ! 加茂っちお鍋煮立ってるよ?」
仁を追ってキッチンスペースから顔を出したのは西城月乃だ。細面のお嬢様然とした見かけのわりにカラリとした彼女は、少し話しただけで環と同じように美紀恵をミケちゃんと呼ぶようになった。明るくて気持ちの良い人だ。それでいて仕事もバリバリこなすというから男女問わず人気がありそうだ。入れ替わるように慌てて仁はキッチンへ戻る。
「ウチのコ、人見知り激しいんだけどなぁ」
「ああ、まったくオレでも未だに威嚇されるのに」
トオルが大袈裟に嘆いた。
「つか、なんでネコなんて連れてきたのさ」
環が口をとがらせる。
「拓也が泣きそうよ」
「泣くかッ」
拓也が環に言い返して部屋を出て行った。ドアが勢いよく閉められる。誰かが笑った。
「いいじゃん、せっかくペット仕様の別荘なんだし、それに最近太郎がいないと眠れないのよねー」
きゃははと月乃が笑う。今朝出がけに思いたって連れて来たらしい。スキー場にほど近いログハウス調の別荘だが、各部屋および玄関の扉の下の部分にはペット用の出入り口が付けられているのだ。熱効率が悪そうではあるが床暖房が完備されているのでさほど気にならない。
「質問質問」
ミケが律儀に手を上げた。
「はい、ミケちゃん」
先生よろしく月乃が指名。
「……このコ、雌ですよね」
膝の上の太郎が身を起こし欠伸をすると、飼い主の膝へと擦り寄っていく。足元に纏わる猫をひょいと両手で抱え上げた月乃は、「え!?」と驚く顔のトオルや環を見て満足そうな笑みを浮かべた。
「そうよ」
「なんで太郎って名前なんですか?」
さきほど抱えてみてわかったのだが、なんとこの猫、雌なのだ。付いていない。月乃はにっこりと笑って答えた。
「志垣太郎の大ファンなの」
は?
「……渋いな」
唖然とするミケ達の耳に、キッチンから仁の声が響いた。
********************
「誕生日おめでとうーッ!」
夕食のカレーとその他おつまみ多数。旅行前日から仕込んだタッパーを大量に持ち込んだ見習いコックの手料理で月乃のバースディパーティ……と銘打った宴会が始まった。環・月乃・トオル・仁・拓也ら高校のクラスメートだった気の置けない仲間達との旅行、宴会。毎日のように友達と会える学生生活真っ只中のミケからしてみたら、仲間が集まるというだけでこうも盛り上がるものなのかと唖然としてしまう。太郎も雰囲気に酔ったのか、楽しそうにビール瓶の王冠をガリガリかじって遊んでいる。乾杯の掛け声とともに、まだロクに飲んでいないのにもかかわらずアルコールを未成年に薦めてくるから困ったものだ。
完全に酔っ払ってしまう前にと順に風呂へと入ることとなって、一番風呂はミケがいただくこととなった。
宴会場となったリビングをミケが出る時に「トイレ」と言って立ち上がった仁にトオルが「ミケちゃんの風呂覗くなよ?」と笑う。むっとした顔の大男が軽薄な色男を睨みつつも黙って廊下へとのっそりと出た。ミケは高校生にしても小柄なほうだから、身長差が40センチはありそうだ。仁はミケの頭をポンとたたくと、照れたように笑った。
「アホはほっとけ」
寡黙な大男はそう言って廊下の奥へと進んで行く。熱気溢れるリビングと違い、ひんやりとした空気が廊下に漂っている。閉め切られた部屋での宴会の息苦しさと暑苦しさから開放されたミケは、着替えを取りに玄関脇にある階段を一段飛ばしで駆け上がった。
入浴を終えパジャマ代わりのスウェットに着替えたミケが宴会場、もとい、リビングに戻ると、つけっぱなしのテレビから流れるバラエティ番組をBGMに、皆はそれぞれ仕事の話で盛り上がっていた。というより愚痴大会である。嫌味な上司、うまくいかない人間関係、仕事そのものよりもその環境に対処できるかどうかが、大問題らしい。大人は大変だ。
「課長は全然下のこと考えてないんだよな。客は客でワガママ言うし、挟まれるこっちの身にもなってみろってんだ」
商社営業のトオルが愚痴れば、
「まだマシよ。コッチは女だからってやりたい仕事させてもらえないのよ」
事務職に甘んじている月乃が嘆く。
「加茂っちはいいよね、親なら文句も言えるし」
月乃に言われ、実家の洋食屋で働く仁は憮然と言い返す。
「店でも家でも四六時中顔合わせてなきゃならんのだぞ。それに、いつ潰れるかわかったもんじゃない」
「その点、老人ホームや警察は潰れないからいいよな」
軽く言ったトオルを睨んで拓也は口をとがらせる。
「馬鹿言うな、給料は安いし仕事はきついし、毎日毎日サービス残業」
「環は?」
それぞれが文句を言い合う中、名指しされた環はグラスをくいと傾けてから言った。
「うーん、まぁほら私は腰掛けみたいなもんだし。あははー」
刑事を腰掛けでやるな、とミケは言いたい。
あっけに取られるミケに座布団を譲り、立ち上がった環は「お風呂いただきまーす」と言って、いくらかふらつく足取りで部屋を出ていった。
「……あいつが刑事やってるっつーのが一番信じられねぇ」
「うん」
拓也が呟き、皆一同に頷いた。
拓也が一度自室に戻り、環に貸す週刊誌とカードゲームを持ってきたので、一同揃ってUNOを始めた。酔っ払い始めた面々は単純な子供のゲームにそれこそ童心に返って盛り上がる。風呂から戻って来た環が呆れたくらいだ。
「なげぇ風呂だな。ほれ、そこに持ってきたぞ」
「サンキュ」
拓也が男性にしてはほっそりとした指でダイニングテーブルを指し示す。銀色の指輪の示す先には分厚いマンガ雑誌。
「次、月乃入る?」
環はダイニングチェアに座り、マンガを広げながら言った。
「その前に、そろそろ、発表してもいいだろ?」
トオルがニヤニヤしながら立ち上がりかけた月乃の腕を掴む。それを受け、月乃も少し顔を赤らめて頷いた。
「えー」
トオルも立ち上がり、月乃の手をとる。わざとらしくゴホンと咳払いすると、まるで演説でもするかのように皆を見回して言った。
「オレら、結婚しようと思う」
驚きと祝福と戸惑いが混じった声が漏れた。
「思う、じゃなくて、するんでしょ?」
先ほどまでとは少し違い、柔らかい雰囲気で月乃が口を尖らせる。
「……式は来年の6月を考えてるんだけどな」
さすがのトオルも照れくさそうに笑って頭を掻いた。
高校からの気の置けない仲間。そんな関係の中で『結婚』という関係が生まれるとは環は思ってもみなかったのだろう。びっくりした顔のままで固まっている。拓也や仁も「ドッキリ」なんじゃないかというような顔。
「……おめでとう」
一瞬の間を置いて仁が静かにそう言ったのを皮切りに、環も拓也も婚約発表を済ませた二人に詰め寄る。
「なによ、結婚て。マジでー?」
「いつのまにお前ら」
そんな芸能リポーターよろしく質問を浴びせかける二人から、逃げるように月乃は風呂へと部屋を出て行った。
