《 ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆ 星十五作品 》
Mystery Circle Vol.24掲載
◎これまでに、こんなにだいじな決断を迫られることはなかった。
『無声映画』
著者:李九龍
これまでに、こんなに大事な決断を迫られる事は無かった。
僕は、気を失い、ぐったりしている少年を抱きかかえ、開いている電車の窓に向かって声をかけた。
「この電車は、地獄と天国、どっちへと辿り着くんだ」
――― 十九時の、週末の地下のショッピングモール。 僕は、帰宅の人並みを掻き分けながら、地下鉄の乗り口へと足早に向かう。
田舎からこっちに出て来た頃は、こんなにも早足で歩く事はなかったなと、僕はぼんやり考えた。 今では当たり前に、人の波と同化する。 むしろ今では、前を歩いている人の背中に向かって、「早く歩け」」と念じていたりする時もある。 随分と染まったものだ。 僕はそう思い、ちょっと俯きながら苦笑する。
その時僕は、前方にお目当ての店を見付け、ちょっと通路を端に寄り、人混みを避ける。
その店は、瞳が大好きな、ベーカリーショップ。 休日の、二人の朝食は、いつもここのパンだった。
僕は金曜日の夜には、必ずここでパンを買う。 食パン一斤と、菓子パン数個。 菓子パンは、週末だけ泊まりに来る瞳と、夜中まで映画を見ながらのおやつだった。
今日は何にしようかと、僕は外のガラス越しに中を覗く。 店内の奥の方では喫茶コーナーも設けられており、いつも満員に近いぐらいの客で溢れている。
チョコクロワッサン、チーズタルト、カレーナンに、バターたっぷりなワッフル。 僕自身、わくわくしながら、品定めをしていた。
・・・・・・・・・・・・・・・ズン
僕の視界が、少しぶれた。 足元から、鈍く重たい振動が来たのだ。
瞬間、地震かと思った。 だが、次の瞬間、気のせいだと思い直した。 どうやらその振動を感じたのは僕だけらしく、背後で道急ぐ人達の中には、その振動の異常性を感じた素振りの人間は、誰もいなかった。
「こんな地下で地震が来たら、とんでもない事になるよな」
僕は自分の言葉に不吉なものを感じつつも、努めてそれを笑い飛ばした。 そして僕は、再び店内の方に目をやった。
・・・・・・・・・・ズン
再び、感じた。 だが今度は、気のせいではなかった。 店内で座っている客達が、一斉に周囲を見渡し始めたからだ。
僕は、咄嗟に、「ヤバい」とそのまま声に出し、店の前を離れ、店舗と店舗を結ぶ間にある、太い円柱の前まで走り寄った。
次の振動は、僕がその円柱へと駆け寄り、そのひんやりとした表面に手を触れた瞬間だった。
・・・・・ズン!
確実に、揺れた。 もはや、モールを早足で歩いている人達さえも足を止め、周囲を見渡していた。
ドズン!
僕の足が、くだけるようにしてバランスを崩し、目の前の人々も、同じように地を跳ねた。
もはや、疑う余地は無かった。 どこかで上がる、「地震だ!」と言う声と共に、見る見る内に、人々の顔に驚愕が浮かんだ。
だが、次に来る振動と共に、人々の上げる声よりも、その周囲を取り巻く建造物の上げる悲鳴の方が、その威力を上回った。
ガズン!!!
まず最初に、僕が先程まで立っていた、ベーカリーの店の窓ガラスが、弾けるように砕け散る音が聞こえた。
続いて、その周辺にある各店舗から、同じように何かが壊れる音。 崩れ、倒れる音。 それに続いて、僕の頭の上に、パラパラと何かの破片が降り注ぐ。 人々の上げる悲鳴は、たっぷりと遅れてその後だった。
だが、その悲鳴も、長くは続かない。 それに引き続いて襲う次なる振動とその音は、今までの全てを上回っていたからだ。
それは、音ですらなかった。 僕の耳が、拾える音の限界を聞き、それはまるで、僕の頭上で起こる爆発のようなものだったからだ。
音は続き、何かが崩れ落ちる音。 人か獣か判らないような悲鳴が続き、そして、生理的に不愉快と思えるような、金属と金属がぶつかりあい、激しく擦れあう音が響き渡った。
そして再びの、強い振動音。 僕がその音の後に目を開くと、既に周囲は暗闇だった。 恐らくは、その一瞬の振動にて、電気系統がイカれたのだろう。 光の届かないこの地下のモールにおいては、例えれば、照明の無いトンネルのようであった。
その時、ほんの一瞬だけ、不思議な静寂の時間があったのだが、またすぐに、次の振動音。 だがその振動は、先程の一番大きい振動に比べ、数段落ちるものだった。
僕はふと、その振動は、何かの巨大な足音のような気がした。 一定の時間を置いてやって来るのと、近付いては遠ざかる、その事実に・・・で、ある。
やはり思った通り、次の振動は更に遠かった。 僕はほんの少しだけ安堵しながら、まずは自分に怪我がないかを確かめる。
周囲では、悲鳴の代わりに、人々の呻きと、鳴き声が充満していた。 中には、直接的に、痛い痛いと訴える声まであった。
僕は一瞬、ここが暗闇で良かったとすら感じていた。 もしもここに灯りがあるならば、僕は、見てはいけないものまで見てしまいそうな気がしたからだ。
確かに、巨大な足音のような震源は、遠ざかりつつあった。 今だに激しく揺れはするが、それも次第に小さくなって行く。
一瞬、その世界が見えた。 誰かがライターの火を起こしたのだ。 少し前方の暗闇で、その小さな周辺だけが、浮かび上がって見えた。
想像していた通りの、阿鼻叫喚の世界だった。 地下の天井に張られた壁材が砕け落ち、その下敷きになった人々が、見たくなくても目に入った。
僕の、ほんの二、三メートル前方の瓦礫からは、間違い無く女性のものだと思われる、二本の足が生えていた。
足が震えた。 たった一瞬の事なのに、こうして生き残る人と、息絶える人との隔たりが出来た。 僕ですら、ほんの数歩違えば、今はもう思考する術すら無くなっていたかも知れないのだ。
そして、暗闇の中、僕の嗅覚が何かを捕らえる。 それは、少し離れた場所から香る、焼きたてのパンの匂い。 そして、それに混ざる鉄のような匂い。 僕は、そんなミスマッチな匂いに、自然に込み上げて来る胃液が、逆流するのを必死で堪えた。
僕は、ポケットから携帯電話を取り出し、開いてみる。 時刻は、十九時六分。 アンテナの表示は無く、虚しく見える圏外の文字が浮かんでいた。
「上に昇れ!」
どこかで誰かが、そんな言葉を発した。 その瞬間、声では無い、雰囲気だけの音が、周囲を揺るがした。
