《 ☆☆☆☆☆ ☆☆ 星七つ作品 》
Mystery Circle Vol.20掲載
◎何故、ぼくが、再び書きはじめたのか。
『綴り人の思想』
著者:望月来羅
何故、私が、再び書きはじめたのか。
それは、世界を広げたくなったからに他ならない。
今、私の目の前の机には何も記していない一枚の白紙があり、その周りを膨大な量の原稿用紙の束がまるでビル群のようにそびえ立っている。
手元を見ればペンダコの出来た掌に愛用の万年筆が握られ、僅かに拉げたペン先と、すっかり黒ずんでしまったグリップ部分が使ってきた年月を物語っている。
(これもそろそろ代え時ですかねぇ)
ふと思う。
もう十数年もの間、グリップもペン先も騙し騙し使ってきた。常に側にいたこのペンは、単なる無機物ではなく、長年共に歩んできた戦友のような気持ちだ。柄の部分の、買った時に掘ってもらった『萩野』の苗字はすっかり磨り減り、今では薄い線を残すのみとなっている。
――コンコン
「先生?お茶が入りましたけど」
日本人ならではのノックと共に背後の扉が開き、肩ほどの長さの綺麗な黒髪が印象的な女性が入ってきた。目を引くような美貌というわけではなく、優しげな顔立ちの女性だった。
手には湯呑みの乗せられたお盆を抱えもち、淡い茶色のスーツに身を包んでいる。
いつもながらの気の利きように口元を緩めながら、立ち上がって彼女からお盆を受け取った。
「清水さん、いつもすみませんね。ちなみに今日のお茶は?」
「先生の好きな梅昆布茶です。ほうじ茶と迷いましたが」
「いやぁ、梅昆布茶で嬉しいです。ありがとうございます」
「いえ…小説の方はどうですか? 進み具合」
足の踏み場も無いほど紙で埋め尽くされた原稿用紙の部屋で、彼女は視線を机の上に向けた。モダンな形の机だが、今は上も回りも紙の束に占領されて見る影も無く、唯一のスペースはたった一枚の白紙と万年筆が置かれている中央部分だけだ。
彼女と私は、2年ほど前から担当と作家という関係にある。気の利いた女性で、締め切り間近になるとこうして私の家に泊まりこんでは料理などをしてくれる。
まだ二十代の後半と若いのに、その落ち着きぶりと気の利かせ方は、今は亡き妻を彷彿とさせた。
「ええ。丁度今考え付いたところです。そうだ、清水さん。ちょっと一緒に考えてくれませんか」
「え、私…ですか。はい」
戸惑いつつも協力してくれる彼女に笑いかけて、私は自分の作業机に取って返した。床も机も乱れに乱れた様子だが、その実この状態が一番良いのである。今更散らばった原稿用紙の束を一枚残らず棚に片付けてくれたところで、むしろどこに何があったのか分からなくなるだろう。なにしろ、この状態とも5年以上の付き合いなのだ。
座り心地の良い革張りの椅子に腰掛ける。机の上の白紙を手に取り、下の消しゴムの粕を払い落とすと、万年筆を取って彼女を呼んだ。
「ちょっと今考えていることなんですがね。今度は自伝でも書こうかと思いまして」
「自伝ですか。先生の?」
「はい。いや…正確には『自伝』ではないですね。自分の物語り、とでも言いましょうか。今までジャンルを問わず書いてきましたけど、今度は『荻野洋一』としての物語を書いてみたいんですよ」
「自分を外から見て、自分が主人公の小説、という意味ですか?」
「ええ。久しぶりの作品ですがね。そうですね、清水さん。あなたから見て小説というのは何ですか?」
足元の原稿用紙を出来るだけ踏まないようにと注意を払って歩いてきた彼女は、私の問いを聞いて小さく首を傾げた。黒髪がさらりと流れる。
「小説…ですか。知識を増やしてくれるもの…でしょうか」
「知識! 良いですね。そう。小説の原点は貪欲な知識を求める力です。誰しも持っている欲求…。ここに一枚の白紙が有るとして、私がここに何かを書く。すると、それはすでに『ゼロ』ではないんです。世界が紡がれる。分かりますか?」
「なんとなくは」
「例えば私が小説を書いたとしたら、その書かれた世界の中では私の書いた筋書きが一端の事実として広がりをみせ、この世界と隣接して広がっているんだと私は思うんです」