最近では20代半ばで結婚するのも早いほうなのだろうが、ミケは10年後の自分が誰かと結婚するなんて想像すらしていない。というか、従姉の環が結婚することすら想像できない。それに気付いて、自分はなんて子供なんだと今更ながら実感した。今のままずっといられるような気がしていたのはやはり自分が子供だからだろう。いつか、などと考えなくてもあと1年ちょっとで高校を卒業するというのに。この「今」という瞬間が急に揺れ動かされてしまう感覚だ。
ぼんやりとしていたミケの頭をぽん、と軽く叩いたのはのっそりと立ち上がった仁だった。大きな手になんとなく安心感を与えにっこりと微笑んで彼を見上げると、ほろ酔いの足取りで空いた皿をキッチンへ片付けに行く。
「悪いな」
その背中に向けてトオルが言った。
彼の言葉にピクリと肩を震わせた仁は首だけこちらにむけ、もう一度「おめでとう」と告げた。奇妙な沈黙の中、テレビのニュースではキャスターがサッカーの国際試合の祝辞を述べていた。
拓也と環の話によると、仁は月乃に対して想うところがあったらしい。もっとも寡黙な男はそれを口に出すことはなかったが。それを聞いたミケは、夕方キッチンで料理をしていた時の仁の笑顔を思い出していた。彼はどんな思いで今日のケーキを焼いたのだろう。
********************
「刑事の仕事ってどうらのさ? 殺人事件の現場とかなー」
トオルがビールのグラスを手に言った。もう何杯目かわからないが、喋り方が微妙におかしいのは気のせいだろうか。
「あー、刑事つっても3課だしね。窃盗とかそっち系だし。ドラマみたいなもんじゃないよ」
「そりゃそうだろうな」
仁が自作のケーキをつついて言った。
「あ、でも不審死の検証とかの手伝いはあるなぁ。検死……司法解剖とか見学したけどけっこうキツイよ? 最初は吐いたね。あはは」
笑いながら言うことか。なんだかげんなりして拓也が皿を置いた。マイペースな従姉だとミケは人知れずため息をつく。
それからしばらくカードゲームで盛り上がり、月乃が風呂から戻ってきたのは、丁度ニュースで純血三毛猫の競売の話題をやっていた時だった。
「すげぇな三毛猫の雄に50万ドルだってよ」
「50万ドルっつーと……5……6……7000万円?!」
指折り数えて環びっくり。こういう話題は大好きな従姉だ。
「そんなに!?」
思わず拓也の声が高くなる。この二人は似ているかもしれない。
「雄が遺伝的に希少だっていうのは知ってたけど、こんなにするのね」
あきれたように月乃は長い髪をタオルで拭きながら大きく息を吐いた。
「……そういえば太郎いないですね」
ミケが思い出したように部屋を見回した。ミケが入浴する前には月乃のひざに乗っていたのを覚えてはいるがいつのまにいなくなったのか。月乃も環も部屋を見回す。
「どっかで寝てんだら?」
ポテトチップスをつまんでトオルが言った。かなり顔が赤くなっている。婚約発表で浮かれた彼のピッチはかなり早い。
「猫は夜行性だ」
仁のツッコミが少し刺のあるように聞こえるのは気のせいだろうか。もっとも酔っ払いは気にもしていないが。
「外に出てくわけはないからどっかにいるでしょ」
月乃はそう答えてビールの缶を開ける。「こんな時間に飲んだら太るかなぁ」などと言いながらもぐびぐびと良い飲みっぷりだ。スラリとしてむしろ痩せすぎな部類の彼女が言うセリフじゃない。ミケの隣で仁特製のスペアリブをかじる従姉ならともかく。というか環は少しくらい気にしたほうがいいかもしれないとミケは思う。
「まさか太郎もあんなおっそろしい値段なのか?」
仁が眉をひそめて訊ねた。
「つーか、太郎は知り合いから貰ったコだからねー」
月乃は首を捻る。
「でも値段とかうんぬんじゃないし、値段なんてつけられないよ」
うんうん、とミケは頷く。ペットとはいえ家族の一員なのだ。最近はペットをオモチャのように扱う人もいるが、それは本当に許せないことだ。動物好きのミケは月乃に諸手を挙げて賛同する。
「うー、ちょっとトイレ行くかな」
拓也がよっこらせと腰をあげた。
「ついでに風呂も行ってくればいい」
そう言って仁が空いた皿を手に立ち上がり、キッチンへと向かう。仁の手料理もあらかた食べ尽くされてきていた。その時、突然声を挙げたのがトオルだった。
「オウッ、すまん……トイレッ!」
言うが早いがリビングを飛び出すトオル。そして閉め忘れたドアから聞こえるどたどたと荒く廊下を走る音が突然止まった。
「ぐぶッ!」
何か噴出すようなトオルの声。片手に重ねた皿を持ったままの仁と風呂へ行くと言って立ち上がった拓也がいぶかしげに顔を見合わせた。
「……どした? 吐いたか?」
環も月乃も、ミケも動きを止めた。その沈黙を再び動かしたのは、やはり廊下から響くトオルの声だった。
「大変だ! 猫が。……太郎が死んでるッ!?」
********************
「確認なんだけど、『殺された』ってのは間違いないのか?」
右手のシャープペンシルをカチカチ鳴らしながらクロは電話の向こうのミケに尋ねた。朝の寒さにぶるりと体を震わし、毛布を体に纏う。
「うん、環さんが確認した。首の骨が折れてたみたい」
「猫だけど、高いところから落ちたなんて可能性は?」
「トオルさんが太郎を見つけたのは納戸の中なの。酔ってトイレと間違えて開けたんだって。納戸といっても掃除機とダンボール箱がひとつ置いてあるだけで、落ちるような高い場所がないのよ。いくら猫でも天井に張り付いたりはしないだろうし」
「なるほど。人為的な『何か』があったのは間違いない、と」
クロはペンをサイドテーブルに転がすと、ベッドから立ち上がる。万が一環が犯人だったとしても、「殺された」とウソをつく意味はない。
「経過ってのはよくわかったんだけどさ」
クロは考えこみながらケータイを右手に持ち替え、殴り書きのメモを手にとってもう一度眺めた。眺めつつ、こんなに長い電話になるのならトイレくらい行っておくべきだと悔やんだ。
「結局のところ、太郎の姿が確実に確認されたのはミケが風呂に入る前なんだよな?」
「うん……。ペット用の扉があるから、好き勝手に出入りできるし、みんなあんまり気にしてなかったみたい」
アルコールも入りはじめたところだし、それは仕方の無いことだろう。クロはため息をついた。
「そうなると、犯行時刻はミケが風呂に入ってからトオル氏が発見するまでの間か。風呂に入る為に部屋を出た月乃さんと環さん、それから仁氏と拓也氏の4人……いや、トオル氏の早業ってことも考えられるか」
トイレに出て太郎を捕まえ、首を折ると共に発見者を装う。やってできないこともないがそうなると結局全員に犯行が可能だということである。
「飼い主の月乃さんやタマちゃんまで疑うの?」
抗議するようなミケの声がスピーカから飛び出す。耳が痛い。
「この一件の大前提はミケがウソをついていない、ということだけだ」
スッパリとそう言いきる。
「環さんはともかくとしても、月乃さんならなおさらだ。関わりが大きい分動機も生まれ……」
クロは言ってて自分でもアホらしくなった。太郎は猫なのだ。ただの三毛猫のメスだ。いくらなんでも猫自体に対して殺意を抱く人間がいるわけがない。そうなると動機は?