あちこちで、ライターの火が灯り始める。 僕はそれを見て、今の時代でも、案外に喫煙者は多いのだなと、全く関係の無い思考を巡らす。
人が動き始めた。 地下街を出て、地上を目指す人の群れだ。
だが僕は、そこを動けなかった。 何しろ、地上を目指す人の群れは、何もかもを踏み越えての行進だったからだ。
・・・そう、瓦礫の下の同種族までも。
唖然としている僕の腕に、突然、何かが触れた。
僕は小さな悲鳴を上げ、跳ねるように飛び上がった。
だがそれは、暗闇に目が慣れて来たのと、人の手から洩れるほのかな灯りによって、小さな少年である事が判った。
「どう・・・したんだい」 僕は、かろうじて声が出た。
だが、少年の方は、僕よりもずっと落ち着いているかのように、単調なトーンで返答をする。
「この辺に、パン屋さんがあった筈なんです。 どこだか知りませんか?」
僕は、考えあぐねた。 この少年は、こんな状況で、何を聞きたいのだろうかと。
「パパとママが、そこで待ってるんです。 僕が本屋に行っている間に、二人はお茶を飲んでるって・・・」
血の気が引いた。 僕は咄嗟に、先程までいたベーカリーの方を見る。 だがそこは、中から崩れ出ている天井の瓦礫が、完全に中が潰れている事が理解出来たからだ。
途端、しまったと思った。 少年は、もはや、見てしまった。 目的地を見付け、僕から視線を外し、ふらふらとそちらへと歩いて行ってしまったからだ。
少年は、崩れ落ちた店の前で足を止める。 気にはなったが、僕はその少年に声をかける事も出来ずに、置き去りにして黙って歩き始めた。 地震が来る前に歩いて来た道を逆に辿り、再び地上へと向かう階段の方向へと。
僕が数歩あるいた辺りで、世界は緑色になった。 壁や天井の隅、あちこちに設置されてある、非常用の灯りが点いたのだ。
見渡せば、かなりの被害が見受けられた。 相当の瓦礫が散乱し、中にはうず高く積み上げたかのように、山になっている場所もあった。
だが、そんな瓦礫の下から、被害者を助けようとしている人は稀で、目に入る人の姿は皆、どこかを負傷したり、放心してうずくまっているだけだった。
見えるもの全てが、薄い緑に光るその不気味な世界の中、遠くに群集の怒号が飛び交っていた。
階段へと詰め掛ける人の群れ。 普段ならば、いくらごった返している階段付近でも、皆無口のまま、小さな歩幅でそこへと向かう筈の場所。 だが、今は違った。 我先にと詰め掛ける群衆にて、その周辺は、恐ろしい程に殺気立っていた。
そこはもはや、男も女も、老人も子供も関係が無かった。 先に階段を昇ろうとする者があれば、髪を掴んででも引き摺り下ろし、後ろから押そうとしたならば、顔を蹴飛ばそうかとするぐらいの勢いで、人は地上を目指していた。
やめてと聞こえる声があれば、退けと言う叫びもあった。 理性と言う皮膚が一皮剥けた獣達の交錯する中、次なる地獄がその世界を襲った。
突然、「ゴン」と、鈍い金属音が聞こえたかと思うと、そんな人々が押し合う中、階段と通路を分ける、非常用の防火壁が降りて来たのだ。 しかもその下降は案外と早く、下にいる人々達は全く気付かないまま、重い鉄の壁は、襲いかかって来た。
声が上がる。 そこを退けと。 だが、その声を聞ける人々が、その階段付近に、何人いたであろうか。
周りで見ている人達が騒いでも、結局は何も変わらなかった。 ただ単に、人が奏でる騒音が、一層大きくなっただけだった。
僕は瞬間、目を閉じる。 僕の周囲にいた人々からは、恐怖のあまりに絶叫がほとばしった。
音までが、僕の耳へと聞こえて来た。 それはまるで、船の上に打ち上げられた魚が、びちびちと飛び跳ねる音にすら似ていた。
もはや、何が起こっているのかさえ判らないまま、痺れた思考のまま、僕は人に突き飛ばされ、後方へと転がった。
吐き気と、強く打った腰の痛みとで、僕はその場でうずくまる。 気配で、再び人々が、移動し始めたのが判った。
ぼんやりと、次の階段を目指しているのだろうと、僕は思った。 だが、どこへと行っても同じだろうとも思ったが。
「爆弾テロだ」
誰かがそう呟いた。
僕がそこを通り過ぎると、今度は誰かが、「爆撃だ」、「空襲だ」と言う。
聞こえて来る想像だけの噂は、案外とユーモラスだった。 中には、列車事故だとか、ガス爆発だとか言う比較的まともなものもあれば、中には、宗教団体の仕業だとか、最後の審判だとか言うものもある。
だが、僕が感じた、「巨人の足音」だって、相当に変な想像だろう。 だが僕には、完全に大間違いには、未だに思えないのだが。
ふと、視線が泳いだ。 見ればそこは、先程まで僕がいた、ベーカリーの前だった。
少年は、いた。 ずっとそこでそうしていたのだろう。 緑に光る、あまり趣味の良くない世界の中、少年は黙って、そのひしゃげ潰れた店の前に立っていた。
僕は少しだけ責任を感じ、その少年の後ろに立つ。 彼は、気付いているのか気付いていないのか判らないまま、微動だにせずに、その場を動かなかった。
何故か、妙に寒かった。 僕は、自分が半袖のワイシャツ一枚でしかない事に気付き、少し不安になった。
「ベンチウォーマーが置いてあった。 これで少しは凌げるだろう」
僕はそう言って、少年に、季節外れの衣服を差し出した。
すぐ先に見える、半壊した洋服店の中から、引っ張り出して来たものである。 要するに泥棒だが、それを見て咎める人など誰もいないだろうと、僕は思った、
少年は、軽く頭を下げ、震える腕でそれを取る。 少し大きいが、それでも少年は首までボタンを止めると、身体を抱えるようにしてうずくまった。
僕も同じように、もう一着くすねて来たベンチウォーマーを羽織る。
異常な気温だった。 もうすぐ七月に入ろうと言う時期なのに、この寒さはなんなのだろうと思った。
見れば、僕と同じように、半分潰れた洋服店の中から、冬用の在庫を探して来る人の姿が目立った。
何しろ、息をすれば白くなるのだ。 これが異常なる気象でないならば、どこかの空調が異常を来たしていると言う事だ。
僕は少年の横に腰を下ろし、その小さな肩を抱いた。
あれから彼は、一言も口を聞かない。 表情こそは普通だが、相当のショックを受けているのだろう。 なにしろ例のベーカリーショップは、どこをどう見ても、中にいる人達が生きている訳が無いと言う程、店は全壊していたのだから。
少年は一言も無いままに、剥き出しの膝を抱え、寒さに震えながら、小さくなった。 僕は、何もかける言葉を見付けられず、黙ってその少年の横で、同じように座っているだけだった。