彼女の入れてくれた熱い梅昆布茶をズズと啜りながら、部屋の中を見渡した。8畳の部屋の、どこもかしこも文字の記された原稿用紙だらけ。この一枚一枚の中には、書いた私ですら与り知らぬ世界が広がっているはずだ。
「一時期文字を書くのに嫌気が差して筆を執るのを辞めた時期がありましたっけ…もう随分と経つんですねぇ」
幼い頃から、文章を書くことが好きだった。
新人賞を取ったのは、二十四歳の秋だった。
高校を卒業後、大学に行くことなくコンピュータ会社に就職。仕事の傍ら、自然と上達するタイピングで暇を見つけては物語を書いて、三作目の応募作品だった。嬉しくてはしゃぎ、自分の文章が認めてもらえるのだと次々と作品を綴った。ネタに困ることはなかった。脳裏に浮かぶ、ふとした言葉。他人との会話。夢での出来事。ほんの些細なことから瞬時に物語を生み出すことが出来た。
気がつくと、いくつもの賞を受賞していた。
過ぎる時間。山のようなファンレター。銀行預金に振り込まれる、莫大な印税。
だが、それも最初の十数年だけだった。
月日を重ねるごとに、仕事として文章を書くことが憂鬱になりだした。スランプに陥る。周りにもまして、一番困惑したのは自分だ。
焦れば焦るほど、文章が思いつかなくなる。あれほど楽しかったことが、ストレスになるほど嫌になっていた。
いつも契約を結んでいた、連載の仕事が手につかなくなったその年の秋に、置手紙だけを残して電車に飛び乗っていた。どこに行くとも当ては無く、最悪なことをしでかしたという自覚もあったが、そのときは八方塞がりの気分で、物書きという職業から逃れたいという思いだけで動いていた。
「あの時は驚きました…。私が第一に尊敬していた萩野さんが、まさか失踪されるなんて」
「あの時のことは…どんなに謝っても許されることではないですが。今から思うと恥ずかしい限りです。読んで下さっていた人達を裏切り…連載の契約会社さんにもとても失礼なことをしてしまいました…。一年くらい地方を旅しながら考えて、頭がすっきりしたんです。戻って方々に謝って…そしてまた、世界を広げたくなった」
「良かったです。本当に」
微笑む彼女に、ええ、と頷いて手元のペンに目を落とした。自分でも作家業を辞めなくて本当に良かったと思う。作家は、精神的な職業でもある。文を書くのは難しくは無いが、その状態を持続することが難しい。手元のペンを指だけでくるりとまわす。
「時々ね、思うんです。何かの話じゃありませんけど、書かれた物語が本当に広がっていたら、って。私達は外からそれを見ていたり…ある意味私達は創始者みたいなものでしょうか」
「『はてしない物語』みたいですね」
付き合いで飲んでいた自分の湯呑みに、急須からお茶を注ぎながら、目を和ませて彼女が言う。
彼女は自分で物語を書くことはしないが、大の本好きで博識だ。部屋に篭りがちの私が彼女から教わることは多い。ファンタジーが好きらしく、特に小さい頃はエンデの著書を愛読していたという。
おっとりした彼女は、人を否定することが無い。人から変人と言われがちの私がどんな考えを漏らしてもきちんと考えて答えてくれる。
「ああ、私もファンタジーはちょっと苦手ですが、エンデさんの作品は好きですよ。…同じことが、この世界にも言えると思いますか?清水さん」
「なにがですか?」
「私はね、時々ですがこの世界が本当にあるのか疑問を持つことがあるんですよ。そうですね。例えば…どこの国、どんな状態でも…人間が集まればなんらかの集団思想が生まれますよね。宗教であったり、いろいろな集団が。私もいつしか気がつけば『神』という単語を覚えました。絶対的存在ですね。本当にいるとしたら…さながら私達のこの世界は戯れ、『神の箱庭』と言えるのでしょうか」
「よく分かりませんが…」