「殺したいほど猫の太郎を嫌いになる、わけないもんな」
拓也だっていくら猫が嫌いだからといって友人の飼い猫を殺すまでするとは思えない。
「拓也さんはむしろ、近寄りたくない、という感じだったよ」
クロの心の中を見透かしたかのようなミケの言葉。しかしこれでは犯行のタイミングも動機も絞れない。
「そうなると月乃さんへの嫌がらせとか? ……いや、でもわざわざこんな限定された時にやらなくても」
ぶつぶつとクロが呟く。
「突発的な出来事……。何かの拍子に? ……もしそれなら別に正直に……」
最後のほうはもうミケには唸り声にしか聞こえない。
「……ん? ミケ、そういや確か切り裂かれた、とか言ってなかったか? 首の骨折られたんだろ?」
「ああ、うん、まだ続きがあるの」
「なんだよ、早く言えよ」
呆れたような声を出すクロに、ミケはムッとしつつも「話を中断させたのはどっちよ」の言葉を飲み込む。
「……そんじゃ端的にいくよ。その、太郎が発見された後、月乃さんが軽くパニック起こしたのね。声揚げて泣き出しちゃって。トオルさんはもうそれで一気に酔いが冷めちゃったみたいで、月乃さんを部屋に連れてってつきっきりで寝かしつけてた。軽くて調子のいい人だけどちょっと見直しちゃった。
他のみんなでどうしたもんかって話になったの。人間だったら即警察、救急車なんだろうけど、飼い主の月乃さんはそんな感じだし、しかたないから明日月乃さんの回復を待ってから考えようということに落ち着いたわけ。拓也さんが自分の部屋からタオル持ってきて太郎にかけてあげて、パーティもそれでおしまい。
そんで今朝よ。アタシ6時前に目が冷めちゃってさ、のど渇いたからなんか飲もうと思って、上着羽織ってキッチンに降りたんだ。ついでってわけじゃないけど、太郎に手を合わせようと思ったんだけど、なんか昨日の夜とタオルの下の形が違ってるように見えて。タオル除けたら太郎の体はズタズタに切り裂かれてて。血はそんなに流れてなかったんだけど、解剖されたみたいで……思わず悲鳴挙げちゃった」
「そりゃそうだろ」
「今でも吐きそう。……で、みんな起き出してきて、月乃さんは起きたそうそう太郎見てまたパニック起こしてそのまま貧血で倒れちゃって。救急車呼んで、あ、もちろんこれは月乃さんの為ね」
「そりゃそうだ」
「今トオルさんが付き添って病院へ行ってる。さて、残された私達はどうしようか、ってのが現状」
ミケの話が終わり、しばらく沈黙が流れた。クロは目を閉じて下唇を噛んだ。
何故犯人は猫を殺したのか。何故犯人は一度殺した太郎を改めて殺したのか。あれ、なんかお腹痛い。
「……どう思う?」
痺れを切らしたミケが口を開いたのと、クロの下腹部から『ぐりゅう』とヘンな音がしたのとほぼ同時。
「う……」
「どしたの?」
「あー、えーと。と、とりあえずちょっとコーヒーでも飲んで整理するッ」
クロはこう答えて携帯電話を折りたたみ、トイレへと駆け込んだ。
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クロってコーヒー飲まないと思ったけど……と思いつつ電話をポケットに突っ込んだミケがリビングに戻ると仁の声が聞こえた。
「月乃が目を覚まさない限りオレらで勝手に処理するわけにもいかんだろう」
太郎の処遇である。切り裂かれた猫の死体をそのままにしておくのも気味が悪いが、飼い主の許可なく処分してしまうわけにもいくまい。
「メシ、どうする?」
拓也が小さい声でそう言った。顔色が良くないのも仕方がないだろう。
「食欲ないわよ」
当然のように環は首を振る。仁も「ああ」とだけ言ってソファの背もたれに深く沈んでテレビをつけた。休日の朝のワイドショーがやけにテンション高く見えてげんなりする。拓也も環もなんとなく顔を見合わせてから、リビングのホットカーペットに腰を降ろした。
「スキーどころじゃないな」
「……ああ」
ため息をつく拓也に仁が頷いた。
そんな3人を横目にミケはひとりキッチンへと足を運んだ。
「せめてコーヒーでも煎れるね」
そう言ったところでダイニングテーブルの椅子に置かれたアタッシュケースのような黒い鞄に目がいった。仁の持参した包丁ケースだ。
そういえば、太郎を切り刻んだ刃物はどこから調達したものだろうか。
「誕生日プレゼント、渡しそびれちゃった。とんでもないバースディね」
環が沈んだ声でぼやいた。
「オレは……ケーキを焼いたからな。いちおう間に合った」
仁が小さく笑った。
なんとなく足を忍ばせてキッチンに滑り込むと、ミケはキッチンの流しの下の戸を開けた。そこにしまってあった包丁はさび付いていて切れそうもない。ダイニングに取って返し、テーブルの上に黒い鞄をそっと置く。
リビングの3人はミケに背を向けぼんやりとテレビを見ている。
静かに。そっと。
ミケは鞄の留め金をゆっくりと外す。
ミケは考える。
太郎を連れてきたのは月乃が出発直前に突然決めたこと。それに、猫である太郎に対して殺意を持つ人間がいるとは思えない。たとえ動物を虐待することを楽しむ嗜虐的な人物だったとしても、友達のペットを殺すだろうか。そうなると考えられるのはやはり月乃に対する嫌がらせ。首を折るだけではあきたらず、体を切り刻むほどの鬱屈した陰湿な想い。
何故今? 昨日何があった?
旅行に来てスキーをやり、誕生日パーティを兼ねた宴会をやり、カードゲームに興じ、婚約発表が行なわれた。浮かれて酒を飲むトオルと嬉しそうに頬を赤らめる月乃。トオルが月乃に対して嫌がらせをやるとは思えない。
ミケは考える。
カチ。
金具の跳ねる音がミケの心臓に響く。大丈夫。皆気付いていない。
ミケはそのまま静かに鞄の蓋を開け、並んだ包丁の1本に目を留めた。自分のハンカチで右手をくるみ、そっと持ち上げる。
はらり、と何かがゆっくりと舞い落ちる。薄茶色のちいさな塊がふわりと空気抵抗によって広がり舞い散る。
机の上には、確かに短い毛が数本、落ちていた。
●《自己批評》
『【つづく】
ミステリを書きたくなったので、悩みまくって書きました。話は長いし内容浅いしプロット甘いし相変わらずキャラが記号化してるし。わかってる、いろんな意味で自己満足(満足?)