目の前を、「ホームに行けば・・・」と、うわごとのように呟きながら、歩き去る男の人が通り過ぎた。 それを聞いて、腰を浮かしてその後をつける人の姿も、いくらか見受けられた。
そう言えば・・・と、僕は思う。 この騒動が起こる前に、あれだけの往来だった人混みは、一体どこへ消えたのだろうかと。
かなり多くの人々が、この瓦礫の下にいるとしても、それでもどうしても、数が合わない。 あの階段に詰め掛けて、その多くが上へと昇り切ったとも思えない。
そうなれば、残りは二つ。 一つは、先程の男性のように、ホームへと向かって、そこから別の手段を見付けたか。 もう一つは、この阿鼻叫喚なる瓦礫の通路を進み、モールの中心部であるコンコースまで辿り着いたか・・・で、ある。
僕が今いる場所は、地下モールの中でも、最北端に近い場所だった。 ならば、辻褄も合う。 階段と言う移動手段が封じられた以上、例え望みが薄くとも、ここで留まるべきではないのかも知れない。
僕は、自分の考えを少年に打ち明け、一緒にこの通路を、中心部まで行かないかと交渉した。 少年は、黙ってベーカリーショップの方を見て、決心したように僕の方へと向き直ると、小さく、「行く」とだけ、答えた。
予想以上の被害だった。
崩れて積もった瓦礫の上を、僕達二人は、よろめきながら進んで行く。
体は汗ばむが、相変わらず吐く息は白く凍り付く。 僕は、この寒さの原因は何なのだろうと考えるが、一向にピンと来る仮説は浮かばない。
時折、そんな瓦礫の中から、人のものとおぼしきパーツが覗く。 僕は敢えてそれから視線を外し、黙々と少年を助けながら、前へと進んだ。
もはや、目に入る生存者はあまり無く、いたとしても、その場を自力で動けない人ばかりだった。
しばらく進むと、突然に瓦礫の散乱が減り出す。 見れば、壁も天井も、勿論、店舗の数々も。 そこから先は、あまり大きな被害は無さそうに見えた。
途端に進行が早くなる。 足元もおぼつかない場所よりは、やはり平らな床がいいと、改めて感じる。
だが、相変わらず、人はいない。 負傷した人々を除いたとしても、あれだけ大勢いた人の群れが、一向に見えない。
どうやら僕達は、相当遅くに取り残された口だと思った。 僕は少しだけ、自分の判断力の悪さに苛立った。
しばらくすると、前方に、非常用の緑の光が集まる、中央コンコースが見えて来た。 流石にそこまで来ると幾人かの人影が見え、僕自身、それに安堵する。
天井と床とを結ぶ、沢山の柱が立ち並ぶ中、人々はただ、上を見ていた。
僕は、無理に笑顔を作って、少年を見る。 軽く背中を押しながら、僕達はコンコースへと進む。
・・・・・どしゃっ
鈍く、そして、何か得体の知れない不快な音が、そこに聞こえた。
広場へと出て見ると、そこには何か小さき埃のようなものが、数限りなく降り注いでいる。 僕は、瞬時に判った。 それは、天から降り注ぐ、雪だった。
寒さの原因は、これだと思った。 何故に今、雪が降るのかの疑問は消えないにしても、その寒さの源は、理解が出来た。
コンコースは、地上の駅ビルまでもが見渡せる、吹き抜けの空間だった。 僕がそこに出て上を見上げると、明り取りの美しい紋様な、ドーム型のガラス天井は既に無く、拭きっ晒しの夜空が見渡せた。
なるほど。 それでここには雪が降るのかと納得した瞬間、またしても、「どすっ」と言う鈍い音。 そして、今まで気付かなかったのだが、そこには遠い笑い声が充満し、目の前に広がる広場の床には、得体の知れない物体が、あちこちに転がっていた。
途端、戦慄した。 地上部分に見える手摺りに、幾人かの人影が見えたのだが、今正に、その中の一人が手摺りを乗り越え、迷う事無く宙へと舞った。
短いながらも、ハッキリとした笑い声を乗せ、その人影は、コンコースの床へとめり込んだ。 先程と同じような、鈍く湿った破壊の音が響いた。
間違い無く、狂っていた。 そこには、くっきりと線引きが出来るように、狂った世界と、まだその余波が来ていない世界との、区分けがあった。
狂っている地上の部分には、完全に何かのタガが外れた人間が彷徨い、大声で、異常な高笑いを響かせている。
見ればそれは、手摺りの先だけではなかった。 完全に、地上と地下を結ぶエスカレーターは、「故意」に壊され、行き来出来ない状況にあると言うのに、その先で彷徨う人影は、まるで地下へと降りて来ようとするかのように、ふいに、突然として、宙へと弾かれた。
異常な世界だった。 雪の舞う、初夏の月夜に、遥かに高い地上から、雪と一緒に、笑う人々が降って来るのだ。
一体、地上では何があったのかと、周りに立っている人に声を掛けようとするが、どの人も、間違い無く向こうの世界へと足を踏み入れている表情だった。
空を見上げる人々の群れは皆、笑っていた。
僕は、発作的に少年の手を掴むと、笑顔を張り付けたままの人々の間を擦り抜け、駅の改札口へと走った。
僕は、地上で何があったのかが気掛かりだった。 真っ先に思い浮かべるのが、今夜逢う約束をしていた、瞳の事だった。
走りながら、再び携帯電話を取り出すも、表示は圏外以外を指さない。 普段ならば、駅地下の方こそ電波が安定するはずなのに。
僕は、遅れ気味な少年に向き直ると、その少年を抱え上げた。 まだ、小学校の三、四年ぐらいなのだろうか。 その身体は、案外に軽く感じた。
少年を抱きかかえて走り出す。 少し行くと、半分閉まりかけの店のシャッターの中から、一人の男が、くぐって出て来た。 彼は、走る僕達を見掛けると、両手を振って止まれと合図する。
「なぁ、アンタ。 今地上では、何が起こってるのか知ってるかい?」
男は、僕が止まるより先に、大声でそう言った。
「今、俺は、店の中で、ラジオを聴いてたんだ。 全然どこも入らなかったんだが、ようやく一つだけ周波が合った。 そうしたら、今、地上で起こっている事を、実況生中継してたって訳さ」
僕は立ち止まり、その男の顔を見る。
少し、異常な気配を見た。 男の顔は笑い顔で、やけにテンションが高かった。
「なぁ、何が起こってると思う? さっきの、巨大なロボットが歩いて行ったかのような振動は、何だと思う? なぁ」
僕は黙って、首を横に振った。 すると男は、僕の事など見えていなかったように、話を続ける。
「知らなくていい。 知らなくていい事は、知っちゃあいけない。 なぁ、そうだろう?」
男はそう言うと、ポケットから何かを取り出した。
そして彼は、笑い顔を絶やさぬままにそれを自分の頭のこめかみへとあてがう。
ポンと弾ける音がして、その男の反対側のこめかみから、何かが吹き飛んだ。 そして男は、背中から直立不動の姿勢で、地面へと倒れ込んだ。