「小さい頃から不思議に思ったことがあるんです。宇宙の果てはどうなっているのか、私はなぜ私なのか、とか。といっても哲学のような小難しい考えではないのですが。私達のこの世界も、誰かが最初に『エデン』の話しを作って、ソレを発端に広がった世界なのではないか…この世界の外側には、また別の世界があるのではないか…とか、そういうことを考えていると、小説を書いているときに行き詰まりを感じてしまうんですよ」
私が自分の考えを微苦笑しながら告白すると、彼女はしばらく思案顔になり、それから「私には…」と続けた。
「私には文章を書く能力はありませんけど、昔から小説家の方々には憧れていました。自分がまだ知らない世界を生み出せる、新しい知識、考え方をくれる魔法使いみたいだなと…それは今も同じです。今先生が仰ったこと、私も考えたことがあります。でも…いいんじゃないでしょうか。
たとえこの世界が誰かによって造られたものだとしても、少なくとも今ここにいる私は私です。先生も先生です。たとえこの世界が誰かの書いた物語が発端だとしても、先生は新しい物語を作ることができます。それはとても凄いことだと思います」
血色の良い顔でにこりと笑う。本当に、彼女は出来た人間だと思う。完璧な人間などいないと思うが、彼女にはどことなく母性を感じる。
最近は若者の犯罪が増えていると聞く。
滅多に外には出ない私だが、世の若者が皆彼女のような気質の持ち主であったのなら、さぞかし平和な世だろうと思う。現実的にありえないことだが。
(これはなんだか…)
自然に口元が綻んだ。
癒される、というのだろうか。胸中が暖かくなった。といっても、胸を満たす感情は決して恋愛感情ではない。なにしろ、彼女と私とでは年齢が離れすぎているし、なんとなく我が子を見やる心境だった。
当の昔に一人立ちしていった息子のことを思い出す。今頃元気で暮らしているだろうか。
「清水さんは凄いですねぇ。私には出来ない考え方です」
まだ半分ほど中身の残っている湯呑みを机の隅に置く。
キィ、と音を立てて椅子を机側に回転させると、机の上の白紙をどかし、変わりに側から原稿用紙を一枚敷いた。
すっかり黒ずんだ万年筆を手に取り、薄い線のみとなった自分の名前を軽く撫でる。
「有難うございます、清水さん。おかげで大分考えがまとまってきました」
「お役に立てたのでしたら良かったです。あ、では、失礼しますね。後でお夕食を作ってきます」
担当の彼女だが、私に『頑張ってください』と言うことは無い。これは、今まで作家生活を送り、数多くの担当と会う機会があったが、他には無かった気配りだ。書こうとしている人間にとって、時に励ましの言葉は重荷にもなりかねない。彼女のこういうところにも救われる。彼女の気配が頭を下げたことを伝え、静かな衣擦れの音とともに部屋の外へと出て行った。
原稿用紙の右上、一番始めのマスに、小さく丸を書く。これには特に意味は無い。癖とでも言おうか。
この部屋に詰め込まれている小説の出だしの文には、どの物語にも最初のマスに小さな丸が付いている。ジンクスみたいなもので、なんとなく出だしの筆の滑りが良くなるのだ。
ペンを指先で回す。なんなく、先ほどの会話を脳内で反芻していた。昔、何かの本で、興味深い文章を読んだ気がする。
「『私達は、兎の毛の先に捕まっているようなものだ。そして、自分ではそのことに気がつかない。』…でしたっけ。」
正しく、今の私の脳内を正確に表せる文だ。
机の端から湯呑みを取り、少しだけ冷めてしまった梅昆布茶を冷ますことなく一気に飲み干した。
文章が頭の中でまとまっていく。文章がこぼれない様に、忘れないように。小さな丸の下のマスから右上がりの癖字で一気に書き出した。
世界を広げる。
私の作った世界の中では私が創造主であり、全ての始まりだ。だが、一旦私が筆を止めると、後はその世界が自在に広がっていく。
きっと物語の中の『彼ら』は私が書いた世界が世界の発端であり、その外側に幾つもの世界が隣接しているなんて考えもしないのだろう。
世界を綴り、広げる。なんて素晴らしい職業なのだろう。
さぁ、物語を謳おうじゃないか!