わかりやすい人から無理矢理な人まで、今回も登場人物の名前でいろいろ遊ばせていただきました。犯人役となる人ごめんなさい。』
《Missing Essayist Evolution 松永夏馬》
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◎机の上には、確かに短い毛が数本、落ちていた
『家族の時間』
著者:なずな
机の上には、確かに短い毛が数本、落ちていた。
トモが、ママ、見てと 歓声を上げる。
「ほうらね、やっぱり。来たんだ、猫ちゃん」
淡い色のその毛は、午後の日差しを受けてきらきらと金色に輝き
トモが走り寄り、両手を付いて机に飛びついた拍子に、ふわりと舞い上がり 散った。
風が金木犀の香りを運んでくる。
隣の屋根の上、「猫ちゃん」と呼ばれたそいつは、ベランダでじゃれ合うトモと
母の由香里に目もくれず
その大きな身体を横たえ、うつらうつらしている。
トモは、わざとベランダの網戸を少し開けたまま学校へ行く。
その猫を自分の部屋に住み着かせたくて、トモがこっそり餌になる物を部屋の隅に置いている事は
由香里も長女のユキも、とっくに知っていた。
「大人ののら猫なんだから、そんなことでトモの猫にはならないよ、諦めな」
ユキが何度言っても、トモは譲らなかった。
「嫌だ、猫ちゃん飼うの。うちの子にするの。絶対にするの」
トモとユキの言い合う声が煩かったのか、猫は大儀そうにあくびを一つすると
おもむろに起き上がり
思いのほか身軽なしぐさで、するりと隣家の庭へ下りていった。
ユキ、トモ、歳の離れた二人の子ども、母の由香里・・・そして 下宿人一人。
親から受け継いだ二階建ての木造家屋は、三人暮らしでは部屋が余る。
ユキが物心ついた頃には祖父母はすでに亡く、誰かしら下宿人が一緒に住んでいた。
由香里の住まわせる「下宿人」は決まって、いつも男の人だった。
ユキが覚えている限りでも、数人いる。
どうやって選ぶのか、年齢はまちまちだが、どの人も上手に家族に溶け込み、気を遣わないでいられた。
聞き上手な由香里相手に、他愛のない日々の出来事を家族のように話し、
時にはユキ達が疲れて眠ってしまう程長い間、ずっと話していたこともあった。
暇な時には、ユキたち相手に良く遊んでくれた。
楽しい時間って、どうして続かないんだろう。
仕事の都合や子どもには解らない色々な事情で、その人たちも去って行ってしまうのが、ユキはいつも寂しかった。
どの人も皆好きだった。たった一人を除いては。
下宿代を少ししか取らない上、相手が望めば食事や身の回りの世話までする。
だから由香里が病院で清掃のパートを続けても、生活は慎ましいものだった。
「物騒な世の中、女三人所帯では何かと不安でしょ?
部屋も空いてるんだし、僅かな家賃収入だって、家計には大助かり」
「掃除の仕事だってね、色んな人と出会えて、結構楽しいのよ、ママ気に入ってるんだから」
由香里は屈託なく笑って言う。
─ママの理屈はそうだけど、世間はそう思ってない。
母が幼い頃から知っているという、近所の人の目がいつもそれを突きつける。
「下宿人の人・・塔岡さんだっけ?元気そうになって、見違えるようになったじゃない。
来たときは、何だか暗くって、ふらふらしてて今にも倒れそうだったのにねぇ」
「あら、何だ。ずっと居るわけじゃないの? 嫌だ、私ったら・・トモちゃんたちも懐いてるし、今度こそてっきり・・」
「ねぇ由香里ちゃん、そろそろ ユキちゃんも難しい年頃でしょ、トモちゃんも、もう小学生だし。
次の下宿人は女性にした方がいいよ。私、心当たり探してみるから、いつでも声かけて」
余計なお世話だ、噂話のネタが欲しいだけなんじゃないの?ユキは心の中、呟く。
「色々心配してくれてありがとう。考えてみるね」
由香里はそういう時でも、いつもの大らかな笑い声を立て、悪びれずお喋りに付き合うのだ。
「ねぇ、由香里 せっかく技術があるんだから、病院の掃除婦とかボランティアみたいな下宿しなくてもさ・・
あの人思い出すから 嫌なのは解るけど・・」
この間会った母の幼なじみは、そう言って髪に当てた手で挟を形作る。
が、ユキとトモの視線に気づき話を慌てて変え、わざとらしい大きなため息をついて肩をすくめた。
「本当に由香里はお母さんと一緒よね、赤の他人の世話には熱心で。そのくせ自分の事になったら全然相談もしてくれないんだから」
少し膨れた顔をしてみせる幼なじみに、由香里は愛想良く笑いながら感謝の言葉を言って、別れた。
急ぐ用事があるわけじゃないのに、トモの手を引く由香里の足は 心なし速い。
ユキは母親の過去を全く知らない。祖母がどういう人だったのかも知らない。
いつも朗らかでお喋りの好きな母が、自分の話になると全く語りたがらない事は、ユキも気づいていた。
どんな風にこの家で育ち、どういう経緯で自分たちを産んだのか、知りたいとは思う。
あの人達に聞けば喜んで教えるだろう。でも他人には教えてもらいたくない。母もきっとそれを望んでいない。
洗濯物を干し終えると、トモの開けた網戸を閉め、由香里はシャッと音を立てて
カーテンを引く。
*
ぼんやりと由香里はベランダに立っていた。
「ママ?」
ランドセルを机の脇に掛けながら、トモが声を掛けた。
「どうしたの?考え事?」
トモは時々、妙に大人びた物言いをする。由香里は振り返っていつもの笑顔を見せ、部屋に入った。
頭の中で繰り返し考えていたのは 幼なじみに言われた言葉。由香里は頭をふるんと振って、トモには別の事を答えた。
「雨になりそうだなって思って。金木犀ももう散っちゃうのかな」
見上げると天井、トモの机の上辺りに染みのようなものが広がっている。
「屋根直さないと、漏ってくるね」
「やだ、濡れちゃうと困るよ。絶対困る」
トモはそう言いながら勉強机の上にぺたりと頬を寄せ、机を抱きしめる格好をした。
白にピンクをあしらった「おひめさまの」デスク。
学習机がずらりと並ぶ家具屋の中を浮かれて走り回った挙句 トモはが気に入ったのは「白い机」だった。
「皆と同じような色じゃないって、後で嫌にならない?」
「一生使うものなのだから、しっかりした物の方がいいんじゃない?」
一緒に暮らす日が長くなり、塔岡も子ども達に自然に話しかけるようになっていた。
父親ごっこを楽しむかのように、小学校入学を控えたトモの学習机選びに 塔岡はやけに熱心に口出しし続ける。
「学習机を一生使う人なんて 見たことないよ」
塔岡に買ってもらったクッションの包みを抱いて、ユキがあきれ顔で笑って言った。
家具屋の店員は当たり前のように、塔岡に商品の説明をし、
「お父さん、優しくていいね」
かがんで目線を合わせ、飛び切りの愛想顔で、トモにに話しかけた。
トモも満更ではなさそうで、にこにこしながら塔岡と手をつないだりして甘えてみせる。
ユキのイメージの中の「父親」は もう少し細身で若かったけれど、それも単なるイメージでしかない。
母は父のことを全く話してくれない。生きているのかどうかもユキは知らない。
売り場でトモが目をつけた白いデスクは組み立て式の安っぽい品物だったのに
結局塔岡がカタログまで出してこさせて、これに決めた。