少年は、しきりに、苦しいを連呼するようになった。 見れば、この寒さの中で、かなりの汗をかいている。 呼吸も、相当に荒い。
走っている途中で、変な人を見た。 通路の端の方で、全裸のままで、後方宙返りをしている初老の男性だった。
彼は、一生懸命に後方宙返りをするが、どうにもそれを出来るだけの技量が備わっていないらしい。 初老の男性はことごとく、宙返りしては自分の後頭部から地面へと落下するのだが、彼は決してそれを止める事なく、狂気染みた声で笑いながら、何度も何度も、固い床の上へと、血に濡れた自分の頭を打ち付けていた。
僕はそれを少年に見せないように庇いつつ、先を急ぐ。 もしかしたら、これほどまでの人間の変わりようは、何かの薬品かウィルス等の空気感染かとも思ったのだが、今更それに気付いても遅かった。 恐らくは僕達も、相当にそれを吸い込んでいる事だろう。 問題は、いつ、あの連中と同じような症状が出るのかと言う事だ。
ようやく、駅の改札口へと辿り着く。 そこは、他の区画とは違い、例え緊急の設備だとしても、しっかりとした明るい照明によって、照らし出されていた。
僕は、驚いた。 改札には幾人かの人が立っており、その姿は、迷彩服に包まれた軍隊のそれであり、各自大型の銃を持ち、顔にはしっかりと、防毒マスクが着用されていた。
僕が近付くと、何人かの軍人が僕に手招きをする。 僕は恐る恐るそれに近付き、何事なのかを聞く。 だが、その質問には誰も答えない。 電車が出るから早く入れと、小声でそう言われただけだった。
駅の構内にも、死体らしき塊が溢れていた。 そんな死体は視界にも入らないとばかりに、迷彩服の人々は、一定の間隔を置きながら、要所要所に立っていた。
少年の息が、いよいよ荒い。 僕は素手でその額を拭う。 手の平に、べとりと大量の油汗が付く。
「もうすぐ助かる。 頑張れ」
僕は、何の確信もない慰めを言いながら、閑散とした駅の構内を歩き、所々に立っている軍人の案内にて、ホームの一つへと向かう。
薄暗い階段を降りながら、とうとう返事の返らなくなった少年の身体を揺する。 呼吸はしっかりしているが、僕には医学的な知識は全く無く、ただもどかしいままに、少年を階段に座らせ、様子を見る事しか出来ない。
すると階下で、人が、大きな声で罵るのが聞こえた。
僕は、耳を澄ます。 どうやらそれは、僕達と同じように、助けを求めてこのホームへと辿り着いた人のようで、僕が持っている不安感をそのままに、言葉へと出して叫んでいた。
この電車はどこに行くのかと聞き、そして、今起こっている地上での騒動、おかしくなった人々の原因。 それらを矢継ぎ早に聞いている。
だが相手は、その返事を返さなかった代わりに、小気味良い、リズミカルな銃声を轟かせ、その会話を終わらせた。
タタタタタタタタタタタ・・・・・
呆然としたまま、何分が経ったのだろうか。 その内に、場違いながらも不気味に聞こえる軽快な電子音が鳴り響き、電車がゆっくりと走り出した音がした。
電車が走り去り、それからしばらく経った後、僕は再び少年を抱きかかえ、今度こそ階段の一番下部まで降りて行った。
見渡す限り、誰もいない駅のホームだった。 いるのは、所々に点在している、少し前まで、「人」だった塊だ。
先程撃たれたであろう人影が、横たわっていた。 それは、ごく普通の、僕と同年代ぐらいの、スーツを着た男性だった。
一瞬その姿が、僕のものとダブった。 もしかしたら僕は、もはや意識がなくなったこの少年と一緒でなければ、ここに横たわっていたのは、僕の方かも知れないと思った。
縦に並ぶ、いくつものプラットホーム。 果たして、乗り遅れた最後の客は、幸いなのか、不幸なのか。
遠くの暗闇に、一筋の明かりが見えた。 電車の警笛が鳴り響き、金属製の車輪が路線を捉える音が、どんどん近づいた。
それは、ほんの数両だけの短い電車。 乗客は誰もおらず、ただ操縦席に、運転手の他にもう一人、ガスマスクの軍人らしき人影が見えるだけだった。
僕の目の前で、電車が止まる。
乗るべきか、逃げるべきか。 これまでに、こんなに大事な決断を迫られる事は無かった。
僕は、気を失い、ぐったりしている少年を抱きかかえ、開いている電車の窓に向かって声をかけた。
「この電車は、地獄と天国、どっちへと辿り着くんだ」
顔中痣だらけになった運転手は、ニヤリと崩れた笑みを浮かべ、「行き先の片方はもうないよ」と答える。
肩越しに、抱き締めた少年が、くすりと笑ったような気がした。
●《 受賞コメント 》
なんつーの? 俺ってさぁ、もはやOBなんだけどさ。 俺がMCに在籍していた時、約二年もの間、内藤のクソカボチャは、俺にはただの一回も、「イチオシ」くれた事無いのな。 それだけが悔しいんだけどな。
でも、今回こうして二つも選ばれた。 これでようやく、あのカボチャの審査基準ってのは、「全くアテにならん」ってのが実証された訳だ。
・・・・・ふっ。 フシアナ野郎めが。(自虐)
この作品を書くに当たって、俺が最初にイメージしていたのは、現代版終戦直後の都内の地下鉄。 普段は大人しく人の波に揉まれながら歩く人々が、「生きるか死ぬか」ってな場面になると、理性なんかかなぐり捨ててまで、「逃げよう」「帰ろう」とするその浅ましさを表現したかった。
そして主人公は若い男。 自分も逃げようとするんだが、目の前で突き倒されて怪我をしてしまう見知らぬ母親がいる。 そしてそれにすがって泣く男の子。 一旦は見捨てるんだが、思い留まり戻る主人公。 見ると母親は骨折しちゃってて歩けない。 だが、最後の電車はもうすぐ出発。 母親は、子供だけでも助けてくれと主人公に託すんだな。
どうしても、若い男が小さな男の子を抱きかかえて、駅のホームで立ち往生するシーンだけは外せなかった。 これだけは書きたかった。 でも、そのまんまだと面白くないので、徹底したパニック系にしようと思った。 謎なんか投げっぱなしで、回収しない系。
で、意外とウケたので面白かったな。 うひゃひゃ。
ホラーってのはやはり、謎なんか究明すべきじゃないな。 これ書いて思ったよ。 人は謎が好きだが、そのタネまで明かされたら冷めるもんだ。 皆もホラー書く時は、ちょっと考えてみて欲しいね。(偉そう)
つーか、これが選ばれるってのは、ある意味本当に勉強なった。 心より、どうもありがとう。
今回は時間が無いから無理だけど、自分のブログに載せる際には、徹底して書き直ししたいねぇ・・・。
《魔城九龍別館 -玄武- 李九龍》