今またこの手で、幕を開けよう。
●《 受賞コメント 》
こんばんは。
今年もそろそろ終わりとなりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか…。
この作品を書いたときの感想など、といわれてコメントを考えているのですが…なにぶん過去のことであまり覚えておりません(汗
ですがこれは、今までの作品と違って自分の内の話を書いてみようと思って書いたもの、だった気がします。
盛り上がる場面もなく、ただ単調な日常風景を綴っていく…。
小道具として梅昆布茶なんぞを出してみましたが、この話は、熱い梅昆布茶がほんの少しだけ冷めるまでの、短い時間での話です。
一人称で人物像をぼかした視点人物を入れることで、私が普段考えていることを彼を通して誰かに聞いてもらえたら、と思ったのです。
ですから、他の作品ではなく、この作品がどなたかの心に残ったのであれば、それが一番嬉しいです。
ありがとうございました!
来年が、皆様にとって良いお年となるように願っております。
《Kaleidoscope―万華鏡― 望月来羅》
Mystery Circle Vol.20掲載
◎何故、ぼくが、再び書きはじめたのか。
『綴り人の思想』
著者:望月来羅
何故、私が、再び書きはじめたのか。
それは、世界を広げたくなったからに他ならない。
今、私の目の前の机には何も記していない一枚の白紙があり、その周りを膨大な量の原稿用紙の束がまるでビル群のようにそびえ立っている。
手元を見ればペンダコの出来た掌に愛用の万年筆が握られ、僅かに拉げたペン先と、すっかり黒ずんでしまったグリップ部分が使ってきた年月を物語っている。
(これもそろそろ代え時ですかねぇ)
ふと思う。
もう十数年もの間、グリップもペン先も騙し騙し使ってきた。常に側にいたこのペンは、単なる無機物ではなく、長年共に歩んできた戦友のような気持ちだ。柄の部分の、買った時に掘ってもらった『萩野』の苗字はすっかり磨り減り、今では薄い線を残すのみとなっている。
――コンコン
「先生?お茶が入りましたけど」
日本人ならではのノックと共に背後の扉が開き、肩ほどの長さの綺麗な黒髪が印象的な女性が入ってきた。目を引くような美貌というわけではなく、優しげな顔立ちの女性だった。
手には湯呑みの乗せられたお盆を抱えもち、淡い茶色のスーツに身を包んでいる。
いつもながらの気の利きように口元を緩めながら、立ち上がって彼女からお盆を受け取った。
「清水さん、いつもすみませんね。ちなみに今日のお茶は?」
「先生の好きな梅昆布茶です。ほうじ茶と迷いましたが」
「いやぁ、梅昆布茶で嬉しいです。ありがとうございます」
「いえ…小説の方はどうですか? 進み具合」
足の踏み場も無いほど紙で埋め尽くされた原稿用紙の部屋で、彼女は視線を机の上に向けた。モダンな形の机だが、今は上も回りも紙の束に占領されて見る影も無く、唯一のスペースはたった一枚の白紙と万年筆が置かれている中央部分だけだ。
彼女と私は、2年ほど前から担当と作家という関係にある。気の利いた女性で、締め切り間近になるとこうして私の家に泊まりこんでは料理などをしてくれる。
まだ二十代の後半と若いのに、その落ち着きぶりと気の利かせ方は、今は亡き妻を彷彿とさせた。
「ええ。丁度今考え付いたところです。そうだ、清水さん。ちょっと一緒に考えてくれませんか」
「え、私…ですか。はい」