由香里は何度も断ったけれど、塔岡が強引に自分のカードで支払った。
「塔岡 正弘」
塔岡は自分の名前を躊躇なくサインした。由香里はその手元をじっと見詰める。
ずっしりと重く艶やかに輝くその家具は、日に焼けた畳敷きの狭い部屋で妙に浮いて見えた。
*
塔岡は、最近出かけがちだ。
トモはとっくに小学校に行っている。
寝巻きのまま ユキはカーテンを開け外を見た。
ひんやりした秋の空気が心地良い。
隣のトモの部屋に続くベランダには、もう乾きかけた洗濯物が風に揺れている。
この春からユキは、黙って学校を休む日が増えた。
「あの担任、嫌い」
問い正しても、ユキはそれ位しか答えない。
「家庭訪問の時は沢山お喋りして下さって、ママは楽しそうな良い先生だと思ったんだけどなぁ」
─その「楽しいお喋り」の後、うちの家族構成について、学校でねちねちと聞いてきたんだ。
だけど、それは言えない。
担任はその時 家にいた塔岡の姿を見ていた。
ユキの不登校におろおろする由香里に向かって塔岡は言う。
「人生長いんだから、ちょっと休む時間があったって大した事ないさ」
「人生の休み時間」とか「仮の時間」という言葉を使って、塔岡は話を続ける。
─心のバランスが危うくなったら、人生の一時期、自分に「別の時間」を与えることも必要なんだよ。
四人で食卓を囲みながらそんな話をしていると、何だかユキも、こんな風にずっと「家族」が続くといいのにな
・・そんな気になってしまう。
─ママ、今日は仕事、休みなんだ。
ベランダのあたりから聞こえる何だか楽しそうな笑い声に、ユキは耳を済ました。
*
塔岡が外出するのと入れ違いに若い職人が屋根の修理に来た。
「代金はジュース代くらいでいいですから・・」
数日前、近所で仕事が入ったついでに 瓦のずれを直してやると言ってきた若い男。
「ほんとにジュース代で済むの?屋根に上がって、適当なこと言って
何十万する工事の必要があるとか 言ってきたりしない?」
「実際屋根に上がって見ないと解らないこともありますけど・・」
日に焼けた顔を更に赤くして、人の良さそうな青年は、不器用な言葉で応えていた。
玄関先で由香里は 気さくに話しかけている。
セールスマンや保険の勧誘にも驚くほどフレンドリーに応対する人だ。
結局ジュースを出し、由香里はそのまま茶の間で青年と話し込んでいた。
由香里の母も田舎の感覚が抜けない人で、よく若い配達員や御用聞きを家に上げ、休憩させた。
由香里が学校から帰ると、そんな「お兄ちゃん」たちが茶の間で新聞を広げていて
「お帰り」と言ってくれることもよくあった。
配達ミスで余ったものをこっそり貰ったり、宿題を見てもらった事もある。
そんな母が、周囲からどんな目で見られているのかなんて、そのころの由香里には考えも及ばなかったことだ。
すっかり屋根屋の青年がくつろいだ様子になった頃 トモが帰って来て、男物の見慣れない靴に気づく。
青年が「お帰り」と声を掛けると、トモは酷く驚いた顔をした後、さっと表情を硬くした。
「トモの部屋の天井を見てもらったよ、瓦がずれてるんだって」
「良かったね、今度お兄さんに直してもらうから、もう机が濡れる心配もないよ」
「ほら、やっぱりジュース代だけって訳には 行かなかった」
由香里の華やいだ話し声が、帰ってきた塔岡の耳にも届いた。
「塔岡 正弘・・」
まだ 馴染まない自分の名前を、塔岡はひとり呟いてみる。
「下宿人」以上の心配りや、身の回りの世話をしてもらっているとは思う。
けれど本当のところ、由香里の周りには、それ以上踏み込めない堅いバリヤーがある。。
トモの部屋の雨漏りなんて、自分は全然気づかなかった。
もちろん 修理の相談なんてされない。
この家にとって、自分はただの通りすがりの人間なのだ。
─誰にでも愛想の良い、親切な由香里さん
塔岡は机を買った時の自分の浮かれようを思い出し 自分を哂う。
それでも酷く 寂しかった。
*
ユキは、トモの白い机を手の平で撫でた。
「デスクマット敷いた方がいいよ」
「このまま使うの。だって、白くてつるつるで綺麗なんだもん」
ユキの忠告を、トモは頑として聞きいれなかった。
「その代わり、時々拭くんだよ。でないと真っ黒になっちゃうよ」
塔岡が言うと、トモは可愛さを最大限装った声音で「はぁい」と答えた。
自分が小学校に上がるとき この家に住んでいた男をユキは忘れていない。
「どうせ勉強なんかしないだろ」
何の権利もないくせに口を出し、
「良かったな、お前、勉強机だぞ、おい 嬉しくないのか」
男が運んできたのは、潰れた近所の会社から譲りうけた事務机だった。
スチールで、色は灰色で傷がいっぱいあって、 椅子はビニールが破れ、ウレタンが覗いてた。
動かすと、きぃきぃいった。
結局別の机を近所から譲り受け、ユキは使っている。
由香里は何度かちゃんと買おうと言ったが、
「あのひとが運んで来た机でなければ、どんな机だっていい」
嫌悪感を露にして 小さいユキはそう答えた。
由香里はユキの顔を驚いた顔でじっと見つめ、哀しそうな目をして無言でユキをぎゅっと抱きしめた。
男はそれから間もなくどこかに出て行き、そのまま二度と戻らない。
*
猫ちゃん ここに寝てください。
さあ、猫ちゃん わるいところはどこですか
事故にあったんですね
今までのこと何にも覚えてないんですか?
困りましたねぇ。たいへん困りますねぇ
トモせんせいがなおしてあげましょう。
手術しますからね。
その前に、ここの毛、少ぉし 切りますよ。
痛くないよ。
痛くないからね。
はい、ここ、切りますよ。
切りますよ。
─だけど・・・
トモは机の上に乗った猫を、くいと押さえたまま考える。
思い出さなくっても、いいこともあるかもしれない・・
思い出さずに 「今のまま」を続けられないかなぁ・・。
*
「何してるの?」
トモの部屋から悲鳴みたいな猫の声がした。
「何にもしてないよ、ママ」
慌てた様子で何かを引き出しに隠し、トモが振り向く。
「今日はお仕事お休みしたの?」
「うん、朝、屋根の修理の人来てたからね」
「塔岡のおじさんは?」
「さあ・・・出かけたみたいだけど?」
トモの目がベランダの方に向き、隣の屋根の向こうに走り去る猫の姿を追った。
「ねぇ、ママ?」
「何?」
「塔岡のおじさん 好き?」
「トモは好き?」
「ずっと一緒に暮らさないの?」
急なトモの質問に由香里は口ごもり、少し間を置いてからトモに向き直って言った。
「そうね、それは・・きっと、できないと思う。でも、また元通りになるだけよ。リセット。
部屋が空くのが寂しかったら、また次の人探そう。そういうのトモは嫌?」
トモは俯いて白い机をじっと見据える。
「塔岡のおじさん、トモのこと本当は嫌いかな」
思いつめたような顔。トモってこんな顔をする子だったろうか。
「ママ、おねえちゃんが中学ずっと行かなくて、トモもほんとのほんとはもっと悪い子だったら・・リセットしちゃう?」
「馬鹿ね、こどもをリセットなんて出来るわけないじゃない」
強い調子で即答し、一息ついてトモの腕にそっと手を伸ばす。意外な力で振り払われた。
日ごろのトモの無邪気な様子に酷くそぐわないものを感じ、由香里は戸惑う。
「じゃあ、大人だったら?もっと大きくなったら?