Mystery Circle Vol.24掲載
◎これまでに、こんなにだいじな決断を迫られることはなかった。
『無声映画』
著者:李九龍
これまでに、こんなに大事な決断を迫られる事は無かった。
僕は、気を失い、ぐったりしている少年を抱きかかえ、開いている電車の窓に向かって声をかけた。
「この電車は、地獄と天国、どっちへと辿り着くんだ」
――― 十九時の、週末の地下のショッピングモール。 僕は、帰宅の人並みを掻き分けながら、地下鉄の乗り口へと足早に向かう。
田舎からこっちに出て来た頃は、こんなにも早足で歩く事はなかったなと、僕はぼんやり考えた。 今では当たり前に、人の波と同化する。 むしろ今では、前を歩いている人の背中に向かって、「早く歩け」」と念じていたりする時もある。 随分と染まったものだ。 僕はそう思い、ちょっと俯きながら苦笑する。
その時僕は、前方にお目当ての店を見付け、ちょっと通路を端に寄り、人混みを避ける。
その店は、瞳が大好きな、ベーカリーショップ。 休日の、二人の朝食は、いつもここのパンだった。
僕は金曜日の夜には、必ずここでパンを買う。 食パン一斤と、菓子パン数個。 菓子パンは、週末だけ泊まりに来る瞳と、夜中まで映画を見ながらのおやつだった。
今日は何にしようかと、僕は外のガラス越しに中を覗く。 店内の奥の方では喫茶コーナーも設けられており、いつも満員に近いぐらいの客で溢れている。
チョコクロワッサン、チーズタルト、カレーナンに、バターたっぷりなワッフル。 僕自身、わくわくしながら、品定めをしていた。
・・・・・・・・・・・・・・・ズン
僕の視界が、少しぶれた。 足元から、鈍く重たい振動が来たのだ。
瞬間、地震かと思った。 だが、次の瞬間、気のせいだと思い直した。 どうやらその振動を感じたのは僕だけらしく、背後で道急ぐ人達の中には、その振動の異常性を感じた素振りの人間は、誰もいなかった。
「こんな地下で地震が来たら、とんでもない事になるよな」
僕は自分の言葉に不吉なものを感じつつも、努めてそれを笑い飛ばした。 そして僕は、再び店内の方に目をやった。
・・・・・・・・・・ズン
再び、感じた。 だが今度は、気のせいではなかった。 店内で座っている客達が、一斉に周囲を見渡し始めたからだ。
僕は、咄嗟に、「ヤバい」とそのまま声に出し、店の前を離れ、店舗と店舗を結ぶ間にある、太い円柱の前まで走り寄った。
次の振動は、僕がその円柱へと駆け寄り、そのひんやりとした表面に手を触れた瞬間だった。
・・・・・ズン!
確実に、揺れた。 もはや、モールを早足で歩いている人達さえも足を止め、周囲を見渡していた。
ドズン!
僕の足が、くだけるようにしてバランスを崩し、目の前の人々も、同じように地を跳ねた。
もはや、疑う余地は無かった。 どこかで上がる、「地震だ!」と言う声と共に、見る見る内に、人々の顔に驚愕が浮かんだ。
だが、次に来る振動と共に、人々の上げる声よりも、その周囲を取り巻く建造物の上げる悲鳴の方が、その威力を上回った。
ガズン!!!
まず最初に、僕が先程まで立っていた、ベーカリーの店の窓ガラスが、弾けるように砕け散る音が聞こえた。
続いて、その周辺にある各店舗から、同じように何かが壊れる音。 崩れ、倒れる音。 それに続いて、僕の頭の上に、パラパラと何かの破片が降り注ぐ。 人々の上げる悲鳴は、たっぷりと遅れてその後だった。
だが、その悲鳴も、長くは続かない。 それに引き続いて襲う次なる振動とその音は、今までの全てを上回っていたからだ。
それは、音ですらなかった。 僕の耳が、拾える音の限界を聞き、それはまるで、僕の頭上で起こる爆発のようなものだったからだ。
音は続き、何かが崩れ落ちる音。 人か獣か判らないような悲鳴が続き、そして、生理的に不愉快と思えるような、金属と金属がぶつかりあい、激しく擦れあう音が響き渡った。
そして再びの、強い振動音。 僕がその音の後に目を開くと、既に周囲は暗闇だった。 恐らくは、その一瞬の振動にて、電気系統がイカれたのだろう。 光の届かないこの地下のモールにおいては、例えれば、照明の無いトンネルのようであった。
その時、ほんの一瞬だけ、不思議な静寂の時間があったのだが、またすぐに、次の振動音。 だがその振動は、先程の一番大きい振動に比べ、数段落ちるものだった。
僕はふと、その振動は、何かの巨大な足音のような気がした。 一定の時間を置いてやって来るのと、近付いては遠ざかる、その事実に・・・で、ある。
やはり思った通り、次の振動は更に遠かった。 僕はほんの少しだけ安堵しながら、まずは自分に怪我がないかを確かめる。
周囲では、悲鳴の代わりに、人々の呻きと、鳴き声が充満していた。 中には、直接的に、痛い痛いと訴える声まであった。
僕は一瞬、ここが暗闇で良かったとすら感じていた。 もしもここに灯りがあるならば、僕は、見てはいけないものまで見てしまいそうな気がしたからだ。
確かに、巨大な足音のような震源は、遠ざかりつつあった。 今だに激しく揺れはするが、それも次第に小さくなって行く。
一瞬、その世界が見えた。 誰かがライターの火を起こしたのだ。 少し前方の暗闇で、その小さな周辺だけが、浮かび上がって見えた。
想像していた通りの、阿鼻叫喚の世界だった。 地下の天井に張られた壁材が砕け落ち、その下敷きになった人々が、見たくなくても目に入った。
僕の、ほんの二、三メートル前方の瓦礫からは、間違い無く女性のものだと思われる、二本の足が生えていた。
足が震えた。 たった一瞬の事なのに、こうして生き残る人と、息絶える人との隔たりが出来た。 僕ですら、ほんの数歩違えば、今はもう思考する術すら無くなっていたかも知れないのだ。
そして、暗闇の中、僕の嗅覚が何かを捕らえる。 それは、少し離れた場所から香る、焼きたてのパンの匂い。 そして、それに混ざる鉄のような匂い。 僕は、そんなミスマッチな匂いに、自然に込み上げて来る胃液が、逆流するのを必死で堪えた。
僕は、ポケットから携帯電話を取り出し、開いてみる。 時刻は、十九時六分。 アンテナの表示は無く、虚しく見える圏外の文字が浮かんでいた。
「上に昇れ!」
どこかで誰かが、そんな言葉を発した。 その瞬間、声では無い、雰囲気だけの音が、周囲を揺るがした。
あちこちで、ライターの火が灯り始める。 僕はそれを見て、今の時代でも、案外に喫煙者は多いのだなと、全く関係の無い思考を巡らす。
人が動き始めた。 地下街を出て、地上を目指す人の群れだ。