戸惑いつつも協力してくれる彼女に笑いかけて、私は自分の作業机に取って返した。床も机も乱れに乱れた様子だが、その実この状態が一番良いのである。今更散らばった原稿用紙の束を一枚残らず棚に片付けてくれたところで、むしろどこに何があったのか分からなくなるだろう。なにしろ、この状態とも5年以上の付き合いなのだ。
座り心地の良い革張りの椅子に腰掛ける。机の上の白紙を手に取り、下の消しゴムの粕を払い落とすと、万年筆を取って彼女を呼んだ。
「ちょっと今考えていることなんですがね。今度は自伝でも書こうかと思いまして」
「自伝ですか。先生の?」
「はい。いや…正確には『自伝』ではないですね。自分の物語り、とでも言いましょうか。今までジャンルを問わず書いてきましたけど、今度は『荻野洋一』としての物語を書いてみたいんですよ」
「自分を外から見て、自分が主人公の小説、という意味ですか?」
「ええ。久しぶりの作品ですがね。そうですね、清水さん。あなたから見て小説というのは何ですか?」
足元の原稿用紙を出来るだけ踏まないようにと注意を払って歩いてきた彼女は、私の問いを聞いて小さく首を傾げた。黒髪がさらりと流れる。
「小説…ですか。知識を増やしてくれるもの…でしょうか」
「知識! 良いですね。そう。小説の原点は貪欲な知識を求める力です。誰しも持っている欲求…。ここに一枚の白紙が有るとして、私がここに何かを書く。すると、それはすでに『ゼロ』ではないんです。世界が紡がれる。分かりますか?」
「なんとなくは」
「例えば私が小説を書いたとしたら、その書かれた世界の中では私の書いた筋書きが一端の事実として広がりをみせ、この世界と隣接して広がっているんだと私は思うんです」
彼女の入れてくれた熱い梅昆布茶をズズと啜りながら、部屋の中を見渡した。8畳の部屋の、どこもかしこも文字の記された原稿用紙だらけ。この一枚一枚の中には、書いた私ですら与り知らぬ世界が広がっているはずだ。
「一時期文字を書くのに嫌気が差して筆を執るのを辞めた時期がありましたっけ…もう随分と経つんですねぇ」
幼い頃から、文章を書くことが好きだった。
新人賞を取ったのは、二十四歳の秋だった。
高校を卒業後、大学に行くことなくコンピュータ会社に就職。仕事の傍ら、自然と上達するタイピングで暇を見つけては物語を書いて、三作目の応募作品だった。嬉しくてはしゃぎ、自分の文章が認めてもらえるのだと次々と作品を綴った。ネタに困ることはなかった。脳裏に浮かぶ、ふとした言葉。他人との会話。夢での出来事。ほんの些細なことから瞬時に物語を生み出すことが出来た。
気がつくと、いくつもの賞を受賞していた。
過ぎる時間。山のようなファンレター。銀行預金に振り込まれる、莫大な印税。
だが、それも最初の十数年だけだった。
月日を重ねるごとに、仕事として文章を書くことが憂鬱になりだした。スランプに陥る。周りにもまして、一番困惑したのは自分だ。
焦れば焦るほど、文章が思いつかなくなる。あれほど楽しかったことが、ストレスになるほど嫌になっていた。
いつも契約を結んでいた、連載の仕事が手につかなくなったその年の秋に、置手紙だけを残して電車に飛び乗っていた。どこに行くとも当ては無く、最悪なことをしでかしたという自覚もあったが、そのときは八方塞がりの気分で、物書きという職業から逃れたいという思いだけで動いていた。
「あの時は驚きました…。私が第一に尊敬していた萩野さんが、まさか失踪されるなんて」
「あの時のことは…どんなに謝っても許されることではないですが。今から思うと恥ずかしい限りです。読んで下さっていた人達を裏切り…連載の契約会社さんにもとても失礼なことをしてしまいました…。一年くらい地方を旅しながら考えて、頭がすっきりしたんです。戻って方々に謝って…そしてまた、世界を広げたくなった」