ママと喧嘩しておねえちゃんとかトモとか・・、出てっちゃったら、ねえ、ママ、
今まで居たことなんか、なかったみたいにして、忘れちゃう?」
「何で、そんな・・」
「ママは本当は・・トモのことリセットしたい?」
トモの頬をぽろぽろと涙が伝って落ちた。
そんな素振りを見せたことはないはずだ。
トモの顔を由香里は呆然と見つる。足元からずるりと沈んでいくような感覚に囚われた。
トモが生まれたとき、「父親」そっくりだと思った。最近ますます目元が似てきた。
トモへの愛情とは別に、何かの拍子にあの男の面影をトモの中に認め、背筋が凍りつく自分に気づく。
視線を感じて振り向くと、寝巻き姿のままのユキがドアのところに寄りかかって立ち、
酷く冷めた目で、二人を見つめていた。
*
最近 塔岡が出かける先は解っている。
外傷はすっかり綺麗になったし、体調も回復した。きっともう、記憶も戻っている。
由香里の勤める病院に、転落事故で運ばれてきた塔岡は、頭を強く打っていた。
奇跡的に助かったが、事故以前の記憶を失っていた。
医師は一時的なものだろうと言う。
病院に駆けつけた「奥さん」は、短い髪のよく似合う綺麗な人だった。
恋愛感情なんて、もう誰にも持たない。
ただ一緒に家にいてくれる男の人が欲しかった。
過ぎた日々は全部「別の時間」。
泣いたり悔やんだり、みっともなく縋ったり、そういうものは無縁。
あいつが万が一戻ってきても、居場所はない・・下宿人で部屋を埋めるのは、それが一番の理由かもしれない。
あの男・・父親らしいことなんかせず、ただ、だらだらと家にいたり
ふらりと出たきり帰らなかったりの繰り返しだった。
たまたまユキの入学準備の頃、少しの間、家にいた。
恩着せがましく古びた事務机を運んできたあの嫌な男が、自分の「父親」だとユキは知らない。
そして、私にトモを身篭らせて、またどこかへ行ってしまったことも。
あいつが帰ってきたって、一歩だってこの家には入れない。
もう私には絶対に触れさせない。
由香里はトモの机の引き出しをそっと開け、トモがこの前慌てて隠したものを探した。
きらりと光って見えたのは、細身のシルエットのカット鋏。
「どこから、こんな・・」
言葉を失った。
美容師を始めた若い頃、由香里が大事に使っていた宝物。
夫婦で店を持とうというあの男との、夢を信じた頃の思い出の品だ。
押入れの奥のどこかに追いやったまま忘れたつもりでいた。
思い出すこともなく心に封をしたはずの過去の時間が、大きな波となってうねりながら押し寄せる。
由香里は立っている事さえできず、ぺたりと床に崩れた。
*
病院のベッドで目覚めた時、塔岡は自分が誰なのか解らなかった。
大きな事故に遭ったということは 痛む身体が教えてくれる。
身元は所持品から辿れ、呼ばれた「家族」が病院に来た。
しかし、それもただ徒に混乱を招いただけ。
「自分」というものが何なのか考えようとする度、頭が割れるように痛かった。
事故の前にあったはずの「愛情」すら思い出せない。
ベッドサイドで自分の手を握り涙する「妻」を見ても、懐かしい気持ちさえ浮かんではこなかった。
本当に自分はこの人と幸せな家庭生活を送っていたのだろうか、疑念が頭の中を占める。
「このまま帰れない、少し時間が欲しい」
疲れ果てて氷のような表情になった「妻」はこくりと肯いた。
病室の掃除をしながら話を聞いてくれた由香里に、塔岡は寄りかかり、甘えた。
今時こんな風に、何の縁もない者の話を聞いてくれる人がいるのか・・
彼女は聞き上手で、その距離の置き方が心地よく温かい。包み込むような優しさを感じた。
「母が田舎の感覚が抜けない人で、他人を放って置けない質だったの」
─そんな親を見て育ったからかな?もともとおせっかいな家系なんだよね、
由香里はくすくす笑って言い、今丁度下宿人を募集していたところだと、自分の家に塔岡を招き入れた。
由香里の傍だけ、不思議な時間が流れ、落ち着く。二人の子どもも可愛かった。
白い机はせめてものお礼。
トモの喜ぶ顔が見たかった。束の間 塔岡は家族になった夢を見た。
それでも、由香里は塔岡に言ったのだ。
屋根の直った後の強い雨の日。落ちた金木犀の花がアスファルト一面をオレンジ色にしていた。
「何もして頂く理由はないわ。机代はきちんと返させて」
─本当の家族と本当の時間をもう一度進めなさい。どんな結果が先に待っているとしても。
由香里は塔岡に言う、柔らかな笑顔のまま。
「奥さんのところに帰りなさいね」
─ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから、ちゃんと過去と向き合って。
あなたの今まで来た道は、あなたのこれからに繋がっているはずだから。
そう言って、もう一度くしゃくしゃな笑顔を見せた後、由香里は視線を逸らし、
宙を見据えて唇をかんだ。
気詰まりな沈黙。雨音が一層激しくなる。
空気がピンと張り詰めて、何かの拍子に周囲全てがカタカタと崩壊しそうな気がした。
*
トモが学校から帰ってくると、僅かばかりの塔岡の荷物がなくなっていた。
「ママ、塔岡のおじさん いなくなっちゃったの?」
トモが泣きそうな顔で息を弾ませながら駆け込んできて言う。
勢い余って壁にぶつかりそうになるトモを 由香里はしっかり抱き止めると
膝に乗せて 髪を撫でた。
「塔岡さんは元気になったから、家族の待っているおうちに、ちゃあんと帰ったの」
トモは身体を捩って、由香里の顔を見上げ 責めるような口調で問う。
「次は誰?あの屋根屋さん?ママもう決めちゃったの?」
階段で立ち止まって、ユキも同じ気持ちで聞いている。
「決めてないよ、そんなの」
由香里は大きく息を吸い込んだ。
「あのね、ママ、下宿はもう止めようかな と思ってる」
由香里は少し目を瞑って沈黙した後顔を上げ、すっきりした笑顔を見せて言った。
─え? 何で? それ本当?
ユキもトモも何か言いかけて上手く声が出せない。
「三人で暮らす。家族で暮らす」
「どうして?」「お金困らないの?」
ユキとトモがまだ、もごもごと上手く言葉にできないまま 問いかける。
「ひとに言われたからそうするんじゃなわよ、ママもそろそろ考え時だな、と思ってた」
─自分が助言したからだって、誰かさんが嬉しがのも悔しいしね・・
ユキは由香里の肩に手を掛ける。トモは由香里の腕をしっかり握った。
由香里は二人の頭を引き寄せて、おでこを引っ付けると、囁いた。
「ユキもトモも髪、伸びっぱなしだね。ママ、格好良くカットしてあげる」
突然のことにユキもトモも戸惑う。由香里がカットしてくれるなんて言うの、初めてのことだ。
これが大事な打ち明け話?