だが僕は、そこを動けなかった。 何しろ、地上を目指す人の群れは、何もかもを踏み越えての行進だったからだ。
・・・そう、瓦礫の下の同種族までも。
唖然としている僕の腕に、突然、何かが触れた。
僕は小さな悲鳴を上げ、跳ねるように飛び上がった。
だがそれは、暗闇に目が慣れて来たのと、人の手から洩れるほのかな灯りによって、小さな少年である事が判った。
「どう・・・したんだい」 僕は、かろうじて声が出た。
だが、少年の方は、僕よりもずっと落ち着いているかのように、単調なトーンで返答をする。
「この辺に、パン屋さんがあった筈なんです。 どこだか知りませんか?」
僕は、考えあぐねた。 この少年は、こんな状況で、何を聞きたいのだろうかと。
「パパとママが、そこで待ってるんです。 僕が本屋に行っている間に、二人はお茶を飲んでるって・・・」
血の気が引いた。 僕は咄嗟に、先程までいたベーカリーの方を見る。 だがそこは、中から崩れ出ている天井の瓦礫が、完全に中が潰れている事が理解出来たからだ。
途端、しまったと思った。 少年は、もはや、見てしまった。 目的地を見付け、僕から視線を外し、ふらふらとそちらへと歩いて行ってしまったからだ。
少年は、崩れ落ちた店の前で足を止める。 気にはなったが、僕はその少年に声をかける事も出来ずに、置き去りにして黙って歩き始めた。 地震が来る前に歩いて来た道を逆に辿り、再び地上へと向かう階段の方向へと。
僕が数歩あるいた辺りで、世界は緑色になった。 壁や天井の隅、あちこちに設置されてある、非常用の灯りが点いたのだ。
見渡せば、かなりの被害が見受けられた。 相当の瓦礫が散乱し、中にはうず高く積み上げたかのように、山になっている場所もあった。
だが、そんな瓦礫の下から、被害者を助けようとしている人は稀で、目に入る人の姿は皆、どこかを負傷したり、放心してうずくまっているだけだった。
見えるもの全てが、薄い緑に光るその不気味な世界の中、遠くに群集の怒号が飛び交っていた。
階段へと詰め掛ける人の群れ。 普段ならば、いくらごった返している階段付近でも、皆無口のまま、小さな歩幅でそこへと向かう筈の場所。 だが、今は違った。 我先にと詰め掛ける群衆にて、その周辺は、恐ろしい程に殺気立っていた。
そこはもはや、男も女も、老人も子供も関係が無かった。 先に階段を昇ろうとする者があれば、髪を掴んででも引き摺り下ろし、後ろから押そうとしたならば、顔を蹴飛ばそうかとするぐらいの勢いで、人は地上を目指していた。
やめてと聞こえる声があれば、退けと言う叫びもあった。 理性と言う皮膚が一皮剥けた獣達の交錯する中、次なる地獄がその世界を襲った。
突然、「ゴン」と、鈍い金属音が聞こえたかと思うと、そんな人々が押し合う中、階段と通路を分ける、非常用の防火壁が降りて来たのだ。 しかもその下降は案外と早く、下にいる人々達は全く気付かないまま、重い鉄の壁は、襲いかかって来た。
声が上がる。 そこを退けと。 だが、その声を聞ける人々が、その階段付近に、何人いたであろうか。
周りで見ている人達が騒いでも、結局は何も変わらなかった。 ただ単に、人が奏でる騒音が、一層大きくなっただけだった。
僕は瞬間、目を閉じる。 僕の周囲にいた人々からは、恐怖のあまりに絶叫がほとばしった。
音までが、僕の耳へと聞こえて来た。 それはまるで、船の上に打ち上げられた魚が、びちびちと飛び跳ねる音にすら似ていた。
もはや、何が起こっているのかさえ判らないまま、痺れた思考のまま、僕は人に突き飛ばされ、後方へと転がった。
吐き気と、強く打った腰の痛みとで、僕はその場でうずくまる。 気配で、再び人々が、移動し始めたのが判った。
ぼんやりと、次の階段を目指しているのだろうと、僕は思った。 だが、どこへと行っても同じだろうとも思ったが。
「爆弾テロだ」
誰かがそう呟いた。
僕がそこを通り過ぎると、今度は誰かが、「爆撃だ」、「空襲だ」と言う。
聞こえて来る想像だけの噂は、案外とユーモラスだった。 中には、列車事故だとか、ガス爆発だとか言う比較的まともなものもあれば、中には、宗教団体の仕業だとか、最後の審判だとか言うものもある。
だが、僕が感じた、「巨人の足音」だって、相当に変な想像だろう。 だが僕には、完全に大間違いには、未だに思えないのだが。
ふと、視線が泳いだ。 見ればそこは、先程まで僕がいた、ベーカリーの前だった。
少年は、いた。 ずっとそこでそうしていたのだろう。 緑に光る、あまり趣味の良くない世界の中、少年は黙って、そのひしゃげ潰れた店の前に立っていた。
僕は少しだけ責任を感じ、その少年の後ろに立つ。 彼は、気付いているのか気付いていないのか判らないまま、微動だにせずに、その場を動かなかった。
何故か、妙に寒かった。 僕は、自分が半袖のワイシャツ一枚でしかない事に気付き、少し不安になった。
「ベンチウォーマーが置いてあった。 これで少しは凌げるだろう」
僕はそう言って、少年に、季節外れの衣服を差し出した。
すぐ先に見える、半壊した洋服店の中から、引っ張り出して来たものである。 要するに泥棒だが、それを見て咎める人など誰もいないだろうと、僕は思った、
少年は、軽く頭を下げ、震える腕でそれを取る。 少し大きいが、それでも少年は首までボタンを止めると、身体を抱えるようにしてうずくまった。
僕も同じように、もう一着くすねて来たベンチウォーマーを羽織る。
異常な気温だった。 もうすぐ七月に入ろうと言う時期なのに、この寒さはなんなのだろうと思った。
見れば、僕と同じように、半分潰れた洋服店の中から、冬用の在庫を探して来る人の姿が目立った。
何しろ、息をすれば白くなるのだ。 これが異常なる気象でないならば、どこかの空調が異常を来たしていると言う事だ。
僕は少年の横に腰を下ろし、その小さな肩を抱いた。
あれから彼は、一言も口を聞かない。 表情こそは普通だが、相当のショックを受けているのだろう。 なにしろ例のベーカリーショップは、どこをどう見ても、中にいる人達が生きている訳が無いと言う程、店は全壊していたのだから。
少年は一言も無いままに、剥き出しの膝を抱え、寒さに震えながら、小さくなった。 僕は、何もかける言葉を見付けられず、黙ってその少年の横で、同じように座っているだけだった。
目の前を、「ホームに行けば・・・」と、うわごとのように呟きながら、歩き去る男の人が通り過ぎた。 それを聞いて、腰を浮かしてその後をつける人の姿も、いくらか見受けられた。