「良かったです。本当に」
微笑む彼女に、ええ、と頷いて手元のペンに目を落とした。自分でも作家業を辞めなくて本当に良かったと思う。作家は、精神的な職業でもある。文を書くのは難しくは無いが、その状態を持続することが難しい。手元のペンを指だけでくるりとまわす。
「時々ね、思うんです。何かの話じゃありませんけど、書かれた物語が本当に広がっていたら、って。私達は外からそれを見ていたり…ある意味私達は創始者みたいなものでしょうか」
「『はてしない物語』みたいですね」
付き合いで飲んでいた自分の湯呑みに、急須からお茶を注ぎながら、目を和ませて彼女が言う。
彼女は自分で物語を書くことはしないが、大の本好きで博識だ。部屋に篭りがちの私が彼女から教わることは多い。ファンタジーが好きらしく、特に小さい頃はエンデの著書を愛読していたという。
おっとりした彼女は、人を否定することが無い。人から変人と言われがちの私がどんな考えを漏らしてもきちんと考えて答えてくれる。
「ああ、私もファンタジーはちょっと苦手ですが、エンデさんの作品は好きですよ。…同じことが、この世界にも言えると思いますか?清水さん」
「なにがですか?」
「私はね、時々ですがこの世界が本当にあるのか疑問を持つことがあるんですよ。そうですね。例えば…どこの国、どんな状態でも…人間が集まればなんらかの集団思想が生まれますよね。宗教であったり、いろいろな集団が。私もいつしか気がつけば『神』という単語を覚えました。絶対的存在ですね。本当にいるとしたら…さながら私達のこの世界は戯れ、『神の箱庭』と言えるのでしょうか」
「よく分かりませんが…」
「小さい頃から不思議に思ったことがあるんです。宇宙の果てはどうなっているのか、私はなぜ私なのか、とか。といっても哲学のような小難しい考えではないのですが。私達のこの世界も、誰かが最初に『エデン』の話しを作って、ソレを発端に広がった世界なのではないか…この世界の外側には、また別の世界があるのではないか…とか、そういうことを考えていると、小説を書いているときに行き詰まりを感じてしまうんですよ」
私が自分の考えを微苦笑しながら告白すると、彼女はしばらく思案顔になり、それから「私には…」と続けた。
「私には文章を書く能力はありませんけど、昔から小説家の方々には憧れていました。自分がまだ知らない世界を生み出せる、新しい知識、考え方をくれる魔法使いみたいだなと…それは今も同じです。今先生が仰ったこと、私も考えたことがあります。でも…いいんじゃないでしょうか。
たとえこの世界が誰かによって造られたものだとしても、少なくとも今ここにいる私は私です。先生も先生です。たとえこの世界が誰かの書いた物語が発端だとしても、先生は新しい物語を作ることができます。それはとても凄いことだと思います」
血色の良い顔でにこりと笑う。本当に、彼女は出来た人間だと思う。完璧な人間などいないと思うが、彼女にはどことなく母性を感じる。
最近は若者の犯罪が増えていると聞く。
滅多に外には出ない私だが、世の若者が皆彼女のような気質の持ち主であったのなら、さぞかし平和な世だろうと思う。現実的にありえないことだが。
(これはなんだか…)
自然に口元が綻んだ。
癒される、というのだろうか。胸中が暖かくなった。といっても、胸を満たす感情は決して恋愛感情ではない。なにしろ、彼女と私とでは年齢が離れすぎているし、なんとなく我が子を見やる心境だった。