「大丈夫、心配は無用。随分ブランク開いちゃったけど、実はママは、プロの美容師さんなんです」
由香里はちょっと大げさに 胸を張って言った。
*
「ユキ、ベランダにシート敷いて」
「トモ、タオル持ってきて。ねぇやるよ、今すぐだよ」
お風呂場の方がシャワー使えて便利だよ、とユキが言うのも取り合わず
急な事で驚くばかりの二人の子どもに、由香里はてきぱきと指示を与える。
洗濯物を除けベランダに椅子を出し、その思いつきにうきうきした様子で、由香里は準備を進めた。
黒いエプロンを掛け、袖をまくり、髪を後ろに一つに束ねる。
「ママ ほんとに大丈夫なのかな」
トモが小声でユキに言う。
「解んない・・解んないけど」
ちょっと 素敵じゃん、今のママ。
「お客様、お席へどうぞ」
由香里が声を掛け、トモを椅子に座るよう促した。
「それから・・この大事なママのカット鋏・・」
トモの机の引き出しから 由香里が挟を取り出すと、トモはみるみる真っ赤になって俯いた。
「ごめんなさい。ママの大事なものって知らなくて。押し入れで見つけて、凄く綺麗で、カッコよくって・・」
泣きそうなトモの肩にビニール袋を広げたケープを掛けると、由香里は飛び切りの笑顔で二人を見、
シャカシャカと鋏を鳴らしてみせた。
ユキが以前トモの引き出しで見た時より、艶やかに光っている。
丁寧に手入れされた輝きだった。
小気味良い鋏の音、カットに集中する由香里の目。
こんな目をした母を初めて見た気がする・・ユキは由香里の手元を目で追う。
「下宿の人置いたり清掃のパートするのを止めて、ママはもう一度美容師さんになろうと決めました」
カットの手を休めずに、二人が予想もしなかったことを由香里は切り出し、ふふっと笑った。
「だから勉強するの。最近の技術も覚えなきゃね」
「そう、だから『仮の時間』は終わり。あ、ううん『仮の時間』にして逃げるのはもう終わり・・って方が正しいな」
そして 小さな声で付け足した
「ずっとユキとトモと過ごしてきた時間だものね。『仮』なんかじゃなく、大事な本当の時間だわ」
ユキが顔を上げ、由香里を振り向いて見ようとしたら、
「お客様、少しだけ真っ直ぐしていてくださいね」
由香里はユキの頭を軽く抑えて、シャキンと鋏を鳴らした。
いい音だ。
「わぁ、見て、すっごい夕焼け」
カットを先に終えて いい感じのショートカットになったトモが、
ベランダの柵から半身を乗り出して叫んだ。
「特等席だね」
「そう、VIP席でございます」
ユキが肩を揺すって笑い、由香里がもう一度ユキの頭を真っ直ぐになるよう押さえ直す。
夕焼け色を映した鋏は シャキリと鳴り魔法のように皇かな動きを見せた。
この間の雨に負けずに残って、花を咲かせた金木犀が微かに香る。
「おーい、猫ぉ」
「のらの、猫ぉ」
トモが叫ぶと、いつもの猫が隣の屋根の上で首をもたげ、じっとこちらを見て、
「何もかも知ってますよ」という顔で一声、「にゃあ」と、鳴いた。
●《自己批評》
『当初の作品と全然違うものになりました。
「誰の(何の)毛」か解らないまま、皆が何か疑いあうダークでドロドロな話だったんですが・・(書けなかったものをいくら言っても・・・)
結局「家族万歳」・・・ってことで。はい。』
《STAND BY ME なずな》
゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。.。:+* ゚ ゜゚ *+:。.。:+* ゚ ゜
◎仮の時間を与えられただけだったのだ
『Time is...』
著者:櫻朔夜
Time is...
『仮の時間を与えられただけだったのだ』
静かに瞼を落とすと、元から遮られていた視界は、完全な闇となる…
小木(オギ)は壁に埋め込まれている小さなモニターを眺める。1人の男が、目を瞑ったままじっと座っているそのモニターを。映し出されているその殺風景な一室を、ただ見つめているだけが、小木の今日の仕事だった。
男は、先程から微動だにせず簡易ベッドに座り続けている。既に朝食を終えてから1時間余。つまり、小木も同じく1時間余を、ただぼんやりとモニターを眺めていることになる。何かをしようにも、目を離してはいけないのだ。場慣れしている同僚には、デスクワークと並行させる者も居るが、この仕事に関しては、一時でも目を離すのは憚られる…小木はそう思っていた。
男に、少し動きがある。小木は画面に食い入るようにそれを見る。どうやら排泄のようだ。そればかりは何度見ても慣れることは無かったし、どちらかというとそれを覗き見る嫌悪すらあったが、それでも目は離さない。何せ、“見ている”ことが仕事なのだ。それに、好奇心が全く無いわけではない。男は立ち上がり、部屋の隅にある便器へと向かう。数秒の後、着衣を整え、また同じようにベッドへと腰を降ろす。そして目を瞑る。
小木は画面へ乗り出すようにしていた体を、折畳み式の椅子へと落ち着ける。
『それにしても堅い椅子だ…』就業後何度目かの感想。どうせ長時間座らせておくのなら、もっと座り心地のいい椅子を用意してくれても良いものだが。これでは、あの簡易ベッドと変わらない。それとも、こうやって監視される側の人間と同調させたいのだろうか…自分の居るこの狭い部屋にも、同じようにカメラがあるのではないか…と、一瞬背筋が凍りつく。こうしている今、自分も誰かに監視されているのではないか…そんな考えは寄寓に過ぎないのだが、この待遇の悪さでは仕方が無い。身の緊張を解き、既に見開き続けて疲労を覚える眼を軽く擦ると、小木は再び身を入れて何も変わらないと解っているモニターへと集中した。
小木にとってこの時間は、好奇心を満たし、同調から他人へと成り代わる、仮想の時間だった。
菅井(スガイ)は、長く伸びたリノウムの床を鳴らしながら、特に何を考えるでもなく歩いていた。このフロアに、菅井が責任を持つべき部屋は1つしかない。
その前を定刻通りに往復するだけが、今日の彼の仕事だった。床から壁まで真っ白なその廊下は、菅井には永遠に続くもののように感じる。たった、数十メートルの距離を歩くには、ゆっくりと往復しても2分とかからない。一応、ただ歩くわけではなく、その部屋の中をチラリと覗くことにはなっている。いや、実際はきちんと様子を確認しなければならないのだが、責任を持つべき部屋の住人は、先程の定刻確認の時と相変わらず、眼を閉じて簡易ベッドに腰掛け続けている。
2、3日前にこの仕事をした時もそうだった。
むしろ、ここ半年の間ずっと変わらないのだから、ある意味大したものである。
そのせいで、定刻確認とは言いつつ、この仕事は実の無い一辺通りの反復作業と化していた。それに菅井が確認するまでもなく、今日であれば今頃、小木が穴の空くほどモニターを見ているのだろう。それでも、“歩き、確認する”のが菅井の仕事なのだ。ただ黙々と、実際よりも長く感じられる廊下を往復し、往きと帰りの2回、部屋の中をチラリと覗き、詰め所へと戻る。
『今回も異常無し…か』いつもと同じ結果。戻りながら菅井は思う。これだけ静かで穏やかな空気は、他でもなく、あの男から発せられている。それはこの廊下を歩くたびに肌で感じていた。男にこれと言って感謝するわけでもないが、“何も無い時間”が、日々を辛く感じる菅井にとって、何物にも変え難い時間になっていた。通常勤務で表に出ているよりも、余程平常心を保てるのは、実はあの男のお陰なのかもしれない。菅井は事務机に向かい、いつもと同じ“異常無し”の文句を書き付ける為に日誌を広げた。
菅井にとってこの時間は、何も起こらないという保証付きの、癒しの時間だった。
田上(タガミ)は、窓を背にした大きな背もたれのついた革張り椅子に深く座り、提出されている日誌や報告書に目を通していた。
どれも1日に行われた作業や、時刻に沿った活動が記入され、整然とした事務的な文字が並んでいる。ごくたまに、多少問題ある仕事中の喧嘩や違反などの報告も見受けられたが、特に取り上げるほどのものでもない。このくらいの事なら、ここでは当たり前の事なのだ。