そう言えば・・・と、僕は思う。 この騒動が起こる前に、あれだけの往来だった人混みは、一体どこへ消えたのだろうかと。
かなり多くの人々が、この瓦礫の下にいるとしても、それでもどうしても、数が合わない。 あの階段に詰め掛けて、その多くが上へと昇り切ったとも思えない。
そうなれば、残りは二つ。 一つは、先程の男性のように、ホームへと向かって、そこから別の手段を見付けたか。 もう一つは、この阿鼻叫喚なる瓦礫の通路を進み、モールの中心部であるコンコースまで辿り着いたか・・・で、ある。
僕が今いる場所は、地下モールの中でも、最北端に近い場所だった。 ならば、辻褄も合う。 階段と言う移動手段が封じられた以上、例え望みが薄くとも、ここで留まるべきではないのかも知れない。
僕は、自分の考えを少年に打ち明け、一緒にこの通路を、中心部まで行かないかと交渉した。 少年は、黙ってベーカリーショップの方を見て、決心したように僕の方へと向き直ると、小さく、「行く」とだけ、答えた。
予想以上の被害だった。
崩れて積もった瓦礫の上を、僕達二人は、よろめきながら進んで行く。
体は汗ばむが、相変わらず吐く息は白く凍り付く。 僕は、この寒さの原因は何なのだろうと考えるが、一向にピンと来る仮説は浮かばない。
時折、そんな瓦礫の中から、人のものとおぼしきパーツが覗く。 僕は敢えてそれから視線を外し、黙々と少年を助けながら、前へと進んだ。
もはや、目に入る生存者はあまり無く、いたとしても、その場を自力で動けない人ばかりだった。
しばらく進むと、突然に瓦礫の散乱が減り出す。 見れば、壁も天井も、勿論、店舗の数々も。 そこから先は、あまり大きな被害は無さそうに見えた。
途端に進行が早くなる。 足元もおぼつかない場所よりは、やはり平らな床がいいと、改めて感じる。
だが、相変わらず、人はいない。 負傷した人々を除いたとしても、あれだけ大勢いた人の群れが、一向に見えない。
どうやら僕達は、相当遅くに取り残された口だと思った。 僕は少しだけ、自分の判断力の悪さに苛立った。
しばらくすると、前方に、非常用の緑の光が集まる、中央コンコースが見えて来た。 流石にそこまで来ると幾人かの人影が見え、僕自身、それに安堵する。
天井と床とを結ぶ、沢山の柱が立ち並ぶ中、人々はただ、上を見ていた。
僕は、無理に笑顔を作って、少年を見る。 軽く背中を押しながら、僕達はコンコースへと進む。
・・・・・どしゃっ
鈍く、そして、何か得体の知れない不快な音が、そこに聞こえた。
広場へと出て見ると、そこには何か小さき埃のようなものが、数限りなく降り注いでいる。 僕は、瞬時に判った。 それは、天から降り注ぐ、雪だった。
寒さの原因は、これだと思った。 何故に今、雪が降るのかの疑問は消えないにしても、その寒さの源は、理解が出来た。
コンコースは、地上の駅ビルまでもが見渡せる、吹き抜けの空間だった。 僕がそこに出て上を見上げると、明り取りの美しい紋様な、ドーム型のガラス天井は既に無く、拭きっ晒しの夜空が見渡せた。
なるほど。 それでここには雪が降るのかと納得した瞬間、またしても、「どすっ」と言う鈍い音。 そして、今まで気付かなかったのだが、そこには遠い笑い声が充満し、目の前に広がる広場の床には、得体の知れない物体が、あちこちに転がっていた。
途端、戦慄した。 地上部分に見える手摺りに、幾人かの人影が見えたのだが、今正に、その中の一人が手摺りを乗り越え、迷う事無く宙へと舞った。
短いながらも、ハッキリとした笑い声を乗せ、その人影は、コンコースの床へとめり込んだ。 先程と同じような、鈍く湿った破壊の音が響いた。
間違い無く、狂っていた。 そこには、くっきりと線引きが出来るように、狂った世界と、まだその余波が来ていない世界との、区分けがあった。
狂っている地上の部分には、完全に何かのタガが外れた人間が彷徨い、大声で、異常な高笑いを響かせている。
見ればそれは、手摺りの先だけではなかった。 完全に、地上と地下を結ぶエスカレーターは、「故意」に壊され、行き来出来ない状況にあると言うのに、その先で彷徨う人影は、まるで地下へと降りて来ようとするかのように、ふいに、突然として、宙へと弾かれた。
異常な世界だった。 雪の舞う、初夏の月夜に、遥かに高い地上から、雪と一緒に、笑う人々が降って来るのだ。
一体、地上では何があったのかと、周りに立っている人に声を掛けようとするが、どの人も、間違い無く向こうの世界へと足を踏み入れている表情だった。
空を見上げる人々の群れは皆、笑っていた。
僕は、発作的に少年の手を掴むと、笑顔を張り付けたままの人々の間を擦り抜け、駅の改札口へと走った。
僕は、地上で何があったのかが気掛かりだった。 真っ先に思い浮かべるのが、今夜逢う約束をしていた、瞳の事だった。
走りながら、再び携帯電話を取り出すも、表示は圏外以外を指さない。 普段ならば、駅地下の方こそ電波が安定するはずなのに。
僕は、遅れ気味な少年に向き直ると、その少年を抱え上げた。 まだ、小学校の三、四年ぐらいなのだろうか。 その身体は、案外に軽く感じた。
少年を抱きかかえて走り出す。 少し行くと、半分閉まりかけの店のシャッターの中から、一人の男が、くぐって出て来た。 彼は、走る僕達を見掛けると、両手を振って止まれと合図する。
「なぁ、アンタ。 今地上では、何が起こってるのか知ってるかい?」
男は、僕が止まるより先に、大声でそう言った。
「今、俺は、店の中で、ラジオを聴いてたんだ。 全然どこも入らなかったんだが、ようやく一つだけ周波が合った。 そうしたら、今、地上で起こっている事を、実況生中継してたって訳さ」
僕は立ち止まり、その男の顔を見る。
少し、異常な気配を見た。 男の顔は笑い顔で、やけにテンションが高かった。
「なぁ、何が起こってると思う? さっきの、巨大なロボットが歩いて行ったかのような振動は、何だと思う? なぁ」
僕は黙って、首を横に振った。 すると男は、僕の事など見えていなかったように、話を続ける。
「知らなくていい。 知らなくていい事は、知っちゃあいけない。 なぁ、そうだろう?」
男はそう言うと、ポケットから何かを取り出した。
そして彼は、笑い顔を絶やさぬままにそれを自分の頭のこめかみへとあてがう。
ポンと弾ける音がして、その男の反対側のこめかみから、何かが吹き飛んだ。 そして男は、背中から直立不動の姿勢で、地面へと倒れ込んだ。
少年は、しきりに、苦しいを連呼するようになった。 見れば、この寒さの中で、かなりの汗をかいている。 呼吸も、相当に荒い。