当の昔に一人立ちしていった息子のことを思い出す。今頃元気で暮らしているだろうか。
「清水さんは凄いですねぇ。私には出来ない考え方です」
まだ半分ほど中身の残っている湯呑みを机の隅に置く。
キィ、と音を立てて椅子を机側に回転させると、机の上の白紙をどかし、変わりに側から原稿用紙を一枚敷いた。
すっかり黒ずんだ万年筆を手に取り、薄い線のみとなった自分の名前を軽く撫でる。
「有難うございます、清水さん。おかげで大分考えがまとまってきました」
「お役に立てたのでしたら良かったです。あ、では、失礼しますね。後でお夕食を作ってきます」
担当の彼女だが、私に『頑張ってください』と言うことは無い。これは、今まで作家生活を送り、数多くの担当と会う機会があったが、他には無かった気配りだ。書こうとしている人間にとって、時に励ましの言葉は重荷にもなりかねない。彼女のこういうところにも救われる。彼女の気配が頭を下げたことを伝え、静かな衣擦れの音とともに部屋の外へと出て行った。
原稿用紙の右上、一番始めのマスに、小さく丸を書く。これには特に意味は無い。癖とでも言おうか。
この部屋に詰め込まれている小説の出だしの文には、どの物語にも最初のマスに小さな丸が付いている。ジンクスみたいなもので、なんとなく出だしの筆の滑りが良くなるのだ。
ペンを指先で回す。なんなく、先ほどの会話を脳内で反芻していた。昔、何かの本で、興味深い文章を読んだ気がする。
「『私達は、兎の毛の先に捕まっているようなものだ。そして、自分ではそのことに気がつかない。』…でしたっけ。」
正しく、今の私の脳内を正確に表せる文だ。
机の端から湯呑みを取り、少しだけ冷めてしまった梅昆布茶を冷ますことなく一気に飲み干した。
文章が頭の中でまとまっていく。文章がこぼれない様に、忘れないように。小さな丸の下のマスから右上がりの癖字で一気に書き出した。
世界を広げる。
私の作った世界の中では私が創造主であり、全ての始まりだ。だが、一旦私が筆を止めると、後はその世界が自在に広がっていく。
きっと物語の中の『彼ら』は私が書いた世界が世界の発端であり、その外側に幾つもの世界が隣接しているなんて考えもしないのだろう。
世界を綴り、広げる。なんて素晴らしい職業なのだろう。
さぁ、物語を謳おうじゃないか!
今またこの手で、幕を開けよう。
●《 受賞コメント 》
こんばんは。
今年もそろそろ終わりとなりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか…。
この作品を書いたときの感想など、といわれてコメントを考えているのですが…なにぶん過去のことであまり覚えておりません(汗
ですがこれは、今までの作品と違って自分の内の話を書いてみようと思って書いたもの、だった気がします。
盛り上がる場面もなく、ただ単調な日常風景を綴っていく…。
小道具として梅昆布茶なんぞを出してみましたが、この話は、熱い梅昆布茶がほんの少しだけ冷めるまでの、短い時間での話です。
一人称で人物像をぼかした視点人物を入れることで、私が普段考えていることを彼を通して誰かに聞いてもらえたら、と思ったのです。
ですから、他の作品ではなく、この作品がどなたかの心に残ったのであれば、それが一番嬉しいです。
ありがとうございました!
来年が、皆様にとって良いお年となるように願っております。
《Kaleidoscope―万華鏡― 望月来羅》
2004.08.05 21:02 | ――― |
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