次に田上は朝刊を広げた。新聞は毎日、早朝勤務の者によって田上の机上に届けられている。先程まで読んでいた報告書に併せて、読売・朝日・毎日の三大紙と地元紙1部に、毎朝夕必ず目を通すのが田上の仕事…いや、日課でもある。
それらの新聞全てを、一言一句逃がすまいと、田上は紙面に顔を近づけて隅々まで目をやる。このところ老眼にでもなったのだろうか、少し見え辛くなった気もしていた。しかし、紙上はそんな田上の視力事情にお構い無く、世間を騒がす強盗事件から地域の放火と見られる小火情報、議員の違法計上、イベント情報まで、小さな活字で実に様々に書き立てていた。
『そういえば、もうあの事件は触れられてはいないのだな…』田上は読み終えた新聞を雑に折り畳んで少し離れたソファの上に投げる。次の新聞を手に取りながら、つい数ヶ月前まで新聞に限らずメディアを賑わせていた事件に思いを巡らせた。
−−【復讐劇】・【仇討ち】−−
昨今、最早時代遅れとなるようなキャッチコピーが、ずらりとメディアに勢揃いした、あの事件……確か、今年の初めだったはずだ。それから犯人が逮捕され、裁判が開かれ…今年はもう終わろうとしている。あれほど世間が大騒ぎした被害者10余名にものぼる事件が、今や過去の1頁だ。それほど時代が流れるのは早い。まだまだここでは若手と呼ばれる小木や菅井でさえ、着任してから既に2,3年は経つのだ。当たり前の事なのかもしれない。
いつも通りに全ての新聞を読み終えると、田上はいつも1番最後に目を通している、先程まで読んでいたものとは別の報告ファイルを取り上げた。
それは、広げても特に何の意味も持たない。何故なら、『何も無い』のが当たり前の日誌であるからだ。いや、当たり前でなくてはならない。勿論今日も、何も無かった。あの男が来てからというもの、自分はこの仕事の責任をまっとうできている…田上は安堵し、ファイルをそっと机上に戻すと、やっと一息とばかりに、煙草へと火をつけた。ここの始業時間は案外に早い。田上の朝の業務は、9時前に終了した。
田上にとってこの時間は、自分の地位や立場を安泰にしておく為の、再確認の時間だった。
加賀屋(カガヤ)は雪の中、数人の男と車に揺られていた。後部座席に深々と座り、口を堅く結んだまま一言も発さぬまま目的地は迫っていた。それは同乗の男も同じで、車内は重苦しい雰囲気に包まれていた。
もともと陽気な性格の加賀屋だったが、この仕事が入る日は必ず、見る影も無いほどに陰鬱な表情を漂わせるのが常だった。とは言え、人生にそう何度もある仕事ではない。もう既に引退している先輩にはこう言われた。
『この仕事が入った日には、派遣にでも行くつもりで…』
それを思い出し、加賀屋は更に両の肩が重くなり、座席に埋められるような錯覚を起こし、焦りを隠すように思わず咳払いをした。同乗の男がピクリと眉を上げたが、相変わらずの車内には、エンジンとエアコンの入り混じる音だけが響いていた。
と、車が速度を落とした。どうやら到着らしい。運転手が窓を開けると、車内に雪が舞い込む。寒冷地仕様の車内に降り立つ雪は、接地するそばからその輪郭を消して行った。
ふと気がつくと、建物の入り口に立っていた職員が目的を尋ねようと近付いてきていたが、面倒くさそうに運転手が見せた書類にハッとし、無言で屋内の別な職員に開門するよう合図を送る。目当ての“屋敷”は、沈黙と威嚇の表情で加賀屋を迎えた。
『今日の勤務は…小木と菅井か…』加賀屋は、勤務に当たっている職員の札を一瞥した後、ある一室へ向かう。無機質な扉の並ぶ廊下に対し、目指す部屋の扉は木造であった。加賀屋はその扉を一応ノックしたものの、返事も待たずに押し開け、滑り込むように入室した。
突然の事に驚いているこの部屋の主……田上は、加賀屋の姿を認めると、驚きで見開いていた目をゆっくりと伏せ、「来たのか…」と、誰にともなく一言呟いた。
「ええ」加賀屋は短く答える。「お願いします…」
たったこれだけの会話。たったこれだけの仕事。服装を整え始めた田上を眺めながら、加賀屋は別世界にでも居るような感覚に囚われていた。その加賀屋の目の前で、田上は小木と菅井、それから2人ばかりを電話で呼びつけた。その面々に、加賀屋が同行してきた男達の中から数人が加わる。どれも屈強そうな男ばかりだ。
数分で、全員が揃った。まるで映画でも観ているかのように、加賀屋の意識はこの事実に対応しきれずにいた。今からこの男達は、急遽与えられた仕事をこなす為に、加賀屋の居るこの部屋を出て行く。持参した封書を田上に手渡した時点で加賀屋の仕事は終わった。規定通りに田上による短い確認が行われ、その存在を忘れたかのように、彼らは加賀屋に目もくれずに去って行った。残された加賀屋はじっと息を潜める。発端は何にせよ、加賀屋の到着によって引き金は引かれた。
加賀屋にとってこの時間は、認めたくない事実を無かったことにする為の、逃避の時間だった。
男は、自分を取り巻く空気の違いを敏感に感じ取っていた。いつものように瞑想を始めてからすでに2,3時間は経ったはずだ。静かな、少々緊張感を伴う他人の視線はどこにもなく、どこか鋭い空気の流れを感じる。
尻の下にある堅い簡易ベッドの感触は、初日こそ痛みはしたが、既に麻痺して感覚など無いも同然となっていた。目は閉じたままであったが、もうだいぶ前から外界を見ることに興味など無くなっていた。世俗の喧騒を目にするくらいなら、盲である方が幸せ…とは誰の言葉であっただろうか。
監視されるという、ここでの仕事も甘んじて受け入れた。むしろそれは男にとって気にも止まらない、些細な事だったのだが。
細く目を開けると、塞がれて小さくなった窓から僅かに見える白い光景が、無感動に男の目の隙間を刺した。それは始まるでも終わるでもなく、どこまでも続く男の空(カラ)の心と同じだった。
突然、部屋の扉が開錠される音が室内に響いた。特に驚くでもなく男は立ち上がると、入ってきた男達を出迎えるように扉へと身体を向けた。田上をはじめ、小木、菅井、加賀屋とやって来た者…もちろん男が彼らの名前を知る由もないが、ただ、自分を連れて行こうとしていることだけは知っていた。静かに一歩、踏み出す。男のここでの仕事は、終わろうとしていた。
連れて行かれた部屋で、男は紙とペンとを手渡され、机を使うよう指示された。言うなればこの仕事を終える為の誓約書への署名であり、兼ねてから男が希望していた事でもあった。寒さで鈍った神経をどれだけ集中させても、久しぶりに握るペンはなかなか言う事を聞かなかったが、それでも男はしっかりとペンを握り、立ったまま机に向かって一字一字を丁寧に書き込んだ。
それが済むと、田上が男の前に立った。男は、先程の作業以外は何も希望しなかった為、全ての手順は省かれていた。
加賀屋の運んできた書類の封を切り、田上は重々しく抑制した声で、男に言い聞かせるようにその文面を読み上げる。
「死刑執行指揮書−……」
拘置所長の田上は、長い陳述を読み終えると小木と菅井を顎で促した。他数人の刑務官達によって、男は壇上の椅子に座らされ、素早く手足を拘束された。そして、黒い布を頭にかぶせられ、最後に首にロープをかけられる。
視界を遮られるのと同時に、布の内側の黒い闇をスクリーンに、悲痛な叫びを上げ、恐怖で顔を歪ませながら死んで逝った者達の顔が浮かんでは消えて行った。
その回想に過ぎない映像は、過去へ過去へと遡っていく。全部で13人…その死に様のどれをも鮮明に思い出すことができた。
そして、唯一愛した女、マリ…彼女だけは、その映像の中で美しく笑っていた。
殺された13人の一時の快楽と引き換えに、男はマリという己の存在理由を永遠に失った。それでも、マリは微笑んでくれていた。
作業を終えた刑務官達が階段を降りていく気配がする。
−−『仮の時間を与えられただけだったのだ』
闇に包まれ、男は再びそう思った。