走っている途中で、変な人を見た。 通路の端の方で、全裸のままで、後方宙返りをしている初老の男性だった。
彼は、一生懸命に後方宙返りをするが、どうにもそれを出来るだけの技量が備わっていないらしい。 初老の男性はことごとく、宙返りしては自分の後頭部から地面へと落下するのだが、彼は決してそれを止める事なく、狂気染みた声で笑いながら、何度も何度も、固い床の上へと、血に濡れた自分の頭を打ち付けていた。
僕はそれを少年に見せないように庇いつつ、先を急ぐ。 もしかしたら、これほどまでの人間の変わりようは、何かの薬品かウィルス等の空気感染かとも思ったのだが、今更それに気付いても遅かった。 恐らくは僕達も、相当にそれを吸い込んでいる事だろう。 問題は、いつ、あの連中と同じような症状が出るのかと言う事だ。
ようやく、駅の改札口へと辿り着く。 そこは、他の区画とは違い、例え緊急の設備だとしても、しっかりとした明るい照明によって、照らし出されていた。
僕は、驚いた。 改札には幾人かの人が立っており、その姿は、迷彩服に包まれた軍隊のそれであり、各自大型の銃を持ち、顔にはしっかりと、防毒マスクが着用されていた。
僕が近付くと、何人かの軍人が僕に手招きをする。 僕は恐る恐るそれに近付き、何事なのかを聞く。 だが、その質問には誰も答えない。 電車が出るから早く入れと、小声でそう言われただけだった。
駅の構内にも、死体らしき塊が溢れていた。 そんな死体は視界にも入らないとばかりに、迷彩服の人々は、一定の間隔を置きながら、要所要所に立っていた。
少年の息が、いよいよ荒い。 僕は素手でその額を拭う。 手の平に、べとりと大量の油汗が付く。
「もうすぐ助かる。 頑張れ」
僕は、何の確信もない慰めを言いながら、閑散とした駅の構内を歩き、所々に立っている軍人の案内にて、ホームの一つへと向かう。
薄暗い階段を降りながら、とうとう返事の返らなくなった少年の身体を揺する。 呼吸はしっかりしているが、僕には医学的な知識は全く無く、ただもどかしいままに、少年を階段に座らせ、様子を見る事しか出来ない。
すると階下で、人が、大きな声で罵るのが聞こえた。
僕は、耳を澄ます。 どうやらそれは、僕達と同じように、助けを求めてこのホームへと辿り着いた人のようで、僕が持っている不安感をそのままに、言葉へと出して叫んでいた。
この電車はどこに行くのかと聞き、そして、今起こっている地上での騒動、おかしくなった人々の原因。 それらを矢継ぎ早に聞いている。
だが相手は、その返事を返さなかった代わりに、小気味良い、リズミカルな銃声を轟かせ、その会話を終わらせた。
タタタタタタタタタタタ・・・・・
呆然としたまま、何分が経ったのだろうか。 その内に、場違いながらも不気味に聞こえる軽快な電子音が鳴り響き、電車がゆっくりと走り出した音がした。
電車が走り去り、それからしばらく経った後、僕は再び少年を抱きかかえ、今度こそ階段の一番下部まで降りて行った。
見渡す限り、誰もいない駅のホームだった。 いるのは、所々に点在している、少し前まで、「人」だった塊だ。
先程撃たれたであろう人影が、横たわっていた。 それは、ごく普通の、僕と同年代ぐらいの、スーツを着た男性だった。
一瞬その姿が、僕のものとダブった。 もしかしたら僕は、もはや意識がなくなったこの少年と一緒でなければ、ここに横たわっていたのは、僕の方かも知れないと思った。
縦に並ぶ、いくつものプラットホーム。 果たして、乗り遅れた最後の客は、幸いなのか、不幸なのか。
遠くの暗闇に、一筋の明かりが見えた。 電車の警笛が鳴り響き、金属製の車輪が路線を捉える音が、どんどん近づいた。
それは、ほんの数両だけの短い電車。 乗客は誰もおらず、ただ操縦席に、運転手の他にもう一人、ガスマスクの軍人らしき人影が見えるだけだった。
僕の目の前で、電車が止まる。
乗るべきか、逃げるべきか。 これまでに、こんなに大事な決断を迫られる事は無かった。
僕は、気を失い、ぐったりしている少年を抱きかかえ、開いている電車の窓に向かって声をかけた。
「この電車は、地獄と天国、どっちへと辿り着くんだ」
顔中痣だらけになった運転手は、ニヤリと崩れた笑みを浮かべ、「行き先の片方はもうないよ」と答える。
肩越しに、抱き締めた少年が、くすりと笑ったような気がした。
●《 受賞コメント 》
なんつーの? 俺ってさぁ、もはやOBなんだけどさ。 俺がMCに在籍していた時、約二年もの間、内藤のクソカボチャは、俺にはただの一回も、「イチオシ」くれた事無いのな。 それだけが悔しいんだけどな。
でも、今回こうして二つも選ばれた。 これでようやく、あのカボチャの審査基準ってのは、「全くアテにならん」ってのが実証された訳だ。
・・・・・ふっ。 フシアナ野郎めが。(自虐)
この作品を書くに当たって、俺が最初にイメージしていたのは、現代版終戦直後の都内の地下鉄。 普段は大人しく人の波に揉まれながら歩く人々が、「生きるか死ぬか」ってな場面になると、理性なんかかなぐり捨ててまで、「逃げよう」「帰ろう」とするその浅ましさを表現したかった。
そして主人公は若い男。 自分も逃げようとするんだが、目の前で突き倒されて怪我をしてしまう見知らぬ母親がいる。 そしてそれにすがって泣く男の子。 一旦は見捨てるんだが、思い留まり戻る主人公。 見ると母親は骨折しちゃってて歩けない。 だが、最後の電車はもうすぐ出発。 母親は、子供だけでも助けてくれと主人公に託すんだな。
どうしても、若い男が小さな男の子を抱きかかえて、駅のホームで立ち往生するシーンだけは外せなかった。 これだけは書きたかった。 でも、そのまんまだと面白くないので、徹底したパニック系にしようと思った。 謎なんか投げっぱなしで、回収しない系。
で、意外とウケたので面白かったな。 うひゃひゃ。
ホラーってのはやはり、謎なんか究明すべきじゃないな。 これ書いて思ったよ。 人は謎が好きだが、そのタネまで明かされたら冷めるもんだ。 皆もホラー書く時は、ちょっと考えてみて欲しいね。(偉そう)
つーか、これが選ばれるってのは、ある意味本当に勉強なった。 心より、どうもありがとう。
今回は時間が無いから無理だけど、自分のブログに載せる際には、徹底して書き直ししたいねぇ・・・。
《魔城九龍別館 -玄武- 李九龍》
2004.08.05 21:06 | ――― |
トラックバック(-) | コメント(-) |





